彼女とミシンと幸福な時間 作者:弥月未知夜
インターフォンが間の抜けた音を響かせた。
「はぁい」
外に聞こえるわけでもないだろうに彼女は返事をしながら立ち上がり、インターフォンを手に取った。
「はいはい、どちら様ですか」
休日の昼下がり、ごろりと過ごすのは幸福な時間だ。愛する奥さんと二人、だらだらと。これが幸せと呼べなければ嘘だ。その幸福でゆったり流れる時を打ち破った無粋なインターフォンの主に彼女は「少々お待ちくださーい」と弾んだ返事を返した。
俺はパタパタと玄関に向かう姿を目で追いつつ立ち上がる。来客の予定はないから、回覧板か何かだろう。
台所で喉を潤すことにして、流し台で蛇口をひねる。ぬるいとは言わないが冷たいとも言えない水をコップに汲んでごくりとやっていると、玄関先から俺を呼ぶ声が聞こえた。
「ねえー、あなたー。しげさーん」
「なんだー?」
「手伝ってー」
甘える声に逆らえるはずもなく、俺は彼女の所に向かう。手伝ってということは、回覧板ではないのだろう。
宅急便か?
宅急便なのか?
お荷物が届いちゃったのか?
遠のいた幸福な空気を俺は懐かしんだ。何か重量級の物が届いたってことなのか……俺を呼ぶってことは、十中八九そうに違いない。気のせいだと自分に言い聞かせたかったが、逆に想像の翼を広げることにする。
悪いイメージは大きくするに限る。実物を見て、「ああこんなものか」と思える程度の下地は作っておかねばなるまい。
心の準備に手間取り、近いはずの玄関にたどり着くまでにいつもの倍はかかってしまう。
「もう。早く来てよー」
待ちかまえていた彼女は腰に手を当てて、俺を軽く睨んだ。半分甘えるような仕草。だがそれよりも目を引くのは、やはり重量級の段ボールだ。我が家に届くのはたいていそういう重量級の段ボールだと、悲しいことにこの数ヶ月で俺ははっきり悟ってしまった。
今回のものの側面に書かれた中身の名はミシン。型番とメーカー名、おすすめの機能であろうキャッチコピーになんぞ興味はない。品名さえ知れれば事足りるのだから。
知らず、ため息が漏れた。
「なあ、かよさん」
「なあに?」
うちの奥さんは美人だ。それから気だてもよくて、明るく愛らしい。家事全般が得意なのもいいところだ。惚れた欲目と思いたければ結構、別に彼女のよさを世間に知らしめたい訳じゃない。彼女の魅力は俺だけがわかっていればいいことだ。
ともかく彼女は俺にはもったいないくらい申し分ない奥さんだが、人間だから欠点が一つもないとはさすがに言えない。
遠回しに言うとすれば彼女は楽観的すぎ、もう少し突っ込んだ表現が必要なら計算が足りない。有り体に言ってしまえば、肝心なところで考えなしだ。
日頃チラシをじっくりと眺めては安い食材を買い込むことに執念を燃やす彼女なのに、時折ひどく財布が緩くなるのだから不思議でたまらない。
「今度は、何だ?」
我ながらうんざりした声が出たと思う。なのに彼女はにっこりとした。よく聞いてくれましたと言わんばかりに軽く段ボールをなでながら口を開く。
「ミシンなの」
「まあ、見ればそんなことくらいわかるんだが……」
何で買ったんだと問いかけると、彼女は俺に興味がない方向から理由をとくとくと語る。どこのメーカーと違ってジグザグ縫いがどうとかこうとか、手入れが楽なのだとか、角の丸みがキュートなのだとか。
考えなしとは思うが、基準はいまいち不明ではあるものの一応比較検討はしているようではある。それが救いかどうかは微妙だが。
「一万円以上の物を買う時は相談して欲しいと言わなかったか?」
「だ、だって、最近出たばかりで高いのに、今ならさらに大幅値引きって……」
「かよさん」
声に力を込めると、彼女は言い訳をやめて口をつぐんだ。
「この間、油のいらないフライパンの時にも言ったと思うんだけどね?」
「だって、あれも先着……」
「かよさん」
気持ちを落ち着けるために一息ついた。買ってしまった物は仕方ない。だが、釘を刺しておく必要があった。
「これまでも十分話し合ったよね? 大きい金額の物を独断で買わないで欲しいって、何度も言った」
「でも、分割で、月々三千円で……」
「あのなあ」
冷静になろうと柔らかい口ぶりを心がけていたが、物には限度がある。何度言えば、分割払いよりは一括の方が遙かにましだと気付いてもらえるんだ。
あれだけ検討するのが好きなのに、そこだけがなぜかすっぽりと抜け落ちる。計算すればすぐにわかるだろうに目先の取っつきやすさに捕らわれて、いっこうに理解の気配がないのが不思議でたまらない。
「君が普段努力してくれているのもわかってる。少しでも安くていい物を手に入れようとしてくれてるのはね。それには感謝してる――本当だよ」
顔の作りが強面なのは生まれつきだから仕方ない。本気で怖がらせないように気をつけながら、俺は言葉を選んだ。
「でもな、そういう日頃の積み重ねをこういう買い物がぶちこわしにするんだ。しかも分割なんて……」
「だって、三千円でね」
「何回払いなのかの方が俺には気になるな」
「十五回払いだけど」
「……四万五千円。俺はミシンの相場なんて知らないけど、君が買うくらいだからそう法外でもないんだろうな」
「そうなのっ」
勢いを取り戻し拳を握りしめて身を乗り出す彼女の鼻面に、俺は指を軽く当てた。
「だからって、はいそうですかって納得するわけにはいかない。大体、君、お義母さんのミシンを借りてたじゃないか」
彼女は目を泳がせて「それは、そのぅ」とぼそぼそと呟く。泳いだ目線が、使わないからといいわと彼女の母親から借り受けていたミシンのしまってある押入に逃げた。
「いくら分割で安いように思えても、それがいくつもあったら月々の負担は重くなる」
とんと彼女の鼻を押してから、俺は彼女から離れた。恐怖させるのが目的じゃない。釘を刺したら距離はとるべきだ。彼女が視線を向けた押入には、我が家の家計簿もある。押入に歩み寄って俺はそれを手に取った。
結婚してすぐに彼女が時折うっかり大きな買い物をやらかすことがあるのだと悟って以来、我が家の財政管理は俺がしている。ごく普通の大学ノートに線を引いただけのそれをぱらりとめくり、彼女の目の前にそっと差し出した。
分割払いの詳細が書かれたページ、数行書かれた支払いのすべてが彼女が購入したものだ。合計の数字を指し示して俺は続ける。
「現在月当たり九千円の支払い。ミシンが加わることで一万二千円」
「そうなの?」
「そうなんだ」
目を見開く彼女は心底驚いたようだった。
「今、そんなに払ってるの?」
「そう」
家計簿を小脇に挟んで、俺はせいぜい重苦しくうなずいてみせる。口を飛び出しそうになる文句を厳重に口内に捕らえながら。
「そんなになってるとは、思わなくて」
「今後は必ず相談してくれるとありがたい。月に一万以上の出費は正直厳しいから」
「はい」
買ったものを返してこいと言うほどには冷たくないつもりだ。わかってもらえたのなら、女々しくくどくど言うことはない。
「せっかく買ったなら、しっかり活用してくれよ」
とりあえずは神妙な顔で彼女がうなずいたことに満足して、よっと段ボールを持ち上げる。
それから俺は彼女の母親から借りていたミシンの代わりにやってきたばかりのミシンを箱ごと押入に突っ込み、幸福な時間を取り戻したのだった。
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