シェアワールド@霧生ヶ谷市企画部考案課

社訓 一、芸は身を助く

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 霧生忍法帖 番外ノ巻 ―芸は身を助く―  作者:ちねさん

 


 デン デデデ もう少し時間磁軸がー緩やかでーあったならー……この番組は九十九蔵酒造の提供でお送りします。



 夕陽を背負った峠の向こうから、緊迫という無音の警告は耳孔をぴりりと鳴動させた。空を仰ぐ。夕暮れの景色には馴染みの筈の家路を急ぐカラスは、只ならぬ気配を嗅ぎつけたか、一羽残らず姿をくらましていた。
「厄介事は御免だねえ……とはいったものの。早いとこ越えちまわねえと陽が暮れんなあ」
 言葉とは裏腹に、男の唇はにっと歯を覗かせて歓迎を示した。どんな厄介事にせよ、退屈を天敵にする者にとっては単調な山道の方が遥かに厄介な相手であった。男は首をこきこき鳴らして耳から警告を振り落とす。
 天蓋と呼ばれる深編笠の編目の向こう、陽は刻一刻と炭火色を濃くしていく。落陽を遅く出来まいかと睨みながら速めた峠越えの草鞋が、不意に止まった。
「待てい。怪しい奴、通さぬぞ」
「はて」
 わらわらと現れ進路を塞いだ騎馬の武士に、男は勿体つけて笠ごと首を傾げてみせる。
「異な事を。しがない行脚僧に何の怪しきがありましょうか」
「とぼけるでない。近頃では虚無僧と申せば無頼の輩の代名詞。この先は将軍の御刀を預かる本阿弥家の御領地であるぞ。わきまえい」
「さて面妖な。聞けば霧生の本阿弥家は分家とか。されど大層な見得を切るからには、どうやら探られては痛い腹をお持ちのご様子」
 なにい、と武士たちはいきり立って抜刀し、不穏な殺気を漲らせた。
「ふん。よほど通したくないと見える……」
 そう来れば、腕づくでも通りたくなるのが人情というもの。男なんてうんざりなのと冷たくあしらう美貌の後家様を振り向かせたいのと同じだな――天蓋の下で僧の唇が不敵に笑うと同時に、その手が一閃する。
「分家とはいえ流石は天下の本阿弥家、良い馬をお持ちだ」
 主を亡くした馬を一頭借り受け、虚無僧は上機嫌で峠を目指した。



 峠を越えたなだらかな斜面で、緊迫の元凶は十余名の武士と対峙していた。馬を止め、僧の手はふうむと顎を撫でる。
「いやこいつは珍しい。四本角と豚の耳を持つ人喰い牛、確か名は――諸懐(しょかい)とか」
 残り火の夕陽を背に、醜怪な妖しと武士の一群は草地で影絵のように浮かび上がる。抜けていく風が運ぶのはうなじを不快に逆立てる妖気と鉄臭さ。
 馬がおののいて鼻息を荒げる。それをおざなりになだめる僧は浮かぬ顔だ。左右に振られた天蓋の縁からため息が漏れた。
「……つまらぬ。全くもって、つまらん。蛇身でもいい、せめて顔だけでも見目良い娘なら、妖怪退治も楽しかろうに……おっと」
 急に均衡を乱した馬に何を踏んだかと覗き込めば、既に諸懐に齧られた侍がいたらしく、食べ残しが散らかっていた。諸懐は今も犠牲者の味定めをしているのか叢に頭を垂れており、耳を澄ませば生々しい咀嚼音がした。
 人喰い牛がのんびりと食事を摂る一方で、相対する侍連中は殆どが立っているのもやっとの有様。それでも気丈に松明を灯して長期戦の様相だ。
「闇は妖しの領域。退くも戦術の内というに強情な。このままではいずれ、諸懐の胃袋に収まるな」
 いっそまとめて喰われてくれれば、隙を突いて峠を抜けられるのだが――馬上の僧らしからぬ僧が討伐隊の後方死角で観戦を決め込んだ時、戦局は動いた。
「若殿! 何をなさいます」
 唐突に、集団を統率していた人影がひらりと下馬した。僧は松明に照らされた横顔へ目を凝らして眉を寄せる。
「……幼いな」
 少年と言っても差し支えない男は馬の鞍に括った桶の中身を頭から被った。そして瞠目すべき強弓を構える。
「皆の者、下がっておれ。この不動の名にかけて成敗す」
「ははあ成る程……牛の好物、塩を被っておびき寄せようって腹か。喰うにしても塩味ついてる方がうまいしな。傷を負った身には滲みるだろうに、なかなか見上げた無茶をなさる」
 だが思惑に反して人を食む牛、諸懐は首を上げない。周囲の夕闇は急速に濃くなり、飛び道具の有効射程を縮めていく。僧には不動という名の少年が焦燥する、速い鼓動が聞こえるように思えた。
 己より遥かに年上の配下共を束ねるため、命懸けで諸懐に挑んでいるのだろう。無謀と紙一重の豪儀に僧は呆れ、頭を振った。
「仕方ねえ。俺もさっさと通りたいしな」
 天蓋を脱ぐ。ひょいと身軽に馬の背へ立つ。僧は喉を震わせ、雁の擬声を響かせた。
 諸懐の鳴き声は雁に似るという。
 仲間の加勢と油断したか、あるいは獲物を横取る同類と警戒したか。擬声に呼応して、諸懐は四本角と豚の耳を備えた頭を叢から伸ばした。
 ひょうふっ、と桔梗色の夕闇が鳴る。
 機を逃さず強弓より放たれた矢は人喰い牛の眉間を貫き、その胴体を地になぎ倒した。地響きと共に勝鬨の声が上がる。騒ぎを縫って次に年若い頭目が放ったのは、虚無僧へ向けた涼しげな視線だった。
「何処のどなたか存じませぬが、助太刀いたみいる」
 少年ならではの高い声はそれでも朗々として、耳へ心地良く響いてきた。露見していたかと、僧は苦虫を噛みながら笠の紐を締め直した。
「お許しを。余計な手出しを致しました」
「この時節、雁は北へ発っている……渡りの時季ならば諸懐ならずとも、某も騙されていた」
 見事であったと言って不動がほころばせた微笑は上に立つ者の貫禄だった。この分ならば苦戦してもいずれ人喰い牛を倒しただろうと、要らぬ世話をした僧の唇は苦笑を零す。
「我が名は不動。人喰い牛退治は父、本阿弥海堂の命。貴僧に屋敷へ御足労願い、礼を施すのが父の存意でもあろうが、迷惑だろうか」
 迷惑なものか。越える場所が塀から門に変わるだけのこと――無言のうちに合掌し、謹んで承った。



 座敷に通され、天蓋を脱いで寛ぐ僧は杯を勧められた。勧める不動は傷を手当てし、さっぱりと着替えて疲れも見せずに泰然としている。
「虚無僧とは半僧半俗。加えて帯同の尺八……管は空洞ではなかろう。某の家業に縁の品を呑んでいると推察する。貴僧が雁の音を歌われた折に使った馬の主は、その刃の露と散り申したか」
 尺八の仕込み刀、さらに本阿弥家の配下を斬ったことさえ看破されていたようだ。臨戦覚悟の印に片眉を上げた虚無僧を、不動はいやいやと手で制する。
「ただ、虚無僧の姿を借りているのみならば、酒でもてなすに不都合はなかろうというだけのこと」
「頂きましょう」
 腹の探り合いというわけか、面白い――僧は杯を掲げた。
「おれん、客人に酌を」
 不動に命じられ、女中が膝を進めて酌をする。手にする漆の片口が震え、注ぐ酒を波立たせた。僧が仰げば、若い女中の面は青磁のように血色を失っている。
「そう恐れるな、おれんとやら。手酌で結構」
「いつもの威勢はどうした、おれん。ここは良い、下がっておれ」
 目を泳がす女中が人払いされるのを待ってから、僧はゆったりと切り出した。
「不穏分子と知りながら屋敷に招き入れたからには、含むところがございましょう。霧生の銘酒と名高い九十九蔵の『霧の竜殺し』を振舞われたとあっては、話を伺わずに帰る訳にも参りませぬ」
 口元に微笑を浮かべたまま、僧の目は真っ直ぐに不動を刺す。
「ご配下を手にかけた咎を問わぬとは不可解千万。……さては此度の妖怪討伐の裏にございますは、内紛か。父君は人喰い牛でなく、不動殿の征伐を謀ったのでございましょう」
 一連の出来事は、本阿弥家の当主・海堂と、子・不動の不和で説明がつく、と僧は気付いていた。
 父、海堂は不動に人喰い牛の退治を命じたという。そもそも本阿弥家の家職は「本阿弥の三事」と称されるように、刀剣鑑定、研磨、浄拭である。剣の師範はするにしても、子を実戦へ赴かせる事自体が異常と言えた。
 諸懐退治のどさくさに、不動が落命すれば良し。よしんば退治に成功したとしても腹心を放っておき、退治帰りで疲弊し油断する不動を抹殺させればそれで良し。
 虚無僧の行く手を阻み、結果斬られた騎馬の武士は、不動の命を狙って機会を待っていた海堂の腹心だろう。そう考えれば、不動にとって虚無僧は配下を斬った賊どころか、刺客を始末してくれた恩人にさえなる。咎められずして当然である。
「父君に反撃するには手駒がない。あるいは人喰い牛討伐で戦力を削られた。戦況不利の中、素性の知れぬ虚無僧をも利用しようという腹積もりと見ましたが、いかがか」
 歌を詠むように滑らかに述べ立て、僧は酒で喉を潤した。
「お察しならば話は早い」
 両者の探り合いは表向き、酒の肴ほどの軽さで進行する。不動は年相応の邪気のない笑みを浮かべ、僧は酒の香りを愛でて舌鼓を打つ。理性で統制された穏やかな、されど張り詰めた空気が場を満たしていた。
「あの峠道は城下町へ抜けるには誠に不便、知るは本阿弥の縁の者ばかり。そこを虚無僧に扮した何者かが押し通るとなれば答えは一つ――本阿弥の霧生分家が『霧蓮宝燈』を隠匿しているとの風評に踊らされた、草の者しか当たりませぬ」
 虚空蔵山に笠雲がかかれば雨。地を這うように密やかな風の噂は誰もが知る観天望気の何気なさで扱われ、その口調のまま不動はゆるりと続ける。
「……時に霧谷には擬声に長け、故に百舌の名を戴く草がいると聞く」
 人を支配する力を握って生まれ出ずる者もいる。自然と僧に納得させる物言いだった。
「成る程。お若いながら本阿弥の名も、心眼を持つ不動明王の名も、伊達にあらずとお見受けした」
「目利きが先祖伝来の生業ゆえ」
 ふ、と口角を持ち上げた不動の、僧の正体を見抜いた慧眼に一瞬の稲妻が走る。
「草と見込んで頼みがある。某の心痛の種を取り除いてもらいたい。無論、礼は取らそう」



「さて……」
 暗殺依頼への諾否を、僧に扮していた百舌は酒を舐めてひとまず保留してみせた。
 本阿弥家は将軍の御刀砥師であると同時に、群雄割拠の武将たちをも後ろ盾に持つ。百舌にとって正体が破られた今、素通りも敵に回すも自滅の道。となれば後は恩を売り、いかに有利な取引をするかであった。
 不動の方は優位を先刻承知らしく、余裕の表情で百舌の答を待っている。
 百ある舌を巻かせるにはまだ早いぞ、小僧――内心呟く百舌はたっぷりと間を置いて切り出した。
「火のない処に煙は立たぬ、と申しますが」
  霧生の本阿弥分家当主、海堂はもともと本家の嫡男であり、次代宗主を継ぐと目されていた。だが前触れもなく本家から放逐される。理由は様々な巷の憶測を呼び、中でも有力なのは霧蓮宝燈の横領説であった。
 凡庸な刀さえも、磨けば人ならざるものを斬る妖刀に変ずるという本阿弥家禁忌の砥石、霧蓮宝燈。海堂はそれを持ち出し隠匿したとして分家に追放されたと噂されていた。
「先刻の、人喰い牛を射抜きなぎ倒す破魔矢の如き猛威に確信させて頂いた。あの矢の鏃、霧蓮宝燈で砥いだものでございましょう。当てたる刃、斬れざるを断ちたり……と謳われる砥石の通力そのものでございました」
「いかにも、かの鏃は霧蓮宝燈で砥いだもの」
 本阿弥本家、分家共に頑なに否定してきた機密をあっさりと肯定され、草の微笑が温度を下げる。不動は僅かなその硬化を観察し、味わうような目をした。
「……しかし残念ながら某が持つのは木っ端――四角く取れなかった砥石の屑の、そのまた屑のような、それこそ鏃を研ぐのがやっとの小石に過ぎぬ。昔、本阿弥流宗主が欠片ならば無害であろうと戯れに下賜されたもの。太刀を当てるに充分な大きさの、いわゆる霧蓮宝燈の行方は杳として知れぬ」
 不動は懐へ手を入れると、小さな懐紙の包みを畳の上へ押し滑らせた。百舌の鋭い一瞥は紙の隙間から小指ほどの石を確かめる。淡霧に赤が浮かぶ様相は、其の肌幽玄にして霧に遊ぶ蓮華の如しと伝えられる霧蓮宝燈そのものであった。
「匕首程度ならば当てることは出来よう。足りるならば、これを褒美に与えよう」
 百舌の喉がごくりと鳴った。
 木っ端とはいえ、武将から将軍までが金に糸目をつけずに欲する幻の砥石である。殊に魑魅魍魎の跋扈するこの時世では、真の天下を獲るには万の軍勢より値打ちがある。
 百舌は知らず求めた酒を片口から注ぎ、杯を唇に当てる。
 次の瞬間、含んだ酒をべっと吐き出し、百舌は険しい表情で口許を拭った。不動が不審の面持ちで中腰を上げる。
「いかがなされた」
「片口の内側に薄く葛が塗ってある。傾ける度に緩み、溶け剥がれる仕掛けだ。下に仕込んであったこの味は、毒芹」
 激しい痙攣をもたらし失神させ死に至らしめる毒芹は、清流や沢に恵まれた霧谷に根付く草の者には馴染みの毒物であった。
「不動殿、あの女中」
「父の手先か」



 葛の仕掛けで稼いだ時間で先手を取られていた。邸内に人影は見当たらず援護は望めそうにない。それでも、と期待を繋いで百舌が耳を澄ませば遠くで微かに鶯のさえずる声がする。
「不動殿。この屋敷に鴬張りの廊下は」
 雁が発った秋、鶯とて静かな時節である。鳴いたのは鳥でなく廊下だとすぐに気付いた。
「離れに。よくぞ聞き取ったな、某の耳には届かなんだ」
「誘いでございますな。参りましょう」
 不動と連れ立ち、砂利を踏みしめて離れへ向かう。湧き上がる闘争心が熱を増すほど、百舌の頭は冷えて冴え渡った。この温度差に百舌は逆らえない。
 夜空では霧が細い月を絡め取り、その輪郭を白金の粒子にして煙らせていた。良い月だ、と不動は皮肉でもなさそうに言う。
「あのおれんという女中、普段は妙に肝の据わったところがあるのだが。貴殿の前では随分と縮んでいた。加えて、耳の敏さを見極めたような鶯張りの誘い込み――そなたたちは既知の仲、根を同じくする霧谷の草か」
 疑問でなく確認の口調を受けて、百舌はいよいよ不動の心眼に感心し、幼いと侮った自分を恥じた。
「素破が素破抜かれるとは、笑い話になりませぬ。いかにも、おれんは我らが手の者。霧蓮宝燈の在り処を知るため、本阿弥分家を探らせておりました」
 初めは精力的に嗅ぎ回っていたおれんだが、ひと月前に一転、禁忌の家宝など影もないと言い始めた。様子に不審を抱いた百舌がおれんを問いただしに出向いたのが峠越えの理由だった。
「おれんは禁忌の家宝を盗み出すより、父君と組んだ方が得策と踏んだのでしょうな。愚かな未熟者でございます。父君は仲間に引き込んだおれんを使い、酒に毒を仕込んだ――しかしながら、解せぬのは」
 遠い篝火にぼうっと浮かぶ、庭の渡り廊下。書院造りの離れはしんとして、灯り一つ点いていない。
「なにゆえ双方、かように回りくどく外の力を頼むのかと。父君は意のままになるとは思えぬ人喰い牛、あるいは未熟なくノ一を。不動殿は腕の程も知れぬ草を使わずとも、より確かに相手の息の根を止める術はございましょうに」
「あの者は、とある忌むべき理由で某に刃を向けられぬ」
 朧な月明かりの下にもはっきりと、初めて不動は嫌悪らしき不快を表した。
「そして某はあの者を殺せぬ。海堂は――覚悟に明かした方が良かろう。ひと月前から本阿弥海堂は海堂であって海堂でない。海堂の名を騙り成り済ましているのは、公儀隠密。名を空(くう)と言う」
 将軍の密偵。退屈の次に天敵であるその存在でようやく百舌は、草ゆえに雇われた理由に納得した。いかに腕が立とうと不動の敵う相手ではない。百舌にとっても難儀に過ぎる。
 だが、一度焚かれた狼煙は昇竜の如き不可侵の高みにある。最早、誰の手によっても止まらない。



「ひと月前、父……正真正銘の海堂は突然に訳の解らぬ事を叫びながら走り狂い、舌を噛んで果てた。気が触れたとしか思えぬが、父は心持ちの脆い人間ではなかった。本家の介入で、混乱を防ぐために父の死は当分、隠されることになった」
 禁忌の家宝を盗み出し、放逐された海堂が憑かれたような謎の死を遂げた。将軍の御刀を預かる名家としてはこの醜聞を、適当な時機に適当な理由で葬ろうと考えたのだろう。ましてや分家の跡取りは年端もいかぬ不動である。
 年は幼くともこの男なら家督を継げるだろうに、大家の狐狸どもが話をややこしくしやがる――草として、武将たちの思惑に振り回されて育った百舌は諦念のため息をつく。
「本家は、将軍との密使であった公儀隠密の空を影武者に仕立てて送り込んできた。その容姿と声音は父に大変良く似ていたのだ。ところが空は影武者の立場に味をしめたのだろうな。関わった者の口を封じ、この所領、家督を乗っ取ることにしたようだ。手始めが某なのであろう」
 草は草を知る。毒芹を鑑別した百舌の舌は陰謀の味を利き分けていた。
「不動殿。走野老(はしりどころ)という毒草をご存知か。この草を食すると在らぬ物を見て怯え、苦しみのあまり走り回り、時には死に至る。父君の最期、走野老の効き目と酷似しているかと」
「空による謀殺……か。となれば影武者は空の入れ知恵。本家も迂闊なことよ、毒蛇を懐へ入れるとは」
 飼い犬は手を噛まぬもの。だが空は本阿弥家でなく将軍の犬だ。本阿弥にとっては狂犬と化した空を排除したくとも公儀隠密に刃を向ければすなわち謀反とされ、本阿弥家は取り潰されるであろう。
 そんな折に現れた虚無僧が、妖怪退治の助太刀をする。礼にと屋敷に招いたところ、あろうことか主の海堂を斬って捨て、霧蓮宝燈を奪って逃走する――百舌が空を始末出来れば、対外的な海堂の頓死も霧蓮宝燈の行方も丸く収まる筋書きだ。
 人喰い牛退治の騒動の中で虚無僧を草と見抜き、そこまでの筋書きを瞬時に描いた不動の計略に百舌は肌を粟立てる。
 なんと末恐ろしい、そして面映い男。霧生の殿は水路より湧き出る魑魅魍魎どもを御せずにいる。里は派閥闘争に明け暮れている。里から抜け、独りででも、この男に仕えれば退屈とは縁を切れそうだ――百舌は唇を舐めた。
「いかがでございましょう、不動殿。空を片付けた暁には霧蓮宝燈でなく、百舌の身柄をお引き受け頂くというのは」
「願ったりだ、霧生の地は妖怪変化がはびこり目障りでならん。ならば腕を披露して見せよ。空に敵わぬようでは護衛にならぬ」
「承知つかまつった」
「心して参れ。空は気配を持たぬ。空がやる気になれば自分の首を掻き切られて初めて、奴が背後に立っていたと知ることになろう」
 空。実体が無いこと。存在しないこと。
 有、すなわち実在という甘い蜜を求めて毒の棘を放った。殺した家長を演じる未だ偽物としての空は全てを手中にすべく、不動を毒牙にかけようってのか――そうはさせるかと百舌は一枚、舌なめずりする。
 離れの廊下に飛び移れば、静謐な空間へ鴬張りが鳴り渡って風雅に開戦を告げた。



「残念だけどね、ここから先はあたいが行かせないよ」
 廊下の奥、閉め切られた襖の前で行く手を塞いだくノ一の声は、渋柿色の頭巾でくぐもっていても確かにおれんのものだった。表情を読み取るには限界に近い闇の中、百舌は殺意に満ちた目を静かに見返したまま、不動へ下がっていろと合図した。
「久しいな、おれん。空に命を脅かされての所業ならば、酌量の余地はなくもない。俺の腕は知っていよう。その装束……いや化けの皮、剥がされる前に観念しろ」
「二枚どころか百の舌を持つあんたの言葉、信じるとでも思うのかい」
「八分の一人前未満の癖に口だけは達者だな」
「以下だよ! 未満じゃないっ」
 抗議と共に投げられた箸手裏剣は咄嗟に首を傾けた百舌の耳先で風を切り、背後の柱へ突き立った。行き場を失った余勢が、びいいん、と空気を震わす。
 大衆に紛れて諜報活動を行う間諜は日用品を武器に変える。女中の身分を被っていたおれんは、鋼の手裏剣の替わりに箸を打った。しかしいかに箸とはいえ、急所へ命中すれば死に至らしめる。
「はは、怖い怖い。次はどうする、おれん?」
 挑発を受けておれんが振り抜いたのは鉄輪、台所の五徳を鋭利に削り出したものだ。ひとつ、ふたつと輪は尺八の仕込み刀に弾き飛ばされていく。次々に武器と余裕を失い焦りの色を浮かべる瞳が百舌を奮わせ、焚き付ける。
 手甲鉤を嵌めて襲いかかるおれんをひらひらと避け、反撃をやめて百舌は持久戦を仕掛ける。切羽詰ったくノ一は闇雲に空振りを繰り返し、息を乱して顔を屈辱に歪めた。
「いい構図だな、おい。だがな、お遊びはここらにしとこう」
 手刀の一振りでおれんを打ち倒し、素早く縛りにかかった。
「ますますいい構図だなあ」
「何だい、殺すなら殺しな!」
「まあ、そう言わず。見目良い娘は抱き込む主義なんでね」
「一度は反間した身だけどね、あたいはあんたに転びやしな……あぐっ」
 暴れるおれんの口に構わず手を突っ込んだ百舌が取り上げたのは、自害用に歯列に仕込んだ小さな毒の袋だ。
「意地を張りたければ張るがいい。くノ一を手懐け、背信させて、調教する……くふふ、楽しいではないか、おれん」
「無粋は承知だが百舌……空を忘れてはおるまいな」
 不動の平坦な声の冷ややかさに、百舌は気付かない振りをした。



 くノ一を排して開けた襖は、自動的に閉まる仕掛けがしてあったようだ。踏み込んだ百舌の背後でひたりと閉じて最後の光を途絶し、全てを墨色に塗り込めた。
「やはりしくじったか、役立たずのくノ一が。どうやらおぬしもろとも、不動は儂が切り刻んでやらねばならぬようだな……」
 陰気にまみれたしわがれ声がする。
 ここへ来て初めて百舌のこめかみに冷や汗が滲んだ。己の耳には自信があったにもかかわらず、空の気配どころか何処から声が発せられているのかさえ、壁全体が共鳴しているようでまるで聞き取れない。
「おまえが強欲な空、か。隠密の身で本阿弥の家督を欲しがるとは、犬が月兎を食べたがるようなもんだ」
 ふん、と鼻先での笑いを返してくる空は一切の空気を動かさず、広くはない筈の間で完璧に気配を断っている。
「この領地も霧蓮宝燈も儂のものだ。そうさな、冥土の土産に教えてやってもよかろう。儂の身の上を」
 冥土の土産にする価値は微塵もねえなと思いながらも、百舌は気配を探る時間を稼ごうと耳を澄ませた。
「儂と不動の父親、本阿弥海堂は双つ子であった。だが継承権争いの芽は早く摘むべく、本阿弥宗主は配下に命じて極秘裏に嬰児の儂を消そうとした」
「成る程、影武者にうってつけなほど姿かたちが似ている訳だ」
 正当な継承者以外の兄弟を皆殺しにする、田舎にやる、そうしたことは強大な武家や名家では当然に行われていた。
「嬰児殺しの密命を仰せつかったのは、将軍との連絡役に使われていた公儀隠密だった。その者は慈悲心を出し、誰にも知らせず儂を連れ帰り隠密として育てた。そして臨終に真実を言い置いて逝った。儂は公儀隠密として本阿弥本家に近付き、機会を待っておった……」
 儂が本阿弥の家督を継ぐ当然の権利を行使する機会を、と空は主張した。
 だが海堂は己とすり替わろうと窺う殺意の主と、その思惑を察知する。そこで本阿弥禁忌の家宝、霧蓮宝燈を持ち出して自ら勘当され、継承権を放棄することで本阿弥と自分の保身を図った。
 空は激怒する。腹いせに毒を盛り苦しめて死なそうとしたが、不動に海堂の死に際を目撃される。すり替わる計略は潰えた。しかし空はさらに一計を案じる。本阿弥宗主へ、家名に傷をつけぬため海堂の影武者を立てるよう勧めたのだ。宗主は空を他人の空似と思い込み、空の案に乗った。
「刀を見る目を磨いた挙句に人には盲目と成り下がった、愚かな男よ。海堂の隠した霧蓮宝燈を探し当てさえすれば。あれを脅しの種に家督を奪い、その後になぶり殺してくれよう」
 空は宗主へ話が及ぶと憎悪を込めてそう吐き捨てた。
「おぬしも草のようだが、天下の公儀隠密の敵ではない。事実、儂の居所を掴みかねて立ち往生ではないか。我が刃の肥やしにしてやろう……」



「おっと空、おまえに素破を名乗って欲しかねえな。てめえは公儀隠密どころか草でもねえ、ただの陰険な逆恨み野郎だ」
 隠密とは忍ぶ者。忍という字は刃の心と表す。刃の如く堅く真っ直ぐ心を保たねば、どれ程に腕が立とうと策を謀ろうと、態度なり言葉尻なりにほころびが出て、隙を突かれて仕損じる――その世界に生きる者が必ず聞かされる教えであった。
「てめえはそりゃ、復讐とやらで心を固めてるんだろうさ。だがなあ、真っ直ぐってとこがなってねえんだよ。生き延びて命あることを有難く思ってりゃ良かったものを、欲を出して逆恨みして、お家を乗っ取ろうなんて図々しいにも程があるってもんだ」
「おのれ……」
「分かってるんだぜ、おい。海堂殿を殺して、てめえは恨む相手を一人亡くした。出生の秘密を知ってからというもの復讐と欲だけを心の糧に生きてきたてめえは、動揺したんだろう。だから不動殿を簡単に殺したくねえんだ」
 空が直接に手を下せば済むのに、人喰い牛だの毒入り酒だの不確かな方法で不動抹殺をためらう理由を、百舌はそう結論付けた。
「影武者だと知る者どもを消して完璧に海堂になったところで、己の糧を失うだけ。結局てめえが只の『空』にすぎないことを思い知らされるのが恐えんだ。自覚はあるんだろ? 襖の陰に不動がいると知りながら、俺とこんな長話をして、決着を先延ばしにしてるんだからな」
 それとも何か、と百舌は楽しげに煽る。
「空、てめえ衆道か? 憎くて愛しい不動殿を己の手にかけられないか? 実の甥に恋慕たあ、こりゃあ随分と腐れた外道――」
「何故それをっ」
「――でいらっしゃる。……は?」
 自慢の耳を疑う百舌の脳裏には、不動が見せた不快極まりない表情と共に、『忌むべき理由で某に刃を向けられぬ』という言葉がよぎる。
「文武両道、頭脳明晰、才色兼備、どうしてあの美丈夫を我が手で血に穢せようかっ」
 背後の襖の陰にいた不動の気配が津波前の引き潮より速く遠のき、百舌は眩暈を覚えた。だが雇用のため、退屈の虫退治のため、と己をどうにか奮起する。
「……伯父上、どうかお慈悲をかけては下さらぬか。某、いつの間にやら伯父上の鷹の如き視線を受ける悦びに身体の震え抑えがたく……」
「ぬぬっ、不動の声色を。やめい、やめぬか」
 百舌のうなじは凄まじい殺気が引き潮の奥から渦巻きだすのを感知するが、構わず続けた。
「某の持ちたるものは、領地もこの魂も身体の隅々まで伯父上に捧げる所存。さあいざ、共に堕ちゆきましょうぞ!」
「ふ、ふっ、不動、否、だが不動おおお」
「そこかあっ!」



 尺八の仕込み刀に心の臓を貫かれて、空は身を潜めていた天井から落ち絶命した。
「討ち取ったり。不動殿の声真似に心乱れて気配を表すとは、修練が足らんな。さて不動殿、お言葉通りこの百舌を使って頂け……落ち着きなすって、先刻のは空をあぶり出す苦肉の策」
 冬将軍より遥かに冷気を帯びた不動の殺気に、百舌は未来永劫、不動には逆らうまいと決意させられた。そそくさと顔を背けて視線という降り注ぐ氷柱から逃亡を試みる。
「さあ、おれん。おまえも悪い夢から醒めたろう。今ならば海堂殿を殺めた旅の虚無僧が女中も斬り捨てた、という事にして逃がしてやろう。何処へなりとも行くがいい」
「なんて、立派なお方……」
 縄を解かれたおれんは眼をとろりと桃色にして百舌に縋り付いた。
「あたい、空のくれる俸給に目が眩んでた。おとっつぁんの病気を治してやりたくて……けど、あんたの言葉で忍びの心を思い出したよ。真の海堂殿が隠した霧蓮宝燈を探り当てられなかったうつけ者だけれど、あんたさえ良ければあたい、あんたのそばでやり直したい」
 百舌の腕がしっかとおれんを抱き寄せる。
「霧蓮宝燈など。おまえさえ戻れば、おれん……いや、花蓮!」
「百舌殿……ううん、翠煙さん!」
 二人はしっかと抱き合い、夫婦の誓いを立て……Hello、聞いてんの花蓮ちゃん? あっ、シャーッシャーッて音がしてる。まさか俺を放置で砥ぎの修行してんの? ひどくない? この便利屋翠煙執筆の脚本が霧生ヶ谷CATVに売れたら、おれん役に推薦しようと思って話してあげてんのにー。百舌はもちろん俺ね。あ、このタイトル気付いてくれた? 芸をゲイにかけ……ブツッって、わー切られた、Oh my……。
 ちょっとそこの少年、何ひんやりした目してんの。
「賢明な処置でっす。この脚本、品格ないもン。終盤の崩壊っぷりナニ? 霧蓮宝燈がどーゆー経路で渡洲家へ流れたかの展望くらい入れてよネ。これじゃウチとおまえんチの馴れ初め並べただーけ」
 腐れ縁と呼ばせてくれ。俺はあんたより、可愛い子と腐れ縁になりたいんだよ!
「妄想世界から帰還して石探してってばァ。封印ボロボロなんだからァ。対人外の武器強化に霧蓮宝燈を、なーんて意気込んじゃってる過激派に先越されたら」
 越されたら?
「白ワニの胃液の中で人間が何日生きてられんのか、知りたいよねェ?」
 天使の笑顔でサドだよね。
「過激派からガードしてやんなよ。斬れざるを断ちたりったって、刀を当てる度に砥師の命を削ぐ霧蓮宝燈……そうと知らない腐れ縁希望のおねーサンに砥がせたくはないっしょ」
 No way, Boss.

― 終 ― 

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