(例として適当に書いてみます)朝鮮人強制連行とは、当時植民地とされた朝鮮から朝鮮人を日本政府が、徴用・徴兵を目的として強制的に行った動員のことをさす。日中戦争が全面化した1930年代末から敗戦までに行われ、時期によって募集、官斡旋、徴用にわけられる。 ・・・

 

(以下、特集より引用)

 

 

はじめに

朝鮮人強制連行は、大きくは①労務動員と②軍事動員の二つに分類することが出来ます。さらに、①は男子の労務動員と「半島女子勤労挺身隊」に分けられます。「半島女子勤労挺身隊」というのは、国民学校(小学校)5、6年ないし卒業して1、2年の少女を組織したもので、彼女たちを日本の工場で働かせました。②については、「志願」兵・徴兵と軍要員、そして「従軍慰安婦」に分けられます。

動員された地域は、朝鮮内部、「内地」、樺太、南洋、満州、中国、南方に及びます。しかしここでは話を「内地」への労務動員に限定します。

Ⅰ.「内地」への朝鮮人戦時労務動員数

次に、数の問題について述べます。1944年12月の資料で「朝鮮総督府鉱工局勤労動員課『内地樺太南洋移入朝鮮人労務者渡航状況』」(表1)というものがあります。これは、送り出した方の側の資料です。これを受け入れ側の資料と比較すると、送り出した方の側と受け入れた方の側と数が違っているんですよ。送り出す途中で朝鮮人が逃げ出すわけです。だから受け入れ側の方が少なくなるのです。
表1:朝鮮総督府鉱工局勤労動員課「内地樺太南洋移入朝鮮人労務者渡航状況」1944年12月
年度別    区分    国民動員計画    渡   航   数
による計画数    石炭    金属    土建    工場其他    計
1939年度    内地    85,000    32,081    5,597    12,141         49,819
    樺太         2,578    190    533         3,301
    計    85,000    34,659    5,787    12,674         53,120
1940年度    内地    88,800    36,865    9,081    7,955    2,078    55,979
    樺太    8,500    1,311         1,294         2,065
    南洋                        814    814
    計    97,300    38,176    9,081    9,249    2,892    59,398
1941年度    内地    81,000    39,019    9,416    10,314    ①5,117    63,866
    樺太    1,200    800         651         1,451
    南洋    17,800                   1,781    1,781
    計    100,000    39,819    9,416    10,965    6,898    67,098
1942年度    内地    120,000    74,098    7,632    16,969    13,124    111,823
    樺太    6,500    3,985         1,960         5,945
    南洋    3,500                   2,083    2,083
    計    130,000    78,083    7,632    18,929    ②15,207    119,851
1943年度    内地    150,000    66,535    13,763    30,635    13,535    124,286
    樺太    3,300    1,835         976         2,811
    南洋    1,700                   1,253    1,253
    計    155,000    68,370    13,763    31,611    14,606    128,350
1944年度    内地    290,000    71,550    15,920    51,650    89,200    228,320
    樺太                              
    南洋                              
    計    290,000    71,550    15,920    51,650    89,200    228,320
③合計    内地    857,300    320,148    61,409    129,664    122,872    634,093
    樺太    19,500    10,509    190    5,414         16,113
    南洋    23,000                   5,931    5,931
    計    899,800    330,657    61,599    135,078    12,803    651,141
出典:「第八六回帝国議会説明資料 四 労働市場」(戦後補償問題研究会編・刊『戦後補償問題資料集』第2集、1991年、29-30頁
原本注:昭和十九年度分は十二月末迄に送出すべき割当人数とす。
六月以降に於て内地供出更に一〇〇、〇〇〇人の要請あり。従って現在の国民動員計画計
計四〇〇、〇〇〇人と改定す(一九、八、二九現在)。     
編集注:①原表記載の数字は2,117である。これは明白な誤記なので、訂正した。
②原表記載の数字は13,207である。これは明白な誤植なので、訂正した。
③1939-1944年度の産業別の合計の欄は原表にはなく、編者が算出したものである。

統計を見る場合、送り出す側がつくったのか、受け入れる側がつくったのか、きちんと見ていかないといけない。さて、この資料を見ますと、1944年度といっても原本の注にあるとおり、12月までであり、3月までは入っていません。ですから、その最後までは計算に載ってないということですね。だから最後の状況はわからない。

それから厚生省勤労局の「朝鮮人集団移入状況調」(表2)がありますが、これは厚生省が戦後につくったものです。


どの程度信頼できるかということが問題になりますが、怪しいところがたくさんあります。例えば1945年度は、原本の注にあるように、推定の数値です。だから、どの程度本当かよくわかりません。それから、1944年度のところに括弧して750と記してあります。これは女子勤労挺身隊の数です。ところが、この750というのは少なすぎるんですよ。高崎宗司さんの推定ですと4000名ぐらいになりますし、不二越だけでも1944年度から1945年度に1, 089名ないし1,090名の挺身隊員が来ています。だから750というのは少なすぎます。

次の表3は記載の仕方が不正確です。同表の 1939年度から1943年度までの「対日本動員数」は、表1の「内地、樺太、南洋」への渡航数合計と全く同じか、またはそれに近い。つまり表3の「日本」とは「内地、樺太、南洋」を含むものです。したがって表3の数字の出所は朝鮮総督府統計であることが判明します。1944年度と1945年度の「対日本動員数」の出所は判明しません。
表3:大蔵省管理局「朝鮮人労務者対日本動員調」
年 度    計画数    石炭山    金属山    土建    工場其他    計
1939年度    85,000    34,659    5,787    12,674         53,120
1940年度    97,300    38,176    9,081    9,249    2,892    59,398
1941年度    100,000    39,819    9,416    10,965    6,898    67,098
1942年度    130,000    77,993    7,632    18,929    15,167    119,821
1943年度    155,000    68,317    13,763    31,615    14,601    128,296
1944年度    290,000    82,859    21,442    24,376    157,795    286,432
1945年度    50,000    797    229    836    8,760    10,622
計    907,300    342,620    67,350    108,644    206,073    724,787
終戦時に於ける現在数    121,574    22,430    34,584    86,794    365,382
出典:大蔵省管理局『日本人の海外活動に関する歴史調査』通巻第10冊朝鮮篇第9分冊、1947年(戦後補償研究会編・刊『戦後補償問題資料集』第2集、1991年、180頁)
原表注:1 昭和19年(度)計画数は年度中途に於て326,000に変更せられたり。     
2 昭和20年(度)計画は第1・4半期計画として設定せられたものである。
編集注:下線を付けた数値は、集計しても合わない数値であるが、そのままとした。

それから、「日本に輸出された朝鮮労務者数」(表4)です。



表4 の朝鮮人労働者数を、表2と照らしてみますと、1941年度くらいまでの動員数はあまり変わりませんが、次の年度あたりから物凄くデタラメになってきます。表4の1942年度の動員数は121,320ですが、表2によれば121,320というのは割当数、つまり動員の予定数なのです。実際に動員したのは112,007人です。それから43年度も表4によれば149,730人を日本へ送ったことになっていますが、これも表2によれば実は予定数なんです。ということから考えるに、これは素人が原資料を加工して勝手に作ったのではないかと思います。表4は連行された人の数が多いので、喜んで資料として使う研究者が従来はいましたが、この資料の学問的実証性は全くないと言わざるを得ません。

そうすると表2も問題があることになるけれども、表3や4ほどのデタラメはないので、これを使う以外にないんです。だからこれでいくと「内地」への連行総数は667,684人です。挺身隊の数が少ないという問題点は残りますが、大雑把に言って67万人くらいだと思います。その他に、軍属として7万人弱が連行されています。かつて朝鮮人が200万とか150万とか連行されたと言われましたが、学問的な実証性は全くありません。

次にどのような産業に連行されているかを見ていきたいと思います。やはり一番多いのは石炭山です(表5)。



日中戦争が始まって一番労働力が不足するのが石炭山であり、石炭業者の団体が朝鮮人の集団「募集」をするよう政府に働きかけるのです。なぜ石炭山で労働力が不足したかというと、筑豊を例に取ると、あそこは部落民も多く、炭鉱労働者であることで差別されます。また、日本の労働者というのは人権がなかったから、業者が保安設備をきちんとしてくれないということもありました。それで死ぬことも多かったのです。だから景気の悪いときは若い人も我慢して炭鉱で働くんだけど、日中戦争が始まって軍需景気が出てくると、若い人は工場へ逃げていくのです。それで炭鉱では戦争が始まると労働者が不足しました。だから炭鉱業者は、その穴埋めに、日本人の労働者よりもっと安く使える朝鮮人労働者を集団「募集」するように政府に働きかけて、そうして石炭山から強制連行が重点的に始まったのです。石炭山に連れてこられた人々は小学校も出なかった無学の人々が多い。

変わってくるのは42年度あたりからで、「工場其他」が多くなります。42年度は11.7%、43年度は12.3%、44年度には46.5%、45年度になると50.0%(表5)。工場といってもね、一番多いのは日本鋼管のような鉄鋼業です。鉄鋼業に動員された朝鮮人はみんな小学校卒業以上の人です。だから、炭鉱に連行された人と工場に連れて行かれた人とでは学歴にかなり違いがあります。女子勤労挺身隊が連れてこられるのが、だいたい43年度から45年の3月ぐらいまでです。それ以降は、米国の潜水艦に撃沈されてしまうので対馬海峡を渡れなくなるんですよ。それらの人々は工場における知的労働力として連行されてきたのです。日本語もできて、一定の学力がないと工場の技術が覚えられないでしょう。

Ⅱ.朝鮮人戦時労務動員の実態

1939 年7月4日に日本への朝鮮人戦時労務動員が閣議決定され、ついで朝鮮人の労務動員の諸規則が定められ、ここに朝鮮人強制連行が始まります。最初は「募集」、ないしは集団「募集」といわれる動員方式がとられました。これはどういう手続きで行われたかというと、企業主が集団「募集」を受け入れたいという申請を職業紹介所経由で地方長官に申請するんですよ。地方長官から報告を受けた厚生省がOKを出すと、今度は朝鮮総督府に申請するんです。そうすると、朝鮮総督府は、面倒見てやってくれということを道に言うのです。今度は道から郡に命令が行って、さらに郡から面(日本でいう村)に指令が行く。それで、指令が行くと、面の駐在所の警察官とか面のお役人が朝鮮人を集めて、会社の「募集」員が物色するわけですよ。健康状態はどうか。思想的に左翼ではないか。だから、「募集」っていうけれどもね、実際には官斡旋です。というのも、日本の会社の「募集」員が朝鮮語をできるわけではないし、地元の状況など分かりません。だから、朝鮮総督府側の方で、特に警察がかなりお膳立てしてくれるのです。ご存じでしょうか、朝鮮の警察というのは三・一運動後ものすごく強化されます。一面一駐在所という方針が出され、一つの面に必ず駐在所を置き、警察官を置きました。それが強制連行の時にも役に立つのです。面で一番権威があるのは警察官であり、面長はその下の存在に過ぎません。地域によって労働力の豊富なところと豊富でないところがあり、労働力が豊富な地域を指定してもらうために企業は道や郡の官吏や警官に相当の贈賄を行うわけです。また企業は面での人集めのために駐在所の警官や面の役人にも贈賄しています。

初期について言うと、ちょうど39年は、朝鮮は物凄い干魃でした。朝鮮総督府の治安当局がつくった『高等外事月報』(資料1)の39年7月を見ますと、飢えているものだから、全羅北道でも各郡でも日本へ行きたい人が非常に増加している。39年8月の『月報』を見ますと、「干魃の内地渡航に及ぼしたる影響」として、6月に「日本へ行きたい」というのが2,812名、7月が3,557名、計6,369名。それで、日本へ警察に断らないで行こうとしたのが6 月に3件36名、7月に11件172名、計14件208名となっています。
資料1:『高等外事月報』に記載された朝鮮農民の日本渡航への動向
『月報』の号数と年月    朝鮮農民の日本渡航への動向の記載事項
第1号、1939年7月分    全羅北道:各郡共出稼者簇出し、内地渡航希望者増加す。
22~23頁    慶尚北道:内地渡航出願者増加す。
    慶尚南道:内地渡航計画者漸増しつつあり。七月に入り密航者検挙四件六十名。

第2号、1939年8月分    慶尚南道:旱魃の内地渡航に及ぼしたる影響
78頁、80頁           イ 内地渡航出願
               六月 二、八一二名 七月 三、五五七名
               計  六、三六九名
           ロ 密航検挙者
            六月 三件、三六名 七月 一一件、一七二名
               計 一四件、二〇八名
    内地渡航出願者六、七月は昨年に比し五、九六九名を増加す。
第4号、1939年10月分    慶尚南道:九月中の内地渡航出願者は九、〇四九名にして、前年同月に比するときは、五、〇四八名の増加を示せり。
16~17頁
    京畿道、忠清南北道、全羅南北道、慶尚南北道:
    旱害対策として内地渡航を希望するもの頗る多く、動もすれば、当局の内地渡航制限に対し非難の声を放つものもありたるが、九月下旬より内地に於ける鉱山、土建其の他労働者の募集を許可したるに、民衆の輿望に投じ、応募者殺到し、左表の通り十月二十五日現在募集許可数一六、〇二六名に対し、既に内地に渡航せるもの五、七五六名に達し、著しく民心の焦燥気分を緩和せり。






食えなくて、生きられないものだから日本へ行きたいという人は非常に多かった。地域的には北の方はあまり酷くなく、南の方が酷かった。だから「旱害対策として内地渡航を希望するもの頗る多く、動もすれば当局の内地渡航制限に対し非難の声放つものありたるが、9月下旬より内地に於ける鉱山、土建其の他労働者の募集を許可したるに、民衆の輿望に応じ、応募者殺到し、左表の通り10月25日現在募集許可数16,026名に対し、既に内地に渡航するもの5, 756名に達し、著しく民心の焦燥気分を緩和せり」、とこのような状況です。

ただしね、では強制が全然働かなかったかというと、やはり働くのです。どうしてか。当時、集団募集だけではなく、縁故募集もありました。縁故募集というのは、企業ですでに働いている人の縁故者を連れてきて働かせることをいうのです。
表6:「募集」渡航朝鮮人労働者の産業別人数1939年9月~1940年8月累計     
産 業 分 野    人 数    比 率     
鉱山    石炭山    44,841人    68.0%     
    金属山    5,104    7.7     
    小計    49,945    75.7     
土木建築    15,443    23.4     
工場、その他    600    0.9     
合計    65,988    100.0     

出典:第4表と同じ
               













縁故募集で行くとどういうところに就職するかといえば、表6に見られるように石炭や金属山はわずか7.9%、土木建築が17.2%、工場が75.0%なんです。ところが集団募集のほうは、1940年度では石炭山が64.5%、それも含めた鉱山が79.2%、工場なんていうのはわずか2.8%に過ぎない(表 5)。朴慶植先生にも逸話があるんですよ。あの人のお父さんというのは大分で小作をやっていた。食えなかったし、大分だから筑豊にも近かったので、お父さんが「炭鉱行こうか」と言ったら、家族中が「炭鉱なんか行って死なれたらかなわない」と言って、お父さん一生懸命抑えて「とうとううちの親父、行くの諦めたよ」と。炭鉱というのはそういうところなんです。だから朝鮮人だって石炭山に行きたくないのは当たり前です。ところが日本の側からすると、石炭山は軍需産業の最も基礎でしょう。特に初期は、あらゆるところに強制連行を認めたわけではなく、主に石炭山と土木建築への強制連行を認めたのです。だから、「日本へ行きたい」といっても集団募集に応じて行くと自分の就職したい企業には就職できないわけです。ここに強制が働くわけです。

1942年2 月20日から朝鮮総督府が制定した「朝鮮人内地移入斡旋要綱」に基づいた「官斡旋」といわれる動員方式が実施されます。この方式のタテマエを簡単に説明すると、企業は朝鮮人「募集」に要する費用を総督府の外郭団体である朝鮮労務協会に納め、総督府側の官庁が朝鮮人を集めて、一括して企業の代理人に引き渡す方式です。ただし、実際はそれまでと同じく、企業が派遣した労務補導員が総督府の官吏や警察官に賄賂を贈って、鞭撻しました。

これに先立つ2月13日に「朝鮮人労務者活用に関する方策」が閣議決定されました。これは「軍要員拡大に伴い基礎産業の重労務者の不足が甚だしく、…所要の朝鮮人労務者を内地に於いて活用するのは不可欠の要請」という現状認識に立って「労務者の送出は朝鮮人総督府の強力なる指導によりこれを行なうものとし…」としていました。集団「募集」も事実上、官斡旋でしたが、これをもっと強めようというのです。この閣議決定と同時に、朝鮮人の「内地」渡航を抑制した1934年10月30日付の閣議決定「朝鮮人移住対策の件」が廃止されました。集団「募集」を決定した段階では、政府は炭鉱や土建に限ってどうしても日本人労働力で充足できない場合にだけ朝鮮人の動員を認めるという方針を採りました。これは治安対策上の配慮によるものでしょう。しかし「方策」は日本人労働力による不足の充足をもはや不可能と判断し、大々的に朝鮮人労務動員を行なう方針を示しました。ここに朝鮮人戦時労務動員が本格化したのです。

しかし朝鮮では北朝鮮の鉱工業の開発のための労働力や食糧生産のための農業労働力も必要であり、この頃になると、労働力の余裕がなくなってきました。そこで強制送出が行なわれるようになりました。北海道の住友鴻之舞鉱業所長は、1942年9月8日付の憲兵隊宛の報告書で「最近の傾向として朝鮮の労務需給情勢上徴用令に等しき割当供出なるを以て真に労務意識なきもの、或は身体虚弱者等多く…」とこぼしています。朝鮮でも余剰労働力がなくなっているのに、上から割り当てられた人数だけを強制的に送出するので、こうなるのです。

ここで強制というのは、身体を拘束して拉致することだけを指しません。朝鮮人はさまざまな形で皇民化教育を受けていますから、警察官や面の有力者から「お前、日本に行け」といわれれば、拒否しがたい状況になっていたのです。これも強制です。戦時下、日本人も軍隊で上官から「特攻隊を志願せよ」といわれれば、「志願」しないわけにはいかなかった時代だったのです。

前述のように、1942年以降は鉄鋼業への朝鮮人の労務動員が増大します。そして1943年度以降は国民学校5~6年生もしくは国民学校卒業直後の少女たちが「日本へ行けば女学校にいける、お金もかせげる」などという甘言で日本の工場に「半島女子勤労挺身隊」として大々的に連行されました。

1944 年9月から朝鮮でも一般の労務動員に徴用令が発動されました(軍関係の労務動員には1941年頃から徴用令を発動しました)。徴用を拒否すれば法的刑罰を受けます。それでも徴用忌避者が続出しました。北海道炭鉱汽船株式会社の北山外次郎の1945年4月20日付「朝鮮募集報告書」によれば、全羅南道では1945年2月分の「送出に当たりては、徴用忌避者を一斉検束をなし、或は拘留に附し、或は検事局に送局するなどの処置を取り、今回送出分に付ても警察の留置場より直ちに輸送列車に乗込ませたるものも相当数に上り…」という、末期的症状が示されていました。

Ⅲ.労務動員された朝鮮人の生活と労働

次に日本の企業に労務動員された朝鮮人の生活と労働の一端を見ることにしましょう。

朝鮮人は危険な重労働部門で働かされました。その一例として住友鴻之舞鉱山の労働災害障害状況を表7によって点検します。
表7:「住友鴻之舞鉱山民族別坑内・坑外労働災害傷害」1941年12月15日~1945年3月31日
傷害程度    件         数    総件数に対する比率(%)
日本人    朝鮮人    合計    日本人    朝鮮人    合計
坑内    坑外    小計    坑内    坑外    小計    坑内    坑外    小計    坑内    坑外    小計
微傷    190    225    415    553    102    655    1070    10.3    12.2    22.5    29.9    5.5    35.4    57.9
軽傷    101    64    165    265    32    297    462    5.5    3.5    8.9    14.3    1.7    16.1    25.0
中傷    55    35    90    109    11    120    210    3.0    1.9    4.9    5.9    0.6    6.5    11.4
重傷    14    17    31    45    9    54    85    0.8    0.9    1.7    2.4    0.5    2.9    4.6
死亡    4    0    4    16    1    17    21    0.2    0.0    0.2    0.9    0.1    0.9    1.1
合計    364    341    705    988    155    1143    1848    19.7    18.5    38.1    53.5    8.4    61.9    100.0
(守屋敬彦「住友鴻之舞鉱山への強制連行朝鮮人の労働災害」朴慶植、山田昭次監修、梁泰昊編『朝鮮人強制連行論文集成』明石書店、1993年、63頁)

朝鮮人、日本人別の労働災害総件数に対する比率を見ると、日本人は微傷が22.5%、朝鮮人は35.4%、軽症が日本人だと8.9%、朝鮮人は 16.1%、そのあとが中傷(中程度の傷の意)が日本人4.9%、朝鮮人が6.5%、重傷ですと日本人1.7%,朝鮮人は2.9%で、朝鮮人の割合が断然高いんですよ。朝鮮人は危険な坑内労働の率が高いから事故が多くなるのです(表 7)。事故が起こって医療措置をするんだけども朝鮮人に対してはあんまり医療措置をきちんとやってくれないんですよ。そういう点でも差別されますね。

それから賃金ですが、古庄正先生の研究によると、朝鮮人の賃金は日本人の6割から8割ぐらいです。しかも、そのほとんどは本人に渡してもらえないんですよ。というのは、食費が引かれ、厚生年金や健康保険も天引きされる。それから強制貯金というもあります。従って実際に貰えるのは小遣い程度なんです。つまり、金を渡すと逃げるから、小遣い程度しか渡さないのです。また、家へ送金すると言いながら、送金額はわずかであったり、実は送ってなかったという例が非常に多い。これが後で戦後補償問題と関係してくるわけです。だから賃金さえも貰えないで帰ってきた人がたくさんいるというわけです。

こういうふうに危険な労働に従事させられ、賃金も貰えず、また、強制的に労働させられたために朝鮮人は稼働率も高いという状態だったので、逃亡が多かったです。炭坑の場合には逃亡に対する抑圧が露骨です。どうしたかというと、寮のまわりを人間の背より高い塀が囲っています。しかも、その塀の入り口には労務係がいていつも監視していて逃げられないんですよ。それでもなんとか塀を乗り越えて逃げる人がいたそうです。便所から出るのです。今の水洗便所だと逃げられないけれども昔の便所はそうじゃないですから。だから塀を乗り越えられないように鉄条網張ったところもあるって言いますね。それに対し、日本鋼管なんかはそういう露骨なことはしません。その代わり、「指導員」がいるんですよ。「指導」と言いますが、監視係ですよね。こういう連中が四六時中いて、夜寝るときも一緒に寝ている。そして、逃げるとどうするか。当時、協和会という一種の官製団体がありました。その任務は朝鮮人の皇民化と治安的取締です。協和会の支部長というのは警察署長であり、内務省や警察と一体の組織なんですが、これが朝鮮人の労務管理を会社に対して指導するんですよ。ですから朝鮮人が逃げると、会社と警察官と協和会が一体となって探して連れ戻すというやり方をしています。それでも、朝鮮人のほうも必死になって逃げますから、相当数逃げています。
    表8:炭鉱の被労務動員朝鮮人の地域別逃走率
     地域    福岡    常磐    札幌    平均
     逃走率    44.0%    34.2%    15.6%    35.6%
    

出典:前田一『特殊労務者の労務管理』山海堂、1943年、124頁。この表は1939年10月から1942年10月末までの朝鮮人労務動員総数に対する比率である。

39年10月から42年10月末までの炭鉱の被労務動員朝鮮人の地域別逃走率をみると、福岡が44.0%、常磐が34.2%、札幌が15.6%です( 表8)。北海道は寒いから逃げづらいのでしょうね。



あと、抵抗の問題があります。朝鮮では44年になると竹槍や鎌などを持って動員に抵抗するというような状態になります。日本では抵抗が頻繁に起こっています。僕が調べたのが神奈川県ですが、かなり大きな抵抗が起こっています。1943年4月に日本鋼管で8百人余もの朝鮮人がストライキをした事件があるんです。これは、会社の高浜政春労務次長が差別発言をしたことが発端です。彼が労務管理の研究会で「朝鮮人はダランダランしている、盗み癖がある」と言ったのが、そのまま『半島技能工の育成』というパンフレットに載り、そのパンフレットを金景錫という人が本屋で見つけて、みんなでまわし読みしたんです。日本鋼管ですと、動員された朝鮮人はみんな小学校卒業以上だから本が読めるわけですよ。それで、みんな怒って、837人もの朝鮮人労働者が帰国を要求してストライキを起こしました。そのとき、弾圧されて、金景錫さんも体が不自由になって、それで1991年9月に日本鋼管に謝罪と補償を求めて提訴したんですね。小規模の闘争はたくさんありますが、なかなか民族的・民衆的な闘いをしています。神奈川県三浦郡浦賀町の国道改良工事をしていた佐原組の飯場の被動員朝鮮人115人は、逃走した朝鮮人2人を逮捕して事務所に引き渡した朝鮮人を会社に迎合する者として嫌い、1941年10月2日に袋叩きにしました。親日派の朝鮮人を糾弾したのですね。相模湖ダム建設で中国人や朝鮮人使ってたんですけれども、能率が上がんないんで、事業主は1942年3月19日に、何回運んだらいくらというふうに出来高制にしました。すると、朝鮮人は考えてあんまりたくさん背負わないで回数増やすようになりました。それを監督が注意したところ、朝鮮人の1人は言うことを聞かなくて反抗しました。それで反抗した朝鮮人を監督が殴って、全治20日間の傷害を負わせました。そしたら朝鮮人労働者 130人がみんな作業を辞めて、巡査に嘆願しに行きました。なかなか民族的によく結束していますよね。こういう争議は頻繁に起こっています。

Ⅳ.戦後補償をめぐる問題

このような抵抗があったからこそ、8・15直後に朝鮮人から戦後補償要求の闘いが起こったのです。朝鮮人たちは足尾銅山や7つの土建会社から戦後補償を勝ち取りました。

岩手県では1946年6月に県内務部長が朝鮮人側と日本製鉄釜石製鉄所をはじめとする県内諸企業との間に入って調停案を出しました。業務上死亡者に 5,000円、業務外死亡者に2,500円といった案です。しかし企業の本社がこれを拒絶しました。また厚生省は、給与については1945年11月18日以前に、退職手当については同年9月2日以前にさかのぼって請求することはできないと、1946年6月21日に通牒しました。この補償要求闘争を指導したのは在日本朝鮮人連盟(朝連)でしたが、厚生省は朝連は労働組合ではないから、交渉権がないと、交渉相手からの排除を指示しました。

1946 年10月12日、厚生省は朝鮮人労働者に対する未払い金を供託するよう、関係企業に指示しました。企業はこれを歓迎して供託しました。どんなものが供託されたか、日本製鉄の例を挙げると、賃金、賞与、退職手当、退職積立金、強制貯金、厚生年金の保険料、就労期間延長手当て、弔慰金などです。しかし企業は未払い金を供託したことを本人や家族に通知しませんでした。そして本人や家族が知らないうちに、供託後10年して請求権は時効消滅させられました。

だから、補償を受けて朝鮮に帰った人はほんのごく一部だったと思うんです。それで、朝鮮人はその後また闘争をするんです。彼らは今の韓国地域に帰ってから賠償要求を出すんですよ。当時日本人がまだ残っていて世話人会を作っていました。そこへ日本から帰ってきた朝鮮人労働者が日本人世話人会に対して補償するよう要求するのです。そうしたら、アメリカ軍政部がそれは相成らんって止めさせてしまう。その代わり軍政部が未払い金はいくらかという申告を受け付けるのです。申告額は韓国政府ができてからバトンタッチされます。その米軍が受け付けた未払い金額が総額5億6512万円、申告した労働者が10万5千人ぐらいになると言います。韓国政権ができますと、いろいろな団体が韓国議会に対して、日本から補償をとるべきだという建議書をずいぶん出しています。それを受け、韓国政権は対日賠償要求調書を作っています。その中に上記の金額の労働者の未払い金を計上しています。李承晩政権としては、日本との講和会議のときに賠償金を取り立てるつもりだったのです。ところが、結局韓国政府はサンフランシスコ講和会議には招請されなかったでしょう。だから、この問題は1951年に始まる日韓会談に持ち込まれるわけです。

日韓会談で、韓国政府は未払い金を請求権として要求しましたが、日本側は植民地支配責任と関わってくるのでそれを嫌います。それで、日本は韓国政府に対して、そういうことを請求するのなら証拠をだせ、と主張します。韓国側には証拠がない。証拠は日本側にしかないのですから。そして、日本側は請求権要求を引っ込めるのならより高い金額を支払うといって、「経済協力」という名目に切り替えさせるのです。韓国政府が日本から受け取った経済協力金が無償3億ドル、有償2億ドル。そのうちから、被害者に少し分けます。「請求権資金の運用及び管理に関する法律」やその他の法律を作って、強制連行された被害者に対して補償金を少し分けるということをしました。ところが、これにも大きな問題があります。なぜかと言えば、まず、額からいうと補償金が1人あたり30万ウォン(約19万円)に過ぎません。しかも、貰えたのは日本国によって軍人軍属または労務者として召集または徴用され、45年8月15日以前に死亡した者だけです。ですから、8月15日以後に体が悪くなって国に帰って死んだ人、被爆者、サハリン残留者、「従軍慰安婦」などは全部給付対象から除外されているわけです。また、在日韓国人もここから排除されます。しかも証拠がない者には支払われませんでした。

こうした問題があって、韓国の人たちの戦後補償訴訟が始まります。古くは75年から始まっていますが、一般的には90年からです。しかし、結果的には、国家が敗訴になった例は一つもありません。第一審では国家が敗訴になった場合は幾つかあります。関釜裁判といって、釜山に住んでいる「従軍慰安婦」や工場へ挺身隊で行った人が起こした訴訟ですが、山口地裁下関支部は「従軍慰安婦」問題に対しては国家に賠償命令を出しました。しかし、控訴審でひっくり返りました。それから、船の爆沈のために帰国する朝鮮人が多数死亡した浮島丸事件も一審では原告が勝訴していますが、控訴審で敗訴になっています。中国人の訴訟では新潟の港湾労働問題が第一審では原告が勝訴していますね。それから、企業については和解した例がいくつかあります。中国人強制連行では鹿島組、朝鮮人強制連行ですと、日本鋼管と不二越です。しかし、企業は和解をして金は払ったものの、謝罪はしていません。このようにして見ると、国家相手の裁判で控訴審以降勝つという見込みが無い。だから結局はドイツがやったように戦後補償立法をつくらなければダメだろうと思います。しかし、これも難しい。というのも、国会自体の右翼化の傾向がいま強まっているからです。

Ⅴ.今日、日本人としてこの問題をどう考えるか

加害者のほうは加害を忘れていますが、被害者のほうは被害を忘れません。その辺の歴史的な認識のギャップを埋めるのは容易ではない。朝鮮民主主義人民共和国の日本人拉致問題に関する日本人の議論を見ると、日本人は自分たちがやった加害行為をみんな忘れてしまっています。私は北朝鮮がやったことを無視しろと言っているのではありません。北朝鮮がやったことは問題視すべきなのですが、それと同じ基準でまた日本を見なければいけないと思います。

いま、在日朝鮮人の中でも日本の戦争責任とか植民地支配の責任の清算を要求すると同時に、北朝鮮の国家に対しての問題の解決を要求すべきであるという声がでてきています。日本人のほうもダブルスタンダードをやめて、同じ観点から自分の国がやった加害行為をきちんと謝罪して償わなければなりません。

若い人達には、具体的な事実を知ってほしいと思います。きつい言い方ですが、事実を知らないということは一つの犯罪です。つまり、知らないことによって、犠牲者がその犠牲を償われない状態が続く、そういうつらい思いを犠牲者がしなければならないということです。もちろんそれに対して何か行動を起こしてほしいと思いますが、本気になって行動を起こすにはそのことをよく知っていなければならないでしょう。そういう意味で、ごく平凡なことだけれども、具体的な事実を知ってほしいということですよね。知ったら人間だから何か感じるでしょう。

僕だって、日韓条約反対闘争に参加したということもあるし、朴慶植先生の本で衝撃を受けたということもあるし、韓国政治犯の救援運動もやって、韓国にも何回も渡っています。そうしますと韓国に日帝時代の痕跡が色々と残っていることがわかってきました。韓国の政治犯が収監された場所なんて、日帝時代の朝鮮人の政治犯が収監された刑務所ですから。それから韓国の法律に「国家保安法」というのがありますが、日本の治安維持法の韓国版なのですよ。まさに日本帝国主義の法的制度がそのまま韓国独裁政権の法律になっていたわけですよね。そのようにして私も具体的事実を知ってきたのです。

被害者の方々にとって被害は過去の問題ではなくて現在の問題です。それだけに日本国家が謝罪し賠償し名誉回復をしなければならない。ハンセン病の訴訟で原告が勝ったでしょう。あのおかげで晴れて故郷に帰れる人は増えたのです。全部問題が解決したとはいえないけれど、故郷に帰れる人とか家族に会えるようになったという人が増えているのは現実なのですよね。だから国家がきちんと謝るということで100%解決できたとは思わないけれども、かなり前進になることはある。ハンセン病は国内問題だと考えられているから小泉首相は控訴しなかったけれども、国外の問題は違います。新潟の中国人強制連行の裁判だって政府は控訴したでしょう。日本人が対外的な問題を自分たちの責任として受け止めていければ日本政府だって地裁判決に服して控訴しないのだろうけど、日本の世論がそこまで行っていないでしょう。

この状況を解決するのは容易ではありませんが、運動を進める中で南北朝鮮と日本の間に少しずつ信頼関係が生まれてきていると思います。私は拙著『関東大震災時の朝鮮人虐殺―その国家責任と民衆責任―』(創史社、2003年)を韓国の池明観先生にお贈りしたら、こうした事件は韓国でも起こったし、これからも起こりうる事件だという趣旨のお手紙を先生からいただきました。つまり、先生はこの事件を日本を糾弾する材料としてご覧になるのではなく、人間世界に普遍的な問題だとおっしゃってくださったのです。こういうことは、朝鮮人虐殺事件を普遍的な問題だという理由で日本人がこれを自己責任免罪の口実に悪用しないという信頼がないと、韓国人としては言えないことだと思います。先生の言葉はこのような意味で日韓の知識人、市民の間の信頼関係が生まれてきている兆候だと思います。日本人は自らの過ちを自分で調べないと韓国、朝鮮、中国との信頼関係はできません。問題は国家間のことだけでなく、どうやって民衆相互間の信頼関係を作り上げることができるか、ということでしょう。朝鮮人強制連行も関東大震災の虐殺も戦後研究を始めたのは在日朝鮮人です。強制連行は朴先生で、関東大震災は姜徳相さんと琴秉洞さんです。朝鮮人が最初に問題提起をしているわけですよ。僕たち日本人研究者はそれをどうやって受け止めるべきかということから研究を始めているわけです。いま、彼らの問題提起を受け止めるだけの力量がようやくできたと思うのですね。僕の本は姜徳相さんの研究を批判していますけども、単に朝鮮人が研究したことを受け売りするのではなくて、主体性をもっていくということが大事だと思います。

(やまだ しょうじ 立教大学名誉教授)

《追 記》 7月9日、広島高裁は広島県加計町の水力発電所建設で強制労働させられた中国人とその遺族の訴えに勝訴の判決を下し、この建設工事を請け負った西松建設に対して賠償を命じました。朝鮮人、中国人強制連行関係の控訴審で原告が勝訴したのは、これが初めてです。少し希望が見えました。西松建設は上告しました。最高裁の判決を見守りましょう。(2004年7月11日記す)

 

《追 記》 2007年4月27日、第2次大戦中に強制連行され、広島県内の水力発電所の建設現場で過酷な労働をさせられたとして中国人の元労働者ら5人が西松建設を相手に約2700万円の 損害賠償を求めた訴訟の上告審判決があり、損害賠償を求めた訴訟の上告審判決で、最高裁第二小法廷(中川了滋裁判長)は、原告側の請求を棄却しました。

 
(構成:編集部)

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最終更新:2008年08月26日 16:15