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300 名前:猫虫 ◆5G/PPtnDVU @転載は禁止[] 投稿日:2015/08/30(日) 04:48:01.58 ID:slHZZ5U50 [25/26]
【鏡の向こう】

これは高校時代に俺が体験した話だ。

俺の通っていた学校には、1階と2階をつなぐ階段の踊り場に巨大な鏡が設置されていた。
端っこに『昭和○○年度卒業生寄贈』みたいな事が書かれている物だ。
中央昇降口の手前なので、その鏡で身づくろいをしてから下校する生徒が多かった。
かく言う俺も日々利用していたのだが、まさかあんな目に遭うとは思ってもみなかった。

その日、俺は文化祭の仕事で遅くなった上、「雨ひどくなりそうだし、後は俺がやっとくから帰っていいよ」なんてかっこつけたもんだから、帰る頃には辺りはもう真っ暗になっていた。
荷物をまとめて階段を下り、いつものように鏡の前で髪を整えていた時の事。
突然、轟音と共に昇降口の方から青白い光が放たれた。
落雷だ、と思った瞬間、頼りなげに踊り場を照らしていた蛍光灯の明かりが消え、辺りは一瞬で暗闇に包まれた。

突然の停電で暗闇に目がついていけず、夜目がきくようになるまでの間、右も左も上も下も分からないような真の『真っ暗』を体験した。
目が見えない時は不安になるもので、とにかく何か固定されたものに触れたくなり、俺は鏡に手をついた。
その瞬間、急にめまいを覚えた。
あ、なんかやばい、と思って咄嗟にしゃがみこんだのだが、まるでそのまま前転するかのようなめまいの感覚に、俺は吐きそうになった。
両手と頭を鏡に押しつけてしばらく吐き気をこらえていると、急にチカチカッと蛍光灯が瞬いて明かりが戻った。
安堵したのと同時にめまいも治まり、吐き気も急激に退いていった。

301 名前:猫虫 ◆5G/PPtnDVU @転載は禁止[] 投稿日:2015/08/30(日) 04:48:52.63 ID:rrgQ+nhr0 [1/4]
昇降口を振り返ると、外ではまだ雷が激しく光っており、俺は帰るべきか留まるべきか迷った。
とりあえず親に電話して、あわよくば迎えに来てもらえないかと考え、俺は公衆電話のある職員用の玄関へ向かう事にした。
が、鏡に背を向けて階段を降りようとした瞬間、妙な違和感を覚えた。
(あれ…下りの階段って、こっち側だったっけ…?)
上の階から降りてくる時、自分の感覚としては半時計回りに螺旋を描くように降りてくるはずだった。
だが階段を見ると、下りは時計回りだ。

奇妙な感覚のズレ。
だが目の前の階段が紛れもなく時計回りなのだから、違和感は気のせいなのだろう。
俺は深く考えない事に決め、階段を降りようと手すりに手を伸ばした…のだが。
俺は何故か利き手ではない左手で無意識に手すりを掴んだ。
(え、なんで左手?)
慌てて手すりから手を離し、自分の左手をまじまじと見つめる。

その時、いつも嵌めているはずの腕時計がない事に気が付いた。
(あっ、やべ!時計なくした!)
思わず右手で左手首を掴んだ、その時。
明らかな異変がそこにあった。
時計が、右手の手首に付いている。
混乱する頭が、さらに混乱を招くものに気付く。
文字盤のデジタル表示が、反対向きの鏡文字になっているではないか!

302 名前:猫虫 ◆5G/PPtnDVU @転載は禁止[] 投稿日:2015/08/30(日) 04:49:47.42 ID:rrgQ+nhr0 [2/4]
ありえない、と思いながら鏡を振り返ると、左手首に時計を付けた自分と目が合った。
鏡に駆け寄り、バンッと音を立てて両手を叩きつけると、鏡の向こうの自分も全く同じ動きを返した。
ガラス一枚隔てて、正しいはずの俺の姿と真反対になった俺の姿が向かい合う。
「何だよ、これ…戻れ、戻れ戻れ戻れ戻れ、戻ってくれって!!!」
鏡面に頭をこすりつけるようにしながら、俺は叫んだ。

「んぁー?そこにいんの、Iかぁー?」
突如、能天気な声が背後から掛けられ、俺は慌てて振り返った。
階段の下から、去年担任だった先生が訝しげにこちらを見上げていた。
「お前、何やってんだ?もう校舎閉めるぞー?」
「あああ、先生!あの、俺、その、ちょっともうなんかアレなんスよおぉー!」と、俺は意味不明な事を喚きながら半泣きで先生のもとへと駆け下りた。
「おうおう、どーした、何だ、なんかあったか?フラれたか?」
先生は勢い余ってぶつかってきた俺を受け止めると、幼児にするように背中をぽんぽんと叩いた。
混乱と安堵と訳の分からない苛立ちがごちゃまぜになり、俺はただ号泣するしかなかった。

泣きじゃくる俺を職員室の応接スペースに連れていくと、先生は校舎を閉めるために校内の見回りへと出かけた。
ひっくひっくとしゃくりあげながらも、俺の頭は少しずつ冷静さを取り戻していった。
先生は後で話を聞いてやると言ってくれたが、こんな事を話しても気がふれたとしか思われないだろう。
鏡の世界にいる事など証明のしようもないし、もしかしたら本当に俺の頭がおかしいのかもしれないと自分で思い始めてもいた。

303 名前:猫虫 ◆5G/PPtnDVU @転載は禁止[] 投稿日:2015/08/30(日) 04:51:22.53 ID:rrgQ+nhr0 [3/4]
全部気のせいなんじゃないかと辺りを見回すが、壁に貼られたプリントもマグカップの英文も全て違和感だらけの鏡文字。
だが、何故か視線は自然に文頭から文末へと動き、普通に内容は読めた。
その上、ノートとペンを出して試しに自分でも字を書いてみると、利き手ではない左手でスラスラと自然に鏡文字が書けた。
逆に、もともとの正しい文字を書こうとすると、脳内で形や向きをひとつひとつ意識しないと書けず、書き上がった文字を見ると「この字ほんとにこれで合ってるのか?」とゲシュタルト崩壊に近い感覚を覚えた。
左右の手で書き比べたりもしたのだが、今の利き手はどうやら左手のようだった。

見回りから戻ってきた先生はノートにひらがなを必死で並べている俺の姿を憐みの目で見つめると、左ハンドルの日本車で自宅まで送ってくれた。
泣いた理由を車内で尋ねられたが、今は話したくないですと言うと「まぁ若い頃にはいろいろあるもんだしな」と言って話を終わらせてくれた。

それからしばらくの間、俺は左右反対の世界で過ごした。
初めのうちは違和感に苛まれ続けたし、なんとか戻れないかと試行錯誤していたのだが、恐ろしい事にだんだんとこちらの方が正しい世界なんじゃないかと思い始めた。
厳密に言えば、俺がおかしくなっただけで世界は何も変わってはいないんじゃないかという感覚だ。
左右反対に道を辿って学校へ行き、左手を使って鏡文字でノートを取る。
そんな生活に慣れ始めたあたりで、「いやいや、やっぱヤバイだろ」と思い直した。

304 名前:猫虫 ◆5G/PPtnDVU @転載は禁止[] 投稿日:2015/08/30(日) 05:01:40.49 ID:slHZZ5U50 [26/26]
再び試行錯誤の日々が始まった。
例の鏡と暗闇で向かい合って何かする、といったオーソドックスな事は初期の頃すでに試していたので、今度は別の方法を考える事にした。
街中で鏡を見かけたら、ひとまず触れてみるのが俺の癖になった。
理由を知らない友達から嘲笑の目を向けられる事も度々だったが、俺は必死だった。

鏡に映る自分を見て「ああ、向こうの俺も戻ろうと必死だな…」とか妙な事を思ったり、「ここにいる俺と鏡に映る俺は今同じ事を考えているのだろうか」などと哲学的な事を考えたりもした。
なんだか本当に頭がおかしくなりそうな日々だった。

そんなある日、俺は風呂の中であれこれ考え事をしているうちにうっかり眠ってしまった。
鼻から水を吸い込んで盛大にむせながら目を覚ますと、頭痛と吐き気に襲われた。
長風呂のせいでのぼせてしまったのだ。
とにかく体を冷まそうと冷水のシャワーを浴び始めたのだが、立ちくらみが襲ってきて立っていられなくなった。
倒れる!と思って咄嗟に手をついた先は、運悪く鏡だった。
ビシメキバリッと嫌な音がして、左手の手のひらに激痛が走る。
続いてガチャンパリーンと床でガラスが砕け散る音が続いた。
あ、割っちまった…と焦ったが、今は立ちくらみの方が問題だ。
ずるずる座り込むと壁にもたれてぎゅっと目を瞑り、立ちくらみが治まるのを待った。

305 名前:猫虫 ◆5G/PPtnDVU @転載は禁止[] 投稿日:2015/08/30(日) 05:03:09.37 ID:rrgQ+nhr0 [4/4]
そうこうしているうちに浴室のドアが乱暴に開けられ、「あんた何やってんの!今なんか割ったでしょ!」と母親が押し入ってきた。
年頃の息子の風呂場に入ってくんな!と言いたくて、声のする方へ顔を向けた瞬間、あれっと思った。
さっきまで左側にあったドアが、右側になっている。
手を見ると、血まみれになっているのは右手。
「やだ、怪我したの?ちょっとほら、見せて!」と乱暴に俺の手を掴んだ母親が、俺の手のひらに刺さったままのガラス片を、母親の本来の正しい利き手である右手でつまみ取っていく。
それを見た瞬間、俺は「かあちゃーん!」と情けない雄叫びを上げて泣き崩れた。
なんだかよく分からないが、とにかく戻ってこれたのだ。

帰還の代償として、俺は右手を4針と右ヒザを2針縫った上、浴室の鏡の交換費用を小遣いから天引きされる羽目になった。
いろんな意味で痛い代償だったが、違和感のない生活を取り戻せた事は素直に嬉しかった。
結局、体調が悪い状態で鏡に触れたのが良かったのか、はたまた割った事が良かったのか、あるいは何か別の条件が揃っていたのか、戻れた理由は分からない。
向こうに行ってしまった理由もまた然りだ。
以来、俺は鏡には不用意に手をつかないよう気を付けている。

【了】