【二十八話】『事務室に棲む主』スヴィトリアーク ◆CQ0ZL4vfUw


102 名前:スヴィトリアーク ◆CQ0ZL4vfUw @転載は禁止[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 22:52:23.97 ID:WCE2gmw+0 [8/22]
『事務室に棲む主』


 以前勤めていた会社での飲み会の席上、お世話になったKさんと言う経理課の先輩から教えて貰った、ちょっとした小ネタである。


 時は9月末の決算期、このシーズンになると経理課員も当然仕事に忙殺される。ご他聞に漏れずKさんも、決算書類の処理に追われていた。毎日早朝から夜は他の社員の退社後も
パーテーションに仕切られた個室に籠もり、机上に堆く積まれた収支報告書や各伝票とにらめっこするKさんを見る度に、俺は他人事ながらも軽いため息をついていたものである。

「そんな晩の事なんだけどね…」
 その日もKさんはたった独りで、いつ果てるとも知れないデスマーチの中に身を置きながら悪戦苦闘を続けていた。
「じゃあ悪いけど先に帰るからさ、体壊さない程度に頑張ってな」
 彼の背中に手を置きそう言い残して家路に就く上司の後ろ姿に、聞こえぬ程度の小声で悪態をつくKさん。
「そう思ったら、栄養ドリンクの一本も差し入れて下さいよっつーの…」

 事務所の時計は既に午後10時を回っている。ようやく資料のチェックを追えたKさんは、眠い目をこすりながらも最終計算へと入ったものだ。
 男性にしてはいささか細めのKさんの指に弾かれて、商売道具である算盤の珠が事務室内に軽やかな音を響かせる。
 元々が商業高校出身のKさんは、算盤の技術にはちょっとした自信を持っていた。何しろ「算盤弾きながら生まれて来た」とまで周囲から賞賛されるその腕前たるや、俺がとろとろ
電卓を弾くよりも数倍早く、彼の手にかかると少年ジャンプ程に分厚い資料の山が5分もせずに綺麗さっぱり無くなるくらいである。
 しかしその夜のKさんは、どうやらいつもの彼では無かった模様だった。

103 名前:スヴィトリアーク ◆CQ0ZL4vfUw @転載は禁止[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 22:53:53.84 ID:WCE2gmw+0 [9/22]
「あれ?」
 単純な加減のみである筈の計算が、何度検算を繰り返してみても弾き出される結果が異なりまくるのである。腕に覚えのKさんのプライドが、この時ばかりは
微妙に揺らぎつつあった。
「いつも通りのありふれた計算のくせ、何で毎回答えが違うんだっけ」
 まだ経理ソフトなど導入されていなかった時代の事である、何度も何度も弾いてはやり直しを延々と続けるKさん。さらにおかしな事には、そうして得られた数値は
検算を繰り返す度に狭まるどころか、振幅が逆にだんだん大きくずれて行く。
 ひと呼吸置いて大きな背伸びの後、再び資料に挑んだものの相変わらず出された計算結果はデタラメな数値を示すだけ…。

「あーもう、やめたやめた。明日仕切り直しをするとして、もう帰るとするか」
 すっかり自棄になり、そそくさとカバンに資料を詰め込んで退社前の戸締まりをするKさん。指先呼称で異状の有無を確認し、事務室の消灯をしてあとは入口ドアの
施錠をするのみであった。そしてドアノブの鍵穴にキーを差し込む段になって、Kさんの耳にはおよそ場違いな「何か」が聞こえたそうである。

「フフフフ…」 

 今しがた照明を落としたばかりの無人の事務室の一角から、悪戯っぽい中性的な含み笑いがドアの隙間越しに響いて来たと言うのだ。
「お、俺一人しかここには居なかった筈だよなあこの事務室…」
 心に広がる不気味な不安を振り払うかの如く、勢いよくドアをロックするKさん。かちりと小さな施錠音が鳴ると同時に、事務室内の奇妙な笑い声もピタリと止んだそうな。
 翌日出社してからKさんが前夜の残り作業を再開すると、今度は一転どうしたものか、初っ端の一発で無事正解が導き出されたとの事である。


「やっぱアレはさ、支社の事務室に憑く得体の知れない何かが俺をからかったんだろうね。そんな事して何が面白いんだっつー話なんだけど、まあ命までは取られないと
思うから良しとしなきゃ、な」

 そこまで一気に語り終えると、Kさんは手にしたグラスの水割りを大きくあおった。


【了】
最終更新:2015年10月31日 01:09