釈迦

{{Otheruseslist|仏教の開祖|として神格化された釈迦|釈迦如来|紀元前7-6世紀頃のネパールの部族|釈迦族}}
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|名前=釈迦
|生没年=紀元前463年? - 紀元前383年?
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|生地=ネパールカピラヴァストゥ
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|説明文=釈迦立像
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|弟子=舎利弗目連|摩訶目犍連摩訶迦葉<br/>須菩提富楼那|富楼那弥多羅尼子<br/>迦旃延|摩訶迦旃延阿那律優波離<br/>羅睺羅阿難
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{{Buddhism}}
釈迦(釋迦、しゃか、 サンスクリット|梵名:シャーキャ、शाक्य [zaakya]({{IAST|Śākya}})、一説に紀元前463年|前463年 - 紀元前383年|前383年紀元前560年|前560年 - 紀元前480年|前480年等)は、仏教の開祖である。

本名(俗名)は、パーリ語ゴータマ・シッダッタ({{IAST|Gotama Siddhattha}})またはサンスクリット語ガウタマ・シッダールタゴータマ・シッダールタガウタマ・シッダルダとも)(गौतम सिद्धार्थ [{{IAST|Gautama Siddhārtha}}])、漢訳では'''瞿曇 悉達多'''(くどん しっだった)と伝えられる。

== 呼称 ==
「釈迦」は釈迦牟尼(しゃかむに、シャーキャ・ムニ शाक्यमुनि [zaakya-muni]({{IAST|Śākyamuni}}))の略である。釈迦は彼の部族名もしくは国名で、牟尼は聖者・修行者の意味。つまり釈迦牟尼は、「釈迦族の聖者」という意味の尊称である。なお、釈迦族とは、様々な民族に経典を翻訳して伝える際に、注釈を加えてわかり易く説法する世襲制の祭司族または書記族の意味。

称号を加え、釈迦牟尼世尊釈迦牟尼仏陀釈迦牟尼仏釈迦牟尼如来ともいう。ただし、これらはあくまで仏教の視点からの呼称である。僧侶などが釈迦を指す時は、略して釈尊(しゃくそん)または釈迦尊釈迦仏釈迦如来と呼ぶことが多い。

称号だけを残し、世尊仏陀ブッダ如来とも略す。ただし、大乗仏教以後の仏教では仏陀世尊如来は釈迦牟尼だけではない。特に浄土真宗では単に如来というと阿弥陀如来を指すことも少なくない。

日本では、一般にお釈迦様仏様(ほとけさま)と呼ばれることが多い。ただし、仏様は死者の意味に使われることも多い。

仏典ではこの他にも多くの異名を持つ。うち代表的な10個(どの10個かは一定しない)を総称して仏「十号」と呼ぶ。

=== 呼称表 ===

釈迦牟尼世尊

釈迦尊

釈尊(しゃくそん)

釈迦牟尼仏陀

釈迦牟尼仏

釈迦仏

釈迦牟尼如来

釈迦如来(しきゃじらい)

多陀阿伽度(たたあかど)

阿羅訶(応供)(あらか)

三藐三仏陀(正徧智)(さんみゃくさんぶっだ)


== 生涯 ==
釈迦は紀元前5世紀頃、現在のネパールルンビニで誕生。父は釈迦族|シャーキャ族の王で、王子として裕福な生活を送っていたが、29歳で出家した。35歳で正覚(覚り)を開き、仏陀(覚者)となったことを成道という。まもなく釈迦のもとへやってきたブラフマンの勧めに応じて、釈迦は自らの覚りを人々に説いて伝道して廻った。南方伝ではヴァイシャーカ月(グレゴリオ暦4月~5月)の満月の日(ヴァイシャーカ月はインドでは2月にあたりインドは太陰太陽暦で満月の日は15日にあたるため、中国伝来の際2月15日 (旧暦)とされた)に80歳で入滅(死去)したとされている。

=== 誕生 ===
釈迦は現在のネパール国境付近(インド説も)のカピラ城|カピラヴァストゥ(kapila-vastu、迦毘羅衛 パーリ語:カピラヴァッツ)で、国家を形成していた釈迦族の出身である。釈迦の故郷であるこのカピラヴァストゥは今のネパールのタライ(tarai)地方のティロリコート(tilori-kot)あるいはピプラーワー(Piprahwa)付近を中心とする小さな共和制の国で、当時の二大強国マガタとコーサラの間にはさまれた国であった。家柄は王 (rāja) とよばれる名門であった。このカピラヴァスツ国の城主、浄飯王|シュッドーダナを父とし、隣国の同じ釈迦族のコーリヤの執政アヌシャーキャの娘・摩耶夫人|マーヤーを母として生まれ、ガウタマ・シッダールタと名づけられた。

ガウタマ(ゴータマ)は「最上の牛」を意味する言葉で、シッダールタ(シッダッタ)は「目的を達したもの」という意味である。ガウタマは母親がお産のために実家へ里帰りする途中、ルンビニの花園で休んだ時に誕生した。生後一週間で母のマーヤーは亡くなり、その後は母の妹、摩訶波闍波提|マハープラジャパティーによって育てられた。当時は姉妹婚の風習があったことから、マーヤーもマハープラジャパティー(パーリ語:マハパジャパティ)もシュッドーダナの妃だった可能性がある。

釈迦の生まれた年代に最新の研究をもってしても100年もの誤差が生じるのは、インドでは輪廻転生の考えから時間というものがさほど必要なものではないと考えられていたため、年代を記録する習慣がなかったことによる。インドなどの詳細は中国の文献によって知ることができる。

釈迦は、産まれた途端、七歩歩いて右手で天を指し左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と話したと伝えられている。釈迦はシュッドーダナらの期待を一身に集め、二つの専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・教師などを与えられ、クシャトリヤの教養と体力を身につけた、多感でしかも聡明な立派な青年として育った。16歳で母方の従妹の耶輸陀羅|ヤショーダラーと結婚し、一子、羅ご羅|ラーフラ をもうけた。なお妃の名前は、他にマノーダラー(摩奴陀羅)、ゴーピカー(喬比迦)、ムリガジャー(密里我惹)なども見受けられ、それらの妃との間に善星|スナカッタ優波摩那|ウパヴァーナを生んだという説もある。

=== 出家 ===
当時のインドでは、ウパニシャッド哲学を基盤としながら、ヴェーダ経典の権威を認めない六師外道と称される六人の思想家達、ジャイナ教の始祖となったニガンダ等が既成のバラモンを否定し、自由な思想を展開していた。また社会的にも十六大国|16の大国、多くの小国が争いを繰り広げ、混乱の度を増すさなかにあった。

釈迦出家の動機は、釈迦族が農耕民族であったため、幼少の頃に田畑の虫をついばむ鳥を見たことなどにより日常的にこの世の無常を感じていたが、決定的となったのは四門出遊の故事とされる。ある時、釈迦がカピラヴァスツ城の東門から出る時老人に会い、南門より出る時病人に会い、西門を出る時死者に会い、生ある故に老も病ももある(四諦#苦諦(duHkha-aaryasatya)|生老病死:四苦)と無常を感じた。北門から出た時に一人の出家沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった。

私生活において一子羅ご羅|ラーフラをもうけたことで、かねてよりの念願の出家の志を29歳、12月8日夜半、王宮を抜け出て果たした。出家してまずバッカバ仙人を訪れ、その苦行を観察するも、その結果、死後に天上に生まれ変わることを最終的な目標としていたので、天上界の幸いも尽きればまた六道に輪廻すると悟った。次にアーラーラ・カーラーマを訪れ、彼が空無辺処(あるいは無所有処)が最高の悟りだと思い込んでいるが、それでは人の煩悩を救う事は出来ないことを悟った。次にウッダカラーマ・プッタを訪れたが、それも非想非非想処を得るだけで、真の悟りを得る道ではないことを覚った。この三人の師は、釈迦が優れたる資質であることを知り後継者としたいと願うも、釈迦自身はすべて悟りを得る道ではないとして辞した。そしてウルヴェーラの林へ入ると、父・シュッドーダナは釈迦の警護も兼ねて五比丘(ごびく)といわれる5人の沙門を同行させた。そして出家して6年(一説には7年)の修行の間、苦行を積んだ。減食、絶食等、座ろうとすれば後ろへ倒れ、立とうとすれば前に倒れるほど厳しい修行を行ったが、心身を極度に消耗するのみで、人生の苦を根本的に解決することはできないと悟って難行苦行を捨てたといわれている。その際、この五比丘たちは釈迦が苦行に耐えられず修行を放棄したと思い、釈迦をおいてムリガダーヴァ(鹿野苑、ろくやおん)へ去った。

=== 成道 ===
そこで釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。ネーランジャナー(nairaJjanaa、尼連禅河、にれんぜんが)で沐浴し、村娘スジャータの乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、気力の回復を図って、ガヤー村のピッパラ (pippala) 樹(後にゴータマ・ブッダの菩提樹|菩提樹と言われる)の下で、49日間の観想に入った。そして、ついに12月8日の未明に大悟する。これを「成道」といい、古来この日に「成道会(じょうどうえ)」を勤修した。ガヤー村は、仏陀の悟った場所という意味の、ブッダガヤと呼ばれるようになった。

釈迦は、この悟りを得た喜びの中で、このまま浸っていようと考えた。一部の経典には「このまま無余涅槃に至ろうと考えた」との記述があることから、3カ月間禅定にあるまま死を迎えようとされたと思われた。ところが梵天帝釈天によって衆生に説くよう勧められた(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた5人の仲間に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むベナレス|バーラーナシー (baaraaNsii) まで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。

そこで釈迦は鹿野苑へ向かい、初めて五比丘にその方法論四諦八正道を実践的に説いた。これを初転法輪(しょてんぽうりん)と呼ぶ。この5人の比丘は、当初は釈迦が苦行を止めたとして蔑んでいたが、説法を聞くうちコンダンニャがすぐに悟りを得、釈迦は喜んだ。この時初めて、釈迦は如来(tathaagata、タターガタ)という語を使った。すなわち「ありのままに来る者」「真理のままに歩む者」という意味である。それは、現実のありのままの姿(実相)を観じていく事を意味している。

初転法輪を終わって「世に六阿羅漢(漢:応供、梵:arhan)あり。その一人は自分である」と言い、ともに同じ悟りを得た者と言った。次いでバーラーナシーの長者、耶舎|ヤシャスに対して正しい因果の法を次第説法し、彼の家族や友人を教化した。古い戒律に「世に六十一阿羅漢あり、その一人は自分だと宣言された」と伝えられている。

=== 教団 ===
その後、ヤシャスや富楼那|プルナなどを次々と教化したが、初期の釈迦仏教教団において最も特筆すべきは、三迦葉(さんかしょう)といわれる三人の兄弟が仏教に改宗したことである。当時有名だった事火外道(じかげどう)の、ウルヴェーラ・カッサパ (uruvela kassapa)、ナディー・カッサパ (nadi kassapa)、ガヤー・カッサパ (gayaa kassapa) を教化して、千人以上の構成員を持つようになり、一気に仏教は大教団化した。

ついでラージャグリハ(raajagRha、王舎城)に向かって進み、ガヤ山頂で町を見下ろして「一切は燃えている。煩悩の炎によって汝自身も汝らの世界も燃えさかっている」と言い、煩悩の吹き消された状態としての涅槃を求めることを教えた。

王舎城に入って、頻婆娑羅|ビンビサーラ王との約束を果たし教化する。王はこれを喜び竹林精舎を寄進する。ほどなく釈迦のもとに二人のすぐれた弟子が現れる。その一人は十大弟子|シャーリプトラであり、もう一人は十大弟子|マウドゥガリヤーヤナであった。この二人は後に釈迦の高弟とし、前者は知恵第一、後者は神通第一といわれたが、この二人は釈迦の弟子で、最初に教化された五比丘の一人である阿説示|アッサジ比丘によって釈迦の偉大さを知り、弟子250人とともに帰依した。その後、シャーリプトラは叔父の摩訶・倶絺羅(まか・くちら、長爪・梵士=婆羅門とも)を教化した。この頃に摩訶迦葉|マハーカッサパが釈迦の弟子になった。

以上がおおよそ釈迦成道後の2年ないし4年間の状態であったと思われる。この間は大体、ラージャグリハ(王舎城)を中心としての伝道生活が行なわれていた。すなわち、マガダ国の群臣や村長や家長、それ以外にバラモンやジャイナ教の信者とだんだんと帰依した。このようにして教団の構成員は徐々に増加し、ここに教団の秩序を保つため、様様な戒律が設けられるようになった。

=== 伝道の範囲 ===
これより後、最後の一年間まで釈迦がどのように伝道生活を送ったかはじゅうぶんには明らかではない。経典をたどると、故国カピラヴァスツの訪問によって、釈迦族の王子や子弟たちである、羅睺羅|ラーフラ阿難|アーナンダ阿那律|アニルッダ提婆達多|デーヴァダッタ 、またスードラの出身である優波離|ウパーリが先んじて弟子となり、諸王子を差し置いてその上首となるなど、釈迦族から仏弟子となる者が続出した。またコーサラ国を訪ね、ガンジス河を遡って西方地域へも足を延ばした。たとえはクル国 (kuru) のカンマーサダンマ (kammaasadamma) や、ヴァンサ国 (vaMsa) のコーサンビー (kosaambii) などである。成道後14年目の安居はコーサラ国の舎衛城|シュラーヴァスティー祇園精舎で開かれた。

このように釈迦の教化され伝道された地域をみると、ほとんどガンジス中流地域を包んでいる。アンガ (aGga)、マガダ (magadha)、ヴァッジ (vajji)、マトゥラー (mathura)、コーサラ (kosalaa)、クル (kuru)、パンチャーラー (paJcaalaa)、ヴァンサ (vaMsa) などの諸国に及んでいる。

=== 入滅 ===
釈迦の伝記の中で最も克明に今日記録として残されているのは、入滅前1年間の事歴である。漢訳の『長阿含経』の中の「遊行経」とそれらの異訳、またパーリ所伝の『大般涅槃経』などの記録である。

涅槃の前年の雨期は舎衛国の祇園精舎で安居が開かれた。釈迦最後の伝道は王舎城の竹林精舎から始められたといわれているから、前年の安居を終わって釈迦はカピラヴァスツに立ち寄り、コーサラ国王波斯匿王|プラセーナジットの訪問をうけ、最後の伝道がラージャクリハから開始されることになったのであろう。

このプラセーナジットの留守中、コーサラ国では王子が兵をあげて王位を奪い、毘瑠璃王|ヴィルーダカとなった。そこでプラセーナジットは、やむなく王女が嫁していたマガダ国のアジャータシャトル(ajaatazatru、阿闍世王)を頼って向かったが、城門に達する直前に亡くなったといわれている。当時、釈迦と同年配であったといわれる。

ヴィルーダカは王位を奪うと、即座にカピラヴァスツの攻略に向かった。この時、釈迦はまだカピラヴァスツに残っていた。釈迦は、故国を急襲する軍を、道筋の樹下に座って三度阻止したが、宿因の止め難きを覚り、四度目にしてついにカピラヴァスツは攻略された。しかし、このヴィルーダカも河で戦勝の宴の最中に洪水(または落雷とも)によって死んだと記録されている。釈迦はカピラヴァスツから南下してマガダ国の王舎城に着き、しばらく留まった。

釈迦は多くの弟子を従え、王舎城から最後の旅に出た。アンバラッティカ (パ:ambalaTThika) へ、ナーランダを通ってパータリガーマ (パ:paaTaligaama) に着いた。ここは後のマガダ国の首都となるパータリプトラ (paataliputra、華子城) であり、現在のパトナである。ここで釈迦は破戒の損失と持戒の利益とを説いた。

釈迦はこのパータリプトラを後にして、増水していたガンジス河を無事渡り、ヴァッジ国のコーリー城に着いた。ここで亡くなった人々の運命について、阿難|アーナンダの質問に答えながら、最後に人々が運命を知る標準となるものとして法鏡の説法をする。釈迦はこの法鏡を説いてから、四諦を説いて「苦悩と苦悩の起源と、苦悩の絶滅と苦悩の絶滅への道との尊い真理を洞察し悟った。そして生存への渇望を根絶し、生存への誘惑をうちほろぼしたから、もはや生存に戻ることはない」と説法した。

次に釈迦は、このコーリー城を出発しナディカガーマを経てヴァイシャーリーに着いた。ここはヴァッジ国の首都であり、アンバーパリーという遊女が所有するマンゴー林に滞在し、戒律や生天の教え、四諦を説いた。やがてここを去ってヴェールバ村に進み、ここで最後の雨期を過ごすことになる。すなわち釈迦はここでアーナンダなどとともに安居に入り、他の弟子たちはそれぞれ縁故を求めて安居に入った。

この時、釈迦は死に瀕するような大病にかかった。しかし、雨期の終わる頃には気力を回復した。この時、アーナンダは釈迦の病の治ったことを喜んだ後、「師が僧伽|比丘僧伽のことについて何かを遺言しないうちは亡くなるはずはないと、心を安らかに持つことができました」と言った。これについて釈迦は、{{quote|「比丘僧伽は私に何を期待するのか。私はすでに内外の区別もなく、ことごとく法を説いた。阿難よ、如来の教法には、あるものを弟子に隠すということはない。教師の握りしめた秘密の奥義(師拳)はない。……自分はすでに八十歳の高齢となり、自分の肉体は、あたかも古い車がガタガタとなってあちこちを草紐で縛り、やっと保たれているようなものである。だから、阿難よ、汝らは、ただみずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることなくして、修行せんとするものこそ、わが比丘たちの中において最高処にあるものである」}}と説法したとされる。これが「自帰依自灯明、法帰依法灯明」の教えである。

やがて雨期も終わって、釈迦は、ヴァイシャーリーへ托鉢に出かけ、永年しばしば訪れたウデーナ廟、ゴータマカ廟、サーランダダ廟、サワラ廟などを訪ねた。托鉢から戻ると、アーナンダを促してチャパラの霊場に行った。ここで聖者の教えと神通力について説いた。

托鉢を終わって、釈迦は、これが「如来のヴァイシャーリーの見納めである」と言い、バァンダガーマ (bhandagaama) に移り四諦を説き、さらにハッティ (hatthi)、アンバガーマ (ambagaam)、ジャンブガーマ (jaambugaama)、ボーガガーマ (bhogagaama)を経てパーヴァー (paavaa) に着いた。ここで四大教法を説き、仏説が何であるかを明らかにし、戒定慧の三学を説いた。

釈迦は、ここで鍛冶屋の純陀|チュンダのために法を説き供養を受けたが、激しい腹痛を訴えるようになった。カクッター河で沐浴して、最後の歩みをクシナガラ|クシナーラー (kusinaara) に向け、その近くのヒランニャバッティ河のほとりに行き、マルラ (malla) 族(マッラ国)のサーラの林に横たわり、そこで入滅した。時に紀元前386年2月15日のことであった<ref>釈迦の入滅年時については、仏典により色々な説がある。一般には紀元前486年(衆聖点記説)を用い、宇井伯寿の前386年説も仏教における学会で用いられている。</ref>。これを仏滅(ぶつめつ)という。腹痛の原因はスーカラマッタヴァという料理で、豚肉、あるいは豚が探すトリュフのようなキノコであったという説もあるが定かではない。

仏陀入滅の後、その遺骸はマルラ族の手によって火葬された。当時、釈迦に帰依していた八大国の王たちは、仏陀の遺骨仏舎利を得ようとマルラ族に遺骨の分与を乞うたが、これを拒否された。そのため、遺骨の分配について争いが起きたが、ドーナ(dona、香姓)バラモンの調停を得て舎利は八分され、遅れて来たマウリヤ族の代表は灰を得て灰塔を建てた。ちなみに、その八大国とは、
# クシナーラーのマルラ族
# マガダ国のアジャタシャトゥル王
# ベーシャーリーのリッチャビ族
# カビラヴァストフのシャーキャ族
# アッラカッパのプリ族
# ラーマガーマのコーリャ族
# ヴェータデーバのバラモン
# バーヴァーのマルラ族
である<ref>1898年にカピラヴァットゥから約13キロメートル隔たったピプラーワーで、イギリスの駐在官ペッペが発見した遺骨の壺は、考古学的な鑑定の結果、現在では真の仏舎利として最も信憑性があるとされている(中村元(1970)および外務省HP参照)。この壺は当時のイギリス領インド政府からタイ王室に譲り渡され、仏舎利の一部は日本では覚王山日泰寺に納められている。参考:[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/thailand/jpth120/knowledge/temple.html 外務省HP:日泰寺]</ref>。

入減後、弟子たちは亡き釈迦を慕い、残された教えと戒律に従って跡を歩もうとし、説かれた法と律とを結集した。これらが幾多の変遷を経て、今日の経典や律典として維持されてきたのである。

== 入滅後の評価 ==
釈迦の入滅後、仏教はインドで大いに栄えたが、大乗仏教の教義がヒンドゥー教に取り込まれるとともにその活力を失っていく。ヒンドゥー教は仏教を弾圧の対象とし、釈迦に新たな解釈を与えた。釈迦は、ヴィシュヌのアヴァターラ(化身)として地上に現れたとされた。偉大なるヴェーダ聖典を悪人から遠ざけるために、敢えて偽の宗教である仏教を広め、人々を混乱させるために出現したとされ、誹謗の対象になった。ただし逆に大乗仏教の教義をヒンドゥー教が取り込んだためヒンドゥー教が仏教化したと捉えることもできる。

さらにインドがイスラム教徒に征服されると、仏教はイスラム教からも弾圧を受け衰退の一途をたどる。イスラム征服後のインドではカーストの固定化がさらに進む。このなかでジャイナ教徒は信者をヒンドゥー社会の一つのカーストと位置づけその存続を可能にしたが、仏教はカースト制度を否定したためその社会的基盤が消滅する結果となった。元々インド仏教はその存在を僧伽に依存しており、回教徒によって僧伽が破壊されたことによってその宗教的基盤を失い消滅した。インド北東部の一部で細々と存続する以外にはインドで仏教が認められるようになったのは、インドがイギリス領になった19世紀以降である。因みにカースト制度の外にある不可触賎民の一部は仏教徒の末裔ではないかとの憶測も存在する。

釈迦の聖地のある、ネパールでも釈迦は崇拝の対象でもある。ネパールでは<!--??年-->現在、ヒンドゥー教徒が86%、仏教徒が8%となっている。ネパールでも仏教は少数派でしかないが、ネパールの仏教徒は聖地ルンビニへの巡礼は絶やさず行っている。なお、ルンビニは1997年にユネスコの世界文化遺産に登録された。

仏教は仏滅後100年、上座部大衆部に分かれる。これを根本分裂という。その後西暦100年頃には20部前後の部派仏教が成立した。これを枝末分裂という(ただし大衆部が大乗仏教の元となったかどうかはさだかではなく、上座部の影響も指摘されている)。そして、部派仏教と大乗仏教とでは、釈迦に対する評価自体も変わっていった。部派仏教では、釈迦は現世における唯一の仏とみなされている。最高の悟りを得た仏弟子は阿羅漢(アラカン 如来十号の一)と呼ばれ、仏である釈迦の教法によって解脱した聖者と位置づけられた。一方、大乗仏教では、釈迦は十方(東南西北とその中間である四隅の八方と上下)三世(過去、未来、現在)の無量の諸仏の一仏で、現在の娑婆(サハー、堪忍世界)の仏である、等と拡張解釈された。また、後の三身説では応身として、仏が現世の人々の前に現れた姿であるとされている。とくに大乗で強調される仏性の思想は、上座部仏教には無かったことが知られている。

マニ教の開祖であるマニは、釈迦を自身に先行する聖者の一人として認めたが、釈迦が自ら著作をなさなかったために後世に正しくその教えが伝わらなかった、としている。

マルコ・ポーロ東方見聞録において釈迦の事を「もし彼がキリスト教徒であれば、イエス・キリストに劣らぬ聖者になったであろう。」<ref>青木富太郎訳による『東方見聞録』には、そのような記述は一切ない。そのかわり、フビライ・ハーンの事を「世界のすべてのキリスト教徒イスラム教徒の王や皇帝たちでも、彼ほどの力は持っていないだろうし、彼ほどの業績はあげられないだろう。」とする記述がある。また、本書で、釈迦は一切登場しない。加えて、仏教という言葉は一切登場しない。仏教は、偶像崇拝教として登場する。</ref>と記述していれば、キリスト教徒としては最上の評価と言ってよい(ただし、キリスト教の教義にはいささか反するという指摘もある<ref>イエスは言った、曰く「なぜ私を善いと言うのか。」 – マルコによる福音書「金持ちの男」(10:18)、ルカによる福音書「金持ちの議員」(18:19) イエス、更に曰く「以外、善いなどない。」 – マタイによる福音書「金持ちの青年」(19:17)、マルコによる福音書「金持ちの男」(10:18)、ルカによる福音書「金持ちの議員」(18:19)</ref>)。

== 釈迦の像 ==
イエスの像が常に痩せている一方、{{要出典範囲|釈迦は中道を説くとあって、中肉の像である}}。悟り以前の苦行時代の釈迦の像は脂肪のほとんどない像である。入滅後400年間、釈迦の像は存在しなかった。彫像のみならず絵画においても釈迦の姿をあえて描かず、法輪インドボダイジュ|菩提樹のような象徴的事物に置き換えられた。崇拝の対象はもっぱら仏塔であった。{{要出典範囲|釈迦の時代のインドには像を作る習慣が存在せず}}、仏像が作られるようになったのはヘレニズムの影響によるものである。

== 釈迦の生涯を伝える文献 ==

修行本起経 〔大正・3・461〕

瑞応本起経 〔大正・3・472〕 - これらは錠光仏の物語から三迦葉が釈尊に帰依するところまでの伝記を記している。

過去現在因果経 〔大正・3・620〕 - 普光如来の物語をはじめとして舎利弗、目連の帰仏までの伝記。

中本起経 〔大正・4・147〕 - 成道から晩年までの後半生について説く。

仏説衆許摩房帝経 〔大正・3・932〕

仏本行集経 〔大正・3・655〕 - これらは仏弟子の因縁などを述べ、仏伝としては成道後の母国の教化まで。

十二遊経 〔大正・4・146〕 - 成道後十二年間の伝記。

普曜経

方広大荘厳経 - これらは大乗の仏伝としての特徴をもっている。

仏所行讃 〔大正・4・1〕(梵:Buddha-carita) 馬鳴著

Lalita vistara

Mahavastu

遊行経 『長阿含経』中

仏般泥画経(パ:''Mahaparinibbanna sutta'')

大般涅槃経 法賢訳 - 以上3件は、釈尊入滅前後の事情を述べたもの。

『自説経(ウダーナ)』 - パーリ語による仏典。日本語訳:[http://www.tok2.com/home/gengi/sutra/index.html]


注:〔大正〕とは、大正新脩大蔵経のこと。

== 釈迦を題材にした作品 ==
=== 小説 ===

ヘルマン・ヘッセシッダールタ


=== 漫画 ===

手塚治虫ブッダ (漫画)|ブッダ

中村光 (漫画家)|中村光聖☆おにいさん

小泉吉宏ブッタとシッタカブッタ』(モチーフにしている)


=== 映画 ===

『亜細亜の光』 (原題: "DIE LEUCHTE ASIENS" 1925年ドイツ

『釈迦』 (1961年大映 (映画)|大映 釈迦役: 本郷功次郎

リトル・ブッダ』(1993年アメリカ合衆国|アメリカ 釈迦役: キアヌ・リーブス


=== 音楽 ===

田中正徳『世尊』(合唱曲)

貴志康一仏陀 (交響曲)|交響曲『仏陀』

伊福部昭「交響頌偈『釋迦』」(合唱を伴う管弦楽曲


== 注 ==
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== 参考文献 ==
{{refspam}}

中村元 (哲学者)|中村元 『原始仏教 - その思想と生活』 日本放送出版協会〈NHKブックス〉、1970年、ISBN 4-14-001111-4。

中村元 『釈尊の生涯』 平凡社ライブラリー、2003年、ISBN 4-582-76478-9。

『ゴータマ・ブッダ 決定版中村元選集 第11.12巻』 春秋社、1992年

早島鏡正 『ゴータマ・ブッダ』 講談社〈講談社学術文庫〉、1990年、ISBN 4-480-08928-4。

増谷文雄 『この人を見よ ブッダ・ゴータマの生涯、ブッダ・ゴータマの弟子たち』 佼成出版社、2006年、ISBN 4-333-02193-6。

渡辺照宏 『新釈尊伝』 ちくま学芸文庫、2005年、ISBN 4-333-02193-6。

水野弘元 『釈尊の生涯』 春秋社、1985年ほか

水野弘元 『原始仏教入門 釈尊の生涯と思想から』 佼成出版社、2009年、ISBN 4-333-02395-5。


羽矢辰夫 『ゴータマ・ブッダ』 春秋社、1999年

羽矢辰夫 『ゴータマ・ブッダの仏教』 春秋社、2003年

並川孝儀 『ゴータマ・ブッダ考』 大蔵出版、ISBN 4-8043-0563-7。

並川孝儀 『スッタニパータ 仏教最古の世界』<書物誕生>岩波書店、ISBN 4-00-028285-9。

宮元啓一 『ブッダが考えたこと これが最初の仏教だ』 春秋社、ISBN 4-393-13520-2。2004年

宮元啓一 『仏教かく始まりき パーリ仏典「大品」を読む』 春秋社、ISBN 4-393-13537-7。2005年

宮元啓一 『仏教誕生』 ちくま新書、1995年

宮元啓一 『ブッダ 伝統的釈迦像の虚構と真実』 光文社文庫、1998年


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最終更新:2009年12月29日 12:07
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