- またテスト - 名無しさん 2009-07-17 20:49:53
- てすと - alpha_zero 2009-07-17 02:00:45
- アポロ計画は元々、アイゼンハワー政権の末期にマーキュリー計画の後継として、より高度な有人地球軌道ミッションとして発案された。実際にはアポロ計画はジェミニ計画に続く3番目の有人ミッションとなった。ところが1961年5月25日に行なわれたアメリカ連邦議会特別両院合同会議の席上、ケネディ大統領の以下の声明によって、アポロ計画の目標は「1960年代中の月着陸」という挑戦的なものに劇的に再設定された。 "...I believe that this nation should commit itself to achieving the goal, before this decade is out, of landing a man on the Moon and returning him safely to the Earth. No single space project in this period will be more impressive to mankind, or more important in the long-range exploration of space; and none will be so difficult or expensive to accomplish..." (邦訳)「…私は、今後10年以内に人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させるという目標の達成に我が国の国民が取り組むべきであると考えている。この時代の宇宙長距離探査の分野で、人類にとってこれ以上に素晴らしく、これ以上に重要な宇宙計画はないだろう。またこれ以上に遂行が困難で費用のかかる計画もないだろう…」 その後ケネディは、アメリカ人を月に到達させるというアポロ計画のために220億ドル以上という巨額の予算を承認してくれるように議会に依頼し、この計画の推進によって大きな利益を得ることになる大手軍事産業のロビー活動の後押しもあり、これを無事に通過させることに成功した。 なお、アポロ計画をはじめとする宇宙開発競争は、宇宙空間における探検や冒険、研究といった側面ではなく、冷戦下においてソ連との間で宇宙空間の軍事的覇権を争うという側面が強く、アポロ計画をはじめとする宇宙開発競争が同じくケネディによって当時推進されていたベトナムへの軍事介入の拡大と併せて進んだ結果、マクドネル・ダグラスやノースロップ、ロッキードなどの大手軍事産業は大いに利益を得ることになった。 - 名無しさん 2009-07-17 02:04:21
- あああああああああ - 名無しさん 2009-07-17 20:53:44
- アポロ計画は元々、アイゼンハワー政権の末期にマーキュリー計画の後継として、より高度な有人地球軌道ミッションとして発案された。実際にはアポロ計画はジェミニ計画に続く3番目の有人ミッションとなった。ところが1961年5月25日に行なわれたアメリカ連邦議会特別両院合同会議の席上、ケネディ大統領の以下の声明によって、アポロ計画の目標は「1960年代中の月着陸」という挑戦的なものに劇的に再設定された。 "...I believe that this nation should commit itself to achieving the goal, before this decade is out, of landing a man on the Moon and returning him safely to the Earth. No single space project in this period will be more impressive to mankind, or more important in the long-range exploration of space; and none will be so difficult or expensive to accomplish..." (邦訳)「…私は、今後10年以内に人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させるという目標の達成に我が国の国民が取り組むべきであると考えている。この時代の宇宙長距離探査の分野で、人類にとってこれ以上に素晴らしく、これ以上に重要な宇宙計画はないだろう。またこれ以上に遂行が困難で費用のかかる計画もないだろう…」 その後ケネディは、アメリカ人を月に到達させるというアポロ計画のために220億ドル以上という巨額の予算を承認してくれるように議会に依頼し、この計画の推進によって大きな利益を得ることになる大手軍事産業のロビー活動の後押しもあり、これを無事に通過させることに成功した。 なお、アポロ計画をはじめとする宇宙開発競争は、宇宙空間における探検や冒険、研究といった側面ではなく、冷戦下においてソ連との間で宇宙空間の軍事的覇権を争うという側面が強く、アポロ計画をはじめとする宇宙開発競争が同じくケネディによって当時推進されていたベトナムへの軍事介入の拡大と併せて進んだ結果、マクドネル・ダグラスやノースロップ、ロッキードなどの大手軍事産業は大いに利益を得ることになった。 - 名無しさん 2009-07-17 02:04:21
- 目標が月に決定すると、NASAのアポロ計画・ミッション立案者は、人命に対するリスクや費用、必要な技術や宇宙飛行士の技量を最小にして、ケネディが述べた目標を達成できる飛行計画を設計するという課題に挑戦することとなった。 検討の結果、以下の3通りの可能な案が考えられた。 直接到達 このプランでは宇宙船を直接月へ運ぶ。宇宙船全体を月面に着陸・帰還させる。これを実行するには、当時存在していたどのロケットよりも強力な新型ロケットが必要であった。 地球軌道ランデブー このプランは地球軌道ランデブー (Earth orbit rendezvous, EOR) と呼ばれた。2機のサターンV型ロケットを打ち上げ、片方は宇宙船を、もう片方が燃料を地球軌道上に運ぶというものである。宇宙船は地球軌道上でドッキングを行い、月までの往復に必要な燃料を得る。この場合にも宇宙船全体が月面に着陸する。当初、ヴェルナー・フォン・ブラウンが提案していた方式。なおオリオンによる有人月着陸計画はこちらの方式を採用予定である(着陸方式は月着陸船を使用)。 月軌道ランデブー この案では月軌道ランデブー (Lunar Orbit Rendezvous, LOR) の技術を用いる。ジョン・ホーボルト(John Houbolt)らによって考案され、この案が実際に採用された。宇宙船は司令・機械船 (Command/Service Module, CSM) と月着陸船 (Lunar Module, LM) と呼ばれるモジュールからなっている。機械船には乗員3名の月までの往復5日間の生命維持に必要なシステムが搭載され、司令船には地球大気への再突入の際の耐熱シールドが設けられている。月着陸船は月軌道上で司令・機械船と分離して2名の飛行士を月面に降下させ、その後再び司令・機械船に帰還させる。 アポロ月着陸船 月面の月着陸船(アポロ11号) 月面の月着陸船(アポロ11号) 概要 用途: 月着陸 乗員: 2名; 船長(CDR), 月着陸船(LM)パイロット 寸法 全高: 20.9 ft 6.37 m 直径: 14 ft 4.27 m 脚間距離: 29.75 ft 9.07 m 容積: 235 ft3 6.65 m3 重量 上昇モジュール: 10,024 lb 4,547 kg 下降モジュール: 22,375 lb 10,149 kg 計: 32,399 lb 14,696 kg ロケットエンジン LM RCS (N2O4/UDMH) x 16: 100 lbf ea 441 N 上昇推進系 (N2O4/エアロジン-50) x 1: 3,500 lbf ea 15.57 kN 下降推進系 (N2O4/エアロジン-50) x 1: 9,982 lbf ea 44.4 kN 性能 航続時間: 3 days 72 hours 遠月点: 100 miles 160 km 近月点: surface surface ΔV: 15,387 ft/s 4,690 m/s アポロ月着陸船 概念図 アポロ月着陸船 概念図 (NASA) アポロ月着陸船 概念図 (NASA) 製造:グラマン 月軌道ランデブー案では他の案と異なり、宇宙船の一部のみを月面に着陸させる。これにより帰還時に月面から打ち上げなければならない質量を最小化できる。この打ち上げる質量は、月着陸船の一部(着陸用降下エンジンを含む)を月面に残してくることでさらに小さくできる。 月着陸船自身は下降用ステージと上昇用ステージからなる。下降用ステージは、月面探査チームが月面を離れて月軌道へ戻る際には上昇用ステージの打ち上げ台として使われる。上昇ステージは月軌道上で、地球への帰還の前に司令・機械船とドッキングする。この案では月着陸船は最終的に放棄されるため、重量が非常に軽くて済み、サターンV型ロケット1機で月着陸ミッションを実現できるという利点がある。しかし月軌道ランデブー案が採用された際、ミッション計画者の中にはこの案ではドッキングと分離を何度も必要とする点を懸念する者もいた。 月着陸の技術を習得するために、宇宙飛行士は月着陸研究船 (Lunar Landing Research Vehicle, LLRV) と呼ばれる機体で訓練を行なった。この機体は(特殊なジェットエンジンを用いて)月着陸船が飛行する際の弱い重力をシミュレートするものだった。 - 名無しさん 2009-07-17 02:10:02
- 背景 [編集] アポロ計画は元々、アイゼンハワー政権の末期にマーキュリー計画の後継として、より高度な有人地球軌道ミッションとして発案された。実際にはアポロ計画はジェミニ計画に続く3番目の有人ミッションとなった。ところが1961年5月25日に行なわれたアメリカ連邦議会特別両院合同会議の席上、ケネディ大統領の以下の声明によって、アポロ計画の目標は「1960年代中の月着陸」という挑戦的なものに劇的に再設定された。 "...I believe that this nation should commit itself to achieving the goal, before this decade is out, of landing a man on the Moon and returning him safely to the Earth. No single space project in this period will be more impressive to mankind, or more important in the long-range exploration of space; and none will be so difficult or expensive to accomplish..." (邦訳)「…私は、今後10年以内に人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させるという目標の達成に我が国の国民が取り組むべきであると考えている。この時代の宇宙長距離探査の分野で、人類にとってこれ以上に素晴らしく、これ以上に重要な宇宙計画はないだろう。またこれ以上に遂行が困難で費用のかかる計画もないだろう…」 その後ケネディは、アメリカ人を月に到達させるというアポロ計画のために220億ドル以上という巨額の予算を承認してくれるように議会に依頼し、この計画の推進によって大きな利益を得ることになる大手軍事産業のロビー活動の後押しもあり、これを無事に通過させることに成功した。 なお、アポロ計画をはじめとする宇宙開発競争は、宇宙空間における探検や冒険、研究といった側面ではなく、冷戦下においてソ連との間で宇宙空間の軍事的覇権を争うという側面が強く、アポロ計画をはじめとする宇宙開発競争が同じくケネディによって当時推進されていたベトナムへの軍事介入の拡大と併せて進んだ結果、マクドネル・ダグラスやノースロップ、ロッキードなどの大手軍事産業は大いに利益を得ることになった。 月到達プランの選択 [編集] 目標が月に決定すると、NASAのアポロ計画・ミッション立案者は、人命に対するリスクや費用、必要な技術や宇宙飛行士の技量を最小にして、ケネディが述べた目標を達成できる飛行計画を設計するという課題に挑戦することとなった。 検討の結果、以下の3通りの可能な案が考えられた。 直接到達 このプランでは宇宙船を直接月へ運ぶ。宇宙船全体を月面に着陸・帰還させる。これを実行するには、当時存在していたどのロケットよりも強力な新型ロケットが必要であった。 地球軌道ランデブー このプランは地球軌道ランデブー (Earth orbit rendezvous, EOR) と呼ばれた。2機のサターンV型ロケットを打ち上げ、片方は宇宙船を、もう片方が燃料を地球軌道上に運ぶというものである。宇宙船は地球軌道上でドッキングを行い、月までの往復に必要な燃料を得る。この場合にも宇宙船全体が月面に着陸する。当初、ヴェルナー・フォン・ブラウンが提案していた方式。なおオリオンによる有人月着陸計画はこちらの方式を採用予定である(着陸方式は月着陸船を使用)。 月軌道ランデブー この案では月軌道ランデブー (Lunar Orbit Rendezvous, LOR) の技術を用いる。ジョン・ホーボルト(John Houbolt)らによって考案され、この案が実際に採用された。宇宙船は司令・機械船 (Command/Service Module, CSM) と月着陸船 (Lunar Module, LM) と呼ばれるモジュールからなっている。機械船には乗員3名の月までの往復5日間の生命維持に必要なシステムが搭載され、司令船には地球大気への再突入の際の耐熱シールドが設けられている。月着陸船は月軌道上で司令・機械船と分離して2名の飛行士を月面に降下させ、その後再び司令・機械船に帰還させる。 アポロ月着陸船 月面の月着陸船(アポロ11号) 月面の月着陸船(アポロ11号) 概要 用途: 月着陸 乗員: 2名; 船長(CDR), 月着陸船(LM)パイロット 寸法 全高: 20.9 ft 6.37 m 直径: 14 ft 4.27 m 脚間距離: 29.75 ft 9.07 m 容積: 235 ft3 6.65 m3 重量 上昇モジュール: 10,024 lb 4,547 kg 下降モジュール: 22,375 lb 10,149 kg 計: 32,399 lb 14,696 kg ロケットエンジン LM RCS (N2O4/UDMH) x 16: 100 lbf ea 441 N 上昇推進系 (N2O4/エアロジン-50) x 1: 3,500 lbf ea 15.57 kN 下降推進系 (N2O4/エアロジン-50) x 1: 9,982 lbf ea 44.4 kN 性能 航続時間: 3 days 72 hours 遠月点: 100 miles 160 km 近月点: surface surface ΔV: 15,387 ft/s 4,690 m/s アポロ月着陸船 概念図 アポロ月着陸船 概念図 (NASA) アポロ月着陸船 概念図 (NASA) 製造:グラマン 月軌道ランデブー案では他の案と異なり、宇宙船の一部のみを月面に着陸させる。これにより帰還時に月面から打ち上げなければならない質量を最小化できる。この打ち上げる質量は、月着陸船の一部(着陸用降下エンジンを含む)を月面に残してくることでさらに小さくできる。 月着陸船自身は下降用ステージと上昇用ステージからなる。下降用ステージは、月面探査チームが月面を離れて月軌道へ戻る際には上昇用ステージの打ち上げ台として使われる。上昇ステージは月軌道上で、地球への帰還の前に司令・機械船とドッキングする。この案では月着陸船は最終的に放棄されるため、重量が非常に軽くて済み、サターンV型ロケット1機で月着陸ミッションを実現できるという利点がある。しかし月軌道ランデブー案が採用された際、ミッション計画者の中にはこの案ではドッキングと分離を何度も必要とする点を懸念する者もいた。 月着陸の技術を習得するために、宇宙飛行士は月着陸研究船 (Lunar Landing Research Vehicle, LLRV) と呼ばれる機体で訓練を行なった。この機体は(特殊なジェットエンジンを用いて)月着陸船が飛行する際の弱い重力をシミュレートするものだった。 計画全容 [編集] 飛行実績 [編集] アポロ計画では11回の有人飛行が行なわれ、アポロ7号からアポロ17号までの名称が付けられている。打上げは全てフロリダ州のケネディ宇宙センターで行なわれ、有人飛行の管制はテキサス州ヒューストン南端のジョンソン宇宙センターで行われた。アポロ4号からアポロ6号までは無人でのテスト飛行であった(公式にはアポロ2号とアポロ3号は存在しない)。アポロ1号の名称は最初の有人飛行として計画されていた飛行に対して遡って命名された。この飛行の乗員となっていた飛行士3名は1967年1月に発射台でのテスト中の火災によって死亡した。 アポロ計画最初の有人飛行はサターンIB型ロケットで行なわれた。これ以外の飛行は全てサターンV型ロケットが使われている。全飛行のうち2回(アポロ7号とアポロ9号)が地球周回軌道でのミッション、2回(アポロ8号とアポロ10号)が月周回軌道でのミッションで、残りの7回が月着陸ミッションであった(ただしそのうち、アポロ13号は事故のため着陸していない)。 アポロ7号は地球軌道上で司令船および機械船の試験を行なった。アポロ8号は月軌道で司令・機械船の試験を行なった。アポロ9号は地球軌道で月着陸船の試験を行なった。アポロ10号は月軌道で月着陸船の試験を行なった。 アポロ11号では初めて人間を月に着陸させることに成功した。"That's one small step for a man, one giant leap for mankind."(これは一人の人間には小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ。)は、月への第一歩を刻んだアポロ11号のニール・アームストロング船長の言葉である。このとき記念すべき第一歩を記したのは左足である。アポロ11号が着陸した「静かの海」には、鏡100枚で作られた一辺が約46cmのレーザー反射鏡が設置された。この反射鏡は地球から発射されたレーザーを反射させて地球と月の距離を測定するために利用されている。地球と月の距離は約38万kmであり、年に3.8cmずつ距離が増えているという。アポロ12号では計画通りの地点に正確に着陸することに初めて成功した。 アポロ13号は飛行中の爆発事故のために月着陸を行なうことができなかったが、乗員を安全に地球に帰還させることができた。この事故はトム・ハンクス主演『アポロ13』として映画化されている。 アポロ14号で月探査計画が再開され、アポロ15号では新たに長時間滞在用の月着陸船と月面車が使用された。アポロ14号が着陸した「フラ・マウロ高地」、アポロ15号が着陸した「雨の海/ハドリー谷」にもレーザー反射鏡が設置された。アポロ16号では初めて月面の高地に着陸した。最後のミッションとなったアポロ17号では、科学者を初めて飛行士として送り込み、また初めて夜間に打ち上げを行なった。 アポロ17号を最後に計画は打ち切られ、スカイラブ計画に移行したが、1975年に冷戦の雪解けを象徴する「アポロ・ソユーズテスト計画」においてアポロ宇宙船「アポロ18号」はふたたび軌道上を飛び、ソユーズ宇宙船とのドッキングをはじめ、長く宇宙開発の競争相手であったソ連との共同実験を行っている。 2号および3号 [編集] アポロ2号及び3号は欠番になっている。 アポロ計画初期、アポロと同じサターン1B型ロケットが2機打ち上げられ、非公式にそれぞれアポロ1号、アポロ2号と呼ばれていた。非公式1号は1966年2月26日、非公式2号は1966年8月25日に打ち上げられたが、どちらも無人だった。正式名称はそれぞれAS-201とAS-202である。 現在アポロ1号と呼ばれているミッションの正式名称はAS-204で、非公式にアポロ3号(もしくは4号)と呼ばれる予定になっていた。しかし、このロケットに乗り込む予定だった3人の宇宙飛行士は、最初の有人機である自分たちのロケットがアポロ1号と呼ばれるべきだと主張していた。この3名は1967年1月27日に地上訓練中の火災事故によって死亡した。事故後に彼らの遺族の要望によって、彼らが搭乗する予定だった飛行ミッションがアポロ1号と命名された。これを受けて、これ以前の無人ミッション AS-201 は「アポロ2号」、AS-202 は「アポロ3号」と非公式に呼ばれるようになった。しかし後にこれ以外のロケットがアポロ2号と呼ばれるなど混乱したため、これら2機については現在では正式名称のみで呼ばれ、アポロの名は付けられていない。詳しくはアポロ1号の項目も参照のこと。 - 名無しさん 2009-07-17 02:19:21
- てすてす - 名無しさん 2009-07-17 20:52:13
- 背景 [編集] アポロ計画は元々、アイゼンハワー政権の末期にマーキュリー計画の後継として、より高度な有人地球軌道ミッションとして発案された。実際にはアポロ計画はジェミニ計画に続く3番目の有人ミッションとなった。ところが1961年5月25日に行なわれたアメリカ連邦議会特別両院合同会議の席上、ケネディ大統領の以下の声明によって、アポロ計画の目標は「1960年代中の月着陸」という挑戦的なものに劇的に再設定された。 "...I believe that this nation should commit itself to achieving the goal, before this decade is out, of landing a man on the Moon and returning him safely to the Earth. No single space project in this period will be more impressive to mankind, or more important in the long-range exploration of space; and none will be so difficult or expensive to accomplish..." (邦訳)「…私は、今後10年以内に人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させるという目標の達成に我が国の国民が取り組むべきであると考えている。この時代の宇宙長距離探査の分野で、人類にとってこれ以上に素晴らしく、これ以上に重要な宇宙計画はないだろう。またこれ以上に遂行が困難で費用のかかる計画もないだろう…」 その後ケネディは、アメリカ人を月に到達させるというアポロ計画のために220億ドル以上という巨額の予算を承認してくれるように議会に依頼し、この計画の推進によって大きな利益を得ることになる大手軍事産業のロビー活動の後押しもあり、これを無事に通過させることに成功した。 なお、アポロ計画をはじめとする宇宙開発競争は、宇宙空間における探検や冒険、研究といった側面ではなく、冷戦下においてソ連との間で宇宙空間の軍事的覇権を争うという側面が強く、アポロ計画をはじめとする宇宙開発競争が同じくケネディによって当時推進されていたベトナムへの軍事介入の拡大と併せて進んだ結果、マクドネル・ダグラスやノースロップ、ロッキードなどの大手軍事産業は大いに利益を得ることになった。 月到達プランの選択 [編集] 目標が月に決定すると、NASAのアポロ計画・ミッション立案者は、人命に対するリスクや費用、必要な技術や宇宙飛行士の技量を最小にして、ケネディが述べた目標を達成できる飛行計画を設計するという課題に挑戦することとなった。 検討の結果、以下の3通りの可能な案が考えられた。 直接到達 このプランでは宇宙船を直接月へ運ぶ。宇宙船全体を月面に着陸・帰還させる。これを実行するには、当時存在していたどのロケットよりも強力な新型ロケットが必要であった。 地球軌道ランデブー このプランは地球軌道ランデブー (Earth orbit rendezvous, EOR) と呼ばれた。2機のサターンV型ロケットを打ち上げ、片方は宇宙船を、もう片方が燃料を地球軌道上に運ぶというものである。宇宙船は地球軌道上でドッキングを行い、月までの往復に必要な燃料を得る。この場合にも宇宙船全体が月面に着陸する。当初、ヴェルナー・フォン・ブラウンが提案していた方式。なおオリオンによる有人月着陸計画はこちらの方式を採用予定である(着陸方式は月着陸船を使用)。 月軌道ランデブー この案では月軌道ランデブー (Lunar Orbit Rendezvous, LOR) の技術を用いる。ジョン・ホーボルト(John Houbolt)らによって考案され、この案が実際に採用された。宇宙船は司令・機械船 (Command/Service Module, CSM) と月着陸船 (Lunar Module, LM) と呼ばれるモジュールからなっている。機械船には乗員3名の月までの往復5日間の生命維持に必要なシステムが搭載され、司令船には地球大気への再突入の際の耐熱シールドが設けられている。月着陸船は月軌道上で司令・機械船と分離して2名の飛行士を月面に降下させ、その後再び司令・機械船に帰還させる。 アポロ月着陸船 月面の月着陸船(アポロ11号) 月面の月着陸船(アポロ11号) 概要 用途: 月着陸 乗員: 2名; 船長(CDR), 月着陸船(LM)パイロット 寸法 全高: 20.9 ft 6.37 m 直径: 14 ft 4.27 m 脚間距離: 29.75 ft 9.07 m 容積: 235 ft3 6.65 m3 重量 上昇モジュール: 10,024 lb 4,547 kg 下降モジュール: 22,375 lb 10,149 kg 計: 32,399 lb 14,696 kg ロケットエンジン LM RCS (N2O4/UDMH) x 16: 100 lbf ea 441 N 上昇推進系 (N2O4/エアロジン-50) x 1: 3,500 lbf ea 15.57 kN 下降推進系 (N2O4/エアロジン-50) x 1: 9,982 lbf ea 44.4 kN 性能 航続時間: 3 days 72 hours 遠月点: 100 miles 160 km 近月点: surface surface ΔV: 15,387 ft/s 4,690 m/s アポロ月着陸船 概念図 アポロ月着陸船 概念図 (NASA) アポロ月着陸船 概念図 (NASA) 製造:グラマン 月軌道ランデブー案では他の案と異なり、宇宙船の一部のみを月面に着陸させる。これにより帰還時に月面から打ち上げなければならない質量を最小化できる。この打ち上げる質量は、月着陸船の一部(着陸用降下エンジンを含む)を月面に残してくることでさらに小さくできる。 月着陸船自身は下降用ステージと上昇用ステージからなる。下降用ステージは、月面探査チームが月面を離れて月軌道へ戻る際には上昇用ステージの打ち上げ台として使われる。上昇ステージは月軌道上で、地球への帰還の前に司令・機械船とドッキングする。この案では月着陸船は最終的に放棄されるため、重量が非常に軽くて済み、サターンV型ロケット1機で月着陸ミッションを実現できるという利点がある。しかし月軌道ランデブー案が採用された際、ミッション計画者の中にはこの案ではドッキングと分離を何度も必要とする点を懸念する者もいた。 月着陸の技術を習得するために、宇宙飛行士は月着陸研究船 (Lunar Landing Research Vehicle, LLRV) と呼ばれる機体で訓練を行なった。この機体は(特殊なジェットエンジンを用いて)月着陸船が飛行する際の弱い重力をシミュレートするものだった。 計画全容 [編集] 飛行実績 [編集] アポロ計画では11回の有人飛行が行なわれ、アポロ7号からアポロ17号までの名称が付けられている。打上げは全てフロリダ州のケネディ宇宙センターで行なわれ、有人飛行の管制はテキサス州ヒューストン南端のジョンソン宇宙センターで行われた。アポロ4号からアポロ6号までは無人でのテスト飛行であった(公式にはアポロ2号とアポロ3号は存在しない)。アポロ1号の名称は最初の有人飛行として計画されていた飛行に対して遡って命名された。この飛行の乗員となっていた飛行士3名は1967年1月に発射台でのテスト中の火災によって死亡した。 アポロ計画最初の有人飛行はサターンIB型ロケットで行なわれた。これ以外の飛行は全てサターンV型ロケットが使われている。全飛行のうち2回(アポロ7号とアポロ9号)が地球周回軌道でのミッション、2回(アポロ8号とアポロ10号)が月周回軌道でのミッションで、残りの7回が月着陸ミッションであった(ただしそのうち、アポロ13号は事故のため着陸していない)。 アポロ7号は地球軌道上で司令船および機械船の試験を行なった。アポロ8号は月軌道で司令・機械船の試験を行なった。アポロ9号は地球軌道で月着陸船の試験を行なった。アポロ10号は月軌道で月着陸船の試験を行なった。 アポロ11号では初めて人間を月に着陸させることに成功した。"That's one small step for a man, one giant leap for mankind."(これは一人の人間には小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ。)は、月への第一歩を刻んだアポロ11号のニール・アームストロング船長の言葉である。このとき記念すべき第一歩を記したのは左足である。アポロ11号が着陸した「静かの海」には、鏡100枚で作られた一辺が約46cmのレーザー反射鏡が設置された。この反射鏡は地球から発射されたレーザーを反射させて地球と月の距離を測定するために利用されている。地球と月の距離は約38万kmであり、年に3.8cmずつ距離が増えているという。アポロ12号では計画通りの地点に正確に着陸することに初めて成功した。 アポロ13号は飛行中の爆発事故のために月着陸を行なうことができなかったが、乗員を安全に地球に帰還させることができた。この事故はトム・ハンクス主演『アポロ13』として映画化されている。 アポロ14号で月探査計画が再開され、アポロ15号では新たに長時間滞在用の月着陸船と月面車が使用された。アポロ14号が着陸した「フラ・マウロ高地」、アポロ15号が着陸した「雨の海/ハドリー谷」にもレーザー反射鏡が設置された。アポロ16号では初めて月面の高地に着陸した。最後のミッションとなったアポロ17号では、科学者を初めて飛行士として送り込み、また初めて夜間に打ち上げを行なった。 アポロ17号を最後に計画は打ち切られ、スカイラブ計画に移行したが、1975年に冷戦の雪解けを象徴する「アポロ・ソユーズテスト計画」においてアポロ宇宙船「アポロ18号」はふたたび軌道上を飛び、ソユーズ宇宙船とのドッキングをはじめ、長く宇宙開発の競争相手であったソ連との共同実験を行っている。 2号および3号 [編集] アポロ2号及び3号は欠番になっている。 アポロ計画初期、アポロと同じサターン1B型ロケットが2機打ち上げられ、非公式にそれぞれアポロ1号、アポロ2号と呼ばれていた。非公式1号は1966年2月26日、非公式2号は1966年8月25日に打ち上げられたが、どちらも無人だった。正式名称はそれぞれAS-201とAS-202である。 現在アポロ1号と呼ばれているミッションの正式名称はAS-204で、非公式にアポロ3号(もしくは4号)と呼ばれる予定になっていた。しかし、このロケットに乗り込む予定だった3人の宇宙飛行士は、最初の有人機である自分たちのロケットがアポロ1号と呼ばれるべきだと主張していた。この3名は1967年1月27日に地上訓練中の火災事故によって死亡した。事故後に彼らの遺族の要望によって、彼らが搭乗する予定だった飛行ミッションがアポロ1号と命名された。これを受けて、これ以前の無人ミッション AS-201 は「アポロ2号」、AS-202 は「アポロ3号」と非公式に呼ばれるようになった。しかし後にこれ以外のロケットがアポロ2号と呼ばれるなど混乱したため、これら2機については現在では正式名称のみで呼ばれ、アポロの名は付けられていない。詳しくはアポロ1号の項目も参照のこと。 - 名無しさん 2009-07-17 02:19:21
- 目標が月に決定すると、NASAのアポロ計画・ミッション立案者は、人命に対するリスクや費用、必要な技術や宇宙飛行士の技量を最小にして、ケネディが述べた目標を達成できる飛行計画を設計するという課題に挑戦することとなった。 検討の結果、以下の3通りの可能な案が考えられた。 直接到達 このプランでは宇宙船を直接月へ運ぶ。宇宙船全体を月面に着陸・帰還させる。これを実行するには、当時存在していたどのロケットよりも強力な新型ロケットが必要であった。 地球軌道ランデブー このプランは地球軌道ランデブー (Earth orbit rendezvous, EOR) と呼ばれた。2機のサターンV型ロケットを打ち上げ、片方は宇宙船を、もう片方が燃料を地球軌道上に運ぶというものである。宇宙船は地球軌道上でドッキングを行い、月までの往復に必要な燃料を得る。この場合にも宇宙船全体が月面に着陸する。当初、ヴェルナー・フォン・ブラウンが提案していた方式。なおオリオンによる有人月着陸計画はこちらの方式を採用予定である(着陸方式は月着陸船を使用)。 月軌道ランデブー この案では月軌道ランデブー (Lunar Orbit Rendezvous, LOR) の技術を用いる。ジョン・ホーボルト(John Houbolt)らによって考案され、この案が実際に採用された。宇宙船は司令・機械船 (Command/Service Module, CSM) と月着陸船 (Lunar Module, LM) と呼ばれるモジュールからなっている。機械船には乗員3名の月までの往復5日間の生命維持に必要なシステムが搭載され、司令船には地球大気への再突入の際の耐熱シールドが設けられている。月着陸船は月軌道上で司令・機械船と分離して2名の飛行士を月面に降下させ、その後再び司令・機械船に帰還させる。 アポロ月着陸船 月面の月着陸船(アポロ11号) 月面の月着陸船(アポロ11号) 概要 用途: 月着陸 乗員: 2名; 船長(CDR), 月着陸船(LM)パイロット 寸法 全高: 20.9 ft 6.37 m 直径: 14 ft 4.27 m 脚間距離: 29.75 ft 9.07 m 容積: 235 ft3 6.65 m3 重量 上昇モジュール: 10,024 lb 4,547 kg 下降モジュール: 22,375 lb 10,149 kg 計: 32,399 lb 14,696 kg ロケットエンジン LM RCS (N2O4/UDMH) x 16: 100 lbf ea 441 N 上昇推進系 (N2O4/エアロジン-50) x 1: 3,500 lbf ea 15.57 kN 下降推進系 (N2O4/エアロジン-50) x 1: 9,982 lbf ea 44.4 kN 性能 航続時間: 3 days 72 hours 遠月点: 100 miles 160 km 近月点: surface surface ΔV: 15,387 ft/s 4,690 m/s アポロ月着陸船 概念図 アポロ月着陸船 概念図 (NASA) アポロ月着陸船 概念図 (NASA) 製造:グラマン 月軌道ランデブー案では他の案と異なり、宇宙船の一部のみを月面に着陸させる。これにより帰還時に月面から打ち上げなければならない質量を最小化できる。この打ち上げる質量は、月着陸船の一部(着陸用降下エンジンを含む)を月面に残してくることでさらに小さくできる。 月着陸船自身は下降用ステージと上昇用ステージからなる。下降用ステージは、月面探査チームが月面を離れて月軌道へ戻る際には上昇用ステージの打ち上げ台として使われる。上昇ステージは月軌道上で、地球への帰還の前に司令・機械船とドッキングする。この案では月着陸船は最終的に放棄されるため、重量が非常に軽くて済み、サターンV型ロケット1機で月着陸ミッションを実現できるという利点がある。しかし月軌道ランデブー案が採用された際、ミッション計画者の中にはこの案ではドッキングと分離を何度も必要とする点を懸念する者もいた。 月着陸の技術を習得するために、宇宙飛行士は月着陸研究船 (Lunar Landing Research Vehicle, LLRV) と呼ばれる機体で訓練を行なった。この機体は(特殊なジェットエンジンを用いて)月着陸船が飛行する際の弱い重力をシミュレートするものだった。 - 名無しさん 2009-07-17 02:10:02