映画 『処刑人』 The Boondock Saints @ wiki

『処刑人』実録: History Behind

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『処刑人』 実録: History Behind


※こちらの『処刑人』実録は『処刑人II』の公式パンフレットに掲載されました。

映画 『処刑人』 The Boondock Saints の誕生秘話、制作背景など、作品にまつわるバックグラウンド・ストーリー/ヒストリーを記録、完成させましょう。
叩き台として脚本執筆からDVDリリースに至るまでの背景をこれまでに発表された関係者のインタビューやオフィシャルな情報等を元に再構成してみました。


1997年3月末、ウェストハリウッドはメルローズ・アヴェニューのスポーツ・バー J. Sloan's でバーテンダー兼用心棒として働く弱冠25歳のトロイ・ダフィーが生まれて初めて執筆した映画脚本、題して "The Boondock Saints (邦題『処刑人』)" が10大映画会社のひとつ Miramax Films によって30万ドルとも45万ドルとも言われる値が付けられ、映画化に際し1,500万ドルの制作予算が準備されると共に脚本家本人がメガホンを取るというセンセーショナルなニュースが全米を駆け巡った。同時に、彼のバンド "The Brood" がサウンドトラックを担当し Maverick Records と契約、果ては Miramax の会長であるハーヴェイ・ワインスタインがトロイの働く J. Sloan's を買収し彼に共同経営権を与えることまで検討していると報じられた。

1971年、コネチカット州ハートフォードでハーバード大卒の高校英語教師の父と秘書として働く母の間に生まれ、ニューハンプシャー州エクセターで育ったトロイは、18歳で入学したコロラド州立大学の医学部進学課程を1年半で中退し、1993年にミュージシャンへの道を求めて最初の妻リサ・マリー (注1) と共にロサンゼルスへと移り住んでいた。昼間はカフェで、夜は20/20というトップレス・クラブでスナック調理係として働きながら、同僚のバーテンダー、クリス・ブリンカー(通称 "C.B.") (注2) の助けを借りてバンド・メンバーを探す毎日であったが、適した人材は全く見つからずじまい。間もなく20/20が閉店すると、トロイは J. Sloan's で用心棒の職に就く。

やがて1歳半違いの弟テイラーがロサンゼルスにやって来ると、兄と共に J. Sloan's で働き始め、兄弟は一緒に音楽活動をすることを決意する。二人は貧乏だったため、警察すら放置するハリウッドの吹きだまりで、ゴキブリが群らがり、売春婦やらポン引きやらドラッグ・ディーラーなどに日常的に遭遇するようなクラック・ハウス(ドラッグが取引されるような廃屋)と化したアパートメントに住み、貧しさとフラストレーションに喘ぎながら『こんな所は嫌だ』と兄弟でよく愚痴を言い合っていたという。脚本のアイディアが浮かんだのはそんな場所であった。

その元となったエピソードのひとつとして、映画撮影終了直後の1998年のインタビューの中で、彼は1996年のある夜、仕事から帰宅すると、廊下を隔てた向かいのヘロイン・ディーラーの部屋から女性の遺体が台車で担ぎ出されるところを目撃したと明かしている:

“女の片脚は横にだらりと投げ出されていて、アーミー・ブーツを履いていた。ヘロイン野郎が『そのクソ女が俺のカネを取りやがったんだ!』と言いながら走って部屋から出て来ると、手を振り下ろし女のブーツを真下へと思い切り叩きつけた。女はもう死後数日経っていたな。”
“全くのフラストレーションそのものから、それに心理学者に診てもらう余裕なんてないから (注3)、俺自身がこれを書こうと正にそこで決意したんだ。考えても見ろよ、ニュースを見ているとそこに映っている光景にぞっとすることだってあるだろ。スーザン・スミスが自分の子供達を自らの手で溺死させたり (注4)、マクドナルドに入った男達が店中に火を放ったり。マザー・テレサですら我慢の限界だと思うほど沢山の胸クソ悪くなるような事件を聞くだろ”(注5)

また、2000年10月に東京ファンタスティック映画祭での上映に合わせて来日した時のインタビューではこう語っている:

“俺が育ったサウスボストンは最悪の場所だった (注6)。 みんなが貧乏で犯罪は日常茶飯事、悪い奴らの巣窟だった。俺はいつも弟のテイラーと行動を共にしながら生き延びてきたけど、いつも誰かが奴らを退治してくれないかと思っていた。だから、俺はそれを武器じゃなくてペンと映画で実行したんだ”(注7)

かくしてトロイは友人から映画脚本の書き方について手本を見せてもらうと、自らがその目で見て感じ取った嫌悪感を、その頃までにバーテンダーへと昇格していた J. Sloan's の勤務中にノートに書き殴っては後で借り物のPCに入力して行った。やがて脚本の主題は犯罪に対する世間の善良な人々の無関心と法で裁けぬ悪人を神への信仰を胸に退治する自警団~処刑人~の物語へと集約されて行く。

後に親友となり、映画に準主役として出演することにもなったデイヴィッド・デラ・ロッコと知り合ったのは脚本執筆中のことであったようだ。ある日、 J. Sloan's の新マネージャーとして店にやって来たのが、オレゴンの大学で20世紀アメリカ文学の学位を取得した後、役者になるためロサンゼルスで演劇を勉強、舞台経験もあるというロッコで、ダフィー兄弟はすぐに彼の人柄を認め、彼の勤務初日だというのに閉店後も朝までみんなで飲み明かしたという。音楽活動の方では無事残りのメンバーも決まり、4年目にしてようやく念願の自分のバンド The Brood が始動、一軒家を借りての練習も始めた。

約3ヶ月後、1996年秋に脚本が完成したちょうどその頃、トロイはC.B.とおよそ2年ぶりに再会する。奇遇にもC.B.は今や New Line Cinema の重役アシスタントとなっており、彼の尽力によりトロイの脚本がハリウッドの映画界に持ち込まれ、関係者たちの閲覧に供されることとなった。反響は凄まじく、間もなく第2のタランティーノ獲得を目論むハリウッドの幹部連中が続々と J. Sloan's を訪れ、この執筆活動など今まで一度も行った経験などない全く無名のバーテンダーによる初脚本に対し、映画化権争奪戦の幕が切って落とされた。10月、トロイは早々にC.B.、The Brood のメンバー、後にドキュメンタリー映画 "Overnight" を制作・公開するマーク・ブライアン・スミスとトニー・モンタナの仲間6人と共に自らの映画・音楽制作のためのプロダクション "The Syndicate" を設立(映画では "The Brood Syndicate" とクレジット)。また、翌1997年2月には交渉の仲介役およびバンドのマネージメント先として William Morris Agency と契約を結ぶ。

映画化権に関しては、New Line Cinema、Sony Pictures、Paramount Pictures等が名乗りを上げ6桁の額を提示したが、トロイはなかなか首を縦に振らず、一足先にまだ全くの未筆で内容すら決まっていない次回2作分に対し Paramount が50万ドルで買い取るという青田買い交渉が1997年3月中旬にまとまった。そしてアカデミー賞授賞式の翌日、3月25日、授賞式出席のためハリウッドを訪れていた Miramax のハーヴェイ・ワインスタインが直々に J. Sloan's を訪れトロイに面会。J. Sloan's を買い取った上で共同経営権譲渡、自分を監督とすること、最終的なキャスティング決定権、それに自分のバンドにサウンドトラックを担当させること、以上の条件をトロイはワインスタインに飲ませ、『処刑人』の映画化案に合意した。

一大センセーションを巻き起こし、一夜にして一介のバーテンダーから一転、ハリウッド・セレブの仲間入りを果たしたと思われたトロイであったが、それも実質僅か6週間程度のことであった。彼と Miramax 間の映画制作交渉は一向に最終合意には至らず、そのうちワインスタインは彼との直接コンタクトを一切拒絶。それから半年が経過した1997年11月、Miramax は William Morris を通じて映画制作のキャンセルを通告して来た。それと共に、The Brood のデビューの話 (注8) も J. Sloan's の買収の話も立ち消えに。当時、Miramax がキャストとしてブラッド・ピット、ビル・マーレイ、シルヴェスター・スタローン、マイク・マイヤーズ、ジョン・ボン・ジョヴィ等を推したことに対してトロイがことごとく反発、それにも関わらず自分では俳優をなかなか確保することが出来ずにいる現状に Miramax がとうとう業を煮やしたのではないかと報じられた。

キャスティングについては、自らもアイリッシュの血筋を受け継ぐトロイは、当初マクマナス兄弟役に本物のアイルランド系もしくはスコットランド系のケルト系バックグラウンドを持つ俳優にあくまでも固執しており、彼にとってはブラッド・ピットのように単にアイリッシュ訛りを模倣して見せただけの俳優は受け入れ難かった (注9)。そこでまずユアン・マクレガーに目を付けたトロイであったが、最初は『ビールを何杯か飲んで酔っ払いながら話し合えば、スコティッシュとアイリッシュの恋愛情事に発展してあっという間に契約成立さ』と冗談交じりに語るほど非常に楽観的に考えていた。ところが、ワインスタインのお膳立てで1997年5月にニューヨークへ飛び、いざ出演交渉となると、ビジネスに対してプロフェッショナルな態度で臨むユアンはそもそもミーティングでアルコールを口にする気などさらさらなく、しまいには二人で死刑制度について口論になる始末。トロイの目論見は物の見事に失敗に終わり、後で散々な目に遭った (注10)。次に、ブレンダン・フレイザーは J. Sloan's でゲール語の詩まで朗読してくれたが、スケジュールで折り合いが付かなかった。また、スメッカー捜査官役として出演を許諾したパトリック・スウェイジーは Miramax に拒否された (注11)。続いて、1997年の夏には Miramax を説得するため、自分が新たにマクマナス兄弟役に推すショーン・パトリック・フラナリーとノーマン・リーダスを使ってのスクリーン・テスト用ショート・フィルムまで自費制作していたのたが……。(注12)

Miramax との交渉決裂後、かつて映画化権を巡って同社とあれほど争っていた大手は今回は打って変ってどこも関心を示さず、インディー系制作会社の Franchise Pictures が Miramax の半分以下の700万ドルの制作予算でアプローチして来ると、トロイはそれを受け入れた。パトリック・スウェイジーに代わるスメッカー役として、1998年4月にSOHOでの前衛舞台を見に行った際に気に入ったウィレム・デフォーとの出演交渉も見事成功。映画はようやく1998年8月10日にカナダのトロントでクランクイン、その後ボストンにて撮影を行い、9月26日にクランクアップ。実質撮影日数は32日間であった。

音楽には、カナダ人映画音楽作曲家のジェフ・ダナを起用。彼はそれまでに2枚のケルト音楽をテーマにしたアルバムを発表しており、自身もケルト音楽に傾倒し映画のテーマに合った楽曲を物色していたトロイがそれを聞いて気に入り、アプローチを掛けていたのだった。だが、トロイのバンド The Brood は結局サウンドトラックには2曲を提供するのみとなった (注13)

その The Brood は、Atlantic Records 傘下の Lava Records と契約がまとまり、映画完成後の1999年冬に元 Steely Dan ~ Doobie Brothers のジェフ・バクスターのプロデュースによりフル・アルバムのレコーディングを開始する。ところが、既に1992年にレコード・デビューを果たしていた同名のガールズ・バンドがいることが判明したために改名せざるを得ず、映画と同名の "The Boondock Saints" 名義でアルバムをリリースすることになる。

肝心の映画の方は、翌1999年4月末に完成。すぐさま5月にカンヌ国際映画祭のマーケット・プレイスに出品し作品をプロモートしたものの、完成2日前の4月20日に起きたコロンバイン高校銃乱射事件に起因する暴力映像への反発とトレンチコート・マフィアと呼ばれた犯人の少年達を連想させるマクマナス兄弟の出で立ちに配給会社は難色を示し、米国側配給会社との交渉はその時点では結局まとまらなかった (注14)。しかして、8月4日にドイツのミュンヘンにて行われたファンタジー映画祭で大トリを飾った上映がワールド・プレミアとなる (注15)。次いで、世界に先駆けデンマークで11月19日に一般上映が開始されたが、観客動員数は5,000人程度に止まった。

本国アメリカでは2000年1月にパームスプリングス国際映画祭で上映されるも何ら賞を得ることはなく、サンダンス映画祭では出品すら拒否される。一般上映では、トロイが一部自腹を切るという条件で新興の Indican Pictures を説得し (注16)、何とかニューヨーク、ロサンゼルス、ボストンの3都市5館、1月21日から2月4日までのトータル2週間(2週目は2館のみ)の上映にこぎ着けた。この間の興業収入は僅か3万ドルに過ぎなかった。

2000年4月にリリースされた(The Brood改め)"The Boondock Saints" の初アルバム "Release The Hounds" は半年で690枚しか売れず、バンドは短期間南部のクラブを廻るツアーに出たが、レーベルから解雇通告を受け、程なくして解散。トロイのプロダクション The Brood Syndicate は内紛を起こし、仲違いしたマーク・ブライアン・スミスとトニー・モンタナは4年後にトロイの栄枯盛衰の模様を綴ったドキュメンタリー映画 "Overnight" を公開する (注17)

さて、映画『処刑人』もトロイ本人もここで命運共に完全に尽き果てたと業界関係者が思っていたであろうその矢先、2000年2月1日に米大手ビデオ小売/レンタル・チェーン Blockbuster との直接契約によりビデオの独占販売およびレンタルが開始されると、口コミで徐々に人気が広まり、遂には同社がそれまでに自社リリースしたインディー映画タイトルの総売上げ記録を塗り替えるベストセラーとなった。続いて販売権を得た Fox によりDVDが2002年5月にリリースされるや否や、こちらも上映から既に丸2年以上が経過しているにも関わらず大ヒットとなり、例えば Amazon.com でのセールス・ランキングでは一時期『ハリー・ポッターと賢者の石』に続き2位を記録。この通常版のDVDは、2006年5月にスペシャル・エディションがリリースされるまでに総売上が3,000万ドルに上ったと言われる (注18)

このように好調なDVDの売れ行きがFoxを遂に突き動かし、新たにデジタル・リマスターされた未検閲のアンレイティッド版がトロイの特別メッセージ映像も添えて、2006年5月22日、一日だけの限定公開ではあったが、全米130のスクリーンで上映され、翌23日にはそれを元にした上述の2枚組スペシャル・エディションDVDがリリース。続いて翌6月、Fox は続編への資金提供の意向を明らかにした (注19)

タランティーノ気取りのなりきり屋素人監督と揶揄され、一夜にして得た栄光とその後の挫折という面白おかしく語られるトロイに対するゴシップ的逸話は既に過去の物となり、このような上映終了後におけるあくまでも口コミによる草の根的人気拡大とファンによって熱狂的に支えられ続けたカルト的ヒット作という点で、『処刑人』は米国では今や伝説的な作品として語られるまでに至った。



なお、その後の海外での興業はインディー映画としては概ね好調な部類で、特にスペインでは2000年9月22日に95館で一般公開され、その週の興行収入ランキングで初登場10位(18万ドル)、のべ3週間の上映期間で計22万ドルの興行収入、6万3,000人の観客動員数を得た。

日本ではまず同年10月29日に東京ファンタスティック映画祭においてプレミア上映されたが、トロイはこの時のことを映画祭巡りのハイライトとして感動を込めてこう語っている:

“友達のアパートの床の上に寝転がって眠っていると東京から電話が掛かってきたんだ。まるで東京という街そのものが受話器を取って話し掛けているかのようだったよ。リムジンが迎えに来て、ファースト・クラスに乗せられて東京まで飛んで行った。俺たちは高層ホテルに泊まったんだけど、エレベーターで上って行く途中、ホテル前の通りを挟んだ向かいに超巨大なスクリーンが見えて、そこに『処刑人』の予告編が映し出されていたんだよ。上映会場では2,000人のファンが歓声を上げてスタンディング・オベーションをしてくれたんだ”(注20)

翌2001年2月18日に一般上映が開始されると、その週の観客動員数ランキングで初登場8位、その後計3週にわたりトップ10圏内にランク・イン(東京地区・興行通信社調べ…実数不明)。DVDは翌2002年6月8日に発売、その週のセルDVD売上げランキングでは初登場5位であった(ツタヤ調べ…実数不明)。



[注1] 彼女はトロイと既に1996年に正式離婚していたが、映画エンディングの街頭インタビューのシーンに出演し、その後も関係は良好であったことが窺える。1997年のインタビュー記事によるとトロイは彼女との復縁を希望していた。
[注2] 現在もトロイの盟友で、映画では共同プロデューサーの一人。映画にもカメオ出演し、殺し屋の離れでボトル片手に呆然としているところを撃たれ、コナーにトドメを刺される役を演じている。また、日本版DVDでトロイと共にコメンタリーも務めている
[注3] UGOとのインタビューでは『脚本はセラピーとして書いたようなもんだ』とも述べている。
[注4] 1994年サウスカロライナ州で起きた23歳の母親が実の息子二人を殺害した狂言誘拐殺人事件のこと。
[注5] Boston Phoenix トロイ・ダフィーのインタビューより引用
[注6] トロイ自身が実際にボストンに居住していた事実はないが、コネチカット~ニューハンプシャー時代にはニューイングランド地方の中心都市ということでボストンにはよく訪れていたと思われる。attrition.orgのインタビューでは『ボストンは色んな意味で俺の故郷だ』と述べている。
[注7] 『処刑人心得』~処刑人プロモーションディスク~収録のトロイ・ダフィーのインタビューより引用
[注8] Maverickとの契約書にサインする前日に交渉が一方的に破棄された。トロイ自身は同社のビルに入館しようとしたところを門前払いされ、その事実を知ったという。
[注9] ブラッド・ピットは1997年の『デビル』でIRA工作員の役を演じていた。そのアイリッシュ訛りは2000年の『スナッチ』でより完成されたものになり、生粋のアイルランド人も絶賛するほどであった。
[注10] トニー・モンタナによると、ユアンとの交渉決裂直後、トロイは素行が酷くなり、飲酒運転で二度も告発された挙げ句、週末の間拘置所で過ごす羽目になったらしい。
[注11] その他、トロイが出演交渉および面談をしていた俳優には、マーク・ウォールバーグ、ニッキー・キャット、スティーブン・ドーフ、ビリー・ゼイン、ヴィンセント・ドノフリオ、マシュー・モディーン、ジェフ・ゴールドブラム、ジェイク・ビジー、ジョン・グッドマン等がいた。
[注12] 既に閉鎖されている旧公式サイトによると、スクリーン・テストはMiramaxとの交渉決裂後である1998年2月撮影とされている。この場合だと、Miramaxに代わる新たなスポンサー探しの意味合いを含んだショート・フィルム制作であった可能性もある。
[注13] サウンドトラックに関しては、映画のエンド・ロールで挿入曲のクレジットが間違っていたり、The Broodの"Pipes"がクレジットされていないなど、ポストプロダクションの過程で多少の混乱があったと思われる。
[注14] 一部の業界関係者の間では、配給会社はMiramaxの顔色を窺うあまり本作品を事前にブラックリスト入りさせていたとも噂されている。対して、トロイ自身はあくまでコロンバイン事件の影響でブラックリスト入りされたとインタビューや映画のコメンタリーで力説している。
[注15] 1999年度ファンタジー映画祭のプログラムとして、その他フランクフルト(8月11日)等、全6都市で上映されたが、その後ドイツでは全国規模での一般公開は行われなかった。
[注16] 実際Indicanにとっては『処刑人』が初の配給作品であった。
[注17] ドキュメンタリー自体はトロイの発案で映画制作過程を捉えるメイキング的なものになるはずであったという説もあるが、トロイ自身は後に E! Entertainment Television のドキュメンタリー番組 "Boulevard of Broken Dreams" で、マークとトニーがアイディアを出したと語っている。
ノーマン・リーダス曰く、『彼らはあのドキュメンタリーについては卑怯だったね。サンタクロースのホーム・ビデオを撮ってそれなりに編集すれば、サンタを悪魔に見せることだって出来るさ』(SuicideGirlsのインタビューより引用)とトロイを意図的に悪者に見せかける編集がなされている可能性を示唆している。
なお、マーク・ブライアン・スミスとトニー・モンタナは両名とも『処刑人』エンディングの街頭インタビューのシーンに出演している。
[注18] 但し、トロイ自身はビデオ・DVD・国外興業での売上げから一銭もロイヤリティを得ていない。その理由についてトロイ自身は自らの口で具体的に明かしたことはないが、ドキュメンタリー"Overnight"によると、仲介役を務めたWilliam Morrisの怠慢により、トロイ側と映画を制作したFranchise/エリー・サマハ側との間で映像ソフト化および国外頒布に関してトロイ側にきちんと利益配分される形での契約を締結していなかったためであるらしい。
[注19] トロイは映画の所有権を保有するFranchiseの元オーナー、エリー・サマハと長らく裁判で争っているが(具体的訴訟内容については明らかにされていない)、その中でサマハ側が続編制作権も権利の一部として主張していたらしく、それも裁判の争点となっていた。2006年にFoxからリリースされたスペシャル・エディションのDVDでトロイのコメンタリーが2002年の通常版の使い回しであったのは、このような状況下で新規にコメンタリーを商品に吹き込むのは得策ではないとのトロイ側弁護士の判断による(但し、それ以外でトロイはFoxのために最大限協力したとのこと)。2007年1月のラジオ・インタビューによると、最近になって続編への権利は当該訴訟案件の対象外として分離されたため、彼はようやく続編プロジェクトに本格的に着手出来るようになったようである。但し、2007年5月現在、Foxとの契約書に正式にサインしたというニュースは未だ聞かれない。
[注20] Ain't It Cool NewsおよびMovieFreaks.comのトロイ・ダフィーのコメントから再構成
[注20追記2010/09/06]2010/05/22の新宿武蔵野館公開初日初回上映・江戸木純氏ミニトークショーにて江戸木氏によると、リムジン・ファーストクラスはトロイの大げさな表現とのこと。


[参考文献]
  • トロイ・ダフィー バイオグラフィー(旧公式サイト)
  • デイヴィッド・デラ・ロッコ バイオグラフィー(旧公式サイト)
  • 映画『処刑人』パンフレット トロイ・ダフィー インタビュー
  • 映画『処刑人』The Boondock Saints コメンタリー、キャスト・バイオグラフィー、ノーマン・リーダス インタビュー
  • 『処刑人心得』~『処刑人』プロモーションディスク
  • ドキュメンタリー映画 "Overnight"(監督:マーク・ブライアン・スミス & トニー・モンタナ)
  • ドキュメンタリーTV番組 E! Entertainment Television "Boulevard of Broken Dreams" Episode 7 トロイ・ダフィー特集(2007/03/03 初回放送)

  • Washington Post … トロイ・ダフィー インタビュー
  • Washington Post … トロイ・ダフィー インタビュー
  • Boston Phoenix … トロイ・ダフィー インタビュー
  • attrition.org … トロイ・ダフィー インタビュー
  • Ain't It Cool News … トロイ・ダフィー インタビュー
  • UGO … トロイ・ダフィー インタビュー
  • IGN … トロイ・ダフィー インタビュー
  • MovieFreaks.com … トロイ・ダフィー コメント

  • MCN … マーク・ブライアン・スミス & トニー・モンタナ インタビュー
  • Los Angeles CityBeat … マーク・ブライアン・スミス & トニー・モンタナ インタビュー
  • Film Freak Central … マーク・ブライアン・スミス インタビュー
  • IGN … トニー・モンタナ コメント
  • Film Ireland … トニー・モンタナ コメント

  • SuicideGirls … ノーマン・リーダス インタビュー

  • Variety … 『処刑人』続編に関するニュース

  • IMDb … 『処刑人』ムービー・データ
  • Yahoo! Movies … 『処刑人』ムービー・データ
  • Variety … 『処刑人』興行収入データ(アメリカ、スペイン)
  • Lumiere … 『処刑人』観客動員数データ(デンマーク、スペイン、イタリア、ポーランド、トルコ各国、およびEU圏内総合)
  • エイガ・ドット・コム … 2001年2月20日国内ボックスオフィス速報(日本)
  • ファミ通.com … 2001年6月14日週間セルDVDランキング(日本)



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