優希はコンプレックスを持っていた。
それは男と思われることがある名前だったり、薄い胸だったり、癖が強くて伸ばしにくい髪だったり、太目の眉毛だったり…。
だが、それ単体ならそれほどのコンプレックスにはならなかったろう。直接的な理由、それは彼女の想い人の行動にあった。
「ん、今日も女装か、ユーキ?」
「だから女だ」
朝の通学路で、無表情なメガネの男に優希が言い返す。
男の名前は薫。優希の幼馴染で、180近い長身は、150少々の優希からは見上げるような位置にある顔は、女性的といっていいほど整っていた。ただしその綺麗な顔は能面のように無表情だった。
薫は無表情かつ平坦なハスキーボイスのままで、器用にも驚いた風な演出をしてみせる。
「なんと!私は十年以上も騙され続けてきたのか?」
「うっさいな、オカマの癖に!」
「心外だな。私は女体の神秘を妄想して嗜むのが常の健全な高校一年男子だが?」
「そういうエロいことばっかり言わない!このムッツリスケベ!」
「それは違う。ムッツリスケベは黙って卑猥な事を考え、指摘されると否定する奴の事だ。その点私はオープンだが?
大体、君も男の端くれなら、つまらない授業中などはエロイ妄想を一人で嗜むくらいするだろう?」
「しない!つか、僕は女の子だよ!」
「偽証は罪だぞ、ユーキ。そんな真っ平らな胸の高校生など詐欺げぶっ!?」
「死んじゃえド変態!」
結局、切れた優希のコブシが薫を黙らせるというのが、いつもの落ちだ。
この十年以上ネタを微妙に変えたり繰り返したりしながら続けてきた毎朝の遣り取りだ。
(毎朝、よく飽きないよね。薫も僕も…)
言い合いに一区切り付いてから、優希はため息混じりに思う。
横斜め上を見れば、一歩半ほどの距離に、無表情な幼馴染の顔がある。いつもの取り立てて感情を読み取れない無表情。
それを見て、優希は暖かい気持ちと、そして僅かな痛みを得る。
暖かさの理由は、愛おしさだ。
(やっぱり、僕…好きなんだな…)
自覚したのは、薫の身長が急激に伸び始めた中学二年の頃だった。何気なく話しかけて、自分より背が低いと思っていた薫の目線がいつの間にか自分より上にあるのを自覚した時、初めて薫が異性である事を、そして自分が女性である事を感じた。
惹かれたのはいつかはわからないが、自覚したのはその瞬間だった。そして、それは同時に優希のコンプレックスが確定した瞬間でもあった。
(薫は男らしくなってるのに…僕はまだコレだもんね…)
昔確実に女の子と間違えられていた薫は、今ではそんな事もなくなってきた。普通と比べて骨格は細めだが背も高ければ肩幅も広く、男性的な姿だ。ブレザー姿もよく似合う。
しかしそれに引き換え自分はどうだ?
慎重は小学校の頃から数センチ伸びただけ。スリム、というより貧相な肉付きの体。女らしさなど欠片もない。
(……薫がこんな言い合いに付き合ってくれるってことは…やっぱり異性としてみてくれてないんだよね…)
毎朝、好きな人と気兼ねなく話せるこは掛け値なく嬉しい。だが、その気安さが異性として見られていない故だと思うと、僅かに胸の奥が疼く。
(もし…僕が女の子らしい格好をしたら…)
例えば髪を伸ばしたり、アクセサリーをつけたり、『僕』ではなく『私』といってみたり…
(ううん。駄目だよね。似合わないもん)
そんなの、失笑を買うだけだ。それに万が一、変に異性と意識されて距離を置かれたらと思うと…。
(そんなの…嫌だよ)
今の一歩半の距離感は居心地がいい。時々発作的に襲ってくる、僅かな胸の痛みさえ無視すれば、ずっとこのままでも良いと思える。
彼女が一人称を僕から直さないのも、言動や格好が全体的にボーイッシュなのも、それが理由だ。
異性として見られて、二人の距離が二歩分になってしまうのが怖い。だから、あえてオトコっぽく振舞って、今の気の置けない友達という距離をキープしている。
(もう少し…せめてもうちょっと胸が大きくなってから…)
さっきも薫に指摘された真っ平らな胸。
厳密に言えば平らではない。しっかりAでは小さくBでは大きいといった微妙なサイズではあるが確かに実在する。
だがそんな些細な膨らみなど、身長が伸びることを(希望的観測で)見越して買ったサイズ大き目のブレザーの布地に埋もれて、あってなきが如し。
巨乳じゃなくてもいい。せめて…せめて服の上からしっかり確認できる程度になってから…そいしたら…
「ユーキ!」
「へっ?」
不意に、薫の声が飛んだ。思考の海から這い出してみると、目の前にすぐに自転車。
ぶつかる。衝撃への恐怖に体を竦める優希。しかし、ぶつかる直前、彼女の体は横からさらわれた。
「――?」
いきなり事態に優希の思考が止まる。目に見える風景がぶれた後、体が暖かくしっかりとした何かに受け止められた。
視界の半分はブレザーの布に埋もれ、半分で止まった自転車が見えた。
「気をつけてくれ。こちらもぼうっとしていたのは認めるがね」
声は、すぐ耳元で聞こえた。
聞きなれた薫の声。そして、優希は自覚する。
自分は…薫に、抱き絞められている。
「あ、ああ。すみません」
自転車に乗っていた学生服の少年(たぶん中学生)は言葉少なげに謝ってから、自転車をこぎ出した。
だが、自分とぶつかりそうになった優希は、そんな少年など既に意識から吹っ飛んでいた。頭の中をめぐるのは、布越しに伝わる薫の体温だけで…
「…大丈夫か?」
「っ?」
めずらしく、本当に心配そうな感情が読み取れる薫の声に、優希は我に帰る。そしてはじかれた様に薫の胸の中から飛びのいた。
「だ、大丈夫!僕、怪我してないから!」
「そうか?」
「ほ、本当だよ!っていうか何ドサクサにまぎれて抱きしめてんだよ!」
照れ隠しに、自分でも言いがかりだと解るようなことを言う。
それに対して、薫は少し考えるような沈黙をはさんでから…
「……ずいぶんと酷いことを言うんだな」
「え?」
「私は…君を助けようとした。抱きしめたのはその過程で仕方なくしたに過ぎない。」
いつもの無表情で語られる言葉に、優希は二重の意味で震えた。
理由の一つは仕方ないという言葉が示す、自分を異性として見ていないという証拠。
そしてもう一つは、自分の照れ隠しが薫の感情を傷つけたという事実。
(違うって…照れ隠しだって言わなきゃ)
思考があせるばかりで言葉が出ない優希より早く、薫はこう続けた。
「それ以外の意図がないのに…それなのに―――
――――ホモ扱いとはあんまりじゃないk「僕は女だよ!」がぼぅっ!?」
優希が殊勝な態度をとる前でよかったと思いつつ放った拳が薫のレバーに入る。
頬を膨らませながら歩き出す優希。
背後から、薫がついて来る気配を感じながら、優希はまだ少し早い心音を確かめるように右手をそっと胸に当てる。
―――悲しいほど平べったい。
(やっぱり、もう少し大きくなってからにしよ)
少なくとも、抱きついた時に薫がドギマギするぐらいのサイズになってから。
全てはそれからだ。
それまで愛しい彼が独り者であることを願いながら、優希は歩みの速さを緩めて、再び薫の隣一歩半の距離を歩き始めた。
――優希は、薫の変人っぷりを誰よりもよく知っていた。薫は典型的な勉強が出来る馬鹿だった。――いや、馬鹿と天才は紙一重というのを実現しているといった方が正しいだろうか?
運動はやや苦手だが、成績は常にトップクラス。既に中学の時点で大検(今では高等学校卒業程度認定試験と名前緒を改めた)に合格した上、センター模試で9割を取ったそうだ。
だが、勉強に脳の用量の大半を傾けたせいなのか、言動があまりにもはっちゃけているのだ。
「む?学園祭実行委員とはなんだね?田中君」
「薫、桃ちゃんは安田だよ?」
「それはいいんだけど、そろそろ企画書提出してくれない?」
昼休み、優希と薫が弁当を広げているところに桃ちゃんこと安田桃子がやって来て話しかけてきた。
桃子は学級委員長であり、その役職にふさわしくメガネに三つ編みの少女だ。
「強いて言うなればもう少し性格がきつい方が委員長らしいが、そこまで求めるのは酷というものだろう。隠れ巨乳というキャラで十分補填が効いている。おっとりお姉さん系委員長というのもマイナーながら良き物だ」
「桃ちゃんゴメン。この馬鹿にもう少し説明してあげてくれない?」
壊れたテレビに対してするように、なにやら妙な電波を受信した薫の頭へ、斜め45チョップを打ち込みながら優希が言う。
「ウチのクラスは第三講堂使って巨大迷路作る予定でしょ。その企画書、期限は今週までなのよ。
そろそろ出せって生徒会からせっつかれてるのよ」
「ふむ」
薫は頷いてから焼き卵を口に運んで、もぎゅもぎゅと食べてから一言。
「それは大変だね。しかしその実行委員という奴もけしからん。仕事を滞らせて人に迷惑を「だからそれが薫なんだよ!」ぶぷっ?」
優希の打撃突っ込みに、薫は一度、目を白黒させてから問い返した。
「なに?私はそのようなものを引き受けた覚えは…」
「この間のホームルーム!薫が目玉を二つ描いたサランラップを顔に巻き付けていた時に、桃ちゃんにやってくれない?って言われて頷いたじゃないか!」
「ん?目玉?サランラップ?―――おお!あの新発明試作三号機をテストしていた時のことか」
「…参考までに聞くけど、何の試作?」
「うむ。授業中に教員の心象を傷つけることなく睡眠を取るための器具の事だ。瞼にあたかも起きている時のような迷彩を施す一号機、パンスト地に目を書いてカモフラージュする二号機に続く最新作だ。
一号機の毎回の設置にかかる手間と、二号機のパンストの色と肌の色の違いによる露見という二つの問題を解決した逸品だ。素材がポリ塩化ピリニデンなだけに機密性が高く蒸れてしまうのが唯一の欠点だがな。
しかし…やはり至近距離からよく知る人物に見られるとばれてしまうのか。通気性の他にも改良の余地があるな…。どう思う、ユーキ?」
「自分から聞いといてなんだけど全部無視するね。
でさ、ともかく薫はその時指名されて断らなかったどころか頷いてたじゃないか!」
「…だから?」
「だぁかぁらぁっ!薫がその学園祭実行委員なんだよ!」
「!それは本当かね山田君!?」
「もう一度言うけど彼女は安田だよ!」
「ホント、仲いいよね、二人とも」
諦観交じりに桃子は肩をすくめる。
「ともかく、今日は水曜だから明後日までに二人で企画書作って提出ね?」
「二人って、どうして僕も入ってるのさ?」
不満げに言う優希に桃子は笑顔で言う。
「連帯責任よ。だって優希ちゃんは薫君の飼育係でしょ?」
「……桃ちゃん、なんか結構凄い毒吐かなかった?苗字間違えられるの怒ってる?」
「うふふ。何のことかな?
あ、ひょっとして、本当は飼育係じゃなくて奥さん、って呼んで欲しかったの?」
「っにっ!?」
桃子の言葉に優希の顔が赤くなる。
この奥さんネタは桃子に限らず優希と薫の二人を知るものなら必ず使ってくるお馴染みのネタなのだが、しかしそれでも慣れるものじゃない。
そして、この後に続く展開もお馴染みだった。慌てるあまりちゃんと喋れない優希の横で薫が間髪いれずに口を開いて曰く
「何を言っているのかね、田原君?私にゲイの趣味はあべふゅっ!?」
「もう一々言葉にはしないからね!?」
薫の右頬にコブシを叩き込みつつ優希はようやく落ち着きを取り戻す。
そんな二人の様子を、桃子が楽しそうに眺めながら言う。
「ま、兎に角お願いね、優希ちゃん。薫くんだけに任せるとどんなとんでもないのが出来るかわかったもんじゃないし」
「う、うん…仕方ないよね」
「それに…」
桃子は微笑んでからそっと耳元に口を寄せて
「放課後に二人っきりで作業――チャンスだよ?」
「…!?も、ももも!」
「じゃあ、ヨロシクね」
優希がまともな言葉で反応を返す前に、桃子は身を翻して去って行った。
残されたのは顔をいよいよ赤くした優希と、相変わらず何を考えているのか解らない無表情の薫だけ。
「ま、まったく、桃ったら何を言ってるんだよ…」
独り言を吐いてから、優希はちらりと、隣に座る薫の顔を盗み見る。
薫は、何もなかったかのように、悠然と白米を口に運んでいた。
(聞こえて…なかったよね?)
言動が一々馬鹿だが、薫は頭がいい。桃子の一言でこちらの好意に気付いてしまう可能性だってない事はないのだ。
(けど…ちょっと残念かな?)
薫が自分の気持ちに気付いてくれたら…この胸を苦しめている感情にも決着がつく。だが…
(……やっぱり、怖いな…けど…)
振られて、ギクシャクして、二人の距離が遠ざかってしまう。女としての魅力に欠ける自分の想いの結末などきっとそうなることだろう。
けれど…
(もしも…もしも僕の気持ちを受け入れてくれたのなら…)
好きだといわれて、手をつないで歩いて、キスをして、それから…それから…
(それから…家に誘われて…押し倒さ…れて…ぅぁっって!僕は昼真っからなんて妄想を…!)
「ユーキ?」
「ふひっ!?」
ぼそりと、まるでふしだらな自分を見咎められたかのようなタイミングでかけられた声に、優希は体を硬直させる。
「にゃ、にゃにかにゃ、薫君!?」
「すまないが、少し真面目な話だ。ふざけないでくれ」
「ふ、ふざけてなんか―――それで、何?」
やや不機嫌な様子を取り繕う優希に、薫は何の躊躇いもなく切り出した。
「うん、ずっと考えていたんだが―――付き合って欲しい」
「え?」
鳩が豆鉄砲を食らったような表情で、優希は目を見開く。
付き合う?誰が?薫が?僕と?
「うぇぇぇぇぇぇぇぇっ!?」
「嫌かね?」
「い、嫌も何も!えっ、どうして!?」
どうしていきなりそんなことを言うのか?というか、どうして自分の気持ちに気付いたのか、という問いに薫は何のためらいもなく…
「?黒田君の発言が理由なのだが?」
「―――っ」
桃子は安田だという突っ込みも忘れるほどに、優希は混乱する。
やっぱり!あの時聞かれていたんだ!で、それで気付かれて…それで…薫が…僕に告白を…。
コレは夢かもしれない。優希は現状が夢である事を確かめるように、しかしそれが夢であることを恐れるかのように問い直す。
「ほ、本当に、本気なの?」
「ああ。何をそんなに驚いている?私には君しかいない」
「えっ、あ、う、うん…」
照れの要素が欠片も見えないまっすぐな言葉に、優希は顔を赤くして俯くしかできない。
そ、そんな、僕だけなんて…だ、だって、そんなこといわれちゃうと…ぁぁぅっ…
何を言おう、何て言おう?
混乱する頭で必死に考えているところに、薫が更にこう付け加えた。
「では、今日の放課後、君の部活が終わったらすぐ家に来てくれ」
「―――今日!?」
い、いきなり家に誘われる!それは、つまりそういうこと!?手をつないでデートも、ロマンチックなキスもすっ飛ばして、いきなり!?
嫌ではない、嫌ではないけれど、少し急すぎる!
「急すぎるんじゃないかな!?あ、もちろんいずれはって思ってるけど、僕としてはもう少し段階を踏んでから…!」
「すまないがそんな時間はない。それほどまでに、私は差し迫っているんだ」
「が、がっつくのはカッコ悪いよ?それに僕、逃げたりしないし…」
「君が逃げようと逃げまいと提出期限は迫ってくるが?」
「提出期限って言われても………提出期限?」
恋愛とは無縁な四字熟語に、優希は眉根をひそめ、少し冷静になった脳味噌で考える。
期限?何の?付き合うって…つまり…
「ひょっとして……
……企画書作るの手伝って欲しいってこと?」
「なんを勘違いしていたのかね…というか、他に何があると?」
「……」
再び鳩が豆鉄砲な顔になる優希と、そしてそれを眺める薫。
しばらく長閑な時間が流れた後
「薫の……バカァァァァァァァァァッ!」
「な、なぜばぶふぉっ!」
理不尽とは思いつつも、弄ばれた怒りは消えるはずもない。
思わず放ってしまった拳は、薫を殴り飛ばした。
「き、極めて理不尽な気がするのだが…?」
「知らないよ、馬鹿!」
コンクリートの上でのびる鈍感な幼馴染を尻目に、優希は残った弁当をやけ食い気味にむさぼった。
最終更新:2007年10月08日 00:10