395 :名無しさん@ピンキー:2006/11/30(木) 22:38:45 ID:5goZsfzj

ファンタジー
エセ軍人者
エロ未到達
投下させていただきます


 少し、肌寒いだろうか。
 ヴィクターは書類を睨んでいた目をふと上げて、既に夜を迎えている窓を見た。
 後回し後回しにし続けて、ついにデスクから崩れ落ちんばかりにまで積み重なった書類
の山は、今や朝の三分の一以下にまで減っている。
 珍しくデスクワークを頑張った。就業時間はとうの昔に過ぎている。そろそろ仕事を切
り上げてもいい頃ではないだろうか。
「手が止まってますよ、少佐」
 冷徹な声に貫かれ、ギクリと身を強張らせる。ヴィクターは深い嘆きのこもった溜息を
吐き、デスク正面に設置された応接セットに向き直った。
「休んでる時間はありません。とっととその書類全部に目を通して、サインを書いて、不
備があるようならば部下を呼び出して、問題がないようならば保管の方に回さないと、い
つまでたっても帰れませんよ」
 短く切りそろえられた亜麻色の髪と、絶望的に女性的曲線を欠いた肢体。少年だと紹介
されても違和感のない小柄な少女が、おぞましい量の書類に向かって座っていた。
 愛らしい顔立ちに鉄の無表情を張り付かせ、紙の束にさらさらとペンを走らせては、
とんとんと書類の束を整えて、ドサリと横に積み重ねる。その書類の量たるや、ヴィクターの
倍はあるだろう。
「なぁ、ちょっとでいいから休憩を……」
 ヴィクターが恐る恐る問いかけた。
 少女はまるで聞こえていないかのように次の書類に手を伸ばし、本当に読んでいるのか
疑問に思えるような速度で紙をめくる。ペンを走らせ、再び書類を積み重ねる瞬間、ふと、
少女がヴィクターに振り向いた。
「はい?」
 破顔一笑。
 その満面の笑みの下に隠された凶悪な殺意に射抜かれて、ヴィクターは慌てて書類の山
に飛びついた。その様子に満足し、再び少女が鉄の無表情を取り戻す。
 あぁ、怒ってる。チラリと少女――クロルの方を盗み見て、ヴィクターは広い背中を丸
めてひっそりと溜息を吐いた。
 いつもの明るいクロルとは、まるで別人のようである。その上、普段なら使いもしない
敬語などを使ってくるから、クロルは今、ヴィクターにとって完全に苦手なタイプの人間
と化していた。
 できるなら、どんなに文句を言われてもいつものクロルであって欲しい。しかしクロル
の怒りが当然であるからこそ、ヴィクターは今の彼女に逆らえなかった。
 つまりは、現在クロルが猛烈な勢いで処理している書類の山は、全てヴィクターが目を
通すべき報告書の類なのだ。
 もちろん、サインもヴィクター以外が行ってはならない作業である。
 しかし自分一人ではどうにもならない事を悟ったヴィクターは、有能な部下――つまりは、
クロル曹長に泣きついた。
 デスクワークは嫌いだと嫌がるクロルを拝み倒し、この部屋に連れ込んでそろそろ八時
間が経過しようとしている。
 ヴィクターの筆跡を真似たクロルのサインは完璧で、プロの鑑定士に見せてもまず偽装
を見破る事はできないだろう。
 ヴィクターは心底からクロルに感謝していたし、クロルも初めの内はぶつぶつ言いなが
らも広い心で付き合ってくれていたのだが、何時間経っても一向に減らない書類の山に、
当然と言おうかクロルが切れた。
 そして、現在のクロルが出来上がったのである。
 不本意な仕事を押し付けられている上に、時間外労働だ。怒るのは無理も無い。

――もう、帰らせてやるか。

 残りの書類の山を全て自分で処理できる自信は無いが、この調子だと帰宅は深夜を過ぎ
てしまう。
 クロルに声をかけようと書類から顔を上げると、不思議とそこにも書類があった。
「不備」
 ずい、と書類がヴィクターに迫り、顔面に押し付けられた。クロルの仕業である。
「あ、おお。すまん」
 きびすを返し、再び応接セットに向かう。その背中を、ヴィクターは思い切って呼び止めた。
「なにか?」
 また、休憩の交渉だと思ったのか、クロルは冷ややかな声を出した。
 足を止めることもなく、ソファに座って書類に手を伸ばす。
「……なんか、飲むか?」
 そして、何故か結局休憩の交渉をしている。
 ヴィクターは内心、自分のふがいなさを罵った。
「あ、いや、もちろん飲みながら仕事するし、ちょっと喉でも渇いたんじゃないかと……」
 クロルがちらりと時計を見た。それが、今のヴィクターには「早く仕事しろ」の暗示に見える。
「だめ、だよな……はは……仕事、仕事……っと」
「オーケー。休憩にしよう」
 とうとう幻聴まで聞え始めたか。
 ヴィクターは乾いた笑いを唇に刻み、のろのろと書類に手を伸ばした。
「ヴィクター。休憩」
 二度目の幻聴。――いや、現実か?
 幻聴だった時の衝撃を最小限に抑えるために、ヴィクターはほぼ期待をゼロに保った
ままクロルを見た。
 書類をテーブルに投げ出して、両腕を天井に突き出して長々と伸びをしている。
 そして、何を思ったかぱっと立ち上がった。
「で、場所がえ。君の部屋行こう」
 言いながら、未処理の紙の束を沢山重ねて、小さい体で持ち上げる。その間、ヴィクターは
呆然とクロルを見ているだけだった。
 長時間のデスクワークで半ば脳が死んでいる。
「ヴィクター?」
「は?」
「君の、部屋に、いきますよ?」
 一言一言、言い聞かせるようにクロルが言う。
 そこでやっと、ヴィクターは慌てて立ち上がった。そしてふと、疑問に思う。
「……なんで、俺の部屋?」
 疑問をそのまま口にすると、クロルは呆れたような顔で溜息を吐いた。
「終わらないから、泊り込みで手伝う事にした。お腹もすいてきたし、お風呂入りたい。
僕みたいな下っ端の部屋に少佐殿はお連れ出来ないでしょ? だから、君の部屋でお風呂
はいってご飯食べて、終わるまで書類と睨めっこする」
 そう言われれば、なる程そうかと頷くしかない。かき集めた書類を抱え上げ、ヴィクターは
のそのそとクロルをつれて部屋を出た。

 長い廊下を歩く。いくつかの階段を降り、いくつかの階段を上る。
 その間中、ヴィクターは奇妙な違和感に首を傾げ続けていた。何か、根本的な部分で間
違いを犯しているような気がする。
 現在の状況を順を追って考えてみるが、その原因は分からない。自室に到着し、ロック
を外して部屋に入る。クロルも後に続いた。
 散らかっている室内に書類を重ね、ヴィクターがばたばたと作業スペースを確保する。
「ほーう。これがヴィクター少佐の部屋ね。想像どおり、うん、汚い」
 クロルが面白そうに室内を歩き回っている。そういえば、こいつを部屋に上げたのは初
めてだな、と、ヴィクターは思った。
 クロルとは仲がいい。親友と言ってもいいかもしれない。食事にも行くし酒も飲む。
それなのに、何故今までクロルを部屋に入れようと思わなかったのだろうか。
 行きたいとも言われなかったし、誘おうと思った事もないからか。

「お風呂場どこ? 僕シャワー浴びたい」
「玄関のすぐ脇。バスタオルもそこだ。着替えは俺のを適当に――」
 クロルが笑った。
「君の服なんて着たら、大きすぎていやらしい事になっちゃうよ。制服の下にタンク
トップ着てるから、それで大丈夫。じゃ、おさきー」
 ひらひらと手を振って、クロルがバスルームに消えた。
 ややあって、シャワーの蛇口を捻る音がする。その間、ヴィクターは全く動けなかった。
 腐っていた脳がよみがえる。思考回路が回復し、現状を一つ一つ整理し始めた。
 そして、今まで完全に無視していた大前提を思い出す。
 ヴィクターの腕から、抱えていた荷物が落下した。

「何やってんだ俺! あいつ、女じゃねぇか!」
 違和感の原因がようやく分かった。今の今まで、クロルの性別を完全に失念していた
のである。
 夜中に女を自分の部屋に上げ、あまつさえ女は今、シャワーなどを浴びている。
 これ程艶めかしい状況が他にあるだろうか。ヴィクターは狼狽えた。
「……よし、とりあえず、飯」
 面倒な事はとりあえず後回しにする男である。
 ヴィクターは夜中に女を連れ込んでしまったと言う事実に気付かなかった事にして、
冷蔵庫を覗き込んだ。
 パン、卵、ベーコン、ミルクを選び出し、料理とも呼べない単純作業に取り掛かる。
 パンを焼く。バターを塗る。卵を焼く。ベーコンを焼き、ミルクを出す。完了である。
 いつもは朝に行う一連の作業を終えると、ヴィクターはようやく冷静に物事を考え
られるようになってきた。
 そして、連れ込んだのは女ではなく、有能な部下で友人であるクロルなのだと思い出す。
クロルはクロルであって、性欲の対象となるような存在ではない気がした。クロルに
とってもヴィクターは男ではないのだろう。
 実際、全裸で同じ空間に存在しても何も起こらない気さえする。
 なんだ、ならば問題ないではないか。ヴィクターはぽん、と手を打った。
「いやっはっは、焦って損した」
「何一人で笑ってんの……?」
 不気味だよ。などといいながら、クロルが部屋に戻ってきた。
 予告どおり、服装は黒のタンクトップと、制服のズボンである。無いに等しい胸のせい
か、ここまで薄着でも見ようによっては少年に見える。亜麻色のショートヘアから水滴が
滴りそうになり、クロルは頭に引っ掛けたタオルでわしわしと髪を拭いた。
 どこから見つけ出したのか、足にはスリッパを突っかけている。
「あ、ご飯作っといてくれたんだ。さすが少佐、気が利きますねぇ」
 仏頂面だと少年だが、笑うとなる程、女に見える。クロルは椅子を引いてテーブルに腰
掛け、まずミルクを飲み干した。
 ヴィクターもクロルの正面につく。食べたら自分も軽く汗を流そうと考えながら、
ヴィクターはパンにかじりついた。
 クロルがまた時計を見る。指針は九時半を指す直前だった。
「時間、気になるか?」
「ん……一時には寝たいからね。三時間で終わると良いけど……」
 サクサクと音を立て、目玉焼きを乗せたパンにかじりつく。


「悪いな、手伝わせて」
「高くつくよ」
「体で払おう」
 一瞬クロルが驚いたような顔をして、直後にゲラゲラと笑い出した。
「そりゃいいや。その一級品の体で僕に何をしてくれるんだい?」
「天国につれてってやるよ」
 にやりと笑うと、クロルがふざけて「きゃあ、こわあい」などと言う。
 ヴィクターは安堵した。やはり、クロルはクロルである。女と言う性別で見るのは友人
として失礼だ。

 軍人は、食事が早い。
 ものの数分で夕食とも夜食とも言える食事を終えると、早速脳を腐敗させるデスク
ワークに取り掛かった。
 クロルの許可を得てヴィクターも体を清め、後は仕事を終えれば眠るだけと言う状況である。
 クロルは三人掛けのソファに長々と横になり、ヴィクターはその向かいのソファに深く
腰掛け、足をテーブルに投げ出していた。基本的に読んでサインするだけの作業なので、
楽な姿勢でいるのが一番はかどる。
 もうすぐ終わりだと思うと仕事にも俄然身が入り、ヴィクターもクロルに負けじと
せっせと書類を消化していった。
 半分以上がクロルの偽造サイン書類と言うのが若干後ろめたい気がするが、上や下は書
類が形を成していればそれで良いのだから気に病むほどではないだろう。
 しばらくは無言で仕事をこなし、ついにクロルが書類を投げ出して「終わったー」と叫んだ。
 クロルの割り当て、終了。しかし書類処理能力の差は歴然としており、クロルが手を出
す事の出来ない、言わば重要な書類の数々は、未だにヴィクターの傍らに積み重ねられていた。
 その数、六。やれば終わらない数ではないが、ヴィクターは再び死に掛けていた。
「傭兵になりゃよかったのに。戦ってりゃいいんだから、向いてると思うよ」
「書類を処理する時期が来るといつもそう思う」
「及ばずながら応援だけはしてあげよう。頑張れーガンバレー」
 嫌がらせだろうか。嫌がらせなのだろう。ヴィクターは恨めしげにクロルを睨み、しか
しその恨みもお門違いだと気がついて嘆息した。
 諦めて、再び書類に目を落とす。おいおい、この作戦、一体何人死者出してんだよ。報
告書の内容さえも、ヴィクターのやる気をそぐ。
 投げ出して、明日にするか。クロルの様子を伺うと、不思議そうに見つめ返された。
すぐに眉間に皺がより、とっととやれと睨まれる。
 渋々報告書に目を落とすと、不意にクロルが立ち上がった。
「暇。探検」
 寝ろよ、大人しく。
 内心思ったが口にはしない。ここでクロルを怒らせると、書類整理において金輪際クロ
ルの助力を望めなくなるからだ。
「ねーヴィクター。君、エロ本ってどこに隠してんの?」
 突然の精神的攻撃に、ヴィクターは危うく書類を真っ二つに破きかけた。
「何を突然! ねぇよそんなもん!」
「嘘だ。あるね。あー、わかった。寝室だ」
 事をいたすのは寝室だからね。などといいながら、ばたばたと部屋を走る。ヴィクターは
書類を投げ出した。
「まて! お前男の部屋を漁るなんて趣味悪いぞ!」
「僕の事はほっといて仕事しろよ。ここが寝室か。お邪魔しまーす」
「クロル! てめぇ上官をなんだと思って……!」
「僕、今夜ここで寝る。夜這いすんなよ?」
 追いすがったヴィクターの鼻先で、ドアが無情に閉ざされた。内側から鍵をかける音が
する。淫猥な書籍の類はクロルの言うとおり寝室で、しかもベッドの上である。隠す必要
が無いから全く隠していないのだ。

 数秒後、寝室からクロルのけたたましい笑い声がした。
 いやらしい、だとか、少佐の変態、だとか、言いたい事を言っている。ドアをぶち
破って殴ってやろうかと思ったが、結局ヴィクターはすごすごと退散し、再び書類へと向
き直った。
 寝室の中ではしばらくクロルの精神攻撃が続いたが、鋼の根性で無視を続けるとそれも
やがて収まった。
 これでようやく仕事に集中できると一瞬だけ思ったが、ヴィクターは数分後にそうでも
ない事に気がついた。
 先程までの能率は、クロルの脅しが在ったからこそ成立していた奇跡のような物であり、
抑止力がなくなった今、ヴィクターは完全にサボリモードに入っていた。
 クロルが「判断力が鈍るからダメ」と言って飲ませてくれなかったビールも、今ならば
飲みたい放題である。
 ヴィクターは早速立ち上がり、こっそりと冷蔵庫に歩み寄った。
 自分の部屋なのになぜこそこそ酒を飲まねばならないのか分からないが、クロルにばれ
ればお目玉を食うのは明らかだ。
 細心の注意を払って扉を開く。ひやりとした冷気が皮膚を撫でた。ビールの缶に手を伸
ばす。獲物を手にしてゆっくりとドアを閉めようとした瞬間、ぽん、と肩を叩かれた。
「終わったの?」
 クロルの絶対零度の微笑である。

 結局、ビールを没収されたヴィクターは、再びクロルの管理下で仕事をする事となった。
 ヴィクターが書類を睨むすぐ正面のソファでは、クロルが毛布に包まりビールを片手に
エロ本を読んでいる。
 女が堂々と男の前でそんな物読むなと言いたいが、「なんで?」と聞かれると返答に困る
のでヴィクターは何も言えなかった。慎みを持てなどと、言った所で肘鉄が飛んでくるく
らいだろう。
「傾向に偏りがあるねぇ」
 また、クロルが何か言い出した。こんな状態でも、ヴィクター一人の時よりも能率が上
がるのが不思議である。残り四通。大分気が楽だ。
「巨乳より美乳派。強姦より和姦派。浮気よりも一途派。要するに君は、純愛が好きなんだ」
「お前、俺を動揺させるのがそんなに楽しいか」
「動揺したんだ。正解ですね?」
 にぃっと笑って、本を閉じる。
「やっぱりこういうのは人柄が正直にでるね。なんせ興奮しないといけないから、みんな
思い切り好みど真ん中の物ばっかり揃える」
 この口ぶりだと、ヴィクター以外にも犠牲者が出ているのはまず間違いないだろう。男
の性的嗜好を調査して一体どうするつもりなのか、クロルはメモまで取り始めた。
「おまえ、そのメモどうするつもりだ……」
「ファイリングして保存するの」
「何のために」
「売れるんだよ? こういう資料」
 副業かよ。
 ヴィクターは頭を抱えた。一体誰にどう言う目的で売られていくのか非常に不安である。
「僕の資料もある。売ろうか?」
「いらねぇよ!」
「恥ずかしがるなって。知ってた? 僕って胸小さいけど案外美乳なんだよ」
 クロルが親指でタンクトップの肩紐を引っ張って、服の中を指差した。からかうように
舌を出す。

「お前な、最近忘れてるみてぇだが俺は男でお前は女。そんな危険なポーズで俺を誘惑す
んな。襲うぞマジで」
 男はみんな狼なんだぞ、とでも言わんばかりの口ぶりに、クロルは意外そうに大きな
目を瞬いた。
「襲う? 君が? 僕を?」
 ひどく引っかかる物言いである。そう思った瞬間、クロルがげらげらと笑い出した。
「またまたぁ。そーんな甲斐性ないくせに」
「か、甲斐性?」
「娼婦が裸で部屋にいても手を出さない男として有名だよ、君は。一時期同性愛者の噂も
立った。だから君の資料は男にも売れる。知ってた?」
 知らなかった。
 だが、知ってみればなる程と思う事象は多くある。ヴィクターは数人の部下を無言で
射殺したい心境に陥った。
 帰宅したら裸の娼婦が部屋にいたら、誰でも叩き出すだろう。だからと言って同性愛者
とは、あまりといえばあまりである。
「あれ? 落ち込んだ?」
「うるせぇ」
 これが落ち込まずにおれようか。
 部下や上司に尻や股間の一物を狙われていると言うのもショックだが、クロルにまで男
として終わっていると思われていたのだ。
 これは最早信頼というようなレベルではない。勃起不全の老人として見られているよう
なものである。
「ヴィクター?」
 ヴィクターのただならぬ落ち込み方に、クロルが初めて心配そうな声を上げた。
 ビールの空き缶を絶妙なコントロールでゴミ箱に投げ入れて、頭を抱えてしまった
ヴィクターの顔を覗き込もうと身を乗り出す。
 この女は、こういう動作でさえ男を煽る事を知らないのだろうか。ヴィクターならば
煽っても大丈夫だと高をくくっているのだろうか。
 クロルが反応しないヴィクターを心配し、テーブルに座り込んだ。おーい、などと間の
抜けた声をかけながら、ヴィクターの肩に手をかける。その手を静かに払いのけ、ヴィク
ターは酷く緩慢な動作で顔を上げた。
「おまえ、俺の階級言えるか?」
「自分の階級忘れたの? とうとう脳まで筋肉になった?」
「真面目に答えろ、曹長」
「はっ。恐れ多くも少佐殿であります」
 テーブルの上に正座して、上半身だけ模範的な敬礼をしてみせる。
「じゃあもし、俺がお前に命令を下したら、お前どうするよ」
「そりゃ従うよ。上官だもん。なんで?」
 クロルが怪訝そうに首をかしげる。
「だろうな。そこが問題なんだ」
「意味わかんない。何の話?」
 ヴィクターは嘆息し、ソファに身を預けて思い切り背をそらせた。一息ついてから、
気合を入れなおすように背筋を伸ばす。
「もし俺が、お前に服を脱いで両手を壁につけって命令したら、お前それにも従うだろ」
 さすがにクロルが絶句した。
「そ、そんな命令……!」
「無視するか?」
 ぐっとクロルが言葉に詰まる。しばらく苦い表情で思案した挙句、クロルはしかめっ面
で小さく「従う」と呟いた。


「と、時と場合によるけどね! 君のマジ具合とか、作戦に必要とか……」
「何も今命令しようなんて思ってねぇよ。じゃあ次。お前、俺に奇襲されて逃げられる自
信あるか?」
「それは無理。自信ある」
 クロルが自信を持って断言した。
 さすがに身の程を知っている。
「つまりお前は、立場的にも実力的にも、俺が本気になったら逆らえないって事だな?」
「……それ、認めるのすげー嫌なんだけど」
 クロルがテーブルの上で胡坐をかいて、不機嫌そうな声で言った。
 身の程を知っている負けず嫌いは、随分と苦労するだろう。
「いや、まぁそれを頭に置いてくれればいいんだ。つまりな、お前でさえそうなんだよ。
今俺の前ですげー偉そうな態度取ってるお前でさえそうなんだから、お前以外の女は――
まぁ部下に限るが、俺に全く逆らえないと言っていい。むしろ、俺が少しでも気のある素
振りを見せたら進んで服を脱ぐんじゃねぇかとさえ思う」
 自信過剰だと罵られるかと思ったが、クロルは素直にそうだろうねと頷いた。
「俺は立場や腕力で女を抱くのは大嫌いだ。だから、そういう女には手を出さねぇ。俺の
性欲処理の相手をしようとしてくれる従順な部下も、俺を利用しようとするしたたかな部
下も、俺としては願い下げだ」
「もったいないなぁ」
「もったいなかねぇよ。で、幸か不幸か俺の同僚や上司にはフリーの女がほとんどいねぇ。
金で買った女を抱くのは知っての通り趣味じゃねぇ。かといって外部の人間とロマンスが
生まれるような奇跡的な出会いもねぇ。結果として、俺の周りには浮いた話が全く無い。
溜まったら処理は手でしてる――なんだその面」
「ちょっと胸が苦しくて……」
 クロルが目頭を片手で押さえ、俯き加減で呟いた。冗談でやってるのか本気で同情して
いるのか微妙だが、どうやら馬鹿にしているわけではないようだ。
「勘弁してよヴィクター。部下に手を出すのためらってたら、君その内チェリーボーイに
退化しちゃうよ? 本気で君の事好きな子だって沢山いるんだから、妄想に近い恋愛理論
とはおさらばして特定の相手見つけなよ!」
「クロル。俺は何も説教くらうために赤裸々な性生活を語ったわけじゃねぇぞ」
 妄想に近い恋愛理論で悪かったな、と怒鳴りたくなるのをぐっと堪えて、ヴィクターは
なるべく真剣な表情で真っ直ぐにクロルを見た。
 クロルが目を瞬き、話を真面目に聞く体制に入る。
「つまりだ……確かに俺は自分でも泣けて来る程ご無沙汰だが、同性愛者でも女に興味が
無いわけでもねぇんだよ! 言うなれば俺は吐き出せない欲望を抱えた飢えた狼だ! 手
負いの虎だ! しかもここは俺の部屋なんだ! 俺の理性は今極限まで低下している! 
ここまで言えば何が言いたいか分かるだろ!」
「娼婦でも呼ぼうか?」
「違う!」
 思わず両手でテーブルを叩いた。
 想像以上に大きな音が弾け、ヴィクターの方が驚いた。
 クロルは相変わらず、天下泰平とテーブルに胡坐をかいている。
「まぁ、ちょっと落ち着きなよ。君の苦悩は良くわかった。つまり、恋愛をしようにも適
当な相手がいなくて、君は心身ともに旺盛な欲望を持て余しているわけだ」
 本音を言ってしまえば、娼婦相手でもいいから一発やりたい。しかしクロルの言う妄想
に近い恋愛理論が邪魔をして、ヴィクターにはそれが出来なかった。
「それで、ちょっとでも性的興奮を刺激されると、君の高潔な恋愛理論をぶち壊して本能
むき出しの野性の君が暴れだすと」
「そうだ」
「君は皆が思ってる程安全な聖人君子じゃないと」
「そうだ」

「それって立場も腕力も総動員してって事?」
「そ……う、なる……かな?」
 ひどく歯切れの悪い返答をして、ヴィクターは顔を顰めた。
 今まで女に対して理性を失った事は一度も無い。だから、切れると何をしでかすか
まったく想像がつかなかった。
 立場はどうか分からないが、力に物を言わせる事はあるだろう。ヴィクターが力でねじ
伏せようと思ったら、男も含めて大概は思い通りにできる。
「それは、大分危険な人物だねぇ」
 クロルが声を上げて笑い出した。
 明らかに面白がっている。さすがに少し腹が立った。
「お前な、わかってねぇだろ! 危険なのはお前なんだぞ! 大体今ふと思い返してみれ
ば、お前は男に対して警戒心が無さ過ぎる!」
「だって僕強いもん。大概の男になら襲われても勝てる」
「いや、まぁ、そうだが……」
「それに僕、処女ってわけでもないし」
「何!?」
 驚愕の新事実である。
「それに、僕のさりげない色気にあたふたする年下の部下を見るのは凄く楽しい」
「悪趣味だぞ」
「どうとでも」
「よく知りもしない男にやられちまっても、お前平気なのかよ」
 クロルは少しだけ、考えるような仕草を見せた。
 考えるまでも無いだろう。嫌に決まっていると答えればいいだけだ。
 だが次の瞬間、クロルは無邪気に微笑んだ。

「平気」

 ヴィクターは凍りついた。
 
 クロルはからかうような目でヴィクターを射抜く。
 平気、と言って笑った顔に、悪ふざけの色は見えなかった。
「おまえ……平気なわけ無いだろ! 何考えてんだ一体!」
「見返りが全てだよ。僕は女で、軍人だよ? 名前も知らない男に抱かれる事なんてよく
ある事さ。君だって一度くらいあるだろ? 拷問で女を犯したこ――」
「クロル!」
 たまらず叫んで立ち上がると、クロルは困ったような表情でヴィクターを見上げた。
「……ごめん。君があんまり純な事いうから……つい」
 この少女を、諜報活動に使った者が上にいる。
 ヴィクターは怒りで眩暈がした。クロルの口ぶりから察するに、一度や二度ではないの
だろう。
「ヴィクター、そんな顔すんなよ。あぁ、もう。だから言うの嫌だったのに、なんで
言っちゃったかな。ほら、僕君と違ってセックスにそんな理想とか持ってないから気にし
てないよ。特別手当もいっぱいもらえるし。僕かわいいからさ、仕方ないって。そういう
任務、必要だもん」
「そういう問題じゃねぇだろ! くそ、何で俺に言わない!」
「うん、ごめん。ほんとごめん」

 いつもなら、言ったって仕方ないだろうと笑うだろうに――。
 それ程、クロルから見てヴィクターは取り乱しているのだろう。テーブルの上に立ち上
がり、クロルがヴィクターの頬を撫でた。
 思わずその体を抱きしめる。クロルが驚いて短く叫んだ。
「ったく、君って奴は。図体に似合わずお坊っちゃんだなぁ」
 ぽんぽんと、子供のように頭を叩かれる。
 どっちが年上だと思ってるんだ。だがヴィクターは反論できなかった。
 思ってもみなかったが、自分はまだまだ青二才のようである。
「もう、すんな。そんな任務、お前が受ける必要ねぇだろ」
「馬鹿言うなよ。そんな事したら、僕以外の女の子がやる事になるんだぞ?」
「だからってお前が汚れ役かぶる事ねぇだろう!」
 思わずカッとして叫ぶ。両腕を掴んで体を離すと、クロルはダダをこねる弟を見るよう
な目でヴィクターを見た。
「……馬鹿か、俺は。みっともねぇ」
 クロルの腕を拘束していた手を下ろし、どさりとソファに座り込む。クロルもテーブル
から飛び降りて、ヴィクタ-の隣に腰を下ろした。
 報告書の残りは三通。最早手を出す気力はわいて来ない。
「僕を軽蔑する?」
「しねぇよ!」
「僕のやってる任務は汚いかい?」
「お前、何が……!」
「じゃあ、汚れた任務を沢山やってきた僕は?」
 穏やかだが、責めるような口調でクロルが言った。
 急速に頭が冷えて行く。瞬間、ヴィクターは自分が何を言ったか気付いて愕然とした。
「悪い……俺、そういうつもりじゃ……」
「僕、部屋に戻るよ。どうやらこの部屋には飢えた狼がいるらしいし」
 静かにクロルが立ち上がった。
怒っているように見えた。今まで見た中で一番冷たい笑顔を浮かべている。
「クロル!」
「さわんな。君が汚れる」
 その言葉が、全てを物語っていた。
 目の奥が白くなる。
 気がついたら、ヴィクターはクロルをソファに引き倒していた。
444 :名無しさん@ピンキー:2006/12/13(水) 02:06:15 ID:cRbFE18h
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エセ軍人者
>>395後編投下させていただきます

 突然襲った衝撃に、クロルはしばらく状況がつかめなかった。
 背中から腹に抜けていった衝撃に、声を上げる事もままならない。思わず呻いて身を起」こすと、恐ろしい力でソファに押さえつけられた。
 ようやく視界が戻ってくる。そして、クロルは絶望的な状況を理解した。
「――どうしたの? 部下を性欲処理の道具に使う気になった?」
「ふざけるな」
 あぁ、怒った。クロルは内心苦笑した。
「ふざけてなんかいないさ。どけよ。純真なお坊っちゃんが、僕みたいな女に触っちゃいけない」
 わざと挑発するように言う。ヴィクターの表情が変わった。
「本気で言ってんのか」
 ヴィクターが低く、呻くように言った。怯えて身を竦ませるように、周りの空気がチリ」チリと緊張するのが分かる。
「俺がお前を汚い女だと思ってるって、てめぇ本気で言ってんのかよ!」
 押さえつけられた肩が痛い。
 思わず全身が強張った。さすがだな、と頭の隅でぼんやりと思う。精神よりも先に、本能が恐怖する威圧感。
 クロルは芽生えた恐怖心を隠すため、挑むようにヴィクターを見た。
「実際、思ってるだろ? 高潔な恋愛思想をお持ちの君に、僕がどんな風に映るかくらい誰だって想像出来る。どうしようも無い淫乱で、誰にだって足を開く色狂いだって思ってるんだろ?」
「思うわけねぇだろ! てめぇいい加減にしろ!」
「じゃあ、これは何だよ。ソファなんかに押し倒して、一体僕をどうするつもり? 僕がそういう女だと思ったから、やっちまって言う事聞かせようと思ったんじゃないの?」
 自然と口角が持ち上がる。凄く、嫌な笑い方をしているんだろうな、と思った。
 ヴィクターがそんなつもりじゃない事は分かっている。見苦しい八つ当たりだった。後で謝ったら、笑って許してくれるだろうか。
 ヴィクターの表情が強張る。歯軋りが聞こえた。気が弱い人間だったら、ヴィクターのこの表情だけで失禁してもおかしくなかった。絶対にありえないと分かっていても、殺されそうな気さえする。
 す、と肩から手がどいた。
 なんだ、引くのか。あっけないな、と思った瞬間、乱暴に左腕を掴まれた。
 ――折られる!
 反射的に逃げようとしたが遅かった。悲鳴を上げたくなるような激痛が腕から肩にかけて突き抜ける。
 だが開いた口から悲鳴が漏れる事は無かった。かすれた息だけが抜けて行く。
 うつ伏せにソファに押さえつけられて、クロルはようやく折られたわけではないと気がついた。
 ヴィクターの体温を背後に感じる。背中に回された左腕が限界まで捻り上げられており、
少しでも動けば激痛がクロルを襲った。
 ヴィクターの表情は分からない。痛みと恐怖で全身から脂汗が噴き出した。
「舐めるなよ。曹長。相手を屈服させるのに、俺がそんな面倒な手ぇ使うとでも思うのか」
 すぐ耳元で、脅かすような声がした。
 苦しくて、自由な右手でソファの表面をかきむしる。息が上手く入ってこなくて、頭痛
と共に眩暈がした。
「いた……い」
「折れる寸前まで捻ってんだ。当たり前だろ」
「うぁああ!」
 逃れようと身を捩ると、更に拘束の手が強まった。
 骨が軋む音がする。後、数ミリで折れるだろうか。涙で視界が霞んだ。
「このまま折っても、折らずに何時間もこの状態を続けてもいい。折った場合は右手も折
るだろう。場合によっては指もだ。洗脳が目的なら相手に恐怖心を与えればいい。一言発
言するたびに一本ずつ折って行く。試すか?」
 ヴィクターの指が、ソファに爪を立てているクロルの指に添えられた。ぞくりと背筋が凍りつく。


「や……」
「一声上げるたびに、関節を一つだ。今ので親指の第一関節が折れてる」
 理性では、はったりだと分かっていた。ヴィクターが部下にそんな事をするはずが無い。
それでも、恐怖心を振り払う事は出来なかった。
 涙が溢れた。痛みに対する恐怖で泣くなど、これ程みっともない事は無い。クロルは
ソファに顔をうずめ、こみ上げてくる嗚咽を押し殺した。
「……クロル?」
 異変に気がついたように、ヴィクターが腕の拘束を緩めた。長時間無理な方向に捻じ曲
げられた関節は、それだけで激痛を生む。思わず呻いて身を捩ると、ヴィクターが弾かれ
たようにクロルから飛びのいた。
「ぁ……ぐ」
「悪い! クロル、大丈夫か!?」
 指先が痺れ、感覚がなくなっていた。激痛に呻きながら、痛む腕を抱え込む。
 肩にどっしりと圧し掛かる疲労感に、クロルは気だるげにヴィクターを見た。
 さっきまでどんな顔をしてクロルを拘束していたのか疑問な程に、狼狽え、心配した
表情を浮かべている。
 腕の痛みさえなかったら、勘違いだったんじゃないかと自分自身を疑いそうだった。
 肩から腕にかけてをさすりながら、のろのろと起き上がる。助け起こそうとしたヴィクターの手を、
クロルは受け入れなかった。
「触んな」
 ヴィクターが凍りつく。ひどく傷ついた表情で何事か言いかけて、崩れるように、力なく
その場に座り込んだ。
「そう……だよな。悪い……」
 今にも泣きそうな顔を隠すように頭を抱え、呻くように言う。
 しばらく沈黙が続いた。腕の痛みが治まらない。ヴィクターの様子を伺い見て、クロルは
ひっそりと溜息を吐いた。
「泣くなよ、ヴィクター。卑怯だよ、そんなの」
「泣いてねぇよ! ガキか! 俺は!」
 気付いていないのか、強がっているのか知らないが、クロルはヴィクターの対応に
思わず軽く吹き出した。
 眉間に深く皺を刻み、あらぬ方向へ顔を逸らしたヴィクターの目元に親指を滑らせる。
ヴィクターが驚いたようにクロルを見た。
 その眼前に、濡れた親指を示してみせる。
「泣いてる」
 にっとクロルが微笑んだ。ヴィクターが慌てて顔を逸らし、目元を乱暴に拭った。
 かわいいやつ、と思ったが、言うと怒るので口には出さなかった。
 元はといえば、自分がヴィクターを煽ったのが原因だ。ヴィクターを責めるのはお門違い
と言えるだろう。腕はまだ痛むが、ヴィクターは泣く程傷ついている。
 どちらの罪が重いかは明白だった。
「……ごめん」
 クロルが一言謝罪すると、ヴィクターが愕然と振り向いた。ヴィクターが口を開く前に、
クロルが静かに言葉を続ける。
「傷つけるつもりじゃなかったんだ。君がそんなつもりで言ったんじゃないって分かって
たのに、八つ当たり。酷い事言って、君の事怒らせた」
「ば……かやろう! 何でお前が――!」
「謝らせろよ。僕は君を怒らせようとしたんだ。だから、君は怒って当然だった。ごめん、
ほんと、あんなに怒るとは思わなくって……」
「謝るな! お前はなんも悪くねぇだろうがよ! 押さえつけられて、泣かされて、
傷ついてんのは明らかにお前じゃねぇか! それに俺はお前を――!」


 言いかけて、ヴィクターが口を押さえた。
 苦々しげに顔を歪め、誰に対する物かわからない悪態をつく。
「あのままだったら多分、強姦してた……」
 ひどく言いにくそうにしながら、ヴィクターが搾り出すように言った。まさか、と思う。
ヴィクターが他人を脅かすために、わざわざそんな手段を選ぶとは思えない。
 実際に、ヴィクター本人だって言っていたではないか。
 ヴィクターが相手を屈服させるのに用いるのは、痛みや恐怖心だけである。
「あぁ、クソ! なんでお前女なんだよ! 俺、親友に何やってんだ……!」
 ヴィクターが荒々しくソファに拳を打ち付けた。肉厚のソファは壊れる事は無かったが、
スプリングが悲鳴を上げる。
 隠すように手の平で覆った瞳から、涙がこぼれているのが見えた。顔を逸らし、息を詰めて泣いている。
 ひどく愛おしく思えた。かわいいやつ、とまた思う。だが口には出さなかった。軍人の、
しかもこんな大男に対して、その言葉は侮辱に他ならなかったから。
「……コーヒーある? いれるよ。少し落ち着こう」
「あ――じゃあ、俺が……」
「僕が、君に、いれたいの。いい?」
 一言一言、言い聞かせるように言う。ヴィクターは口を閉ざし、大人しく浮かせかけた腰を下ろした。
 クロルが立ち上がり、給湯室へ向かう途中、もう一度小さくヴィクターが悪態をつく声が聞こえた。


「はいよ。ミルクと砂糖のインスタントコーヒー風味」
 数分も待たずに、クロルが両手にカップを持って戻ってきた。
 テーブルに置かれたカップには、言葉どおり、コーヒーよりも遥かにミルクの比率が
高そうな液体が満たされている。
「お子様にはピッタリっしょ?」
 クロルが意地悪く笑ったが、ヴィクターは大人しくカップを傾けた。クロルはソファに
腰を下ろし、どうやら普通のコーヒーを傾ける。
 顔を洗ったのだろうか。眼が若干赤いだけで、クロルが泣いた痕跡は完全に消えていた。
 自分も顔を洗った方がいいだろうか。きっと酷い顔をしているだろう。
「うわ、甘」
「スティックシュガー4本だからね」
 嫌がらせに違いない。それとも、ささやかな報復だろうか。クロルはまだ、痛そうに肩をさすっていた。
 筋くらいは違えたかもしれない。
「肩……平気か?」
「折れる寸前まで捻られてんだ。平気なはず無いだろ」
 思わずコーヒーとは名ばかりの乳飲料を吹き出しそうになる。
「なんちって」
 意地の悪い無表情のままクロルが舌を出した。
「……悪い」
 呻くように謝罪すると、側頭部にクロルの蹴りが飛んだ。素足だからそれ程痛くは無いが、
そのままぐりぐりと踏みにじるようにされるとさすがに辛い。
「何で蹴る」
「その、今にも泣きそうな顔やめろ。卑怯だ。軟弱者。純情可憐」
 最後の台詞が一番の侮辱である。
「本気で折ろうとしたくせに。今更心配するなんて不自然だぞ」
「……悪い」
 つい、謝ってしまう。すると一瞬足が離れ、直後に恐ろしい勢いで側頭部を蹴り飛ばされた。


「い、今のは効いた……!」
「謝るな。怒るぞ」
「わる――」
 最後まで言う前に、再度頭を蹴り飛ばされる。三度目の襲撃を察知して、ヴィクターは
反射的クロルの足首を捕らえて攻撃を阻止した。
「これ以上やられると、俺が脳震盪で失神する」
「嘘つけ。不死身のくせに」
「肩見せろ。冷やした方がいいんじゃねぇか?」
 足を解放すると確実に、しかも数段威力の上がった蹴りが飛んでくるのが容易に予想で
きるため、ヴィクターはクロルの足を捕らえたまま、膝立ちでソファへ移動した。
 クロルが放せとギャーギャー喚くが、いつものように無視をする。
「なんで逃げる」
「うっさい。いい。いらない。くんな」
 単語を四つ並べて拒絶される。これは、相当痛いのだろう。クロルは傷の度合いが
酷い程、相手に隠す傾向があった。
 力加減を間違えただろうか。訓練された男の軍人に比べ、クロルの骨は脆いのかもしれない。
 折れた感触もヒビの入る音もしなかったが、ヴィクターは急に焦りを覚えた。
「痛むのか」
「痛くない」
「何でお前はそうやって見え透いた嘘ばっかり……!」
「うっさい泣き虫! お坊っちゃんが年上面すんな!」
 確かに泣いた。お坊っちゃんと言われても仕方ない。だが、それとこれとは別問題だろ
う。ヴィクターは毅然として暴れるクロルを押さえつけ、むき出しの肩に手をやった。
「よせ! さわんな! いた……」
「ほら、痛いんじゃねぇか」
 クロルが慌てて唇を引き結ぶが、もう遅い。触れると肩から二の腕にかけて熱を持って
いて、明らかに炎症を起こしていた。
「……くそ、やぶ蛇」
 クロルが苦々しく呟いた。
「どれくらい痛む?」
「……動かすと、ちょっと」
「冷やした方がいい。氷を――」
 立ち上がり、踵を返したヴィクターの服を、クロルが慌てて引っつかんだ。
「なんだ?」
「いらない」
「なんで?」
「欲しくない」
「クロル……」
 なだめるように言うが、クロルは手を放さない。氷を当てて冷やすだけの治療の何がそ
んなに嫌なのか、クロルの意思は硬くゆるぎない。
 前に無理やり捻挫の手当てをしたら、一週間口を聞いてくれなかった事があるが、今回
もそうなるのだろうか。
「嫌いなんだよ……人に手当てとかされるの。本当に、いやなんだ……」
「だから、なんでだって聞いてんだ」
 クロルが言い淀んだ。
「そんなん、関係ないだろ。嫌なんだ」
「じゃあ、このまま担いで病院に連れてくぞ」
「くそ! なんだよ、卑怯だぞ! いきなり強気になりやがって!」
「頼む。氷を当てて冷やすだけだ」
「……折れてない」
「知ってる。――俺がやったんだ」
 ヴィクターの服を掴んだまま、クロルが憎憎しげに呻いた。たっぷり数秒悩んでから、
渋々手を放す。

自由になったヴィクターは氷とタオルで即席の氷嚢をこしらえると、完全にふて腐れて
いるクロルに差し出した。
 バスルームに行ったついでに顔を洗ったので、大分気分が落ち着いていた。
「ほんとに、いらないのに……」
 ぶつくさと文句を言いながら、クロルが嫌々氷嚢に手を伸ばす。
 受け取って肩に当てると、冷たい、やら濡れる、やらと更に文句を重ねていたが、
ヴィクターは何とか手当てが出来た事に安堵した。
「明日、病院行けよ」
「やだよ。医者嫌い」
「せめて医務室にいけ」
「あそこは僕のトラウマスペースだから無理」
 トラウマ? と聞き返そうとすると、クロルはじっとヴィクターを見上げた。にやりと
口角を持ち上げて、ぽんぽんと隣を示す。
 促されるまま隣に座ると、クロルはヴィクターの膝に片足を投げ出した。
「……マッサージでもしろって?」
「違うよ馬鹿。まぁ僕の話を聞きたまえ」
「話?」
「ん。えー、ごほん。――昔々のお話です。僕はその時、まだ戦い方も知らない訓練生でした」
 まるで物語を語るような口調である。ヴィクターは何となくクロルの足を揉みながら、
昔々のお話に耳を傾けた。
「僕はその日、戦闘教練で捻挫をしました。とても痛くて、真っ赤に腫れて、まともに歩
けない程でした。あ、そこ気持ちいい」
 クロルから指示が飛び、痛くならない程度に親指で足の裏を押す。
「僕は教官に言われて、医務室に行く事にしました。もちろん、一人でです。医務室には
軍医のお兄さんがいました。お兄さんは僕に足を見せるように言いました。ソファに
座って、丁度今の僕たちと同じような体制です」
 嫌な予感がした。
 クロルの声が場違いに明るい。
「僕はそのまま押し倒されて、逃げようとしても、無駄でした。僕は人に手当てを受ける
のが大嫌いになりました。この日、僕は晴れて処女を失ったのでした」
 ドラマチックでしょ? とクロルが笑う。
 とても笑えるような内容ではないはずなのに、クロルはまるで面白がっているようだった。
「よし、ちょっと軍医ぶっ殺してこよう」
「やめろ短絡思考」
 立ち上がりかけたヴィクターの横腹を、クロルの足が直撃した。鈍痛が襲う。
ヴィクターは悶えるようにソファに座り込んだ。
「なんで蹴る!」
「君が比喩じゃなくて真面目に殺しそうな顔してたからだよ」
「安心しろ。暗殺は得意な方だ」
 自信を持って言うと、今度は鳩尾にかかとがめり込んだ。
「冗談、冗談だ! 人体急所は止めろ!」
 本当は冗談でもなかったのだが、ここでそう言わないとクロルが攻撃を止めてくれそうに無かった。
 訓練生時代と言うと、ヴィクターと出会う前か、出会った直後かのどちらかだ。常々鈍
感だと周りの者にからかわれているが、そんな重大な事件が起こった事にも気づかない程、
自分は鈍感だったのだろうか。
 そんな事をされたと言うのに、クロルは軍人を続け、明るく陽気に振舞っている。強い
女だと思っていたが、ヴィクターが思っていたよりずっと、クロルは強い女のようだった。
 それにしても、右も左も分からない、しかも負傷した訓練生を医務室で強姦するとは、
男として許せない。
 どう料理してくれようか。あれこれと考えをめぐらせていると、クロルが小さく吹き出した。


「いいんだよ、別に。訓練生時代なんて昔の事だし、今思えば上手だったし。戦場で敵兵
に強姦されて失うよりは、僕ははるかにましだと思うよ」
「ましじゃねぇよ! 全然ましじゃねぇ! いいかクロル。処女を失うってのはな、女の
人生の中で一度しかない最も大切な一大イベントの一つなんだよ。男はそのイベントを成
功させるために最大限の努力を払い、最高の思い出にする義務がある! それをお前はト
ラウマにしちまってるんだぞ! 許される事だと思うのか!」
「純情可憐」
 また言われた。
 ヴィクターは渋い顔を作っておし黙り、発散しようの無い憤りと不満をぶつけるように、
クロルの足へのマッサージを再開した。
「よせ、気持ちよすぎて寝そう」
「寝ちまえ! ちくしょう、強がりばっか言いやがって」
「強がりじゃありませんー。本当になんとも思ってないんですー」
 爪先、足の裏、足首からふくらはぎにかけてを丹念に揉み解す。大分疲れが溜まってい
るようだった。そういえば最近、戦闘教練で訓練生に怒鳴り散らすクロルをよく見かける。
 どう考えても白兵戦向きの体ではないのだが、小さなクロルが大柄な男に土を舐めさせ
ると言う場面が訓練生達のやる気を盛り上げているのだろう。
 身体的特徴など関係ない。ようは努力しだいでいくらでも強くなれるのだと。
「ねー、ヴィクター。一個聞きたい」
「あー?」
「さっき、僕に欲情したの?」
 力加減を誤って、足裏のツボに思い切り指が食い込んだ。
 クロルが悲鳴を上げてヴィクターを蹴り飛ばす。ついでとばかりに、溶けかけた氷嚢を
投げつけられた。
「なんって事すんだよ! 今の腕より痛かったぞ!」
「てめぇがとんでもない事聞くからだろ! そんな事聞いてどうする!」
「知りたいんだ」
 クロルがキッパリと言い放った。
「知りたい。気になる。夜も眠れない」
「じゃあ寝なきゃいいだろ!」
 恐らく真っ赤だろう顔を見られたくなくて、ヴィクターは手の平で顔を覆ってそっぽを向いた。
 ネチネチと追求が襲ってくるかと思ったが、クロルは何も言わなかった。
 恐る恐る振り向くと、予想もしていなかった真剣な表情にぶち当たる。
「……知りたい」
 悪ふざけや嫌がらせで聞いているのでは無いのだと気がついて、ヴィクターは困窮して口ごもった。
 なんと答えたらいいのだろう。事実を言ったら軽蔑されるのは目に見えている。
 ヴィクターが何も答えないでいると、クロルは少し、残念そうに眼を伏せた。自嘲気味に笑う。
「なんてね。びびった?」
 ぱっと顔を上げると同時にいつも通りの笑顔を浮かべ、クロルはぽんぽんとヴィクターの肩を叩いた。
「じょーだんだよ! そんな困った顔すんなって! 分かってるよ。僕の痛がる姿を見て
興奮しちゃったんだろ? なぁに、恥ずかしがらなくたっていい。僕はその程度で君を軽
蔑したりしないから」
 隠れサディストって案外多いよね。と、クロルが笑った。ふっとクロルの視線がそらさ
れる。ヴィクターは何も言えなかった。
 事実だった。
 クロルが激痛に眉を寄せ、苦しげにもがく姿に心が滾った。今でさえ、思い出すとゾクゾクする。
「俺は……」
「そーゆー事にしといてよ」
 クロルがのんびりと、不自然な程平然と呟いた。


「皆、僕が任務で男に抱かれてるって知ると、僕の事娼婦みたいな目で見る。僕は任務な
んかより、それが凄く嫌だ。君にまでそう見られて、こいつには強姦が、苦痛を与える手
段として妥当だろうって思われたなんて、思いたくない」
 頼むよ、と唇だけで呟いて、クロルはゆっくりと立ち上がった。
「あーあ、一時過ぎちゃったよ。もう寝ないと。寝室、つかっていいんだよね」
 歩き出そうとするクロルの腕を、ヴィクターは何も言わずに掴んだ。
 クロルが一瞬、怯えたように身を竦ませる。また、ソファに引き倒されるとでも思ったのだろうか。
 数秒の沈黙を挟み、クロルが子供を咎めるようにヴィクターに振り向いた。
「こんどはなに? 添い寝でもして欲しいの?」
「欲情したんだ」
 口の中がからからに乾いていた。胸の奥がひどく痛い。こんな事だから、クロルに純情可憐と言われるのだ。
 座ったまま俯いているヴィクターに、クロルが嬉しそうに微笑みかけた。
「ありがとう。君ってほんと、いいやつ」
「違う! 本当にそうなんだよ!」
「ヴィクター?」
「俺……ほんと、最低だわ……」
 クロルに恋愛感情はない。少なくとも、ヴィクターはそう思っている。それなのに、
部下で、しかも親友のクロルが激痛にもがく姿に情欲を覚えたのだ。
 最低所の騒ぎでは無い。自己嫌悪で吐き気がした。
「ヴィクター。ちょっと顔上げろ」
 クロルの命令するような口調に、思わず言われるままに顔を上げる。
 瞬間、クロルの指が頬を撫で、唇が重なった。呆然とするヴィクターの舌を、クロルの舌が絡めとる。
 クロルの体重を肩に感じた。ずるずると、クロルの腕を掴んでいた手が落ちる。
 すっと唇が離れていって、クロルが勝ち誇ったように笑った。
「奪っちゃった」
「てめ……離れろ! 一体何考えて――!」
 怒鳴ろうとした唇を、再び唇で塞がれる。引き剥がそうとした手が止まった。舌が
絡まり、愛撫するようにクロルの指が首筋をなぞる。
 頭の中が白くなった。理性が追いつかない。
 たまらずクロルの腰を引き寄せて、噛み付くように唇を貪った。唇がわずかに離れた隙に、
クロルがクスクスと楽しげに笑う。
 その笑い声を奪うように唇を押し当てると、しばらくしてクロルが軽くヴィクターの肩を押し返した。
 唇が離れ、いくらか正気を取り戻した頭でクロルを見る。
「ふうん。中々。予想外に上手じゃん」
 クロルがからかうように言った。唾液で濡れた唇の奥から、赤い舌がちらちらと顔を覗かせる。
「どういうつもりだ」
 ほんの少し前に、娼婦のように扱われるのが嫌だといったばかりだというのに――。
 ヴィクターの険しい表情に睨まれて、クロルは不本意なお咎めを受けた猫のように、軽く
肩を竦めて見せた。
「君があんまり無防備だからいけないんだ。そんなんじゃ、唇の一つも奪われる」
「無防備なのはお前だろ! お前、この状況でも俺がなんもしないと思ってねぇか!?」
「僕に欲情した男なら、きっとこの続きもするんだろうね」
 膝の間にクロルの膝が割り込んだ。服の中に細い指が滑りこみ、無数にある傷跡を探るように這い回る。
「証明しろよ。君が本当に僕に欲情したんなら出来るはずだ。傷さえつけなきゃ何
したってかまわない。したいようにすればいい」
 首筋に生暖かい舌が触れた。傷跡をなぞっていた指が離れ、下へ下へと降りて行く。す
ぐにズボンに行き当たり、クロルは器用にボタンを外すと、ファスナーを引き下ろした。
「よせ……性欲処理にお前を使いたくない」
「使えばいい。僕は気にしない」
「親友でいたいんだ……!」
「親友だと思ってるよ」
「クロル!」
「親友じゃなきゃ、こんな事しない。深く考えるなよ。マッサージと同じだ。チェリー
ボーイじゃないんだろ? 僕を気持ちよくしてくれたら、お礼に君を気持ちよくして
あげる。それだけだ」

 昔、聖書で読んだ悪魔の誘惑に似ていた。
 クロルが体重をヴィクターに預け、耳たぶに舌を這わせる。こうやって、クロルは何人
もの男を騙し、任務を遂行してきたのだろうか。
「それともやっぱり、僕なんかじゃ勃たない? 苦痛を与える目的が無かったら、僕なん
て犯す価値もない?」
「そんなわけねぇだろ! どうしてそうやって俺の事追い詰める! 俺が今どんだけ我慢
してると思ってんだ!」
「なんで我慢するんだよ。僕がいいって言ってんだ。こう思えよ。君は僕の性欲処理に
つき合わされてるんだって」
 そんなに簡単に、割り切れるはずが無いではないか。
 だが、これ以上クロルの誘惑に耐え切れるとも思えなかった。クロルの指や唇や、皮膚
の触れた所全てが熱を持っている。
 この体を思う様蹂躙したら、どれ程の快楽を得られるのだろう。想像するだけでたまら
なかった。
 クロルが耳元で、甘い誘惑を囁き続ける。理性を緩やかに突き崩し、理想や倫理を奪い
去る。限界だった。とてもじゃないが、逆らえない。
「くそ……! 歪んでるぞ! お前!」
「男を乗せるのは得意だよ。汚いだろ。嫌なら突き飛ばして逃げればいい。君は僕より強
いから、選択肢は常に君にある」
 恐る恐る、タンクトップの上から探るように胸に触れると、思っていたよりもずっと柔
らかい感触に驚いた。
「君の手、あったかいね」
「あぁ……昔はパン屋になるつもりだった」
「ははっ。どこでどう、間違ったんだか……は、ん……」
 やわやわと、感触を確かめるように小さな乳房を揉みしだく。それだけで、クロルは息
を乱して声を漏らした。満足そうに目を細め、ついばむようにヴィクターにキスの雨を降らせる。
 少しくすぐったい気もするが、それよりも心地よかった。もっと無機質で冷たい行為に
なる事を想像していたヴィクターは、それだけで、行為に対するためらいや背徳感が薄れ
ていくのを感じ、自嘲気味に唇をゆがめた。
「なんだよ、その笑い方。君らしくない」
「この状況自体、俺達らしくないだろ」
布越しに軽く乳首を引っかくと、クロルは小さく悲鳴を上げて逃げるように身を引いた。
落ちそうになる体を、腰を支えて引き戻す。
 演技なのでは無いかと思う程感じやすい。立ち上がってきた乳首を優しくつまみ、指の
腹でこね回すと、クロルは惜しげもなく甘い声を漏らした。
「演技してんじゃねぇだろうな」
「ば、か……言うなよ。任務でもないのに、そんな事、しない」
「ならいいけどな」
「僕が不感症だって言いたいわけ?」
「感じすぎだ。異常に」
 正直な感想を伝えると、クロルはたちまち顔を真っ赤に染めて、怒ったように顔を
逸らした。これも演技なのだろうかと思うのは、クロルの対する侮辱だろうか。
 舌にたっぷりと唾液を乗せて、布地を湿らせるように固くしこった乳首を舐め上げる。
音を立てて吸うと、爪が肩に食い込んだ。

「く……ふッ……ぁ!」
クロルが講義するように、潤んだ瞳でヴィクターを睨む。
 無視して空いた手をタンクトップの中に滑りこませ、二本の指で乳首を挟むようにして
胸を揉むと、クロルが歯を食いしばって息を詰めた。
「んだよ……よそう、がい……ッ」
「何がだ?」
「もっと、下手糞だって……思って……あッ」
 胸を触っているだけで、下手も上手いもあるのだろうか。
 任務を含めて経験豊富なクロルがそう言うのだから、そういう事も在るのだろう。
 十分に堪能してから唇を離すと、タンクトップは唾液でぐっしょりと濡れていた。皮膚
にべったりと張り付いて、布越しにも胸の先端が固く尖っているのがわかる。
 ヴィクターは一旦クロルの腰から手を放し、タンクトップに手をかけた。
「脱がすぞ。腕上げろ」
「いいよ、自分で……」
「言う事きかねぇと破いちまうぞ」
 一瞬、クロルが物言いたそうな目でヴィクターを見たが、すぐに諦めてのろのろと腕を上げた。
 少しずつ、両手でタンクトップをずり上げて行く。服が時々敏感な部分を掠ると、
クロルはそれだけで大げさに反応した。
 黒い布地を鎖骨辺りまでゆっくりとまくり上げると、ヴィクターは形の良い乳房に思わず目を奪われた。
 ヴィクターの手の平よりはるかに小さな膨らみではあるが、クロルが自分で言うとおり、間違いなく美乳である。
 タンクトップをクロルの腕から引き抜いてソファの後ろに放り捨て、ヴィクターは鎖骨
から乳房にかけて指先を滑らせた。
 ろくに肌の手入れも出来ない軍隊生活では、美しい肌を保つ事など不可能だろう。
ヴィクター程では無いにせよ、傷もそれ相応にある。
 それでも、綺麗だと思った。触れる場所全てが柔らかく、触れているだけで満足だとさ
え思う。舌先で傷をなぞると、クロルが苦しげに小さく喘ぐのが聞こえた。
「焦らすな……性格悪いぞ」
「そんな高等な事出来るか。どれくらいぶりだと思ってんだ」
「だって……」
 クロルが焦れたように舌打ちし、ヴィクターの手をとって下半身へ導いた。
「ボタン、外せ。ファスナーも」
「おう」
 言われるままごついボタンを外し、ファスナーを引き下ろす。その状態で次の指示を
待ってると、クロルが突然ヴィクターの肩に噛み付いた。
「痛ってぇな!」
「うるさい! 天然か!? それともただの変態か!? 僕に言わせないと気がすまないのかよ!」
「待て、落ち着けなんの話しだ。言われた通りにしただろうが」
「その意味を考えろよ! なんのためにはずさせたかくらい察しろよ逆行形童貞が!」
 凄まじい暴言である。
 だが、何のためにかと言われると、思い当たる事は一つしかない。あぁ、そうか。
ヴィクターは内心、拳と手の平を打ち合わせた。
「なんだ、触って欲しかったのか」
 今度は拳で思い切り頭を殴られた。
「なんで殴る!」
「うるさい。もういい!」
「怒るなよ」
「怒るだろ普通! そんなんだから恋人が出来ないんだよ!」
 全く意味が分からない。
 ヴィクターはぶつくさ文句を言いながら、クロルのズボンを下着ごと、腿半ばまでずり下ろした。

 すべすべとした腿を撫で、クロルの反応を探るように内側に手を滑らせる。色素の薄い
茂みの奥に指先が到達すると、そこは既にじっとりと濡れていて、指を滑らせるとぬるぬ
ると愛液が指に絡みついた。
「濡れてる……」
 うっかり言ってしまってから、また殴られるのではと思ったが、どうやらそれは杞憂に
終わった。クロルが動く気配は無い。
 中指の半ばまで指を埋めると、あっさりと飲み込んでゆるゆるとヴィクターの指を締め
付けた。
「痛くねぇか?」
「処女……相手にしてんじゃ、無いんだぞ……」
それならばと、一本指を増やして軽く中をかき回す。するとクロルはヴィクターの首に
腕を回し、縋り付くように髪を掴んだ。
「あ……そこ、もっと……」
「ここ?」
「あ……ッ。そう、そこ……あぁ、や、もっと、ちゃんと……」
 もう少し、乱暴に扱っても大丈夫という事だろうか。完全に首にしがみ付かれてし
まっているから、クロルの表情は伺えない。
 悩んだ挙句にクロルに指示された位置を重点的に責めながら、親指の腹で入り口の肉芽
を押しつぶすと、クロルが驚いたように身を引いてヴィクターの腕を掴んだ。
「馬鹿! よせ、ヴィクター! そこ、触んな!」
「へぇ……そんな顔するのか。なる程」
 怯えたような、懇願するような、そんなクロルの表情に苛虐心がくすぐられる。
 クロルの制止を無視して指を動かし続けると、たちまちクロルの全身から力が抜けて、
抵抗らしい抵抗が無くなった。
 苦しげにいやいやと首を振り、逃れようと弱々しく身を捩る。そのまま胸の突起に
しゃぶりつくと、クロルが泣きそうな声を出した。
「よせ、よせヴィクター……! やだ、いく……やだ、やだ! や……ッ!」
 クロルの膝ががくがくと震え、首の後ろに抉られる程深く爪を立てられる。仕返しのつ
もりで口に含んだ乳首に軽く歯を立てた瞬間、クロルはヴィクターの頭を抱え込むように
して全身を引きつらせた。
 同時に、痙攣するように指が何度も締め付けられる。
 数秒置いて、崩れるようにクロルがへたり込んだ。
 中をかき回していた指を引き抜く。透明な粘液が糸を引き、ふと見ると手の平まで
べっとりと濡れていた。
「……指でいかされた……屈辱」
 乱れた呼吸を整えながら、クロルがぼんやりと呟いた。
「ひでぇ言い草だな」
「屈辱……」
 疲れ切ったように、繰り返し呟く。
 クロルはのろのろと一旦立ち上がり、身につけている物を全て脱ぎ去ると、改めて
ヴィクターに圧し掛かった。
「君は服、脱がないの?」
「そんな暇なかっただろうが。それともあれか、他の男はあの状況でも気がつくと脱いで
るもんなのか」
 だとしたら、自分にそんな器用な真似は一生できそうにない。
「んー……そうでもないかな」
「よかった。ストリッパーに弟子入りする必要は無さそうだ」
 ヴィクターが天を仰ぐと、クロルが小さく吹き出した。
「君のストリップか。興味あるね」
 くすくすと笑いながら、ヴィクターの下半身に手を伸ばす。既に充血し硬くなっている
物を見つけ出すと、クロルはそれを取り出そうと下着の中に指を滑りこませた。
「お、おい!」
「硬い…・・・けど、まだおっきくなりそう……もういれていい?」
 ねだるようにクロルが聞いた。


 絡み付いてゆるゆるとしごき上げるクロルの指に急き立てられ、今すぐにでも突っ込み
たい衝動に駆られる。だが、ヴィクターはその衝動を押し殺した。
 クロルが答を急かしてヴィクターに何度も口付ける。
「ねぇ、いいでしょ? 僕、早く欲しい……ねぇ、ねぇ」
「まてまてまて! ちょっと手ぇ放せ!」
「一回抜いといた方が長持ちするよ?」
 暗に手に出せと言っているのだろうが、何故かそれはプライドが許さない。
 ヴィクターは無理やりクロルの手を引き剥がし、まんまと誘導されつつあった射精への
欲求が収まるまで数秒間目を閉じた。
「目、閉じても収まるもんじゃないと思うけど……」
「うるせぇ。なぁ、ベッドいかねぇか? ソファだと窮屈だろう」
 突然の提案に、クロルがきょとんとしてヴィクターを見返した。そして軽く左右に首を振る。
「無理。僕、寝室まで歩けないもん」
「おいおい、一体誰に物を言ってんだ? 歩けない奴は担ぐのが軍人ってもんだろう」
 何を今更言うのやら、クロルを担いで走り回る事くらい、ヴィクターにとっては猫を
抱えて走る事と同義である。
 にやりと口角を持ち上げて、ヴィクターはクロルを抱えて立ち上がった。下半身が若干
窮屈だが、歩けない程ではない。
「うわ……お姫様抱っこだ」
「そんな乙女チックな単語を知ってるとは思わんかった」
 言ってしまってから後悔する。
 案の定、両手の塞がったヴィクターの頭に連続して拳が飛んだ。
「なんかこれ、気恥ずかしいね」
「誰に対してだよ。誰も見てねぇだろ」
「自分に対してだよ。僕だけ服着てないし」
「自分で脱いだんだろうが」
「君だって脱がしただろ!」
 そう言えば、脱がしたような気がしないでもない。
 そんなとぼけた事を考えながら寝室の戸を開けると、室内は明るかった。先程、クロル
が立て篭もった時に電気をつけたのだろう。
 こういう時は明かりを消した方が良かったのだっただろうか。ヴィクターがスイッチに
手を伸ばすと、クロルが慌ててその手を制した。
「消さなくていい」
「なんで?」
「君を見てたい」
 この女、なんて事を真顔で言うのか。
 危うくクロルを落としかけて、ヴィクターは慌てて持ち直した。クロルがヴィクターの
顔を見て、意外そうな顔をする。
「あれ? 照れたの? 顔真っ赤」
「うるせぇ!」
 短く吼えて、クロルをベッドに放り出す。
 シャツを脱ぎ捨てて横たわった体に覆いかぶさると、クロルが静かにヴィクターの背に腕を回した。
「……今更だけど、痛くする?」
「しねぇよ。本当に今更だな」
「そっか……よかった。実は僕、痛いの嫌いなんだ」
 少しだけ、ばつが悪そうにクロルが笑った。
 今の今まで、ずっと痛めつけられる事を意識しながらヴィクターに体を預けていたと言うのだろうか。
 そう思うと突然、今まで漠然としか思っていなかった“優しくしてやろう”という気持ちが大きくなる。
 自分でも驚く程固く張り詰めた物をズボンの奥から取り出して、ゆっくりと入り口にあてがった。
「いいか、何度も言うようだが、マジで久々なんだ。痛かったらすぐに言えよ」
「処女じゃないんだ。大丈夫。だから早く……我慢できないよ」
 クロルが早く早くとせがむように、腰を前に突き出した。先端が柔らかい肉壁に埋まり、
ぞくぞくと背筋を快感が駆け抜ける。
「……待て、俺ゴムつけてねぇ」
「いらないよそんなもん! 任務で男とやってる女が避妊してないわけないだろ!」
 そういえばそうかもしれない。
 クロルの許しが出たのでそのまま腰を進めると、クロルの表情が苦悶に歪んだ。

「おい、痛いなら……」
「黙れチェリー! くそ! 息子まで図体そっくりかよ……!」
 褒められているのか貶されているのか、微妙な発言である。表情に似合わず大丈夫そう
なので更に腰を深く埋める。
 思わず女のような声が漏れそうになった。やはり、手で処理するのとは全く違う。一旦
全て埋め込んでから、抜くギリギリまでゆっくりと引き抜くと、クロルが苦しげに喘いだ。
 縋るように、背に回された腕に力がこもる。再び奥まで突き入れると、今度はヴィクターが
声を漏らした。
「クロル……そんな、締めんな」
「知らないよ! そんなの、君のがデカすぎるんだろ!」
「なんで怒るんだよ!」
「うるさ、うるさい……あぁ、も……くそ……!」
 クロルが涙目になりながら悪態をついた。どう見ても辛そうなのだが、ここで止めたら
どんな修羅場が待ち受けているかわからない。
 どうしたもんかとその状態で考えていると、背中に回っていた腕がするりと落ちて、
クロルが弱々しくヴィクターの胸を叩いた。
 顔をそらされているため、身長差も手伝って表情は伺えない。
「……焦らすな」
「え、あ……いや、でも……」
「なんど、も……言わすなよ! 動けよ、早く……お願いだから……」
「だから、いてぇなら無理はす――!」
 無理はするな、といい終える直前に、腹に激しい鈍痛が襲ってヴィクターは思わず身を引いた。
 喉仏を親指で押さえられると同時に体を支えていた腕を強く引かれ、逆らえずベッドに
仰向けに転倒する。
反射的に、手が枕の下に隠した銃に伸びていた。これがクロルの襲撃だと理解していな
かったら、反射的に発砲する所である。
「クロ――」
「動くな!」
 クロルが潤んだ瞳で鋭く睨み、ゆっくりとヴィクターの首を開放した。真っ直ぐに視線
を絡めたまま、クロルがゆっくりと後退してヴィクターの腹に両手を付く。
「おい、お前何やって……」
「君が動いてくんないなら、自分でやるしかないだろ……! もう、これ以上君にまかし
といたら、僕がどうにかなっちゃうよ……」
 言いながら、クロルがゆっくりと腰を落として行く。きゅうきゅうと締め付けながら、
奥へ奥へと誘い込まれる感触に、ヴィクターはぞっとしてクロルの腰に手をやった。
「は……ほら、こっちのが……奥まで、くる……」
 クロルが満足げに笑い、ゆっくりと腰を揺らし始めた。すぐにでも中にぶちまけてしま
いそうで、ぐっと歯を食いしばる。
「あぁ、ん……く……ぁ!」
 探るようにゆっくりとしていたクロルの動きが、少しずつ早く、大きくなりつつあった。
 ヴィクターの脳裏から、気遣いや遠慮が急速に失われていく。クロルの腰を両手で
掴んで抉るように腰を突き上げると、クロルが甘い悲鳴を上げた。大丈夫かと不安になる程
乱暴に腰を突き上げると、すぐにクロルの中が激しく収縮を繰り返した。
 あぁ、いったんだろうな、と頭の隅で思いながらも、ヴィクターは行為を中断する事が
出来なかった。
 クロルが驚いたようにヴィクターの名を叫ぶ。だが、ヴィクターは聞こえないふりをし
た。クロルの声に切羽詰った息遣いが混じり、ヴィクターから逃げようと、繋がったまま
身を捩る。

「や、やぁ……も、や、ヴィクター! ヴィク……タ、ゆるし……あぁああぁ!」
 立て続けにもう一度、クロルが絶頂に達してのけぞった。
 同時に、ヴィクターもクロルの中に思い切り注ぎ込む。腰が砕けそうな射精感に全身の
力を持って行かれ、ヴィクターは全てをクロルの中に吐き出すと、息も整わぬままベッド
に乱暴に倒れこんだ。
 繋がった状態のまま、クロルもヴィクターの胸に倒れこむ。
 しばらくは、二人の乱れた呼吸の音だけが部屋に響いていた。クロルは一言も発しない。
 怒っているのだろうか。どう考えても最後の方は、優しく出来たとは思えない。
 恐る恐るクロルの頭を軽く撫でると、クロルが嫌がるように身じろぎした。
「……やめろって、言ったのに……」
 やはり怒っている。いや、怒っていると言うよりも拗ねていると言うべきか。
「聞こえなかった」
「嘘つけ。死ぬかと思った……」
 クロルが一度達してから、それ程経たずに射精したつもりなのだが、クロルからしてみ
ればそうでもなかったらしい。
 クロルを胸に抱いたまま半身を起こすと、クロルが小さく喘いでびくりと肩を震わせた。
「ばか、まだ、中入ってんだから……変に動くな。っつか、なんでまだ硬いんだよ……!」
「さぁ……いつもは一回抜きゃ収まるんだがな」
「……もう一回とか言っても、だめだぞ。明日仕事できなくなる」
 もう一回か。
 考えもしていなかったが、それもいいかもしれない。ヴィクターが考えるような表情を
見せると、クロルがしまったと口を押さえた。
「じゃ、もう一回」
「やだ! やだよふざけんな! 明日歩けなく……」
「じゃあ、休暇にしといてやるよ」
 直属の上司とは、こういう時に便利である。クロルが言い訳を失って、懇願するように
ヴィクターを見た。
「……やだ」
 視線を外して呟いたクロルの首筋に、唇を滑らせる。するとクロルが慌てたように
ヴィクターの顔を引き剥がした。
「言っとくが、俺にこの味を思い出させたのはお前だぞ」
「ぼ、僕はしょ……証明して欲しかっただけだ! もう、これで十分わかったから、もう、
終わり! おしま……ひぁ! ば、ばか! 動くな、よせ! や……だめ、だめ……!」
 クロルをベッドに押し倒し、暴れる体を押さえつけて奥の方まで突き立てる。クロルが
罵詈雑言を喚き散らしながら、ヴィクターの首にしがみ付いた。
 その腕の拘束を潜り抜け、胸元に舌を這わす。鎖骨の辺りに唇をあて、音を立てて吸う
と、クロルがじたばたともがいた。
「よせ! あ、痕……つけんな……!」
「制服に隠れる。誰もみねぇよ」
「だめ、だめだ! だぁ、め……きょうか……んに、怒られ……」
 確かに、クロルが目立つ所にキスマークをつけて歩いていたら、男などに現を抜かすと
は……などと怒り出す者がいないとも限らない。
 実際、軟弱な事が大嫌いな軍人が、クロルの教官の中には一人いる。やたらと声のでか
い、厳格で迷惑な爺である。
 そう考えると無理やり痕をつけるのも申し訳ない気がして、ヴィクターは胸にひとつだ
け付けた痕だけで満足し、クロルとの行為に没頭した。

 次の日の朝、クロルに頬が真っ赤に腫れるほどの勢いで殴られたとか、軍医が何者かに
襲撃されるという事件が起きたというのは、また別の話。

                               終わり

673 :名無しさん@ピンキー:2007/02/09(金) 12:16:17 ID:btIu34G0
ファンタジー
エセ軍人者
エロ未到達
投下させていただきます

 正午を少し過ぎた辺りだろうか。
 窓から降り注ぐ柔らかな日差しに、クロルはぼんやりと目を開けた。
 目を擦ろうと腕を上げかけ、首筋まで響く激痛にギクリとする。
「……くそ、いっそ折ってくれりゃよかったのに」
 吐き捨てるように悪態をつき、腕をさすりながらベッドを出ると、胃袋が盛大に空腹を主張した。
 肩の負傷を理由に一週間もの長期休暇を賜ってから、二日目の朝――否、昼である。

 ヴィクターとの取っ組み合いに近い情事から一晩明けて、クロルは左腕が全く動かせな
くなっていた。動かさなければどうという事は無いのだが、動かすとなると胸まで腕が上
がらない。その状況にヴィクターは閉口し、完治するまでの一切の仕事を禁止した。
 横暴だと喚いてみても、事実腕が動かせないのだから仕事などできようはずもなく、結局の所現在に至る。
 クロルが遂行するはずだった任務は、珍しく有能ぶりを発揮したヴィクターによって丸く収まったらしい。
 クロルの任務中の負傷と言う情報に踊らされた同僚や部下達は、仕事の暇を見てクロルの見舞いに訪れた。
 大した怪我でもないのに心配をかけて、申し訳ない限りである。
 積み重なった果物や酒の中からリンゴを選び出してかじりつき、クロルは眠たげに窓の外に視線を投げた。

 ――実に、いい天気である。
 
 ふと、部屋に軽やかなノックが響いた。
 こんな時間に来客とは、見舞いにしても珍しい。もしゃもしゃとリンゴをかじりながら、クロルは扉へと歩み寄った。
 だがクロルが招き入れるより先に、扉が勝手に開かれた。ドアノブに伸ばしかけた手が間抜けに止まる。
 この、人がドアを開ける前に勝手に入ってくる癖を、クロルはよく知っていた。
 なんど注意しても飄々とするだけで、改めようとしてくれない。
 目に入った胸の階級章に促されるように視線を上げて、クロルは呆然とその温和な表情を凝視した。
「うぃる――ウィルトス教官!?」
 ごとん、と音を立ててリンゴが落ちた。突然の来訪者が、ひょいとそれを拾い上げてクロルに返す。
「ちょっと時間が出来たので、お見舞いに来ました。本当は昨日のうちに来たかったんで
すが、どうしても時間が作れなくて……」
 長身の、有体に言ってしまえば軟弱そうな青年が、すまなそうに眉根を寄せてかりかり
と赤茶けた髪を掻き乱した。
 ウォルンタリア連合国第一師団参謀――ウィルトス少佐。クロルの元教官である。
「って……うわ、僕パジャマじゃん! 申し訳ありません、今すぐ着替えて――!」
「いえいえ、いきなり来たのは僕ですし、怪我人が寝巻きなのは当然です。どうぞおきになさらず」
「でも……」
「大丈夫。よくお似合いですよ。所でお見舞いにケーキがあるんです。中でご一緒しても構いませんか?」
 すい、と部屋の中を指差して、ウィルトスが入室を乞う。そしてまた、クロルが入室を
許可する前に、当然のように上がりこんだ。
 もとより、クロルに拒絶の意思は無いのだから別に構わないのだが、ウィルトスはよそ
でも平気でこれをやる。常識外れである事は自覚しているらしく、洒落にならない場面で
は自粛しているらしいのだが、ウィルトスにとっての洒落にならない場面と言うのが極端
に少ないため、周りのものはいつもひやひやさせられてばかりいた。
「さて、それじゃあお茶をいれましょう。クロルさんは怪我人らしく、ソファでくつろいでてください」
「あぁ! お、お茶だったら自分が――」
「だめです。僕がいれます。譲りません」
「いえ、しかし……」
「はい、これ。ケーキです。きっとおいしいです」
 ずい、と差し出されたケーキの箱を思わず受け取ってしまい、クロルは軍服のまま
ティータイムの用意を始めたウィルトスの後姿を引き止める事ができなかった。

 仕方ないので言われた通りソファに座ってウィルトスを待ちながら、クロルは箱を
開けて中のケーキを覗き込んだ。
「うわぁ。サーナビルムだ」
 比喩表現ではなく、きらきらと輝いているホールケーキを前に、クロルは小さく感嘆の声を上げた。
 連日少女達が行列を作り、夕刻には売り切れで閉店してしまう有名店のケーキである。
時間的余裕のない軍人がそんな商品を買い求められるはずも無く、クロルもここのケーキ
は一度しか食べた事が無い。
「おや、知ってましたか。さすが、クロルさんも女の子ですね」
 キッチンで水を火にかけながら、ウィルトスが楽しそうに言う。
「どうやって手に入れたんですか? まさか、並んだわけじゃないですよね」
「はい。僕は並んでません」
 つまりは、“僕”以外の誰かが並んだと言うのだろう。
「……誰が並んだんですか?」
「バルスラー二等兵です。見た所退屈そうだったので、お使いに行ってもらいました」
 クロルが知る訓練生の中でも、飛びぬけて人相の悪い巨漢である。
 反抗的な態度が目立つ男だが、恐らく適当にやっている所をウィルトスに見咎められ、
懲罰の意味を込めてケーキを買いに走らされたのだろう。
 フリルとレースで完全武装した少女達の集団に混じってケーキショップの列に並び、
無事生還を果たしたバルスラーには勲章が贈られてしかるべきではないだろうか。
 このケーキ、心して食わねばなるまい。
「彼は――」
「バルスラーですか?」
「クロルさんの事が好きなんですねぇ」
 ウィルトスの楽しそうな声色に、クロルは音も無く固まった。
 バルスラーが? いや、それだけは無いだろう。他の誰に愛されていたとしても、バル
スラーにだけは好意をもたれている気がしない。
 だが、ウィルトスはほとんどの場面に置いて、間違った事を言ったためしがなかった。
 冗談だろうか。それとも混乱を誘って遊んでいるのだろうか。激しく苦悩する部下をよ
そに、ウィルトスは暖めたティーカップをテーブルに並べ、クロルの隣に腰を下ろした。
カップにミルクを先にいれ、後から紅色の液体を注ぎこむ。
「教官が気に食わないから、やる気がでなかったそうです。例え欠片程の色気も無い女で
も、ごつい男よりはずっといいと言っていました――知ってましたか? いま、君の教え
子をしごいているのはヴィクター少佐です」
「ヴィク――ター少佐殿が、でありますか……」
 思わず呼び捨てようとして、クロルはすんでの所で留まった。
「はい、他の任務をほったらかして」
「あん――ッの」
 糞馬鹿が、と心の中で罵って、クロルは即座に殴りに行きたい衝動を押さえ込んだ。
 ウィルトスがクロルの様子を楽しげに見つめ、ケーキを皿に取り分ける。
「怒らないであげてください。彼なりに頑張ってるんです。――なぜかは知りませんが、
クロルさんの負傷にいたく責任を感じている様でして」
 ぎくりとしたクロルの前に、真っ白なクリームと桃の果肉で飾られたケーキが差し出される。
 召し上がれ、と言われて逆らうわけにも行かず、クロルは平静を装ってフォークをスポンジに突き刺した。
「肩の捻挫と聞きました。見た限り、聞いていたよりは大分具合が良さそうです。安心しました」

「あ……はい。昨日は腕が全然上がらなかったんですけど、もう大分いいんです。元々
大した事無かったんですけど、ヴィクター少佐が大騒ぎして……」
「なる程。彼はクロルさんの事になると一切手を抜きませんからね」
 妙に含みのある言い方である。
 様子を伺うように視線をやると、ウィルトスはふと、思い出したようにクロルを見た。
「ちょっと嫉妬してます。彼はこんなにも貴方への愛情を行動に示せるのに、僕は貴方に何一つ示せません」
「……は?」
 上官に対する態度では無いだろう。
 だが、どうにも聞き流しがたい事を言われたような気がしてならなかった。
 さっきこの男は、確かバルスラーがどうとか言っていたのではなかったか――。
「あの、教官?」
「なんでしょう」
「教官は、凄く忙しいのに会いに来てくださいました。僕、それだけで嬉しいです」
 とりあえず、ヴィクターうんぬんについて触れるよりは、ウィルトス本人の行動について
触れておいた方が妥当だろう。
 ここしばらくプライベートで顔を合わせる事はなかったし、無理に時間を作って会いに
来てくれた事は、本当に抱きつきたくなる程嬉しく思う。
 ウィルトスは何を感じた風もなくクロルを見つめ、また、ふと思い出したように――今度はケーキに取り掛かった。
「ヴィクター少佐は、お見舞いに来ましたか?」
 見舞いと言うか、昨日は同じベッドで朝を迎えた。その後任務の振り替えに走り回って
いたヴィクターは一度もこの部屋に来ていなかったが、これは、来ていないと言っていい
のだろうか。
 来てないから、いいのだろう。
「来てません」
 ウィルトスが驚いたように振り向いた。
「来てないんですか?」
「はい、来てないです」
「どうして?」
「忙しいから……じゃ、ないかと……」
「じゃあ僕は暇人ですか?」
「いえ、誰もそんな事は……」
 明らかに、気分を害したようだった。
 難しい性格だ。ヴィクターとは比べ物にならない程扱い難い。と言うより、ウィルトス
を扱う事など永遠に出来そうにもない。
 クロルは難しげな表情を浮かべて押し黙ってしまったウィルトスを、どうなだめていい
かわからずしばらく沈黙し、結局どうする事も出来ずに生クリームのたっぷりのったケーキを一口食べた。
「――嫌な仮定を、一つ思いつきました」
 クロルは胃が痛み出すのを感じた。
 あまり聞きたくない類の仮定である事は間違いない。
「ちょっと失礼します」
「は……は?」
 ウィルトスの指がすいとこちらに伸ばされて、クロルは何事かと目を瞬いた。
 パジャマの一番上のボタンが外される。
 ぞくりと、背筋に悪寒が走った。
「きょ、教官!」
 叫んで身を引こうとしたクロルの胸に、とん、とウィルトスの指先が突きつけられた。
 鎖骨の下。やや、心臓より。
「鬱血の痕です。この場所に痕をつけるには、大概の場合服を脱がないと無理です。開襟
のパジャマでも、ボタンを一つ外す必要がありました。ですがここ数週間、君にその手の
任務は与えられていないはず」
 ――だから、痕をつけるなと言ったのに。

「こ……これは……」
「二、三日前の物でしょう。クロルさんが負傷した日と重なります。実は疑問に思ってい
ました。戦闘教練で負傷したわけでは無いとバルスラー二等兵から聞いてから、貴方は何
処でその肩を負傷したのか」
 ――あぁ、確認に来たのか。
 疑問を持ったら、それを解決しなければ食事も出来ない男である。
 その明晰な頭脳で信じがたい量の可能性を考えて、その中から最もありえそうな仮定を
選び出し、その確認のためにこの部屋に来たのだろう。
 見舞いの大義名分を携えて。
 そしてウィルトスは、クロルのある発言をもって仮定を確信に変えたのだ。
 クロルは内心、自分がひどく落胆するのを意識した。
「その日、ヴィクター少佐は溜め込んだ書類の整理のために書斎に缶詰だったと聞きます。
そして君は、ヴィクター少佐を手伝って彼と書斎にいたはずです。勤務時間内には終わら
ずに、君なら彼の部屋を徹夜の場に選ぶでしょう」
 忙しい時間の合間を縫って、よくも調べ上げた物だ。
 ウィルトスが解を導き出すまでの証明を聞きながら、クロルは控えめに俯いた。
「だとすると、その日君に怪我をさせられる人物は一人しかいません。その肩は
ヴィクター少佐が原因で、このささやかな所有権の主張も彼がつけたもの――と、僕は
そんな仮定を思いつきました」
 そして、彼はいつもこう締めくくる。
「正解ですか?」
 俯いたまま、クロルは小さく苦笑した。
 ――もう、確信してるくせに。
 そんな言葉が頭に浮かんだ。
「どうしていきなり、そんな仮定、思いついたんですか?」
「でなければ、ヴィクター少佐がまじめに仕事なんかして、クロルさんのお見舞いに来な
いなんてありえません。関係をもってしまって気まずいのか、それともその肩に後ろめた
さを感じているのか、彼は君を避けてるんでしょうね」
 避けられているのか。
 純情可憐なヴィクターらしい。
「正解です。僕がヴィクター少佐に喧嘩を売って、あっけなく腕を取られて捻られました。
その後、いろいろと理由をつけて、少佐に抱いてもらいました。ヴィクター少佐は次の
ターゲットに少し似ていて、彼を練習代にしたんです」
 やや歪めた事実をウィルトスに与え、クロルは溜息さえ付いて力なく微笑んだ。
「ヴィクター少佐に非はありません。全部僕が悪いんです」
 これで、ウィルトスの疑問は解決した。ついで程度に考えていたクロルの見舞いも、もう済んだ。
「それじゃあ……そこまで見送ります。忙しいのにわざわざ会いに来てくださって、
ありがとうございました。動機は不純でしたけど――嬉しかったです」
 立ち上がると、ウィルトスがきょとんとした表情でクロルを見上げた。
 立ち上がる様子もない。
「……あの、教官?」
「まだ帰るとは言っていませんが」
「……帰らないんですか?」
「僕、今日は半休を取ってしまったので、ここで追い返されると非常に暇です。困ります」
 唖然として、クロルは無礼にもウィルトスをまじまじと見下ろした。
「だけど、ここにはその、確認に来ただけなんじゃ……」
「それはついでです。主目的はもちろんクロルさんのお見舞いです」
「そー……ですか」
 呆然と呟いて、仕方なく再びソファに座る。
 ウィルトスは何事もなかったかのようにケーキを食べ、あぁ、本当においしいですね、
などととぼけた事を言っている。
 どうも、わけが分からなかった。
 見舞いが主目的で、確認がついでで、半休を――。


「半休!?」
 クロルは愕然とウィルトスを見た。
「教官、休み取れたんですか!」
「はい。師団長に四六時中文句を言ったら、泣きながら半休をくれました。これもクロル
さんの怪我のおかげです」
 クロルの見舞いを理由に休暇を取ったのだろうか。
 師団長を泣かせる様な文句がどういった物か興味が湧くが、聞くと師団長への哀れみで
泣いてしまいそうな気もする。
「なので今、僕はこの持て余している時間を大安売り中です。お買い得です」
 この人、時給換算で給料いくらもらってるんだろう。
 そんな疑問が浮かんだが、クロルは慌てて考えるのをやめた。自分の仕事が惨めに思え
てきそうだからである。
「ちなみに、おいくらでしょう」
 恐る恐る聞いてみる。
 ウィルトスは一瞬、考えるような仕草を見せると、すっと両腕を開いた。
「ハグしてください。それで、一時間売りましょう」
 良識的な要求にほっとした。
「そんなんでいいんですか」
「大安売りですから」
 買わなきゃ損です、と胸を張るウィルトスに、恐る恐る両腕を伸ばす。
 失礼します、と呟いて背に腕を回すと、ぬいぐるみでも抱くように思い切り抱きしめられた。
 かすかに男物の香水の香りがする。少し、控えめすぎるだろうか。
 ウィルトスの頬が髪に押し付けられ、子供のように背を撫でられる。
 こんな所をヴィクターに見られたら、数週間はお嬢ちゃんと呼ばれるだろう。主観的に
考えても、これは兄に甘える妹である。
「ところでクロルさん」
 およそムードとはかけ離れる事を考えていると、ウィルトスにのんびりと名を呼ばれた。
 閉じていた目を開き、体を離そうとしておや、と思う。
 動けなかった。
 ウィルトスの腕が、はっきりとした意思を持って解けない。
「あの、教官……」
「さっきの話の続きなんですが、僕は今、激しい嫉妬に燃えています」
 実に暢気な声色である。とても嫉妬に燃えている男の声とは思えない。
「し……嫉妬ですか?」
「君は人間関係において、非常に冷めた面があります。人と一線を引く事を忘れません。
言ってしまえば、君は殆どの人間を信頼していない」
「はぁ……」
 信頼に足る人間を、ただ選んでいるだけなのだが。
「そんな君が、ヴィクター少佐にだけは心を許す。彼を気遣い、彼を庇うために僕に対して嘘までついた」
「嘘なんて――!」
「君は本当に……」
 す、とクロルを拘束する腕が解けた。
 困ったように、笑う。
「ヴィクター少佐の事が好きなんですねぇ」
 唖然として、クロルはウィルトスの笑顔を凝視した。
 咄嗟に言葉が出てこない。
 残念そうな、つまらなそうな、そんな溜息をウィルトスが吐いた。

「君たちは本当に、運命的に相性がいい。君たちが惹かれ合うのは、最初から分かって
いました。考えていたよりも遅いくらいです」
「ち……ちが、違います! そんなんじゃありません!」
 ようやく出てきた否定の言葉に、クロルは勢いづいて立ち上がった。
「確かに僕はヴィクター少佐が好きですし、少佐になら抱かれてもいいって思いました。
でも、あくまで抱かれてもいいってレベルです。それに、ヴィクター少佐は凄く嫌がって
――本当に、僕が無理やり犯したって感じなんです!」
 だから、惹かれ合ってなどいない。
 ただお互いの利害が一致して、クロルが持ちかけ、ヴィクターが折れた。それだけだ。
「君の力で、ヴィクター少佐を無理やりどうこう出来ますかねぇ」
「だから! あいつは優しくて、極限にいいやつで、僕がどうしてもって言って引かな
かったから我慢して僕に付き合ってくれたんです!」
 実際、あれがクロルでなくても、恐らくヴィクターは折れた。
 否、クロルでなければ、もっとあっけなく折れただろう。クロルはパジャマの胸元を握
り締め、睨むようにウィルトスを見た。
「だから、教官が嫉妬するような事ありません。僕も、少佐も、お互いの事恋愛の対象と
してなんて見てないんです」
「なに、それはその内分かります。そんなに怒らないで、とりあえず座ってください、お
茶を入れなおしましょう」
 なだめるように、ウィルトスが微笑んだ。
 クロルは無言のまま、微動だにしない。
「だけどクロルさん」
 ティーポットを持って、ウィルトスが立ち上がった。
 キッチンへと向かい、クロルに背を向ける。
「バルスラー二等兵との関係については無視できたのに、ヴィクター少佐に話が及ぶとそ
んなにもむきになる――それが、君の感情を何よりも証明してると思いませんか?」
 思わず、顔を上げた。
 背を向けたウィルトスの表情は分からない。
「それは……だって、少佐は、親友だから……」
 言い淀むクロルをよそに淡々とポットを火にかけ、ふと、ウィルトスは振り向いた。
「いけない。大事な事を忘れてました」
 一言呟き、立ち尽くす事しか出来ないクロルにつかつかと歩み寄る。
 そのまま両肩を掴まれて、ソファに向かって押された。
 倒れこむように座り、肩の痛みに意識を取られる。瞬間、胸にチリリと熱が走った。
鎖骨の下、やや心臓より。
「きょ……教官!?」
 驚いて、思わず叫んだ。
「これでよし」
 満足げに呟いて、ウィルトスが離れる。
 胸に残る唇の感触に、クロルははだけた胸元をかき合わせ、声も出せずに赤面した。
「おや、可愛らしい反応」
「からかわないでください! な、なんですか! いきなり! なんなんですか!」
「ささやかな独占欲です」
「どく――」
 あったのか、そんな物。
 思った瞬間、はっとしてはだけた胸元を見る。
 先ほどよりも、鮮やかに紅い――。
「あ……」
「僕はね、クロルさん。ただ奪われるなんて嫌です。ただ君が奪われていくのを蚊帳の外
で眺めているなんて、僕には我慢できません」
 唇を拭う仕草が、ひどく色っぽく見える。
 クロルは思わず視線を反らした。
「今まであまり特権を行使した事はありませんが、これからは恋人と言う立場をおおいに
利用していこうと思います。いいですか?」


 例え駄目だと答えても、ウィルトスは聞こえないふりをして強行するに違いない。
 クロルはウィルトスの言う恋人の特権とはどういった物なのか考え、すぐに考えても無
駄だという結論に行き着いた。
 どうせ拒否権は無いのである。
「お湯が沸きました。それじゃあ、お茶にしましょうか」
 いつ来るとも知れぬ不意打ちに備え、パジャマのボタンを留めなおしているクロルをよそに、
ウィルトスはのんびりと微笑んだ。

 ***

 クロルが担当していた訓練生の教官代行を遂行するのは、他ならぬヴィクター本人であった。
 通常ならば佐官のヴィクターが訓練生を指導する暇などあるはずもないのだが、その暇
を作り出すのがヴィクターである。
 その、無理に作り出した暇の皺寄せが結局クロルに巡ってくるのだが、その辺りはあま
り深く考えないのもまた、ヴィクターのヴィクターたる由縁と言えよう。もう少し思慮深
ければ、あるいは将官も夢ではない男である。
 クロルに代わって初めて戦闘教練に顔を出した折、ヴィクターは十七名の訓練生を
ざっと眺めて、中に女性が混じっている事に驚いた。
 しかもなかなかの美女である。
 先日のクロルの衝撃の告白の事もあり、ヴィクターは教練を終えた後、アウラと
名乗った二等兵に心配事は無いかと声をかけた。
 アウラは折り目正しく敬礼し、問題は無いと答えた上で、質問をよろしいでしょうかと
緊張で上ずった声を上げた。
 許可するとたちまち相好を崩し、直後にクロル曹長のお怪我はどの程度の物でしょうか
と不安そうに眉根を寄せた。
 ヴィクターとしては、実に答え難い質問だった。なにせ、負傷させた張本人である。
大した事はない、と当たり障りのない答を返し、ヴィクターは何かあったらすぐにクロル
か俺に言え、とだけ言って逃げるようにその場を去った。
 それが、昨日の夕刻である。

 そして今日の戦闘教練中、ウィルトスがやって来てバルスラーを拉致していった。
 今でこそ階級は同じだが、ウィルトスはヴィクターの元上官である。
 逆らえるはずも無くバルスラーを見送ったが、結局人相の悪い大男が教練に戻ってくる事は無かった。
 昼になって見かけた時、随分と疲弊していた事だけは確かである。
 何があったのか声をかけて見たが、マニュアル通りの返答を帰して去っていった。どう
考えても、ヴィクターはバルスラーに嫌われていた。
 そして今に至る。

 クロルがヴィクターの元に配属されて以来、ほぼ数える程度しか経験した事のない、
一人きりの昼時である。

 ヴィクターは一人、目の前の食事を食べるとも無く食べていた。
 食べるというよりは既に、機械的に摂取しているに近かったかもしれない。
 日々あまり考え事をしない人間が突発的に深く考え込むと、その他の何かがおろそかに
なるものである。

 どうかしていた、と言うべきだろうか。
 それとも、どうにかなってしまったのだろうか。
 ぼんやりと自分の無骨な手を睨み、ヴィクターはクロルの苦しげな悲鳴を思い出していた。
 かっとなったら、何をするか分からない。
 確かに自分でそう言った。
 だが、まさかあの小さな体を組みふして、細い腕を捻り上げ、苦しげにもがく姿に欲情
するとは思わなかった。
 しかもその後、情けなく泣いた。痛めつけた女に慰められ、迫られ、簡単に陥落した。
 触れても骨の感触しかしないのでは無いかと勝手に思っていた。骨とささやかな筋肉で
出来ていて、女性的な柔らかさなど皆無なのだろうと思っていた。
 だが実際触れてみると驚くほどに、驚くのは失礼かもしれないが、本当に驚くほどに、
クロルの体は女性の物だった。
 触れるのが怖くなる。
 平気で、あの体を使ってきた。
 戦闘向きではないと知りながら、前線に立つ自分の隣に置いてきた。
 大きな怪我をさせた事もある。あの体に庇われて、命を永らえた事さえある。
 戦友と思って来た。親友として接してきた。それは、あの小さくか弱い体には、きっと負担だっただろう。
 クロルが副官として配属されて以来、頼り続けてきたと思う。
 使うのが、触れるのが、恐ろしいなどと思うのはあまりにも今更過ぎる。
 自分で自分が滑稽だった。
「つくづく……」
 ――純情可憐。
 クロルが揶揄する通りである。
「ヴィクター教官」
 誰が教官だ。いや、俺か。
 一瞬奇妙な間を空けて、ヴィクターは声に振り向いた。
 一つに結わえた金色の髪に、緑がかった青い瞳。
「お一人ですか?」
「は?」
「ご迷惑で無かったら――あの、隣、よろしいでしょうか」
 おずおずと、ヴィクターの隣の席を指す。
 女性的と言うよりは、人間として端整な顔立ちが印象的な訓練生だ。
 アウラ二等兵だった。
 味気の無い食堂の、人気の無い片隅である。
「あぁ……まぁ、勝手に」
「ありがとうございます!」
 勝手に座れ、と言い終わる前に、アウラは端整な顔立ちに似合わず子供のように破顔した。
 失礼します、と断って、ヴィクターの隣に腰を下ろす。
 先程戦闘教練を終えたばかりとはとても思えない快活さである。ぼんやりと、いい体をしているな、と思った。
 女性にしては背も高く、骨も丈夫そうである。
 思った瞬間、クロルの腕を捻った時の感触を鮮明に思い出し、ヴィクターはアウラから
視線をそらして眉間に深く皺を刻んだ。
「クロル教官の肩、一体何があったんでしょうね」

 まるで見計らったようなタイミングだった。
 会話のきっかけとばかりに最も突かれたくない核心を容赦なく突かれ、ヴィクターは
危うくスプーンを圧し折りかけた。
 かき込むようにパンとシチューを平らげながら、アウラが横目でヴィクターを見る。
「まだ、お見舞いに行けていないんです。クロル教官に全治一週間の怪我を負わせるなんて、
余程強敵だったんでしょうね」
 強敵か――これでも一応、大隊長である。ヴィクターは不自然に曲がったスプーンで、
ぎこちなくシチューを流し込んだ。
「クロル教官は、ヴィクター教官の副官でしたよね。さぞお怒りでしょうに、その冷静さ
に感服します。何か心当たりとか――そうだ、例えば報復とか、考えたりしないんですか?」
「……いや、別に」
 自分で自分に報復か。
 上官に尻でも掘られれば、自身に対してきつい戒めになりそうである。
 アウラの悪気の無い攻撃に晒され、ヴィクターは内心身悶えた。
「そうすよね。クロル教官は、報復とか闇討ちとか、そういうジメジメした事お嫌いですもんね」
 クロルを強姦した報復に、軍医を闇討ちしたヴィクターにはあまりに重い一撃である。
「それにしても、私より小さなクロル教官を襲うなんて、とんでも無い暴漢ですね。
いくらクロル教官がお強くても、腕力では圧倒的に劣る事を分かっていながら……」
 憤慨したように、卑劣な男、と吐き捨てた。
 なぜアウラは、クロルが男に襲われたと知っているのだろうか。それとも、単にそう
思い込んでいるだけなのだろうか。
 どちらにせよ、これでノックアウトである。立ち直れないダメージをヴィクターに与え、
アウラは自身のあずかり知らぬ所で大隊長に勝利した。
 ヴィクターは手の平で目を多い、致命傷を与え続けられたガラスのハートを服の上から握り締めた。
「教官……? あの、どこかお加減でも?」
「いや……いいんだ、気にするな」
 後ろめたい思いがある者に対し、純真な心とはここまで破壊力を持つ物か。
 ヴィクターは改めて思い知り、ふらふらと立ち上がった。
「悪い……俺、仕事あるから、これで……」
 ようやっとそれだけ伝え、覚束ない足取りでその場を去る。
 卑劣――そう、あまりにも卑劣だ。
 そもそもクロルをソファに引き倒したりしなければ、クロルがヴィクターに抱いて見せ
ろと迫る事も無かったのだ。
 クロルの顔を見るのが怖い。
 きっとクロルは、罵りもせずに平然と接してくれるのだろう。そのクロルの強さに甘え
てしまうのは、卑劣な上に卑怯である。
 だが、このまま見舞いにも行かずに避け続けるのは、それよりも卑怯な行為では無いか。
 ――見舞いか。
 ぼんやりと外を見る。
 クロルの好きな物は、なんだったか――。

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最終更新:2007年03月08日 06:00