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食べちゃいますから - (2007/07/17 (火) 00:40:58) のソース
<div style="line-height: 2em" align="left"> <p><u>食べちゃいますから</u> 著者:せる</p> <p><br> 「ったくもう、こんな日になんだっていうの」<br> その女は、小さく毒づきながら早足に道を歩いていた。<br> 真冬、最も昼が短い季節である。既に夕日は一部を残して地平とビルによって遮断され、あたりは冷たい夜に置き換わりつつあった。<br> 授業が終わり、ホームルームで挨拶をしてそのまま帰ろうと教室のドアから外に出た直後、急に背後から声をかけられた。<br> 呼び止めたのは担任。後退した髪を隠しているカツラと脂ぎった額の汗で、霧生ヶ谷高きっての不人気を誇る男である。<br> 進路の事で話があると彼女を掃除が終わるまで待たせ、それから成績と出席に関してこちらが十分に承知している内容を二時間に渡って話し続けた。<br> 内容は何度も前後し、ありきたりで中身の無い常套句が九割九分九里を占めた。他と違うのは、おそらく登場するのが自分の名前である事のみであろう。<br> 相手が、自分たちに近い年齢の新米教師や、尊敬できるような人柄の良い初老の男、或いは女性ならまだ良い。<br> しかし、外面的な面から言っても、彼女の担任は完全にアウトだった。<br> 目付きもどこか嫌らしく、顔ではなく胸に視線が行っていたと思うのはきっと気のせいではない。彼の内面など推して知るべしである。<br> 教室は狭い空間ではない。それでも、二人きりで長時間同じ空間に拘束されるのは大変なストレスを彼女に強いた。<br> 肺の中が気持ち悪いもやもやで満たされている。<br> 長い時間同じ空間にいたのだ。きっと、ヤツの濁った吐息も吸ってしまったに違いない。<br> そう考えると、いくら深呼吸しても不快なモヤは消えなかった。<br> 気にすればするほど増えるような感覚さえあった。</p> <p>(しんでしまえ、クソオヤジ)</p> <p> 普段の彼女は、それほど口汚い方ではない。<br> けれど、胸に巣食った汚らわしいモヤが、彼女の平常心を酷く揺さぶっていた。<br> だからだろうか、――もはや陽が落ち、夜を迎えようとしている最も危険なこの時間。この人気の途絶えた薄ら寒い道で、普段なら何もなくても枯れ木の影に魔を見てしまうようなこの状況で――彼女は、警戒という当たり前の言葉を忘れていた。</p> <p>「逢魔ヶ刻、という言葉を知っていますか?」</p> <p> 突然、人間味がないほど涼やかな、冷気を感じるほど丁寧な言葉が響いた。<br> 足を止める。ビクリ、と一瞬体中の神経が引きつった。<br> 目の前には一人の女。街灯の下、薄暗い闇を切り抜いた舞台で不気味な女が立っていた。<br> 黒に近い深緑色のスカートに、同じく黒一歩手前な濃紺色の外套。<br> 髪に至っては、夜よりも暗いのではないかと思えるほど不気味な艶が、腰の辺りまで周囲の闇に溶けている。<br> 満ちる霧はこの街では日常の一つだと言うのに、今日に限ってそれは異界の瘴気を彷彿させた。<br> 例え本人が実はまともな人間だったとしても、不吉なモノを想像させる舞台装置。</p> <p> 眩暈。<br> コートの上からでも北風は肌を刺す。急いでいたといっても駆け足に至るほどではない。<br> だというのに、唐突に汗がふきだした。驚くほど冷たい汗が。<br> 足が動かない。止まったまま、足が足ではなく棒切れになってしまった。<br> 体も同様。もはや彼女はカカシと同義だった。脳があっても意味がない、ただ壊されるだけの木偶人形。<br> 「こんな時間に、女性一人で無用心に出歩くなんて関心しませんね。――そんな事だから、」<br> 見知らぬ女が言葉を続ける。鼓膜を凍えさせるような闇色の声。<br> 「あ、貴方いきなり何なのよ。変な勧誘なら大通りでも行ってやってくれない?」<br> 凍てつく声音に耐え切れなくなって、女の言葉を遮る。本心から言葉が出た。<br> 不思議な物を求めている人間なら、それこそ掃いて捨てるほどいるのに、どうして、と。</p> <p> けれど、</p> <p>「ふ、ふふ」</p> <p>――ゾクリ</p> <p> 一体何が可笑しかったのだろう。彼女の問いに、ソレは酷く楽しいと。それは、今空に浮かばんとしている下弦の月に良く似ていた。<br> 冬の冷気のせいだったはずの寒気が、完全に声の冷たさに対するモノに変わる。その表情は、人間が浮かべるどの笑みとも違ったゆえに。<br> 歯が噛み合わずガタガタと鳴り出す。おぞましいほど美しい狂気で影は言った。<br> 「私は何か、と問いましたか?」<br> 一歩、踏み出す。<br> 彼女ではない。女の形をしたナニカが、だ。<br> 「では私も問います。貴方は、一体何ですか?」<br> 舞台のスポットライトのような街灯の下から、現実世界である暗い夜道に踏み込んできた。<br> それでどこかにあった、テレビの外にいるような、隔絶された安心感が跡形も無く消し飛ぶ。<br> 彼女と、目の前のナニカは同じ世界にいた。<br> 「ひっ」<br> もはや、彼女には後ずさる事さえ出来ない。意味の成さない脳が、意味のない悲鳴を一つ生成した。<br> その間にも、ナニカはゆっくりと彼女の元へ歩を進めている。<br> 「答える事もできませんか? 貴方はその程度の存在ですか?」<br> 問いながら、ナニカはゆっくりと、着実に距離を削る。もう数歩で、つま先がぶつかるだろう。<br> 「つまらない人ですね。本当につまらないのか、直接心に訊きましょう」<br> 街灯が逆行になって、顔は見えない。弓なりの紅だけが楽しげに歪んでいる。<br> 知らない内に金縛りは解けていた。寒気も無くなって、体は自由に動くだろう。<br> けれど、彼女はもう逃げようとさえ思えなかった。本能も理性も、決して逃げ切れない事を承諾していた。<br> 「吸血鬼、という言葉をご存知ですか?」<br> 知っている、と呟く事はなかった。 彼女はただのカカシでしかなかったから。<br> ナニカは、彼女の体を浅く抱き、首元を舐める。そして、囁くように口を開いた。<br> 「――貴女のカケラ、いただきます」 <br> そこには、笑みから覗く血に塗れた牙が――</p> <p><br> ***</p> <p><br> 「で、どうなるんですか? 」<br> 私は、自分でも珍しいと思えるほど興味津々な声音で言った。<br> その問いに、目の前の男子生徒は重苦しい表情で口を開く。思わず、手を握った。<br> 「その後、彼女を見かけた者は誰もいない。以上」<br> だと言うのに、それまで酷くディティールに凝った語り口だった美樹本信也は、突然安っぽい噂話のようなセリフで締めを終えた。<br> 中途半端に期待させられた私は、ガクリと肩を揺らす。<br> 「……つまらないですね」<br> ありきたりです、本当につまらない。と繰り返すように私は呟く。<br> 目は半眼のジト目になっている事だろう。<br> 「つまらなくて悪かったな。でもこの話、今もまだ流れてるぞ」<br> 昼休みの喧騒の中、椅子に体重をかけ、後ろの二本足でアンティークチェアのようにゆらゆらとバランスをとりながら彼は言う。<br> 美樹本信也。私こと柚木一葉の幼馴染で、初恋の相手でもある愛すべき大馬鹿野郎だ。<br> 「――へぇ、そうなんですか」<br> やる気のない口調で彼の横に立っていた体を回す。背後でゆらゆらとゆれる椅子を、カカトでコツンと蹴りあげた。<br> 「ちょ、おまっ……うわ!?」<br> おまえ、と言いたかったのだろうが、それよりも先にバランスを崩した。<br> 盛大な音を立てて倒れる。つまらない話で私の時間を浪費しようとした罰だ。<br> 「いってぇ……おまえ、いきなり何すんだよ」<br> 僅かに釣り上がった目尻で信也は私を見上げる。その眼差しは中々に凛々しく、彼の表情の中では好きな部類である。<br> 「子供みたいに椅子で遊んでいる人が悪いんでしょう。で、どうなんですか?」<br> 半眼で見下しながら、手を差し伸べる。腰を片手でさすっているので、もう片腕の肘辺りを両手で持って引き上げた。<br> 「どうって、何が」<br> 怒り二割、疑問三割、落胆四割、信頼一割といった表情だ。中々複雑でレアだな、と思いながら繋いだ手を離す。<br> 平左の顔でその表情を心のアルバムに追加しながら、信也の問いに答えた。<br> 「噂の事です。今でも続いてるって言ったでしょう。具体的にはいつ頃の噂だったのですか?」<br> 答えを聞いて、彼の表情は納得五割疑問五割に変わった。非常に解り易くて私としては助かる。<br> 「確か、冬至を少し過ぎたあたりだったから、クリスマス前後だった気がするが……なんで時期が気になるんだ。普通、気になるのは吸血鬼だろ?」<br> 噂の内容は、女子高生らしき人物が突然吸血鬼に襲われて姿が消える、というものだ。<br> 「うちの学校に失踪者はいません。普通に考えるなら、吸血鬼自体は眉唾でしょうに。私としては、変質者の正体より今も出るかどうかが気になるのですが」<br> 今もそういう噂があるなら、何か手を打たなくてはなりません、と続けた。<br> その答えに、彼の表情は納得十割に変わった。<br> 納得しましたか、の一言が省ける。省エネは地球に大切なので良い事だろう。<br> 私が自己生産するエネルギを節約する事で、地球に恩恵が届くかどうかは知らないが。<br> (まあ、食事を減らす事はできるかもしれませんし)<br> 益体も無い事を考えている私には構わず、彼はだらしなく椅子に背を預け、天井を見上げて言う。<br> 「なるほど、お前らしいし良いけど。しかし、欠片って何の事なんだろうな」<br> 何でもない疑問。ただ少し気になっただけ、という呟きに私は軽い口調で答える。<br> 「魂とか、そういうのじゃないですかね。いや、何となく思っただけですが」<br> 信也は胡乱げな視線を私に向けた。<br> 確かに、欠片という単語が説明なしに魂と結びつくのは、少々おかしな話か。<br> どう言ったものかなと僅かに思案していると、突然ドン、と肩を突き飛ばされた。<br> 危うく信也を巻き込んで倒れそうになる。私はそれでも全然、全く、一向に構わないのだが、そう日に何度も転んでは格好が悪かろうと判断し、なんとか踏みとどまった。惜しいなどとは思いません。<br> 若干笑顔を作って振り向きながら、顔を確認する前に口を開いた。<br> こういう事をしてくる人間には一人だけ心当たりがある。<br> 「いきなり何ですか、澄川さん」<br> 自分の台詞ながら意味の無い言葉だと判断し、ため息を吐く。<br> 彼女が私に対する行動の理由など、問わなくても自明だ。<br> 澄川みなも。私の幼馴染であり、親友でもある美樹本信也の現彼女。<br> 「別に? あんたが邪魔だったからちょっと退けただけよ」<br> 悪びれず、という表現が良く似合う。可愛い顔立ちなのに何を苛立っているのだか。<br> 「左様ですか、道は十分にあいていると思いますが。随分と横に広い方なのですね」<br> キッと私を睨む眼光が増した。<br> 爆発物でお手玉をする趣味は無い。彼女が見ただけで物を燃やす能力者だったら大変だ。<br> 冗談ですよ、と微笑みながら言葉を返す。<br> 多少理性を取り戻したのか、嘲るような表情を浮かべた。誰に対してかは言うまでもない。<br> やれやれ、酷く嫌われているものだ。<br> 「さっきの話だけどさぁ。案外、その吸血鬼ってあんたの事なんじゃないの?」<br> ニヤニヤと、あまりいい笑顔とは言えない表情。全くもって似合っていないが、本人が楽しいのだからそれでいいのだろう。<br> 「と、仰いますと?」<br> その得意気な笑みに、私は首を傾げて尋ねた。<br> 「だ・か・ら」<br> 理解の遅い私に対する苛立ちか、言葉を寸刻みにして睨まれた。迫力はそれなりだが、いい加減慣れているので怖くも無い。<br> 「さっきの噂の事よ。うちらのスカートは深緑色のチェックだし、あんたはいつも真っ黒なコート。おまけに腰まで髪伸ばしてる女なんて、この学校にはほとんどいないわ。だから吸血鬼はあんたじゃないかって言ってんのよ」<br> よろしくて? と嫌らしい笑みで笑う。本気で言ってるのかどうか知らないが、少々頭痛がした。<br> 「はあ……澄川さんって、吸血鬼とか信じてるんですか。まあそれならそれで、私でも構いませんけど」<br> 一度そこで言葉を切った。確かに、件の女と私の容姿は一致している。友人の友人が幽霊を見たと騒いだ事もあるし、吸血鬼が存在しないなんていう証明も出来ない。だから、彼女が信じていても不思議ではない。<br> 尤も、今は暖かいのでコートなど着ていないから、冬の服装であろうが。<br> そんな分析をしながら、目の前の視線を見返す。彼女が私を敵視しているように、私も彼女の事は好きではない。<br> だから、あまり言葉を隠そうとは思わなかった。<br> 「しかし……人の会話を盗み聞きしておいて、出てくる言葉がそんなモノだとは――まあ、貴方らしいと言えば、らしいですか?」<br> 浅ましいところが特に、と小さく付け加えた。<br> 「っ、あんた……!」<br> 今にも私の胸倉を掴もうと伸ばされた腕。ああ、平手打ちでも飛んでくるかなと他人事のように待っていると、横合いから大きな手がそれを掴んだ。<br> 格好良いですよ、相変わらず。<br> 「もういいだろ、一葉。――みなも、お前もあんまみっともねぇ真似すんなよ」<br> 彼女の暴力を阻止した手の主、信也は呆れ顔そのものといった表情でそう言った。<br> 「なによ……。またこの女庇うんだ?」<br> もう勝手にしたら、と言い捨て、怒り心頭といった様相で去っていった。<br> 全く、どこの昼ドラを見ているのかという気分だ。<br> 何が笑えないかと言えば、自分がその登場人物という点が笑えない。<br> (むしろ、笑うしかないと言うべきですか)<br> 胸中で呟きながら、カリカリと後頭部あたりを掻いてみる。いや、特に痒みなどはないのだが。<br> 「わりぃな、あいつにも悪気は……あるとは思うが」<br> 疲れた顔が表情に出たのか、信也は済まなそうにそう言った。後半は尻すぼみである。<br> 本当は無いと言いたかったのだろうが、嘘を吐いても仕方がないと判断したらしい。賢明だ。<br> 「構いませんよ。つまらない妄言で一々悩んでも無駄ですし」<br> 特に考えず気軽に答えた。<br> ……が、彼の口元がひくついたのを見て自分は失言したのだと気付いた。<br> 「あ……すみません。つい、本音が。もっと迂遠に表現すべきでした」<br> 反省します、と私は肩を落とした。信也の彼女を、本人の前であまり悪く言うわけにもいかない。<br> 実際は仲の悪いカップル、というのなら遠慮もしないのだが、残念ながらそういう事実は確認できない訳だし。<br> 彼の顔をそっと見遣る。苦笑を浮かべているが、特に怒ってはいないようだ。<br> 安心した私は、今度は多少言葉を選んで呟いた。<br> 「しかし、結局何がしたかったんだか……やっぱり、私には澄川さんの事は分かりませんよ」<br> やれやれ、と首を振った。ため息を吐く。<br> 同じ様に信也も肩を落とした。しかし、その落胆はどうやら私に向いてる。<br> 若干の呆れを宿した目を私に向けた。<br> 「いや、分かれよそこは。嫉妬してんの、あいつは。……まあ、無理ねぇだろ。お前はおつむも体力も並みじゃねぇし、全科目評価五のヤツなんか普通いねぇし。何保険まで満点とってんのお前」<br> それは、私的には謂れなき非難である。とってしまうものは仕方がない。<br> まあ、彼女が私に勝てそうな科目と言えば保険体育だけではある。<br> (望み薄も良い所という点を除けば、ですが)<br> 澄川みなもに対して、攻撃的な思考になる事のは自覚していた。まあ、思考だけでおもてには出ていない、と思いたい。<br> だいたい、だ。<br> 「どうでもいいじゃないですか、そんな事。成績の差なんかで敵視するなんて、卑屈の裏返しですよ」<br> 自分を信頼していない証拠だ。私には関係ないので、全くのとばっちりなのである。<br> 「……お前が言うかね、お前が。まあ、そういう相手が自分の男と仲良くやってりゃ、心中穏やかじゃないのが普通の人間なんじゃねぇの」<br> やる気のない視線を天井に向けながら、投げやりな口調。悪いのがどちらかは自明だから、弁護にも力は入らないようだ。<br> それでもフォローをかかさないのはいい事だと思った。が、<br> 「それを言うなら逆でしょう。信也の彼女はあちらなんですから、いくら私達の付き合いが長いといっても余裕でいれば良いのです。どうせ、貴方が私に振り向く事なんてないんですし」<br> 自分で言うのもアレだが、真実だ。悔しくはないが、言っていて空しい。私は肩を竦めた。<br> そんな私に、信也はジト目を向ける。<br> 「だから、あんまり誤解招くような事言うなっての。お前も、いい加減オレみたいな馬鹿見捨てて、もっといい男捜したら?」<br> いくらでも見つかんだろ、と彼は言う。何度繰り返したか分からないこの問答に、いい加減頭痛を感じてきた。<br> 全く、誤解も何もないだろうに。</p> <p>「……はあ、分かってて言うんですから。私が、信也以外の人間を好きになるわけないでしょう。<br> 貴方がもらってくれなけりゃ、私は一生独身ですよ。――まぁ、それでも特に困りませんけど」</p> <p> 初恋は初恋でも、未だ絶賛現役中なのである。否、これは恋とは少し違うか。<br> まあ、それが真実なんであるかなんて、事実の前には霞むものだ。<br> 途端、ギョッとした視線を向けられた。信也ではなく周囲に。<br> 本人は、何やらあちゃーと妙な言葉を呟きながら片手で額を覆っている。頭痛でもあるのだろうか。<br> 「あんまコイツの言う事間に受けんなよ、絶対何も考えてねぇから」<br> その言葉は、私の言葉が聞こえた者に宛てたモノだ。<br> さっき騒いでしまったせいで注目を集めていたのか、聞き耳を立てていた者は多数だった模様。<br> こりゃ、後でお友達連中に質問攻めされるのは必至かな、と他人事のように考えた。<br> (全く、失礼な事を言うものです。私を何だと思っているんだか)<br> 内心そういう不満はあったが、どうやら彼は私のフォローをしているつもりらしいので、言葉を返す事はしなかった。<br> 視線を向けると、信也はそのまま男子生徒と違う話題に移っている。そのままうやむやにしてしまうつもりなのが、手にとるように分かった。</p> <p> 同じく思考を切り替える。考える事は、澄川みなもの事だ。<br> 私は彼と彼女の関係を邪魔するつもりはないし、ましてや付き合ってくれと迫るつもりもない。<br> 告白じみた言葉を言いはするが、それだけだ。好意を隠さないだけで、これは私の自由である。<br> 尤も、私が信也との関係を変えるつもりもない以上、彼女の敵意を拭う事はできないだろう。<br> 今は時々因縁をつけられるだけだから良い。しかし、彼女がこのままで止まるとは到底思えなかった。<br> (何もなければいいのですが)<br> 胸中で呟いて、一つため息を吐いた。<br> 希望する事ほど、実現し難いモノはないのだ。<br> 吸血鬼と同じ柄らしいスカートを翻して、私は自分の席へと向かった。</p> <p> ***</p> <p> チャイムが鳴って、しばらく経った。時刻は午後五時を回っている。<br> 部活はとうの昔に終わっていて、ここにいるのはあたし一人だ。<br> 忘れ物を取りに来ただけなのだからそれも当然。まあ、尤もそれはただの口実に過ぎないのだが。<br> あたしは周囲を見回した。整理整頓とは言いがたいが、それなりに秩序のある部室。<br> 電気をつけていないので薄暗く、良く見えはしないが目的の物はすぐに見つかった。<br> それは真っ黒な長い髪。ここは演劇部の準備室。ゆえにその髪は無論の事、舞台用のカツラである。<br> もうすぐ本格的に暑くなるというのに、あたしは黒いロングコートも衣装棚から引っ張り出した。<br> 噂話のような紺色ではないが、特に問題はないだろう。 舞台用でもない、卒業生の忘れ物。<br> 準備は整った。目立つので、機会があるまでコートとカツラはバッグの中に入れておく。<br> それなりに大きなバッグはやや目立つが、この時期に暑苦しい黒コートを着ているよりはマシだ。<br> 何より、あの女と似たような格好というのが気に食わない。終わったらスグに捨てようと決めていた。<br> 時計を見る。委員会の仕事は終わっていない。まだ十分に間に合う事を確認した。<br> 次いで、ポケットから文房具を取り出す。窓の外から差した夕焼けに、手元が照らされた。<br> ――それは、真新しい刃がついたカッターナイフ。<br> 「待ってなさい。とびっきり不細工な顔にしてあげるんだから」</p> <p><br> ***</p> <p><br> 私は家路を急いでいた。<br> 用事が長引いて、さっきまで明るかった夕焼けも、元気を失くして眠りかけだ。<br> 別に太陽の体調にはそれほど関心などないが、時間的に言えば少々切実である。<br> 何故かといえば、もうすぐスーパーの特売がはじまるから。<br> (今日は、卵とキムチが安いのに……買えなかったら、今月のピンチに拍車がかかってしまいます)<br> ゆえに急ぐ。<br> 本当なら走りたいが、あまり本気で急ぐと目立ってしまうので、あくまで早足に止めなければならない。<br> (大丈夫、このまま何もなければ、信号を三つほど無視するだけで十分に間に合うはず)<br> 若干ダメな事を考えたなと自覚したが、この国には良い言葉があるのだ。<br> 諺に曰く、背に腹は代えられぬ。そして、法律では緊急避難は合法だ。<br> 特売に間に合わなければ餓死に一歩近づいてしまう。 生粋の霧生ヶ谷っ子にとってキムチは欠かしてはならないモノゆえに。<br> それは命にかかわる事であり、生命の維持を図る為信号の無視は許されるという三段論法。<br> (完璧です。それに、今日は霧生忍法帖の日。もはや信号の方が私を避けるべきですね)<br> 自分の論理武装にほれぼれしながら、私は四つ目の信号を無視した。<br> 水路が網の目のように張り巡らされたこの街は、必然道も他の街より入り組む。<br> 全てが地上に出ているわけではないとは言え、避けられないものがあるからだ。<br> おまけに日常的に水路から霧まで立ち込めて、さながら迷路の様相を呈している。<br> そんな中には特定の個人以外滅多に通らないような、税金の無駄遣いな道さえ多数。<br> この通りもそんな中の一つだ。どうせ車など通らない。むしろ、犬猫さえ珍しい。<br> が――</p> <p><br> 「逢魔ヶ刻という言葉を、知ってるかしら」</p> <p><br> ――視線の先に、いつの間にやら黒い服の女がいた。</p> <p>「……は?」<br> 思考が停止した。<br> その単語は知っている。単語の意味も知っている。けれど、問われているのにまともな言葉が出てこない。<br> 数メートルほど先にその女はいた。深緑色のスカートに真っ黒なコート。<br> 見覚えは無いが、聞き覚えはある。当たり前だ。<br> それは今日、美樹本信也が話していた、若い女の格好をした通り魔であり――。<br> けれど、それはありえないことだ。いる筈がない。よりによって私の前に現れるはずがない。<br> (だいたい今はコートなど着る時期ではないし、そもそもあの噂は、)<br> 「こんな時間に女一人で、なんて無用心。そんな事だから――」<br> どこかで聞いた台詞を口ずさみながら、女はこちらへ近づく。<br> 顔は長い髪に隠されて見えない。片手はコートのポケットに入れられていて、チキチキと音がなった。<br> 知らず、呟いていた。<br> 「貴女、何ですか」<br> 混乱して、そんな言葉しか出てこなかった。逃げようという意思はどこを探しても売り切れだった。<br> だって、だって、それは、<br> 「吸血鬼」<br> 瞬間、目の前まで到達した女は、そう言いながら手を振った。<br> 「……っ!」<br> 思考は相変わらずついて行かなかったが、体が反応した。ほぼ反射的に仰け反りながら後退、前髪が数本切り裂かれる。<br> 緊張でガチガチだった足は急な運動に耐え切れず、ガクリと力が抜けて尻餅をついた。<br> 「チッ」<br> 目の前の女が舌打ちする。見えたのは、夕日に反射した鈍色の刃。<br> それを、私は呆然とした目で見つめた。何故、どうしてカッターナイフなんてもっているのか、それがどうしても理解出来ない。<br> 動かない私を見て、女は髪に隠れていない口元を歪める。そのまま、手の凶器を振り上げて――</p> <p><br> 赤い飛沫が舞う。ブシュ、赤い薔薇の花が咲いた。痛みに視界が明滅した。<br> ふふ、ふふふ。笑い声が聞こえた。嘲るような、他人事のような笑い声。<br> 正気を無くしたそれはすぐに成長した。ふふふ、うふふふふと。<br> 私の手首を、カッターナイフが盛大に切り裂いていた。<br> 手から勢い良く血が噴き出している。<br> 手から勢い良く刃が飛び出している。<br> どうしようもなく可笑しかった。どれもこれも可笑しかった。どこもかしこも可笑しかった。</p> <p> そう、嘲笑は私の口から流れている。嘲笑は、私のナカから流れてる。</p> <p> 「はは、あはは。あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」</p> <p> 壊れた笑い声を上げて、私は立ち上がった。裂かれた血も咲いた花も何もかもがおかしくておかしくておかしくて。<br> けれど一番可笑しいは、けれど一番愚かしいのは、けれど一番犯しいのは。<br> 先ほど自分で考えた文句が頭を過ぎる。<br> 『諺に曰く、背に腹は代えられぬ。そして、法律では緊急避難は合法だ』<br> (全く、馬鹿な女。信也の大切な人だから、貴女だけは襲わないと誓っていたのに。――自分から私に機会をくれるだなんて)<br> 目の前の女を、見た。<br> 「季節外れのコート、なんて馬鹿馬鹿しい。暑くないんですか? その野暮ったいカツラ、なんて浅はか。恥ずかしくないんですか? 引き攣った表情、なんて醜い。鏡を見てはいかがですか? どれもこれもどこもかしこどうしようもなく無様です。どうしようもなく笑えます。もしかして笑い殺す計画だったんですか? まあ、けれど、」<br> あまりに可笑しくて、息継ぎも忘れて笑ったためか、私は話しながらむせた。<br> げほげほ、その自分の無様さが余計に可笑しくて、あはははと立ったままお腹を抱えてまたしばらく笑った。<br> それも何とか落ち着いて、まだ動けずに、まだ何も言えずに固まっている目の前の女に告げた。<br> 「どうしようもなく貴女にはお似合いですよ。――澄川みなもさん」<br> その言葉で、ようやく理性が戻ったのだろう。<br> 狂ったように笑う私に不気味なモノを見るような目をしながらも、彼女は健気に立ち上がった。<br> 「気持ち悪い……あんた、なんで普通に立ってられんのよ」<br> 言いながら、彼女は私の手首を見る。カッターナイフを庇った為に、そこには突き刺さって折れたままの刃がぬらりと血に塗れていた。<br> 無造作に引き抜く。鋭い痛みに笑いを堪えながら、また咲いた薔薇を見た。飛び散った血が彼女のコートを無遠慮に染み込んでいく。<br> 留め止めもなく血液は流れる。薔薇と見紛う程の出血だ。その傷はリストカットどころではなく、普通なら既に死んでいるかもしれないほど酷い傷。<br> そう、普通なら。<br> 「なんでって、そんなの」<br> その傷口を、私は舐めた。ペロペロからはじまって、最後はゴクゴクに変わった。<br> 押し殺した悲鳴が聞こえる。構わない。ゴクゴク。ゴクゴク。あぁやはりこれはこんなにも。<br> 十分に堪能して、私は続きを口にする。その間にもペロペロは忘れない。</p> <p>「吸血鬼だからに、決まってるじゃないですか」</p> <p> だからこのアカイバラは、とてもオイシイ。<br> 思わず、三日月のように唇が曲がった。<br> 「そ、んな」<br> 愕然と、きれぎれに呟く声が聞こえる。私はそれに、やや憮然とした表情を作った。<br> 澄川みなもが何を驚いているのか知らないが、驚きたいのはこちらの方だ。<br> 噂の吸血鬼――つまり私――はここにいるのに、何故私が噂の吸血鬼にいきなり襲われなければならない。<br> ドッペルゲンガーは死の予兆だ。そんなものはいない、なんて一笑に付す事は出来ない。<br> 何故ならこの街は少しおかしいからだ。そう、私のような存在がいるように。だから何が自分の前に現れても、それはありえる事。<br> ソレを知っている私だ。下らない通り魔なんかより、道端で自分自身に会う方が怖いに決まっている。<br> 「けど、ま、種明かししてみれば些細なカラクリですが」<br> 吸血鬼ならカッターナイフなどで襲い掛かったりしない。<br> 自分以外の自分を前に一瞬思考が回らなかったが、自分と違う行動を採るならそれはただの別人だ。<br> 何に驚く事も無い。顔は大事なので手を差し出すだけで終わり。<br> 「ところで、澄川さん」<br> 残るのはただの喜劇。間抜けな役者が二人だけ。十分に楽しめたので、そろそろ幕を引きましょう。<br> (ああそうそう、噂通り、或いはいつも通り、セリフは全て言い終えなければ)<br> 「アナタは、一体何ですか?」<br> 若干脈絡が繋がらないが、お決まりはお決まりなのである。<br> 私にとってはとても大切な質問なので我慢して欲しい。<br> (その、なんだ、返答によってはアナタも無事に帰れるわけですし?)<br> 「い、いきなり何を言い出すのよ」<br> 気丈にも、いつも通りを押し通そうとするその様子に、またつい笑みがこぼれる。<br> その強気は、果たして強さか見せ掛けか。<br> 「訊いているのはこちらです。アナタは誰ですか? アナタは、自分の名前を知っていますか?」<br> 「あたしはあたしよ。澄川みなも、澄んだ川に水面と書いてみなもよ。それがどうしたのよ!」<br> 親切にも字まで教えてくれた。それはとても大切な事だと、彼女には分からないようだけど、<br> 「良い名前ですね」<br> 私は、薄っすらと微笑んだ。本当に、良い名前だと思ったから。<br> 「では、私の名前は何ですか?」<br> 「は?」<br> 「私にも名前がありますが、それには意味がありません。何故だか、解りますか?」<br> 意味が解らないと表情で告げる彼女に、私は少し言い直す。<br> 澄川みなもの頭が悪い事など知っている。何故ならクラスメイトなのだから。<br> 「あ、あんたさっきから何言ってんのよ。頭おかしいんじゃないの」<br> 頭の悪い質問は無視するに限る。まずは先生が言い終えてから、と学校で習ったはずなのだが。<br> 怯えを含んだ罵詈雑言を広い心で聞き流して私は続けた。<br> 「何故なら、私には魂が無いからです。貴女のように、かくあれかし、と名付けられたモノではないからです」<br> 彼女は、魂が無いという私の言葉に絶句する。<br> 言葉の意味を理解したわけではない、むしろ、あまりに突拍子が無くて言葉を返せないだけだろう。<br> この感覚は、この焦燥は、きっと私にしか分からないから。 <br> 「柚木一葉。柚の木についた一枚の葉、と書きます。可愛げのない名前ですが、――名付けたのは誰だと思いますか?」<br> 「誰ってそんなの、あんたの親に決まって」</p> <p>「私です」</p> <p> 予想済みの返答を、ピシャリと遮る。まだセリフの途中なのだ。<br> 「私に両親などいません。しかし必要なので、勝手に名前を決めました。だから込められた意味もありません。――そもそも、私は人間ではないのです。だから、魂も無い」<br> 尤も、正体は先ほど告げてある。実は吸血鬼ではないが、似たようなモノだ。血が主食というわけではなくても、血を飲むという行為を私は必要としている。<br> 「名前には意味があります。必要があり、必然があります。何故なら、それは魂を表すモノだから。その存在の本質的な価値を示すモノだからです。<br> では、魂の無いモノはどうなりますか? 表すべき、示すべきモノがない。存在しない商品に名前などつきません。ならば、私は一体何ですか?」<br> それは、きっと両親に名付けられた者に言っても判らないはしないだろう。人間には、判らない。<br> けれど、誰かに教えてもらわなければ私だって解らない。人間じゃないから、解らない。<br> ワタシガナンナノカワカラナイ。<br> 「澄んだ川の水面さん。綺麗な綺麗な鏡さん。アナタは、私の名前を答える事ができますか?」<br> 教えてくれるなら、そのまま見逃してあげようと、私はいつも思っている。<br> だというのに、<br> 「あ、あんたの名前は柚木一葉って言うんでしょ。他にどう答えろっていうのよ」<br> その言葉に、私は一つため息をついて微笑んだ。<br> そんな言葉が聞きたいのではない。けれど確かに、そう答えるしかないのだろう。<br> 血は知に通ず。どこの血に答えが流れているか解らない。なら飲み干せば良いだけの事。<br> ――だから。<br> 「では、私の名前を知っている人を、生かしておくと思いますか?」</p> <p> そう、結局は、そういう話なのである。</p> <p><br> ***</p> <p><br> 「それで、見つかったんですか?」<br> 「ああ……まともに話せる状態じゃ、なかったらしいが」<br> 放課後、元気のない信也に何があったのかと尋ねると、澄川みなもが警察に逮捕されたのだと告げられた。<br> 彼の話によると、彼女は夜遅くに一人で街中を彷徨っているところを巡回中の警官に見つかったのだという。<br> 彼女は言葉も話せないほど錯乱しており、その服には、恐らく致死量に近いと推察されるほど大量の返り血が付着していた。<br> <br> 無論、私の血である。</p> <p> 「何ヶ月も前に目撃された通り魔と、あいつのそん時の服装が一致。おまけに、服には致死量に近い返り血。この季節に黒いロングコートとわざわざカツラまで持ってた事から、回復を待って事情聴取を開始する、とさ……」<br> 彼の身内には警官がいる。信也の彼女がそういう経緯で拘束されたため、恐らく内密に連絡がいったのだろう。<br> 失意で語る信也を見て、私は胸を痛めた。幼い頃から普通でなかった私と、唯一ずっと交流のある人間なのである。<br> 何故なのか、私自身にすら分からない。けれど、理由などどうでもいい。<br> 彼の喜ぶ事は何であろうとするつもりだったし、彼の悲しむ事は絶対にしないつもりだった。<br> 彼女が私に危害を加えようとしなければ、絶対に手出ししないつもりだったのに。<br> 正直に言うと、嫌いな人間を排除できた半面、信也を悲しませる事をわざわざ私にさせた彼女が本当に憎いのである。<br> (まあ、お陰で私の正体は闇の中ですが)<br> 一連の吸血鬼の噂は、正体が澄川みなもとして決着がついた。<br> 別にそこまでする気はなかったのだが、結果的に彼女に罪を被せてしまった事になる。自業自得ではあるが、申し訳無いという気持ちがない訳でもない。<br> (といっても、私がしたのは血液と一緒に彼女の記憶を奪っただけですけどね)<br> あそこまで事態が進行した以上、口を封じるには命か記憶のどちらかを失ってもらうしかない。<br> 血は知に通ず。それは、一種の呪術だ。言霊や見立て、そういうもの。意味や音が通う物は、反響する因果を持つ。<br> ゆえに血が奪われれば知もまた失われるのが道理だ。だから、取り返しがつく方を奪っただけ。<br> 第一、もし私が吸血鬼として殺戮を繰り返していたなら、噂など広まるはずがないのである。そう、この学校に失踪者の噂さえないのはそういうこと。<br> 本当は一人だって殺しちゃいない。例え人外であっても、そこまで外道ではないつもりなのだ、私は。<br> 昨日の一件、もし私が人間だったら死んでいた。より殺人者に近いのは澄川みなもだろう。</p> <p> 私が行うのは知識の収集。言葉を変えれば、魂の欠片集め。<br> 魂がない私は人間の事が分からない。自分の存在意義さえ解らない。<br> だから、人々の欠片を集めて学習しているだけ。<br> その副産物が全教科の成績向上。教科書を食べると知識がつくようなイメージだと分かりやすいだろう。<br> 身体能力だけは自前だが、他は全部借り物。誇るべきものでもない。<br> 欲しいのは、私が私であるという理由。それを説明してくれる道理。<br> 奪わなくても良いのだが、奪った方が文字通り話が早い。<br> (こっちの立場を理解して、一緒に考えてくれる人間なんてどうせいませんし)<br> 結局は、どれもこれも些細な事だ。しかし、その為に信也を傷つけてしまった。<br> 「信也、その」<br> 「……ん?」<br> 本当のことを言うわけにはいかない。彼にだけは正体をバラせない。<br> もしかしたら、と思う時はある。彼なら、幼い頃から時間を共有した信也なら、私の事を解ってくれるのではないか、と。<br> しかし、それだけはダメだ。こんな厄介事、彼に背負わせていいわけが無い。<br> けれど、説明はできなくても、少なくともこの傷だけは私が責任を以って癒さなければ。<br> 「いつも言っている通り、私は貴方が好きです。だから、」<br> 「いらねぇよ」<br> いいかけた言葉を遮られた。内容が内容だけに、思いのほかダメージは大きかった。<br> きっぱり拒絶されて心が折れかける。体は普通でなくても、心の方はそうでもないらしいと今更ながらに思い知った。</p> <p>「毎回言ってるけど、お前はもうちょっと自分の事考えろって。俺の事なんかで大事なモノ投げ出すなよ」</p> <p>(――え?)<br> 続いた言葉に、挫けた心がひょっこり生き返った。存外現金なものだと思いながら、平左のように言葉を返す。<br> 「投げちゃいないわけですが。まあ、キャッチャーのサインには従わなければなりませんね」<br> 嫌われていないのならそれで良い。別に、受け入れられなくても良い。<br> 最初から、そんな事望んではいないのだ。<br> 普通の人間ではない私にとって、大切なのはあくまで彼の心が安らかである事。<br> あとは、それなりに近くにいられればそれで良い。<br> 彼が自分で立ち直れると言うのなら、私はそれを全力で守るだけだ。<br> 「ところで、私は何だと思いますか?」<br> そういえば、これを彼に問うた事は無かった。彼の知を奪うわけにもいかなかったから。<br> なのに何故、訊こうと思ったのかは分からないけれど、<br> 「お前はお前だろ。柚の木についた一枚の葉、寂しがりも大概にしとけ」<br> 何言ってるんだか、と目で語りながら信也は言う。それに、ため息と苦笑を交えて返した。<br> 「相変わらず酷い事言いますね。そんな事言ってると」<br> やはり、求めている答えではなかった。<br> 当たり前だ、何年も何年も収集して、それでも納得できる答えなど見つからない。<br> それを、奪わなくても良く分かる人間から、教えてもらえるはずがない。<br> ……けれど、今はそれでも良いかと思えた。<br> 笑みが浮かぶ。<br> 「いつか、食べちゃいますから」<br> 楽しみは、最後の最後にとっておくべきなのだ。</p> <p> </p> <p><a href= "http://bbs15.aimix-z.com/mtpt.cgi?room=kansou&mode=view&no=52">感想BBSへ</a></p> </div>