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何か文句でも?前編 - (2007/07/25 (水) 07:25:33) のソース

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<p><u>何か文句でも?</u> 前編 作者:せる</p>
<p><br>
 早朝、人間には解らない言葉でスズメたちが囀っている中、わたしは無言で玄関の前に立っていた。<br>
 そろそろかな、と考え直後に足音。振り返ると、一人の女がそこにいる。<br>
「おはようございます。信也はもう学校ですか?」<br>
「お生憎さま、兄さん今日はサボタージュよ」<br>
 わたしがそっけない口調で答えると、それはいけませんね、と挨拶をしてきた女は勝手に我が家にドアに向かう。<br>
「どうする気?」<br>
「叩き起こそうかと」<br>
 わたしの問いに、何でもないように女は言った。柚木一葉、信也の幼馴染にしてわたしの敵。<br>
 なので、私もシンプルに対応することにした。挙動は一つ、指弾き。<br>
 一葉はドアを開く寸前に、横合いから殴られたかのように我が家の庭へと吹き飛んだ。<br>
「ドカンと一発、ってとこかしら」<br>
「……。朝から、ご挨拶ですね」<br>
 頭を抑えながら、即座に彼女は身を起こした。手加減はしなかったから、成人男性の体当たりくらいの威力はあるはずなのだが。<br>
 この程度は何でも御座いませんと澄まし顔で、彼女は制服を払う。その目に一片の敵意も宿っていない事を確認して、わたしはため息を吐いた。<br>
「信也は風邪で寝込んでるわ。……最近色々あって疲れてるらしいの。半分以上アンタのせいなんだから、今日は黙って諦めて」<br>
「なるほど、それならそう言ってくれれば良いものを。ではまた放課後に来るとしましょう」<br>
 余裕を崩そうともせずに嘯く女に、わたしはいつも通り敵意が篭った視線を送った。<br>
 腰まである長い髪は朝日に照らされて滑らかに光っているし、染みも皺も一つとない肌は今日も丁度良い白さだ。<br>
 元の造詣は人形みたいに綺麗。その上外見に驕った風でもないのだから、実のところ同じ女として憧れがない訳でもない。<br>
 けれど、このわたし――美樹本春奈は、柚木一葉という女が大嫌いだった。<br>
(何故かって?)<br>
 言うまでもない。一目見るだけ判る。<br>
 他の人間には見えないらしいが、この世界には二種類の胡散臭いエネルギーが存在している。<br>
 それが実際のところ科学的に検出可能な物質なのか、はたまたオカルト圏の魔力やら呪力やらという怪しい代物なのかは判らない。<br>
 わたしには興味がないし、理解できる知識もない。<br>
 そんな物は必要でさえない、現に目の前にあるんだから。知りたい人が調べて論文でも出していれば良い。<br>
 ただ、それでもソレらはわたしに無関係な訳ではなかった。何せ見えるし、触れようと思えば触れる。<br>
 そのくせ意識しなければぶつかっても透過する謎具合だ。皆が皆見えるなら良いが、それがわたし以外には見えないときた。だからソレが何であれ、多少の関わりを断つことは出来ないのである。<br>
 で、それが何故一葉がキライな理由に繋がるのか。単純だ。わたしだって生まれたときから、こんな超能力じみた感覚を持っていた訳がない。<br>
 幼いとき、わたしは一度死にかけた。その時柚木一葉に助けられたのが切欠。そして、その目で最初にこの女を見た時、わたしは絶叫を上げたのである。<br>
 そう、例え憧れるくらい綺麗だろうが、兄さんの大切な幼馴染だろうが、そんな事は問題ではない。この女は、人間ではないのだ。<br>
 今も空間にぷかぷか気軽に浮いている、波だか粒子だか良く解らないモノをわたしは暫定的に陽子、陰子と呼んでいる。ただのフィーリングなので、物理のそれとは関係がない。<br>
 理由は不明だ。けれど二種類のうち、わたしが陰子と呼ぶほうが、あの女にこれでもかと言うほど纏わりついている。<br>
 誤解の無いように言っておくと、それは決して不思議なエネルギーが女に力を与えているというわけじゃない。<br>
 むしろ逆だ。普通のエネルギーっぽい陽子とは違い、陰子は生物的な営みから正反対のベクトルを持っている。<br>
 言うなれば反物質。記号に表すなら掛け合わせたってプラスにならないぐらい問答無用のマイナス。<br>
 触れるが最後、貯金とか寿命とか脂肪とか形振り構わず消し飛ばす引き算の塊が、あの女の内側から滲み出ている。<br>
 生きているのが不思議、どころの騒ぎではない。あれでは死者にさえなれない。<br>
 あえて例えるなら飛行機。それも、両翼どころか補助翼さえ取っ払った飛行機だ。普通なら一秒前に墜落して炎上して壊れている約束されたガラクタ。<br>
 だというのに何故かその上から、【異常なし】と書かれた張り紙が傲然と貼り付けられている。<br>
 そんな笑えない冗談に、乗客どころか神様さえ騙されて、異常がないから落ちる筈ない、なんてふざけた理由で平然と空をかっとんでやがるのだ。<br>
 どこぞの偉い人が神様死亡説を流しても仕方ないだろう。<br>
 本当にいるならもう一度その目を見開いてちゃんと見てみろ。むしろわたしの話を良く聞け。<br>
 飛行機は翼があるから飛行機って言うんだぞ、って鼓膜が破れるくらい大声で言ってやるのに。<br>
 ――ようするに、それくらいあの女は存在の仕方がおかしい。そういうのを、世間では人間とは呼ばないのである。<br>
「さっきから難しい顔して、何を悩んでいるんですか?」<br>
 言うに事欠いて何をだと? アンタの事に決まっている。<br>
「別に」<br>
 言える筈がないし、言っても仕方がない。あたしの手綱はこの女が握っているのだ。<br>
 だからこんな事知りたくもないのに分かってしまうし、見たくもないのに不思議な粒子に囲まれる生活になってしまった。<br>
 腹いせに指を弾いた。これはただの合図。目に見える上に手にとる事も出来るソレは、もはや念じるだけで自由に動く。ぶつければ大抵の物が吹っ飛ぶ謎な超能力だ。全然嬉しくないから、こんなものを持つに至った元凶以外には滅多に使わない。<br>
 あの女はマイナスの塊だから、陽子をぶつけるとそれは盛大に吹き飛ぶ。一度相殺させ続ければなくなると思って一時間くらい試したが無駄だった。<br>
 アイツは十分くらいで気絶して抵抗してこなかったのに、根負けしたのはあたし。きっと、見てるだけで気が狂いそうになるあの虚無を、アイツは自分で生産している。<br>
「貴女……ソレすごく痛いから止めなさいって、前に言ったでしょうが」<br>
「知らないわね。人類の敵を討つのに遠慮はいらなくてよ」<br>
 澄まして答えると、一葉は溜息をついて諦めた。わたしが怖い訳でも抵抗できない訳でもない。ただ、わたしが信也の妹だから手をあげないだけ。<br>
 その事実が余計にあたしを苛つかせる。この女は、わたしを敵として見ないどころか、身内の身内として庇おうと言うのだ。<br>
 そのくせ、あたし自身には全く価値を認めない。面白いはずがないだろう。<br>
 せめて、こちらの抵抗を許さないくらい立場を誇示すべきなのだ、コイツは。その態度があたしの怒りを買っていることさえ知っているくせに、歯牙にもかけない。<br>
 ならば、いくらでも抵抗してやるのが正しい行いだろう。<br>
 もう一度ため息。一葉は既に学園への道のりを歩いている。その速度が遅いのは、わたしを待っているのだと何故か分かった。<br>
 信也を迎えに来たくせに、出迎えたわたしを拒絶する気配もない背中を、僅かにしぼんだ敵意で眇めて追った。<br>
 </p>
<p><br>
「あ、ハルちゃんおはよー。こっちこっち」<br>
 教室に入った瞬間、一人の女子生徒が飛び跳ねながら手を振ってきた。<br>
「おはよう、美沙。朝から元気ね」<br>
 挨拶を返しながらそちらへ一直線に向かう。別に呼ばれたからという訳ではなく、そこがわたしの席なだけ。<br>
 カバンをかけたところで、美沙が机の上にもたれかかった。無論、わたしの机である。<br>
「ねえねえハルちゃん、きいてきいて」<br>
 隣の女生徒、帆村美沙は今日もテンションが高いらしい。<br>
 ねえねえハルちゃんねえハルちゃん、と人の愛称を借りてきた猫のように連呼してきた。<br>
「はいはい美沙ちゃん、どうしたのよ」<br>
「噂よ、噂。また出たらしいの」<br>
 会話中、中々主語を言わないのが彼女のクセだ。といっても、彼女がこうやって騒ぐ話の内容は限られている。<br>
 誰と誰が付き合っているとか、あの先生はカツラだとか、そういう話でこうはならない。そう、美沙が騒ぐ内容と言えば。<br>
「また不思議? うどんが降ってくるくらいじゃ驚かないわよ」<br>
「やだなー、うどんが降ってくるののどこが不思議なの。不思議っていうのは、もっと不思議なこと言うんだよ?」<br>
 その台詞に一つ眩暈を覚えた。<br>
 そうだ、この街の人間は不思議に耐性があり過ぎるというか、常識として刷り込まれてるためそれを不思議と認識しない。<br>
 わたしからすればうどんが空から降ってくるのも、その原因が怪しいカエルだというのも摩訶不思議の塊なのだが。<br>
 では、彼女が不思議と思う事は何かと言うと、それは不思議というよりゴシップかスキャンダル。または事件の類なのである。<br>
「……ふーん、今度は何があったわけ?」<br>
 若干構えたわたしには気付かず、美沙は深刻な風を装って言った。口の端が笑っているのには気付かない振りをしよう。<br>
「驚かないでね。……吸血鬼、らしいの」<br>
「―――」<br>
 脳裏で世界で一番キライな女の顔を連想した。<br>
 優秀なくせに大雑把で無頓着な単細胞だから、いつ何時下手を打って正体がばれるとも限らない。<br>
(流石に、それはないと思いたいけど……)<br>
「で、その吸血鬼はどんな女なわけ?」<br>
 とりあえず探りを入れなければならない。<br>
 正体を知っている身で真相も何もないが、どの程度詳細が出回っているのか、それだけは把握する必要があった。<br>
 が、<br>
「あれ、なんで女の人だって知ってるの?」<br>
(――しまった)<br>
 あまりにピンポントに急所を突く話題だったので、気が急いてしまった。<br>
 何だってこんな朝からあの女のことで悩まなければならないのか、と理不尽な怒りを覚えながらも、わたしは必死に言い訳を考える。<br>
「あ、いや、偶然よ。来る途中に電車の中でそういう話が聴こえたの。ただのデマだと思って聞き流したから、ここでも聞くとは思わなくて」<br>
 正直自分でも怪しい挙動だと自覚していた。が、幸いというかなんというか、わたしの真っ赤な嘘に美沙は疑う事無く納得してくれた。<br>
(ったく、あとで特大の衝撃波お見舞いしてあげるんだから)<br>
 内心でそう誓うと、わたしは話を続ける美沙の言葉に耳を傾けた。<br>
「そっかー。もう広まってたんだ。ま、いいや。でね、その吸血鬼なんだけど、すごく綺麗なんだって」<br>
「らしいわね。髪は腰まで伸びてて、濃紺のコート着てたんだっけ? まあ、あれは冬の話だけど」<br>
 慎重に言葉を選ぶ。飽くまで昔流れていた単語を羅列しているだけだ。わたしがその吸血鬼と知り合いだ、なんて推測はわたしの言葉からは立たない。<br>
 そんなことばかり考えていたから、美沙の次の言葉にまたわたしは驚く破目になった。<br>
「え、違うよ? 髪はショートで、服装は軽い感じ。でも背はすごく高くて、モデルみたいなんだって」<br>
「……へ、へぇ。そうなの。なぁんだ、違うんだ」<br>
 柚木一葉の背格好を反芻する。<br>
 確かにあの女は背は高いし、スタイルも良いだろう。けれど、それは幼児体型なわたしと比べての話だ。<br>
 比較の対象がないのなら、そういう評価はおそらくつかないだろうし、そもそも髪型が違う。あの女が隙のある軽装をしていたことも記憶にはない。<br>
(これは、ちょっと作戦会議が必要だわ)<br>
 朝一から頭の痛いことになったなと思いながらも、わたしはさらに詳細を聞きだすことにした。</p>
<p> </p>
<p>「ということ、らしいわ。変身能力があるならわたしには言っておきなさいよ」<br>
 驚くじゃないの、と目前でサンドイッチをぱくついている女を睨んだ。<br>
「開口一番人を大馬鹿扱いして、有無も言わさず吹き飛ばしてくれた上に言う事はそれだけですか?<br>
 ――あんまり脳味噌オーバードライブな言動ばかりかましてくれやがりますと、私にも考えがありますよ?」<br>
 珍しく額にマークを浮かべて、己が怒っていることを彼女は表明した。が、その程度で取り合うはずもない。<br>
「誰が人よ、誰が。いくらこの街が不思議現象の吹き溜まりだからって、そう何人も吸血鬼が沸くわけないじゃない。<br>
 アンタじゃなかったらアンタに吸血鬼にされた不幸な誰かの犯行よ。どっちにしろ罪状は死刑ってとこね」<br>
「……訂正箇所は三つ。わたしは下手人じゃありませんし、そんないかにも吸血鬼らしい能力もありません。だから私が死刑にされる謂れもありません」<br>
 大体ですね、と一葉はサンドイッチを咀嚼し終わってから言う。<br>
「いくら昏睡者が数人でたからといって、全て怪現象のせいにしてしまうのはどうかと思いますが。むしろ、まず先に疑うのは病原菌の類でしょう」<br>
 その言葉は尤もな指摘ではある。怪現象の塊が言うような台詞ではないと思うが、それでも確かに今決め付けるのは時期尚早というものだ。<br>
 もし、何の手掛かりもないのなら。<br>
「わたしがそんなことも考えずに、いきなり人を疑うとでも思っているの」<br>
「思ってますが何「あっそ、死にたいらしいわね」」<br>
 指を弾く。三塁打といったところだろう。</p>
<p> </p>
<p>「もしアンタが食い気に任せて乱獲してたんじゃないんなら、そっちの方が問題なのよ」<br>
「……いっぺん訊いとかないとって思ってたんですが、私のことなんだと思ってるんです?」<br>
「言っていいわけ?」<br>
「やっぱりいいです。分かってますから」<br>
 じゃあ言うなと軽く弾いて、わたしは周囲を見渡した。視界の端で一葉がふらついているが、無視。下校途中の生徒がちらほらと見える。<br>
 当然だろう、そもここは霧生ヶ谷を二分する一号線のホームの一つ。最も中央よりではあるが北区の駅であり、南区にある学園へ向かうにはこれを使う以外にはない。逆も然りだ。<br>
 わたしたちは駅を出て歩き出した。道すがら、学園で調査した内容を一葉に喋り散らす。その多くを、一葉はそうですかの一言で片付けた。<br>
「今日、自称襲われた生徒にも会って来たわけ、三人くらい。その子たち、一体何て言ったと思う?」<br>
「さあ、わたしは読心術も使えない三流吸血鬼ですので。大方、突然腹痛にでも襲われただけだと思いますが」<br>
 軽口を叩くその口調は、全くと言って良いほどわたしの話を信じていない。<br>
 日光の下ふらふらと出歩いてるアンタが、三流で納まってたまるかというのだ。<br>
 怪異の中でも一筋縄じゃいかないクセにマトモなことしか言わないのは、頭が固いと言うべきなのかどうか。<br>
 けれどソレも終わりだ。一葉がどういう能力なのかわたしは知っているし、どういう習性を持っているのかも知っている。だからこそ、これを聞いた時は真っ先に彼女の仕業だと断定したのだから。</p>
<p>「記憶」</p>
<p> たった一言。それだけで、一葉は足を止めた。<br>
「――」<br>
 振り返る。その表情は無。元々人形めいた造詣のこの女は、人間のふりを止めるだけで既に化け物めいて見える。<br>
 目を合わせていられなくて、視線をずらした。耐えられない、あの表情を見ることも、あの目で見つめられることも。<br>
 けれどここで黙っている選択肢はない。わたしはありのままの事実を告げる。<br>
「自分が最近何をしていたのか。自分はそもそもどこにいたのか、何も覚えていないらしいわ」<br>
「そうですか」<br>
 そのまま彼女は黙り込んだ。実のところわたしたち二人では、イニシアティブは一葉にある。どうあっても決定権は彼女であり、わたしは従うだけの存在だ。<br>
 それは力の強弱などではない。そういう関係としか言い様がないのだ、わたしたちは。<br>
「ねえ、春奈さん」<br>
「なによ」<br>
 平坦な声音に、身が竦んだのを自覚した。どれほど抵抗しようと、この声音だけには逆らえない。<br>
 それほど、内心でわたしは硬直していたと言うのに、<br>
「ご飯食べに行きましょう」<br>
 勿論普通の、と何もなかったように歩き出した。</p>
<p> </p>
<p>「ねえ、これ嫌がらせでしょ? 嫌がらせよね? そう言ってくれないと叫ぶわよ?」<br>
「いかようにも。何が嫌がらせですか。北区で一番美味しいうどん屋といえば、ここしかないでしょう」<br>
「ふざけんな、本気で言ってるならアンタは人間じゃないわ!」<br>
「吸血鬼ですが、何か文句でも?」<br>
 わたしは心の底から後悔していた。うどんロードに入って、幾度となくこの結末を回避する手段はあった。客引きはそれこそ三歩進むほどに声をかけてきたのだから。<br>
 何を血迷ったのか、一葉に選ばせてあげようと思ったのが運の尽き。ここに来ると知っていたなら、金モロ食堂のむひ婆さんの誘いだとしても断るべきではなかったのに。<br>
 「悪かった、わたしが悪かったわ。今まで全てのことについて謝ってあげてもいい。だからここは止めましょう。ねえ、モロ・サン・ミッシェルのモログラスペシャルでも、クライクライクライのハウリングモーロでも奢ってあげるから。アンタ普通のって言ったでしょ? ねえ、ここは人間が来るところじゃないの。アンタには判らないでしょうけど、花の乙女が入る場所じゃないのよ……!」<br>
「その誘惑は正直断りがたいですが、諦めてください。一度入った以上注文しないのは失礼です」<br>
 わたしの魂の懇願を無常に切り捨てて、一葉はメニューを渡してきた。恐る恐る開くが、怖い。何が怖いってもう既にメニューが怖い。何故、どういう意味があってこのような毒々しい赤色にしなければならない。何故、杏仁豆腐の説明に秘伝の唐辛子などという文字が書かれている。辛亭という名の横にある髑髏のロゴには殺意さえ感じた。<br>
「アンタ、怒ってるんでしょ? いつも衝撃波ぶっぱなすわたしに怒ってるんでしょ? なら謝るし契約でも何でもして、二度とアンタに逆らわないと誓うわ。ねぇだから考え直し」<br>
「諦めが悪いです、黙りなさい。――あ、注文よろしいですか? はい、極辛二つ。水? いりません。それから杏仁キムチも二つ下さい」<br>
 メニューのどこにも、極なんていうおぞましい字がつく品はない。この中で最も辛そうな激々々々辛霧生ヶ谷うどんのことか? 否、あの店員と通じ合った目、絶対隠しメニューだ。それはいい。別にこの女がどれほどこの店と懇意にしてようと、わたしには関係がない。そう、問題は、問題は。<br>
「なんでアンタがわたしの分まで決めるのよ――!」<br>
 大体、わたしにメニューを渡した意味がないではないか、と叫ぶ。予告していた通り、全身全霊で叫んだ。<br>
 周囲の視線さえ無視。というか、妙に生温い見守るような視線なんていらねーわよっ。<br>
「感謝されこそすれ、そこを責められるとは思いませんでしたね。一見さんお断りの隠しメニュー。地獄の炎で調理し、天上のスパイスを用いた究極の辛さ。<br>
 辛苦に染まる魔法のうどんですよ? アナタの人生の中でも、トップクラスの貴重な体験になると断言できるのですが」<br>
 妙に饒舌な一葉は、次々に極辛なるメニューを賛美する。<br>
 けれどわたしは気付いていた。辛苦という言葉。それが真紅の誤字でも誤用でもなく、全く文字通りの真実であることを!<br>
「ま、知らないものを怖がるのは人も吸血鬼も同じです。貴女だって一度この味を知ればこちら側ですよ、ふふ」<br>
「吸血鬼の側になんて、これ以上踏み込むもんか……」<br>
(良いわ、たかがうどんよ。どれほどおぞましいモノであろうと、所詮はうどんでしかない。うどんはうどんである以上、うどんを超えることは出来ない。ううん、それがうどんだって言うのなら、うどん以上でも、うどん以下でも、うどん以外でもないはず。人間様を舐めるんじゃないわ。そう、たかがうどん如きに、この美樹本春奈が下るかっていうのっ)<br>
 わたしは自己暗示じみた呪文をひたすら心の中で唱えた。そのうち、本当にたいした事ないんじゃないか、という気分になって来た。<br>
 そう、たいしたことはない。大体、柚木一葉とてそれほど人外ではないはずだ。<br>
 吸血鬼だといっても日光で灰にならないし、他人を完全に吸血鬼にすることも不可能。きっと銀もニンニクも流れる水も関係ないはず。<br>
 アイツの部屋を見たことだってある。そこには厳つい鉄板製の柩はどこにもなかったし、その中に曰くありげな土がもられていることだってなかった。<br>
 きっとアイツは、本当は吸血鬼でも何でもなく、ただ他人の血を栄養源に出来るだけで、後は普通の人間なんだと――。<br>
「来ましたね。ああ、ここはわたしの奢りでいいですよ。タクシー代も」<br>
 ゴトリと目前にソレが置かれたのを最後に、わたしの記憶は途絶えていた。</p>
<p> </p>
<p>「さて」<br>
 倒れ伏した少女を抱えて、私は店を出た。<br>
 涙どころか鼻水さえ垂らして極辛に挑んだ勇気は褒めるべきだろうか。彼女曰く、花の乙女の振る舞いとはとても思えなかったが。<br>
 麺の全てを食べきり、スープを飲み干して春奈は沈んだ。辛いという一点を除けば、辛亭は万人にとって美味である。彼女が諦めなかったとしても不思議ではない。<br>
 尤も、それで会計がタダになるとは思わなかった。極辛は隠しメニューであって激々々々辛霧生ヶ谷うどんのように賞金などない。<br>
 一部の熱狂的なファンか少々味覚の壊れた客にのみ出すものだ。賞金をかけるなら万単位に設定しても採算がとれると思われるが、そのような措置もない。<br>
 だと言うのに、綺麗に空になった二つの椀を見て店主も店員も咽び泣いた。<br>
 否、わたしが最初に平然と平らげた時、彼らはむしろ唖然としていたようだったから、彼らの感動は春奈の英雄的な挑戦によるものだろう。<br>
「ま、タクシー代は予定通り払う破目になるのですが」<br>
 辛亭の店主に持たされたタオルで春奈の汗を拭う。すぐにびっしょりになって使い物にならなくなった。<br>
 魘される顔は傍目から見ても辛そうであるが、キッチリ乙女の表情ではあるだろう。涙も鼻水も止まっている。後から彼女が怒り出す心配もない。<br>
 もうすぐ夜の帳が降りようとする中、私は春奈を背負って歩く。タクシーを捕まえるには、うどんロードから出なくてはならない。<br>
 多少奇異な視線を引いた気がしたが、気のせいだろう。女子高生が女子高生を背負っている程度では、霧生ヶ谷の不思議には数えられないのだから。<br>
 そうこうしているうちに、大通りへと出た。一瞬躊躇ったが、近くのベンチに寝かせる。視界にきっちりと入ることを確認してから、道路でタクシーを待つ。<br>
 程なくして捕まえたタクシーに春奈を運び、運転手に道を指示する。まだ新米らしい運転手は道を一度間違えたが、私は何も言わなかった。<br>
「あ、そこで停めてください」<br>
 美樹本家が見えた辺りで言う。止まったタクシーから一旦春奈を運び出して、支払いを待った。<br>
「千二百円になります」<br>
「はい、どうも。ありがとうございます」<br>
 サイフを取り出す。辛亭の代金が浮いていたので、足りなくて家に取りに帰る心配はない。運転手にわたすと、何故か彼は謝って走り去っていった。<br>
(あら?)<br>
 釣りをサイフに入れる途中で、妙に安かったことに気付いた。計算する。たぶん、ワンメーター分ほど額が少ない。<br>
 律儀な運転手もいたものだ、と私は苦笑しながら春奈を背負う。というか、いい加減起きないのかこの娘は。<br>
「泣くほど、辛いものですかね……」<br>
 食べた春奈もだが、店主や店員も泣いていた。私には解らないが、彼らには偉業なのかもしれない。<br>
 そんなことをつらつらと考えているうちに、美樹本家の玄関に辿りつく。<br>
 鍵は掛かってあるが、私は信也から合鍵をもらっている。無論、肌身離さず持っている宝物だ。<br>
 このことを背中のブラコン娘が知ったらどうなるかな、と無駄なことを考えた。ただの戦争が起きるだけで、いつも通りである。<br>
 彼女を居間のソファーに寝かせた。部屋へ連れて行けば良いのだが、私が入ると春奈は怒るだろう。<br>
「うーん、しかし、このままというのもどうかと」<br>
 もうすぐ夏だとはいえ、ソファーに置き去りでは拙い気がする。汗はまだかくだろうし、起きるまでに寝冷えしないとも限らない。<br>
(ふむ、掛け布団でももってきますか)<br>
 布団を春奈の部屋から持ってくるのでは意味がない。どちらにしろ怒るだろうから却下だ。流石に両親の寝室に入るのもどうかと思う。<br>
 なので、結論は一つだった。私が気軽に入れる部屋など、元々この家には一つしかないのだから。<br>
 幾度となく通った道だ。部屋の場所は覚えている。すぐに目的のドアを見つけた。<br>
 信也の部屋は、ある意味最も一葉にとって危険な部屋ではある。が、それは私にとって瑣末過ぎることでもあった。<br>
 もし信也が部屋にいて、万が一まともな状態ではなく、部屋に入った一葉をいきなり襲ったとしても、それはそれで全く問題のないことである。<br>
 むしろそうなったら面白いことになりますね、なんて考えながら、私は眼前のノブを回した。<br>
「ああ、そういえば風邪でしたか」<br>
 布団には信也が転がっていた。他人が入ったというのに目を覚まさないあたり、かなり眠りが深いとみえる。<br>
 一瞬彼の掛け布団を持っていこうかと思ったが、シークタイムゼロで却下だ。信也と春奈を天秤にかけるなら、悩むまでもない。<br>
(大体掛け布団が一つというわけでもありませんし)<br>
 無遠慮なのは解っていたが、今更だと思い返して部屋の押入れを開けた。使っていない掛け布団を徴収する。<br>
 そのまま気付かれないようゆっくりと部屋を出た。扉を閉めるとき、最後に小さくおやすみを言おうと振り返って、<br>
「――」<br>
 バサリ、と布団が落ちる音が響いた。<br>
 私は再び部屋へ入る。足音はあえて隠さなかった。信也は気付かない。こんなに近くで他人が動いているのに気付かないし、覗き込んでも眉一つ変えない。<br>
 枕元に座って、髪を梳いた。気付かない。頬を撫でる。気付かない。口づけする。気付かない。<br>
「なるほど」<br>
 呟いて、立ち上がった。あの分だと明日の朝くらいまで寝込んでいるだろう。学校に来るのはもう少しあとかもしれない。大丈夫、風邪より落ち着いている。彼の身体に、心配すべき点はどこにもない。<br>
 ただ、恐らくは最近のことを訊ねても答えることは出来ないだろうと思った。<br>
 そのまま部屋を出て、玄関に向かった。途中で春奈に布団を被せていなかったことを思い出したが、どうでもいい。現状の優先順位としては最も下位な事項だ。<br>
 彼女のことで気になったのは、信也を風邪だと言っていたこと。<br>
 私ほどでなくてもマトモではない春奈が、兄の変調に気付かなかったのはおかしい気がする。けれど、あの娘は上手く嘘を吐けるほど器用ではないし、もし気付いていたらたぶん黙っていることなんて出来ないだろう。<br>
 玄関に鍵を掛け、夜の街に出る。最後に美樹本家を振り返った。<br>
「よりによって信也を襲うなんて。――例えお仲間だろうと、赦せるものではありませんね」<br>
 今の自分は、人間の表情をしていないだろう。だが今はそれでいい。吸血鬼を狩るのに、人間では役不足なのだから。</p>
<p> 柚木一葉、本気モードで捜索開始。美樹本春奈、負傷により休眠中。</p>
<p><a href=
"http://bbs15.aimix-z.com/mtpt.cgi?room=kansou&amp;mode=view&amp;no=54">感想BBSへ</a></p>
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