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編集部の蝗三十五 - (2008/02/01 (金) 21:49:57) のソース

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<p><u>編集部の蝗三十五</u> 作者:清水光</p>
<p>「蝗君! 至急、現市長の汚職を追及してくれたまえ!」<br>
 目覚めたらもう正午をすぎていた。冷蔵庫の中から無造作にひっつかんで、昼飯をすませる。食後にゆっくり休んでから、ようやく出勤した頃には、すでに二時を回っていた。編集部に足を踏み入れるなり、ツバをまきちらしてのダミ声が襲い掛かる。遅刻に対する怒りの言葉ならまだよかったのに、どうも今日とてそうはいかないらしい。<br>
 俺の名前は蝗三十五。蝗の由来は阿呆な先祖に任せるとして、親がつけたであろう三十五の理由には近頃気づいた。俺の誕生日は三月十五日、多分そこから三十五。わかったからといって、どういということはないけれど。<br>
 先のダミ声の主、カンフル編集長は相も変わらず、編集部の奥にどっしりと構える。ほとんど球形に近い肥満体だが、不健康さは妙なことに感じられない。恐らく、無駄に陽気なせいだ。糖尿やら高血圧やらといった病魔も、当然選り好みはするに違いない。<br>
 現市長の汚職を追求、だって? 霧生ヶ谷市市長、確か名前は朧屋ヒノエ。年齢は――はっきりしないがかなり若い。下手をすると俺とあまり変わらないくらい。ちなみに俺は今度の三月で二十六。<br>
 彼女は以前、中央の方で色々とやってたらしいが、急に故郷である霧生ヶ谷に帰ってきて市長選に参戦した。そして見事圧勝を収める。今のところ、評判は上々。いくらか過激な部分も見られるが、若さゆえの活力だと評価すべきだろう。なんかそんなん言ってる俺は年寄りくさく聞こえるが。<br>
「編集長、どこでその話を聞いたんですか? 現市長の汚職の話なんて、まったくこれっぽっちも聞いたことがないですよ」<br>
「ふふふ、汚職は政治家の基本中の基本だろうが。むしろ汚職こそが政治家の責務。汚職が政治家を政治家にする! 我らが月刊霧生ヶ谷万歳!三周年記念にふさわしいスキャンダルじゃないか!」<br>
 カンフル編集長の言動はすべからくむちゃくちゃだ。もしかすると汚職の意味すら正確につかんではいないのかもしれない。頭が痛い。ただしそれでも彼が俺の上司であるというのは、厳然たる事実だ。<br>
 月刊霧生ヶ谷万歳!は依然として、霧生ヶ谷の片隅でちまちまやっている。公売部数は考えたくない。経理は俺やカンフル編集長ではなく、鳥ちゃんが受け持っている。だから詳しいところは知らないが、経営はかなりカツカツなんじゃないかと思う。そんな弱小雑誌の編集部で、俺は編集者であったり記者であったり、多種多様な仕事をこなしている。<br>
「ずばっはーんと一発、ぶったぎったろうじゃないか! ぎゃーははっはははは」<br>
 こうなってはもうあきらめざるをえない。カンフル編集長の決め台詞に背中を押されて、俺は街へと飛び出した。<br>
 月刊霧生ヶ谷万歳!編集部は、中央区にある雑居ビルの一室に居を構える。霧生ヶ谷でも都市的な場所だから、一歩外へと踏み出せば、人と車がそれなりに行き交っている。ゆるい雑踏の間を縫って俺は歩く。さて現市長について調べるにはどこがいいものだろうか?<br>
「今手が離せないから、代わりに話を聞いてやってくれ、新人」<br>
「だから、アラトですってー!」<br>
 両開きの扉を開けるが返事はない。愛想に欠ける。役所なんてそんなものだ。窓口に並んでみても、誰もいない。年度末だからだろうか、大分ばたばたしているようだ。通りがかった中年職員に声をかけると、ようやく人を呼んでくれた。だがどうやらそれも正規の受付担当ではないらしい。<br>
 雑事を押し付けられる役回りなのか、ずいぶんと若そうな男が現れた。スーツに身を包んではいるが、どこか頼りない雰囲気がにじみでている。<br>
 新人もといアラト君は一礼するなり、俺のほうをじっと見つめだした。初めての来訪者はじっくりチェックしろというのが市役所の規則なのか、それともこの男の個人的な趣味なのか? 前者の可能性はほとんどないが、後者は後者でいただけない。十秒も凝視して満足したのか、ようやくアラト君は身を引いた。<br>
「もしかして、蝗先輩ですか?」<br>
「はえ?」<br>
 彼の口から飛び出たのは、意外な言葉だ。蝗――そう、俺の名だ。まだ名乗っていない。名前がわかるようなものも身に着けていない。鈴木や佐藤ならともかく、蝗というのはあてずっぽうではわからない。俺のことを知っている? こいつはいったい何者だ? まさかストーカーか? そいつはさっき以上にいただけない。<br>
 いや、待て。こいつは何と言ったのか? そうだ、先輩だ。とゆうことは順当に考えれば、このアラト君は俺の後輩ということになる。俺の今までの人生で、先輩だとかそんな風に呼ぶヤツがいただろうか? 平素思い出しもしない、記憶の糸をゆっくりとたどってゆく。俺は霧生ヶ谷の生まれじゃない。大学の頃、こっちにやってきて、そのまま居ついているにすぎない。不思議なものとはうまが合わない。大学の頃?<br>
 今度は俺が目の前の男を注視する番だった。端から見れば、男二人が見詰め合っていたわけで、あんまりいいもんじゃなかったなと、後々思った。<br>
「えーと、名取?」<br>
「そうです、名取新人です」<br>
 同じ大学の二つか三つ下の後輩。ちなみに俺は一浪して入ってるので、年齢はそれよりさらに開いている。サークルだったかゼミだったか、どうゆうつながりで出会ったのかは覚えていない。名取は霧生ヶ谷市外出身で、不思議だのなんだのにすれていなくて、そこらへんのところ気があって、何度か飲みに行った覚えもある。俺の卒業以来会っていなかったものだから、顔を忘れていたとしても仕方がないことだ。<br>
 久しぶりだのなんだのと、俺と名取は適当に挨拶を交わす。それにしても、お役所勤めとは知らなかった。いくらか真面目というか、誠実なところがあるやつだとは思っていたが。<br>
「先輩は雑誌編集か何かの仕事についたんでしたか? 確か、月刊霧生ヶ谷ガンホー!」<br>
「まあだいたいあってる。そんなところ」<br>
「そういえば、近頃テレビコラムの連載をやってるでしょう? あれのだいひ――」<br>
「また妙なことしってんな? もしかしてよんでんの?」<br>
「ん、いえいえ。あれ、おもしろいですよねー、ファンなんです」<br>
「あれ書いてんのは、自分のこと悪魔とか言ってる、電波なひきこもりだよ」<br>
 変なところで変なやつに出会ったかと思えば、まさか霧生ヶ谷万歳!に読者が存在したとは! 雑誌名は間違えてたけど。途中何かいいかけたようだったが、まあいい、気にしないでおこう。テレビコラム著者の正体に、名取は乾いた笑いを浮かべた。<br>
「ところで、今日はどのようなご用件で、役所に?」<br>
「ああそうだ、本題を忘れるところだった。実は――」<br>
 俺は名取にだけ聞こえるように声を潜める。<br>
 名取の上司が出てくるにおよび、俺は市役所から追い払われた。当たり前かもしれない。流石に無謀だったようだ。現市長って汚職とかしてる? それって役所に直接尋ねることですか? いや多分違うだろうな。手順を大分端折ってる。<br>
 いつの間にやら、ずいぶんと陽が下がっていた。偶然の再会に思ったより世間話が弾んでいたのかもしれない。互い所在がわかっているから、気が向いたらまた飲みにでも誘うことにしよう。<br>
 それはともかくとして、汚職追求のつづきはどうしたものだろうか? もとはカンフル編集長の口からでまかせだ。ここらが切り上げどきにも思える。<br>
「こんなところで何をしているんですか? 蝗さん」<br>
 奇妙奇天烈な出来事というのは重なるものだ。そういう一日なのかもしれない。<br>
 ぼんやりと歩いていると、後ろから声をかけられる。高くて、どこか冷たい女声。振り返ると予想通りにひとりの女の子がこちらを見ている。肩でそろえた黒髪、同じく漆黒をたたえる切れ長の鋭い瞳。ここらでは進学校と呼ばれる、中央第一の制服を着ている。<br>
 さて誰だ? 今度の場合、ストーカーでもそんなには困らないような気がする。見覚えがあるどころか、ちょくちょく会っているように思えるが。<br>
「また編集長に無理難題を押し付けられたみたいですね」<br>
 なぜ、そんなことまで知っているんだ? もしかして、本当の本当にストーカーなのか? 確かに大分可愛い子だけれども、やっぱり怖い部分がある、そういうのは。でもどう考えても俺には、女子高生の知り合いなどいない。<br>
「ひょっとして、私が誰だかわかっていないんですか?」俺が黙ったままでいると、すっと彼女の目が細められた。<br>
「いや、わかっているよ、うん。わかっているさ。ただちょっと思い出しづらいだけだ。人物の識別がしづらいとかそれにあたる」<br>
「……わかっていないんですね」<br>
 ため息をつくと少女は鞄から何かを取り出す。ケースを開くと、縁の薄い長方形の眼鏡を、すっとかける。違和感の正体だとか、そういうものが一気に吹っ飛んだ。<br>
「鳥ちゃん?」<br>
 ちょくちょくどころか、毎日会っているぐらいだ。三人しかいない編集部の最後の一人、俺の同僚、鳥ちゃんだった。そう、いつもは眼鏡をかけている。それに高校の制服も着ていない。<br>
 そんなことだけでわからなくなるなんて、それは多分人間の記憶って不思議ってことだ。きっといくら研究しても解明できないんだ。俺の観察力だとか記憶力だとかが、足りないということではまったくない。<br>
「なんでまた今日は女子高生の格好なんてしてるわけ?」<br>
「私はもともと女子高生なんですけれど。もう三年です」<br>
「あれ、そうだった? ん、いやそうだったそうだった。女子高生鳥ちゃんだった」<br>
「だから覚えてなかったんですよね、蝗さんは。だいたい私は夕方からしかいつもいないでしょう?」<br>
「だよねー。いやいや、完全にすっかり覚えていましたですよ?」<br>
 鳥ちゃんは二度目のため息をつく。あきれてものもいえないとか、そんなふうなオーラをあたりに漂わせる。夕暮れが近づいてきて、少しだけ人並みが弱まっていった。立ち並ぶビルの間で、俺と鳥ちゃんは立ち尽くす。<br>
 恐らく彼女は編集部に向かう途中だったのだろう。俺はどうしたものだろう? ちょうどここで会ったことだし、鳥ちゃんに今日のところをざっと報告して帰ることにしよう。それでいつもの一日が終わりを告げる、はずだった。<br>
「また今日もカンフル編集長が無茶なこと言い出してさ。市長の汚職を暴けとかいうわけだ。そんなもんまったくきいたこともないのに。とりあえず市役所とかを、それとなく、それとなくだよ、あたってみたけど、収穫はなかったね」<br>
「……そうですか」<br>
 彼女はそう一言だけ呟いた。夕陽が横顔の輪郭を映し出す。その瞳は何を見ているというのだろうか? 真っ赤に染まるビル街、あるいはそのもっと遠くを。静かに彼女は口の端をつりあげる。笑っているのかもしれない。そうだとしても――彼女の笑みはひどく寂しげだった。<br>
「いらっしゃい――って、なんだい、蝗じゃねえか」<br>
 棘樹町を基点として、数多のうどん屋が立ち並ぶ。その街並みは北区うどんロードと呼ばれている。<br>
 のれんにはでっかく行書体で、銀河系一の四文字が染め抜かれる。インパクトだけで勝負すれば、早々敗れることはない。うどん屋らしからぬダンディな店主が日夜うどんをゆでている。<br>
 俺はいつもと同様、モロ天うどんを注文した。大抵は昼飯時にやってくる。夕方すぎにここ、銀河系一霧生ヶ谷饂飩を訪れることはあまりない。どうしてわざわざ俺はこの場所にやってきたのか? うどんをすするのは自分を見つめるのに、十分な時間を与えてくれた。<br>
「聞きたいことがあるんだ……」<br>
「妙に深刻な顔してなんだってんだあ?」<br>
 黒塗りの碗の中はすでに空っぽとなっている。店主と俺はカウンター越しに正面から向き合った。ふつふつと湯の湧き上がる音がする。湯気が流れて、二人の間に薄く横たわる。店主は作業を行う手をふっと止めた。<br>
「鳥ちゃん……、彼女のことについて何か知っていることがあれば、教えてくれ」<br>
「興味本位ってわけじゃなさそうだな、その眼はよ。ちょいと事情を話してくれねえか」<br>
 対する店主の瞳にも、いつしか真剣さが宿っている。俺は今日あったことを、編集長の戯言からはじめて、ざっと全部を語りとおした。<br>
 店主はその最後までを黙って聞いている。が、話が終わるなり、こちらに背を向けると、がさごそと戸棚をあさり始めた。さんざんひっくりかえして、ようやく目的のものが見つかったらしい。店主はカウンターに、無造作に一升瓶を置いた。<br>
 河童の溺れ水。霧生ヶ谷ではよくみかける酒だ。店主は短く、飲めとだけ呟いた。有無を言わさぬ口調。いつもは冷水がついであるコップに、俺は溺れ水を注ぎ込む。店主自身もどここからかコップを持ち出し、胃の中に酒を流し入れた。<br>
「知るという行為にはいつだって責任がつきまとう。それをお前さんは自ら背負い込もうってのかい? あのいい加減きわまりない蝗三十五が」<br>
「そんなことこそ知らないな。俺はいつだって今やりたいことをやるだけだ。先のことなどこれっぽちも考えてやしない」<br>
 早くも俺の舌には酔いが巡っているのかもしれない。自分でも驚くほどするりと、その言葉は滑り出ていた。<br>
 店主はふっと短く笑う。少しの間天井を仰ぎ見、逡巡した後に語り始めた。<br>
「灯真巻九郎古光――この名前に覚えはねえか?」<br>
 数年前に市長選が行われた。彼は立候補者の一人だった。結果は現在が示すとおりに、彼は落選した。その後どうゆう心境の変化があったのかは、当人以外にはわからない。彼は雑誌編集部を立ち上げる。月刊霧生ヶ谷万歳!の誕生だ。巻九郎古光とはつまりカンフル編集長その人である。<br>
 灯真というのは霧谷のほうでは有数の旧家ということ。編集部、正しくは編集社を独力で作るぐらいの資産はある。財閥であるとかそういうものではない。炎によりて魔を討ち払う、異能の血統であるらしい。真偽の程はわからないが、地方の名士とでも考えればいいだろう。<br>
「あんたのいう鳥ちゃん――灯真深鳥は、灯真家のたったひとりの跡取りだよ」<br>
 頭の上あたりをいくつかの事実がくるくると飛び回っている。夜の外気は冷たくて、肌に刺さる。ゆらゆらとした足取りで市の東北、霧谷区を歩いた。<br>
 どこまでもつづく塀、その向うには低く構えた、巨大な日本家屋が見える。ここがその灯真の家で間違いはないだろう。家の中までは見えない。ゆらゆらと古風な篝火が揺れているのが、かすかにわかる程度。<br>
 カンフル編集長は現在居候の身分。家は妹が外から婿を迎えて継いだらしい。あの人は家でも厄介者扱いされているのだ。市長選に立候補して、その汚名をそそごうかと思われたが、あえなく落選。周囲は彼に仕方なく金を与えて、いい加減な雑誌でも作らせておくことにしたのだろう。<br>
 編集長の妹の一人娘こそが、鳥ちゃんだという。なんとなく構図が見えてきた。大事な跡取り娘として彼女は非常に厳しく育てられた。ひといきつける場所など家の中にはありえない。未来にも希望はない。とっくの昔に結婚相手も職業も決められている。一切の自由は剥奪されている。そんな彼女の憩いの場こそが、家ではつまはじきのものの叔父が作った、月刊霧生ヶ谷万歳!編集部だったのだ。<br>
 そういうことだったのだろう。揺らぐ視界の中に、鳥ちゃんの顔が思い浮かぶ。いつも机について、書類を整理している彼女。雑誌がまともな形になるのに、一番頑張っている。掲載する記事を取捨選択し、構成を決定し、部数を考える。時に自分で原稿を書いたりもしている。そんな――。<br>
 俺は夜の中を走り出していた。多少ふらつくが気にしない。気にしていられない。全力で走る。それ以外の事は考えられない。距離、時刻、体調、気分、温度――そんなものはすべて知らない。あらゆる計算などすでに打ち捨てている。走ることこそが目的であり、それ以外にエネルギーを費やす暇などない。<br>
 階段を一気に駆け上がった。扉を押し開ける。勢いのついた扉は、壁に当たって大きな音をたてた。編集部の明りはすでに消えている。奥の窓から細く、月光だけが差し込んでいる。そこに――幻影の少女の姿はあった。どうやら帰ろうとしたところだったらしい。鳥ちゃんは机の間に佇んでいた。<br>
 俺の息はとっくに上がりきっている。があがあと、自分の呼吸音なのにうるさいぐらいだ。心臓が激しく跳ね回る。そんなすべてを押しのけて、俺は彼女の手をとった。<br>
「結婚しよう。そして今すぐ、霧生ヶ谷から逃げ出すんだ」<br>
 小さな小さな編集部で、俺の声が響いた。夜の底の冷たい沈黙は、すぐにそれらも掻き消してゆく。鳥ちゃんは眉をひそめて、目の前の俺を二三秒眺める。それから長々と盛大にわざとらしく、ため息をついた。<br>
「どこからどうそうゆう結論に至ったのか、とりあえず説明していただけますか?」<br>
「えーと鳥ちゃんの家はすっごい旧家で、んで鳥ちゃんは唯一の跡取りで、躾とかもめちゃくちゃ厳しくて、一挙一動が見られていて、まったく自由とかそんなんはなくて、その上、高校卒業後はすぐに許婚と結婚することになっていて、しかもその許婚ってのが財閥のお坊ちゃんといえば聞こえはいいけど、五十を過ぎたロリコンオヤジでしかもその上生粋のオタクであって、マザコンで水虫で通風で高脂血症で睡眠時無呼吸症候群でそれからそれから――」<br>
「だいたいわかったので結構です」<br>
 息が切れているにも関わらず、俺は一気呵成に喋っていた。実のところ半分ぐらい自分が何を言っているのかもわからなかった。いやまさかのほほんと暮らしているところに、自分のいつも会っている同僚がそんな危機的状況に置かれていると、いきなり知らされたのだから。<br>
 一方、鳥ちゃんはというと、俺の言葉を遮ってから、再び大きくため息をついて見せる。鋭い視線を俺へと向けると、矢継ぎ早に質問を繰り出した。<br>
「誰に聞いたんですか?」<br>
「銀河系一のとこの店主に」<br>
「どこまで?」<br>
「鳥ちゃんが編集長の姪で、霧谷の旧家の一人娘だとか」<br>
「それ以外はどうしたんです?」<br>
「え、あれ、鳥ちゃんは高校卒業した後に……」<br>
「大学に行きます。そこの大学に一浪しないで入学できるぐらいには、学力がありますし。で、どうなんですか?」<br>
「全部、俺の妄想のようございますです、はい」<br>
 鳥ちゃんの厳しい視線にさらされて、俺の首筋にはひっそりと汗が流れていた。冷静に考えてみよう。酒を飲んだ。酔っ払った。その上で走った。酸素も足りていない。脳にまっとうに血は巡らない。それで頭が正常に働いていたというほうがおかしいだろう。<br>
 何事もなかったかのように、鳥ちゃんは踵を返す。<br>
「私は帰りますから、戸締りのほう、お願いしますね」<br>
 机に置いた鞄をとると、彼女は振り返らずに、開いたままの扉まで歩いていった。月光がその影をくっきりと描き出す。細い手がドアノブにかかり、ひっぱる。そして――不意に、彼女は動きを止めた。<br>
「霧生ヶ谷から逃げるという提案は拒否します。ところで、はじめの提案のほうは撤回しますか?」<br>
「ん、どうしたん? え、ちょ、待って。はじめっていうと――」<br>
「思い出したらまた言ってください。私は承諾しますから」<br>
 音もたてずに扉は閉じた。鳥ちゃんの姿はもう見えない。<br>
 言葉を紡ぐ途中で口を開いたまま、去ってゆく彼女に手を伸ばそうとしている――あとにはそんな俺がいるばかりだ。はじめの提案? 霧生ヶ谷を逃げるってのは拒否された、それじゃない。それより前に俺は何かを提案したはずだ。さて――俺はまた何を言ったのか? 全然記憶に残っていない。さっきも言った通りに頭の中がぐちゃぐちゃにヒートしていたから。また何を口走ったのだろうか? それを、鳥ちゃんが、承諾した? 来月号の紙面か何かの話? いや何かもっと突拍子もないことだったような……。<br>
 どうやっても思い出せない。思い出したらまたって、鳥ちゃんも言ってたことだし、まあ今のところはそれでいいんじゃないか。大切なことだったらそれこそ、ぽんと浮かんでくるだろう。どうでもいいなら一生忘れたままだ。思い出しても思い出さなくても、それはそれで。そのときのことはそのとき考えればいい。五里霧中で騒いだって何になる?<br>
 編集部をでて、鍵をかける。月は満月。かすかに酔いは残っている。今日のところはとっとと寝よう。昨日は昨日、今日は今日。明日は明日の風が吹くんだろうさ。</p>
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