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モロモロ各論」(2007/07/17 (火) 23:37:47) の最新版変更点

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<div style="line-height: 2em" align="left"> <p><u>モロモロ各論</u> 作者:甲斐ミサキ</p> <p>「元祖霧生ヶ谷饂飩」<br>  杉板に焼印が捺されている。<br>  その隣には、<br> 「本家霧生ヶ谷饂飩」<br>  そう杉板に達筆な墨痕がくっきりと。<br> 「日本一霧生ヶ谷饂飩」「世界一霧生ヶ谷饂飩」「銀河系一霧生ヶ谷饂飩」……。 <br>  <br>  トンネルを抜けると右側に紺碧な凪の海、そして左側にいつ果てるとも知れぬ堀の連なりがあった。<br>  式王子港駅コンコースから発車する式王子港私鉄バスに乗り込んで、霧生ヶ谷市まで国道一三三九号線で色々噂のある暗がり峠、式王子ヶ谷第一トンネルを通過し五十分くらいで北区外縁堀通り前に着く。北区の外縁堀は並々と水が湛えられているものの、部分的に外蓋がしてあって一部が通行可能になっており、そこから北区へと入る道のりがあるのだ。 それはいい。あれはなんだろう。倫太郎は頭を抱えた。<br>  <br>  《おいでませ、おどろき商店街へ》、の鳥居看板。擬人化された細長いドジョウが笑顔を振りまいている。<br>  外縁堀をくぐってすぐの所にその商店街はあった。バス亭に備え付けられた観光マップを見ると、俗に言う「北区うどんロード」の出発地点らしい。<br> 「倫太郎ー」呼び声の方を向く。看板にもたれかかり、この暑いのによれよれのカッターシャツにネクタイを結んでいるのはイトコの新人だ。それにしてもよれよれだ。<br> 「久しぶり、アラト、にしてもなんでそんなよれよれなんだよ」<br> 「ばあちゃんの話しを五時間も六時間も聞いてりゃ大抵自分が何物か疑問の一つも湧かんと思わんか……」こんなこともあろうかと、のおばあちゃんか、週一くらいの頻度でメールで愚痴ってたっけなぁ。<br> 「まず言っておく。ここからは至難の道だ。老若男女引きも切らさず、声をかけて来る。でもいちいち相手にしてたんじゃ、ここぞという店に入れない。<br>  だから、「馴染みの店がある」っていや、放す。よその常客を引くのは法度だから」<br> 「馴染み、馴染みね。そんな店ないけどさ」<br> 「無くても言うの!」<br>  アラトは霧生ヶ谷市に移ってからツッコミが早くなった気がする。<br>  <br> 「常習屋でございます。ただ今茹でたてのおうどんが召し上がれます」<br> 「僕ら馴染みの店があるんだ」<br> 「こら失礼を」を、きっちり放しよったなぁ。<br> 「奇襲屋でございます。今ならお座敷が空いております」<br> 「僕ら馴染みの店があるんだ」<br> 「こら失礼を」<br> 「一期屋でございます。手打ちうどんの実演をおこなっております」<br> 「お兄さん、いかがです?」またまた来た。<br> 「僕ら馴染みの店があるんだ」<br> 「こら失礼を」<br> 「なぁ、アラト、冥土喫茶狂気山脈って?」アラトが苦い顔をした。<br> 「止めとけ、そこは……知り合いに強制連行されてうっぷ」<br>  店内を覗くとちまたで噂のモログルミをかぶったメイドさんがきびきび働いている。表看板のメニューも眺めてみる……小倉抹茶小豆霧生ヶ谷うどん。イチゴミルク霧生ヶ谷うどん……。「あ、ご主人様、お帰りなさいませ!」店内のメイドさんが気付いて店頭へおで迎えしてくれた。「う……僕ら馴染みの店あるから」「ごめんなさいご主人様。またお帰りくださいね」「気が向いたら!」にっこりしてメイドさんは店内に戻っていった。これで味さえまともならなぁとアラトが黄昏ている。<br> 「ア・モーロ。モロ・サン・ミッシェル……もはやうどん屋と思えない名前が続くね」倫太郎がキョロキョロと商店街を眺める。幅の広い商店街で、普通の電気屋さんなどもあるのだが、それでもやはり目に付くのがうどん屋なのだ。<br> 「辛亭……ここは?」唐辛子と魚、モロモロがクロスされた髑髏マークの毒々しい印象の中華店だ。<br> 「そっか、倫太郎は辛いもの好きだっけ。でも止めといた方がいい。激々々々辛霧生ヶ谷うどんをおごって貰って、内科で胃薬もらった。おかしいんだよな、あの人がおごってやるなんていうのは……」あまり突っ込まないほうがいいみたいだ。<br> 「金モロ食堂、なんか金って景気良さそうじゃない? すいませーん」<br>  無謀にもずかずか店内に倫太郎が入っていく。<br> 「あ、イラッシャイネ」中年のおばちゃんが顔を出す。そこはかとなく、いや限りなく、いや果てしなく臭い。げほげほ咳き込む。目から涙が零れる。<br> 「お、お姉さん、この匂いは……」<br> 「あ、これ、ホンオ・フェ。エイの刺身。これを霧生ヶ谷うどんにそえて、トッピングにモロモロキムチを和えて出来上がり」ホンオ・フェというのは韓国木甫の名産でエイを自家発酵させたものでアンモニアの生成によって腐敗を防ぐ食べ物だ。倫太郎は本で知識だけは知っていたが、まさかこれが……。<br> 「これ食べると極楽行ける。百人食べて九十九人が悶絶して一人が死亡寸前。むひ」<br>  そりゃ、別の意味であの世行きじゃないのか。「スミマセン、興味本位で御邪魔しちゃって、馴染みの店あるんで」「むひ、気が向いたら極楽チケット用意したるヨ」<br>  店の前で水を打っている若い女性がいた。いかにも商店街の小町娘と言った雰囲気の。「なぁなぁ、アラト。あの女の子にもエライヒツレイヲ言わせたろか」<br> 「趣味悪い奴やなぁ。でも面白そうだな」とどっちもどっちの二人。<br> 「お姉ちゃん、なんで声かけないの僕らに?」<br> 「これは、お見それしておりました。どうぞご案内いたしますわ」<br> 「いや、僕ら馴染みの店あるから」<br> 「だからあたし声かけてない」実に論理的だ……。<br> 「こら、エライヒツレイヲ……」<br> 「倫太郎が謝ってどうすんだよ!」 <br> 「あと、うち「蕎麦屋」よ」女性がくすくす笑う。この店は帰るときにでも寄ろう、倫太郎はそう思った。 <br> 「あんさん方、寄って行きやせんか」壮年の男性が朗々とした声で話しかけてきた。<br> 「僕ら馴染みの店が」<br> 「知ってますよ、この町入るなり、馴染みの店ー馴染みの店ーて馴染みの売りモン屋みたいに言うてからに。あんさん方のお馴染み処はどこです?」<br> 「なな、馴染み屋の馴、染兵衛」<br> 「そんな店はない。うちは鬼百舌屋と言います。どうぞお上がりを」<br> 「あ、アラト、どうしよ」<br> 「覚悟を決めなよ。そんな悪い店じゃない。名前もいい」<br>  《鬼百舌屋》には「この町内一美味い」と売り文句が書かれている。<br> 「お、分かるかい? この店は初代店主の想い人の名前から拝借したもので、お江戸の頃から続いてる結構由緒があるんだ」にこにこ笑っている。おそらくこの男が店主なのだろう。レトロな雰囲気の店内には霧生忍法帖のポスターが所狭しと貼ってあり、静かなヴォリュウムで霧生忍法帖のテーマソングが流れている。渋い。<br> 「棘樹(おどろき)町だけでも十数件、北区で総計百八軒のうどん屋、そのどれもが競合しないのは味付けが店によって異なるからだけど、うちは初代からの製法を守ってる。<br>  厨房見てみるかい」<br>  お言葉に甘えて二人が厨房に入る。厨房の一部は水路と繋がっていて窪みに水が湛えられていた。そこににょろにょろモロモロがいた。褐色のモロモロと黄斑紋があるモロモロと二種、おそらく、オスとメスだろう。店主は褐色の太い一匹を掴んだ。<br> 「ぬるぬるする表皮が邪魔だ。まず捌きやすいように目打ちをする。顎のところから中骨に沿って腹を割き、骨に沿って、骨の裏側から包丁を入れ、白焼きにする」<br>  店主の言葉は巧みどころか説明が無ければ早すぎてついていけない手練の技だ。捌く間にも、煮え立つ釜へうどん玉を放り込んでいる。<br> 「肝も美味いが、ここ。『鯛のおかしらより諸々の尾』と霧生ヶ谷では言われている。<br>  捌いてないオスを見れば分かるが、尾ひれが発達してるだろ、ここは捕握尾といって尾で身体を持ち上げることが出来るんだ。鍛えられてる肉身が美味いのは当たり前。<br>  お、白焼きも焼けたか。丹念に小骨を取り除いて、炒った白胡麻と醤油を合わせながら皮や肝と共に擂っていく。丹念に舌に何も触らないくらい擂った味噌状をうどんにかけて、モロモロで作ったカマボコとネギを添えて完成。<br>  サァ、食ってみな」<br> 「いただきまーす」アラトがブチンと割り箸を割る。左右非対称の割れ方。<br>  たちまちズルズルという音だけが聞こえる<br> 「いただきます」それに比べて注意深く左右対称に割り箸を割り、いざ鎌倉と言わんばかりの構えで丼と相対する倫太郎。<br>  店主がよく和えて食えと言うので、倫太郎はまだすすらず熱心に和えている。<br> 「む、あるじ、この醤油の風味は次元錦の《霧生紫》!」<br> 「お、兄ちゃん、通だな。霧生ヶ谷のものには霧生ヶ谷の食材。鉄則だゼ」<br>  倫太郎はマニアックな会話に入り込めなかったが、胡麻の風味とモロモロを焼きほぐしたすり身の香ばしさ、こってりした肝のまろみが俄然と食欲を沸かせる。それに倫太郎の言う《霧生紫》とやらの塩辛さ加減も程よく飽きが来ない味だと思った。美味い。<br> 「美味いと思う。でもそれだけではすまない何かを感じる」<br> 「むむ、分かるのかい。食べ慣れた人間にゃ気付かないかもしれないが、<br>  初めてならそうだな。また食いたくなるよ、こっちの兄ちゃん」<br>  アラトもにやりとした。さも、魔術師の種を知っているかの笑いだった。<br>  <br>  <br>  そもそもの始まりは、倫太郎が民俗学の研究論文に「生態系と地域における文化背景」を選んだことに始まる。<br>  式王子大学大学院で院生として霧生ヶ谷の風俗については前々から興味があったし、何より、イトコである名取新人が市役所のある部署に勤務していることから、情報の抽斗は多かった。<br>  そして何と言っても、倫太郎は魚が大好きなのだ。観賞するのも食べるのも!<br>  倫太郎がモロモロに目を付けたのは自然の摂理と言っても言い過ぎではない。<br>  鬼百舌屋を後にした二人はモロキップをフル活用して市電で中央区にある、水路管理局を訪れた。ここは市役所とは別棟で独立した局である。水路が市にとっての環境資源でもあり、美観区としての管理維持や、生態系の調査などは、全てここで行われていた。<br> 「霧生ヶ谷水路調査室」とネームプレートの貼られた部屋の前。アラトは何度かここに来たことがあるのか、顔見知りと一言二言交わしている。<br> 「ソコヌキの一斉抜き打ちやるとか……聞かなきゃ良かった」アラトがあからさまにがっくりしている。多分、水路掃除のことだ。カエル獲り屋か僕は、と愚痴ってたのを思い出した。一体アラトが何をやってるのか倫太郎はいまいち理解しかねている。<br>  水路調査室の中には人がいなかった。平板な携帯ウィスキーボトル、干肉、カウボーイハットにスタンガン、水難ベストや胴長靴が無造作に放り出してある。なんだか冒険野郎な気配が満載だが、ひとまず気にしないでおく。皆出払っているらしく、それだけに気兼ねなく資料を読むことが出来るのはありがたい。でも銛なんて何に使うのか?<br> 「モロモロ、モロモロなぁ。この町じゃえらく人気があるのは確かだ。霧生ヶ谷CATVの宣伝が火付け役みたいだけど、妙な造詣というか、霧谷区のデパートじゃタラコ式モログルミとか、ずるモロとかモロ寝グルミってのが流行ってる。子供だけじゃなくって、ネクタイ柄がモロモロだったの見たことあるぞ。本田って奴の趣味が分からん。<br>  他にも、北区にはサッカーチーム《SUN・モーロ》があるし、モロウィンなんて怪しげな団体が法人認可願い出してるし、都市伝説だけど、モロ戦隊というのが活動しているらしいし、そもそも霧生ヶ谷CATV・オメガチームは《遠野山の金さん》エピソードで《ハーモロンの笛吹き》なんて噴飯物を……。とまぁ根付いているわけだ。異次元怪獣モログルミンって映画の噂もあるし……。<br>  食文化にしても、うどん、霧生ヶ谷蕎麦、カマボコ、柳川鍋、モロモロを白菜と漬け込んだキムチ、モロ出汁巻。モロモロジャムなんてものまで、素直に佃煮でいいじゃないかと思うけど、何か常人には不明で深遠な理由でもあるんだろ。そういえばシュネーケネギンってお店がモロモロフレーバーのチョコ出すから味見をしてと人伝手に頼まれて……逃げられないよなぁーきっと」<br>  アラトの言霊には悲痛なものを感じたが、とりあえず実態を洗いざらい調べ上げておいてくれたのはよく分かる。頼まれたら断れない熱血漢がアラトの信条で、それがために倫太郎も頼ったのだが予想以上の回答に対し、「水路」とかいった蕎麦屋で蕎麦をおごろうと倫太郎は髪を掻き毟り煩悶しているアラトを見て思った。<br> 「しかし、霧生ヶ谷市だけでモロモロがブレイクするのはおかしい。なぜなら絶海の孤島でもないし、中国の謎な巨大穴《天坑》でもない。隔絶されていない種なら放散するはずだよ。式王子港市とも繋がってるし、地下水路もある、九頭身川もある。陸封されたとも思えない。誰も調査しないのは……」<br> 「調査しないわけないだろ、ちゃんとここにあるよ。淡水生物の権威でお前の通ってる大学の教授が調べた報告書」<br>  棚をがさがさ探してたアラトが「観測者・狛津数比虎」と書かれたレポートを渡す。 「狛津大先生のレポート……!?」<br>  倫太郎は無論知っていた。学科が違うため担当教授ではないものの、魚類が大好きな倫太郎にとって、その名は雲上人たる存在にも等しかった。生物学の観点から信仰の対象を採り上げた名著である《醜斑神信仰論》は講演会にも行って出待ちして握手とサインまで貰ったほどだ。<br>  それは二十年ほど前の記録だった。倫太郎は読み進める。<br> 「モロモロは元々、《諸々に住むもの》の語源を持ち、少なくとも遡れる最古、飛鳥時代のものである《九頭身碑文》には『湧清水即諸者在』とある。<br>  霧生ヶ谷は西に海を配し、その水路の性質はは汽水である。汽水にも存在が確認されているために、遡河回遊、降河回遊などの回遊魚の一種から進化したことも考えられるが、更なる内陸でも同系種が確認されているため内陸進化のほうが信憑性としては高い。<br>  特徴として、体長は十センチから三十センチほどの円筒型。ヌシモロと呼ばれるものは一メートルを優に超えると聞き及んだが、証明するだけの物的証拠がない。より多くの調査が必要。(虚空蔵山の霧生ヶ谷頁岩から発見されたデボン紀の化石標本のモノグラフは別紙参照のこと)<br>  口部にヒゲが十本ある。このヒゲには味蕾があり、食物を探すのに使われる。えらで呼吸するほか、腸で空気呼吸も行う。体色はメスが茶褐色。オスは黄色の不明瞭な斑紋を持ち、婚姻色と警戒色を兼ねる。卵胎生。この条件からすれば一般的な《黄褐斑紋泥鰌(オウカツハンモンドジョウ)》と同定してよい。<br>  特筆すべき差異として、モロモロの尾びれはあえて命名するなら《捕握尾》と呼ぶべきもので、一対のひれの末端にまで筋組織が及んでおり、川底に文字通り立つことが出来る。これが何を意味するか、おそらく婚姻相手に示す誇示行為か、捕食者を威嚇するためのものであると考えられる。<br>  解剖所見……」<br> 「おい、アラト、解剖所見がさっぱり抜けてるじゃないか」<br>  狛津教授のレポートには倫太郎の指摘どおり、解剖所見が抜けていた。狛津教授に限って結論が不明瞭であるはずがない。論理を持ってよしとする彼のレポートが。<br> 「ふむ、そこだ。このレポートがこんなとこで眠って陽の目を見ないのは。倫太郎、科学の広義を言ってみてくれ」<br> 「……うんと、再現実現、反証可能のことか」<br> 「その通り。狛津教授は再現実現の点で詰まったんだ。これ、読むといい。手記だ」<br>  アラトがファイリングから外して隠し持っていた資料を渡す。<br> 「モロモロは満月の夜に踊ると古老から聞かされた。月齢十五、六の蒸し暑い夜だった。私は水路を懐中電灯でそろそろ照らしながらキリュウガヤショウブの陰に潜む一匹のモロモロの様子を窺っていた。<br>  モロモロは……奴は捕握尾で立ち上がると次の瞬間《奴ら》になっていたのだ。人称の変化は比喩ではない。瞬きする間もなく、一匹が二匹にそして三匹に! 踊りの輪がどんどん膨らんでいった。<br>  明らかに自然の摂理に反する。私は雌雄三対、計六匹を研究室に持ち帰り、あくる月の月齢が満月になるのを待った。捕握尾で立ち上がったオスにメスが絡み付き交尾を行う。それは神秘的な美しさを伴う光景だったが、だがそれだけだった。普遍的に存在する黄褐斑紋泥鰌となんら変わりがない。翌月、霧生ヶ谷の水路で再度観察を行い、そしてまたしても、奴は奴らに!<br>  反証可能でないものは科学とは呼べない。困り果てた私は真霧間厳鎧氏を訪ねた。天才科学者だが世に出ず、霧生ヶ谷という砦から出てこない英才奇才。霊子アンテナの噂は私も聞いてはいたが、そんな眉唾誰が反証出来るだろうか。<br>  真霧間氏は豪放磊落に言い放った。モロモロは霧生ヶ谷市において環境適応としてのニッチに収まっているのだと。位相次元から町かどの穴理論と色々聞いたが、物理畑ではない私には理解不能な話ばかりだった。しかし霊子というものが存在してそれがモロモロに何らかの影響を与えていると考えるなら私にも理解は可能……<br>  私は真霧間邸の一室を借り受けた。そして霊子について、彼の有意義かつ、奇妙奇天烈な示唆を伺いながら、研究を進めていくうち、ある種の帰巣バクテリアを発見した。そしてその中にとある酵素を発見した。霊子にちなんで便宜上《アストラーゼ(帰巣酵素)》と名付ける。さらにそれは黄色の斑紋の部分から見つかり、また黄色の斑紋色素のことを便宜上《モロフェリン(帰巣素)》と呼ぶ。<br>  帰巣バクテリアにおいて、アストラーゼは自己誘導と呼ばれる特徴的な合成方法をとっている。帰巣バクテリアは、互いに存在を認識するためにルナライトと真霧間氏が呼称している伝達物質を産生している。 このルナライトは月光を浴びることで産生されるという。ルナライトはバクテリアが増殖している間に、培地、つまりモロフェリンに蓄積される。そして、ルナライトがある濃度を超えると、バクテリアは菌体数が増えたことを察知し、アストラーゼの誘導が起こる。誘導により、アストラーゼとモロフェリンが化合し、融解することで、黄色色素が広がる。<br>  この結論から言うと……言いがたいが、モロフェリンたる斑紋はある種の術式なのだ。帰巣酵素と帰巣素がぶつかることで、位相がゆらぎ、別次元の自身を引き寄せるのだ。<br>  それも瞬間的に! <br>  つまり斑紋のあるなしはモロフェリンの量数で、性差ではなく、モロモロは雌雄同体なのだ! こんな馬鹿げたことはないが、それでも市外に持ち出して繁殖活動を行うのも説明できる。ただ、瞬間的に増えるというのは、霧生ヶ谷市でしか反証できない。それでは再現実現性において、他の場所で実験が行われた場合、反証は不可能なのだ……」    呆然と倫太郎が放心している。アラトは今更何を聞いてもといった体でデスクの上の干肉を齧っている。<br> 「こんなものを学会に提出したらどうなる? 追放されなくても笑いものになるのがオチだって気付いたんだろうね。狛津教授ならたまに来るよ。水路掃除の時にフィールドワークだって言ってさ。今はこっそりキリュウガヤソコヌキガエルの生態研究をしてるらしいよ。趣味だそうだ。地位を守りたいなら霧生ヶ谷を調べた科学者は表に意見は出せない。どんなに言いたくても。事実でも」<br>  最後にアラトが《ある伝手》から入手した、水路内に仕掛けられたナイトヴィジョンを倫太郎に見せた。撮影日は月齢十五、六。満月の夜。月光にゆらぐ水面の下で、一匹のモロモロが捕握尾で身体を持ち上げ、揺れながら斑紋を収縮させ、<br>  ぽん、と二匹に。<br>  ぽんぽんと三匹に、四匹に。<br>  ぽんぽんぽんぽんぽん。五匹、六匹、七匹、八匹、九匹、十匹……。<br>  <br> 「なぁ、アラト」<br> 「なんだよ」<br> 「何匹か貰っていっても構わないかなぁ。モロモロ」<br> 「ここで食ってけばいいじゃないか」<br> 「食わないよ!」<br> 「ほっときゃ幾らでも増えるし、そこらの水路に網を入れたら何匹でも望むがまま」<br> 「論文書けないけどさ、こいつら好きだ」<br>  《水路》で盛り蕎麦をアラトに奢った後、倫太郎は帰途に着いた。家に帰ったら水槽を窓際に置こう。そして満月の夜、捕握尾で砂上に立つモロモロを観よう。あるいは瞬間的に増えるのを夢見ながら。 </p> <p><a href= "http://bbs15.aimix-z.com/mtpt.cgi?room=kansou&amp;mode=view&amp;no=46">感想BBSへ</a>           </p> </div>
<div style="line-height: 2em" align="left"> <p><u>モロモロ各論</u> 作者:甲斐ミサキ</p> <p>「元祖霧生ヶ谷饂飩」<br>  杉板に焼印が捺されている。<br>  その隣には、<br> 「本家霧生ヶ谷饂飩」<br>  そう杉板に達筆な墨痕がくっきりと。<br> 「日本一霧生ヶ谷饂飩」「世界一霧生ヶ谷饂飩」「銀河系一霧生ヶ谷饂飩」……。 <br>  <br>  トンネルを抜けると右側に紺碧な凪の海、そして左側にいつ果てるとも知れぬ堀の連なりがあった。<br>  式王子港駅コンコースから発車する式王子港私鉄バスに乗り込んで、霧生ヶ谷市まで国道一三三九号線で色々噂のある暗がり峠、式王子ヶ谷第一トンネルを通過し五十分くらいで北区外縁堀通り前に着く。北区の外縁堀は並々と水が湛えられているものの、部分的に外蓋がしてあって一部が通行可能になっており、そこから北区へと入る道のりがあるのだ。 それはいい。あれはなんだろう。倫太郎は頭を抱えた。<br>  <br>  《おいでませ、おどろき商店街へ》、の鳥居看板。擬人化された細長いドジョウが笑顔を振りまいている。<br>  外縁堀をくぐってすぐの所にその商店街はあった。バス亭に備え付けられた観光マップを見ると、俗に言う「北区うどんロード」の出発地点らしい。<br> 「倫太郎ー」呼び声の方を向く。看板にもたれかかり、この暑いのによれよれのカッターシャツにネクタイを結んでいるのはイトコの新人だ。それにしてもよれよれだ。<br> 「久しぶり、アラト、にしてもなんでそんなよれよれなんだよ」<br> 「ばあちゃんの話しを五時間も六時間も聞いてりゃ大抵自分が何物か疑問の一つも湧かんと思わんか……」こんなこともあろうかと、のおばあちゃんか、週一くらいの頻度でメールで愚痴ってたっけなぁ。<br> 「まず言っておく。ここからは至難の道だ。老若男女引きも切らさず、声をかけて来る。でもいちいち相手にしてたんじゃ、ここぞという店に入れない。<br>  だから、「馴染みの店がある」っていや、放す。よその常客を引くのは法度だから」<br> 「馴染み、馴染みね。そんな店ないけどさ」<br> 「無くても言うの!」<br>  アラトは霧生ヶ谷市に移ってからツッコミが早くなった気がする。<br>  <br> 「常習屋でございます。ただ今茹でたてのおうどんが召し上がれます」<br> 「僕ら馴染みの店があるんだ」<br> 「こら失礼を」を、きっちり放しよったなぁ。<br> 「奇襲屋でございます。今ならお座敷が空いております」<br> 「僕ら馴染みの店があるんだ」<br> 「こら失礼を」<br> 「一期屋でございます。手打ちうどんの実演をおこなっております」<br> 「お兄さん、いかがです?」またまた来た。<br> 「僕ら馴染みの店があるんだ」<br> 「こら失礼を」<br> 「なぁ、アラト、冥土喫茶狂気山脈って?」アラトが苦い顔をした。<br> 「止めとけ、そこは……知り合いに強制連行されてうっぷ」<br>  店内を覗くとちまたで噂のモログルミをかぶったメイドさんがきびきび働いている。表看板のメニューも眺めてみる……小倉抹茶小豆霧生ヶ谷うどん。イチゴミルク霧生ヶ谷うどん……。「あ、ご主人様、お帰りなさいませ!」店内のメイドさんが気付いて店頭へおで迎えしてくれた。「う……僕ら馴染みの店あるから」「ごめんなさいご主人様。またお帰りくださいね」「気が向いたら!」にっこりしてメイドさんは店内に戻っていった。これで味さえまともならなぁとアラトが黄昏ている。<br> 「ア・モーロ。モロ・サン・ミッシェル……もはやうどん屋と思えない名前が続くね」倫太郎がキョロキョロと商店街を眺める。幅の広い商店街で、普通の電気屋さんなどもあるのだが、それでもやはり目に付くのがうどん屋なのだ。<br> 「辛亭……ここは?」唐辛子と魚、モロモロがクロスされた髑髏マークの毒々しい印象の中華店だ。<br> 「そっか、倫太郎は辛いもの好きだっけ。でも止めといた方がいい。激々々々辛霧生ヶ谷うどんをおごって貰って、内科で胃薬もらった。おかしいんだよな、あの人がおごってやるなんていうのは……」あまり突っ込まないほうがいいみたいだ。<br> 「金モロ食堂、なんか金って景気良さそうじゃない? すいませーん」<br>  無謀にもずかずか店内に倫太郎が入っていく。<br> 「あ、イラッシャイネ」中年のおばちゃんが顔を出す。そこはかとなく、いや限りなく、いや果てしなく臭い。げほげほ咳き込む。目から涙が零れる。<br> 「お、お姉さん、この匂いは……」<br> 「あ、これ、ホンオ・フェ。エイの刺身。これを霧生ヶ谷うどんにそえて、トッピングにモロモロキムチを和えて出来上がり」ホンオ・フェというのは韓国木甫の名産でエイを自家発酵させたものでアンモニアの生成によって腐敗を防ぐ食べ物だ。倫太郎は本で知識だけは知っていたが、まさかこれが……。<br> 「これ食べると極楽行ける。百人食べて九十九人が悶絶して一人が死亡寸前。むひ」<br>  そりゃ、別の意味であの世行きじゃないのか。「スミマセン、興味本位で御邪魔しちゃって、馴染みの店あるんで」「むひ、気が向いたら極楽チケット用意したるヨ」<br>  店の前で水を打っている若い女性がいた。いかにも商店街の小町娘と言った雰囲気の。「なぁなぁ、アラト。あの女の子にもエライヒツレイヲ言わせたろか」<br> 「趣味悪い奴やなぁ。でも面白そうだな」とどっちもどっちの二人。<br> 「お姉ちゃん、なんで声かけないの僕らに?」<br> 「これは、お見それしておりました。どうぞご案内いたしますわ」<br> 「いや、僕ら馴染みの店あるから」<br> 「だからあたし声かけてない」実に論理的だ……。<br> 「こら、エライヒツレイヲ……」<br> 「倫太郎が謝ってどうすんだよ!」 <br> 「あと、うち「蕎麦屋」よ」女性がくすくす笑う。この店は帰るときにでも寄ろう、倫太郎はそう思った。 <br> 「あんさん方、寄って行きやせんか」壮年の男性が朗々とした声で話しかけてきた。<br> 「僕ら馴染みの店が」<br> 「知ってますよ、この町入るなり、馴染みの店ー馴染みの店ーて馴染みの売りモン屋みたいに言うてからに。あんさん方のお馴染み処はどこです?」<br> 「なな、馴染み屋の馴、染兵衛」<br> 「そんな店はない。うちは鬼百舌屋と言います。どうぞお上がりを」<br> 「あ、アラト、どうしよ」<br> 「覚悟を決めなよ。そんな悪い店じゃない。名前もいい」<br>  《鬼百舌屋》には「この町内一美味い」と売り文句が書かれている。<br> 「お、分かるかい? この店は初代店主の想い人の名前から拝借したもので、お江戸の頃から続いてる結構由緒があるんだ」にこにこ笑っている。おそらくこの男が店主なのだろう。レトロな雰囲気の店内には霧生忍法帖のポスターが所狭しと貼ってあり、静かなヴォリュウムで霧生忍法帖のテーマソングが流れている。渋い。<br> 「棘樹(おどろき)町だけでも十数件、北区で総計百八軒のうどん屋、そのどれもが競合しないのは味付けが店によって異なるからだけど、うちは初代からの製法を守ってる。<br>  厨房見てみるかい」<br>  お言葉に甘えて二人が厨房に入る。厨房の一部は水路と繋がっていて窪みに水が湛えられていた。そこににょろにょろモロモロがいた。褐色のモロモロと黄斑紋があるモロモロと二種、おそらく、オスとメスだろう。店主は褐色の太い一匹を掴んだ。<br> 「ぬるぬるする表皮が邪魔だ。まず捌きやすいように目打ちをする。顎のところから中骨に沿って腹を割き、骨に沿って、骨の裏側から包丁を入れ、白焼きにする」<br>  店主の言葉は巧みどころか説明が無ければ早すぎてついていけない手練の技だ。捌く間にも、煮え立つ釜へうどん玉を放り込んでいる。<br> 「肝も美味いが、ここ。『鯛のおかしらより諸々の尾』と霧生ヶ谷では言われている。<br>  捌いてないオスを見れば分かるが、尾ひれが発達してるだろ、ここは捕握尾といって尾で身体を持ち上げることが出来るんだ。鍛えられてる肉身が美味いのは当たり前。<br>  お、白焼きも焼けたか。丹念に小骨を取り除いて、炒った白胡麻と醤油を合わせながら皮や肝と共に擂っていく。丹念に舌に何も触らないくらい擂った味噌状をうどんにかけて、モロモロで作ったカマボコとネギを添えて完成。<br>  サァ、食ってみな」<br> 「いただきまーす」アラトがブチンと割り箸を割る。左右非対称の割れ方。<br>  たちまちズルズルという音だけが聞こえる<br> 「いただきます」それに比べて注意深く左右対称に割り箸を割り、いざ鎌倉と言わんばかりの構えで丼と相対する倫太郎。<br>  店主がよく和えて食えと言うので、倫太郎はまだすすらず熱心に和えている。<br> 「む、あるじ、この醤油の風味は次元錦の《霧生紫》!」<br> 「お、兄ちゃん、通だな。霧生ヶ谷のものには霧生ヶ谷の食材。鉄則だゼ」<br>  倫太郎はマニアックな会話に入り込めなかったが、胡麻の風味とモロモロを焼きほぐしたすり身の香ばしさ、こってりした肝のまろみが俄然と食欲を沸かせる。それに倫太郎の言う《霧生紫》とやらの塩辛さ加減も程よく飽きが来ない味だと思った。美味い。<br> 「美味いと思う。でもそれだけではすまない何かを感じる」<br> 「むむ、分かるのかい。食べ慣れた人間にゃ気付かないかもしれないが、<br>  初めてならそうだな。また食いたくなるよ、こっちの兄ちゃん」<br>  アラトもにやりとした。さも、魔術師の種を知っているかの笑いだった。<br>  <br>  <br>  そもそもの始まりは、倫太郎が民俗学の研究論文に「生態系と地域における文化背景」を選んだことに始まる。<br>  式王子大学大学院で院生として霧生ヶ谷の風俗については前々から興味があったし、何より、イトコである名取新人が市役所のある部署に勤務していることから、情報の抽斗は多かった。<br>  そして何と言っても、倫太郎は魚が大好きなのだ。観賞するのも食べるのも!<br>  倫太郎がモロモロに目を付けたのは自然の摂理と言っても言い過ぎではない。<br>  鬼百舌屋を後にした二人はモロキップをフル活用して市電で中央区にある、水路管理局を訪れた。ここは市役所とは別棟で独立した局である。水路が市にとっての環境資源でもあり、美観区としての管理維持や、生態系の調査などは、全てここで行われていた。<br> 「霧生ヶ谷水路調査室」とネームプレートの貼られた部屋の前。アラトは何度かここに来たことがあるのか、顔見知りと一言二言交わしている。<br> 「ソコヌキの一斉抜き打ちやるとか……聞かなきゃ良かった」アラトがあからさまにがっくりしている。多分、水路掃除のことだ。カエル獲り屋か僕は、と愚痴ってたのを思い出した。一体アラトが何をやってるのか倫太郎はいまいち理解しかねている。<br>  水路調査室の中には人がいなかった。平板な携帯ウィスキーボトル、干肉、カウボーイハットにスタンガン、水難ベストや胴長靴が無造作に放り出してある。なんだか冒険野郎な気配が満載だが、ひとまず気にしないでおく。皆出払っているらしく、それだけに気兼ねなく資料を読むことが出来るのはありがたい。でも銛なんて何に使うのか?<br> 「モロモロ、モロモロなぁ。この町じゃえらく人気があるのは確かだ。霧生ヶ谷CATVの宣伝が火付け役みたいだけど、妙な造詣というか、霧谷区のデパートじゃタラコ式モログルミとか、ずるモロとかモロ寝グルミってのが流行ってる。子供だけじゃなくって、ネクタイ柄がモロモロだったの見たことあるぞ。本田って奴の趣味が分からん。<br>  他にも、北区にはサッカーチーム《SUN・モーロ》があるし、モロウィンなんて怪しげな団体が法人認可願い出してるし、都市伝説だけど、モロ戦隊というのが活動しているらしいし、そもそも霧生ヶ谷CATV・オメガチームは《遠野山の金さん》エピソードで《ハーモロンの笛吹き》なんて噴飯物を……。とまぁ根付いているわけだ。異次元怪獣モログルミンって映画の噂もあるし……。<br>  食文化にしても、うどん、霧生ヶ谷蕎麦、カマボコ、柳川鍋、モロモロを白菜と漬け込んだキムチ、モロ出汁巻。モロモロジャムなんてものまで、素直に佃煮でいいじゃないかと思うけど、何か常人には不明で深遠な理由でもあるんだろ。そういえばシュネーケネギンってお店がモロモロフレーバーのチョコ出すから味見をしてと人伝手に頼まれて……逃げられないよなぁーきっと」<br>  アラトの言霊には悲痛なものを感じたが、とりあえず実態を洗いざらい調べ上げておいてくれたのはよく分かる。頼まれたら断れない熱血漢がアラトの信条で、それがために倫太郎も頼ったのだが予想以上の回答に対し、「水路」とかいった蕎麦屋で蕎麦をおごろうと倫太郎は髪を掻き毟り煩悶しているアラトを見て思った。<br> 「しかし、霧生ヶ谷市だけでモロモロがブレイクするのはおかしい。なぜなら絶海の孤島でもないし、中国の謎な巨大穴《天坑》でもない。隔絶されていない種なら放散するはずだよ。式王子港市とも繋がってるし、地下水路もある、九頭身川もある。陸封されたとも思えない。誰も調査しないのは……」<br> 「調査しないわけないだろ、ちゃんとここにあるよ。淡水生物の権威でお前の通ってる大学の教授が調べた報告書」<br>  棚をがさがさ探してたアラトが「観測者・狛津数比虎」と書かれたレポートを渡す。 「狛津大先生のレポート……!?」<br>  倫太郎は無論知っていた。学科が違うため担当教授ではないものの、魚類が大好きな倫太郎にとって、その名は雲上人たる存在にも等しかった。生物学の観点から信仰の対象を採り上げた名著である《醜斑神信仰論》は講演会にも行って出待ちして握手とサインまで貰ったほどだ。<br>  それは二十年ほど前の記録だった。倫太郎は読み進める。<br> 「モロモロは元々、《諸々に住むもの》の語源を持ち、少なくとも遡れる最古、飛鳥時代のものである《九頭身碑文》には『湧清水即諸者在』とある。<br>  霧生ヶ谷は西に海を配し、その水路の性質はは汽水である。汽水にも存在が確認されているために、遡河回遊、降河回遊などの回遊魚の一種から進化したことも考えられるが、更なる内陸でも同系種が確認されているため内陸進化のほうが信憑性としては高い。<br>  特徴として、体長は十センチから三十センチほどの円筒型。ヌシモロと呼ばれるものは一メートルを優に超えると聞き及んだが、証明するだけの物的証拠がない。より多くの調査が必要。(虚空蔵山の霧生ヶ谷頁岩から発見されたデボン紀の化石標本のモノグラフは別紙参照のこと)<br>  口部にヒゲが十本ある。このヒゲには味蕾があり、食物を探すのに使われる。えらで呼吸するほか、腸で空気呼吸も行う。体色はメスが茶褐色。オスは黄色の不明瞭な斑紋を持ち、婚姻色と警戒色を兼ねる。卵胎生。この条件からすれば一般的な《黄褐斑紋泥鰌(オウカツハンモンドジョウ)》と同定してよい。<br>  特筆すべき差異として、モロモロの尾びれはあえて命名するなら《捕握尾》と呼ぶべきもので、一対のひれの末端にまで筋組織が及んでおり、川底に文字通り立つことが出来る。これが何を意味するか、おそらく婚姻相手に示す誇示行為か、捕食者を威嚇するためのものであると考えられる。<br>  解剖所見……」<br> 「おい、アラト、解剖所見がさっぱり抜けてるじゃないか」<br>  狛津教授のレポートには倫太郎の指摘どおり、解剖所見が抜けていた。狛津教授に限って結論が不明瞭であるはずがない。論理を持ってよしとする彼のレポートが。<br> 「ふむ、そこだ。このレポートがこんなとこで眠って陽の目を見ないのは。倫太郎、科学の広義を言ってみてくれ」<br> 「……うんと、再現実現、反証可能のことか」<br> 「その通り。狛津教授は再現実現の点で詰まったんだ。これ、読むといい。手記だ」<br>  アラトがファイリングから外して隠し持っていた資料を渡す。<br> 「モロモロは満月の夜に踊ると古老から聞かされた。月齢十五、六の蒸し暑い夜だった。私は水路を懐中電灯でそろそろ照らしながらキリュウガヤショウブの陰に潜む一匹のモロモロの様子を窺っていた。<br>  モロモロは……奴は捕握尾で立ち上がると次の瞬間《奴ら》になっていたのだ。人称の変化は比喩ではない。瞬きする間もなく、一匹が二匹にそして三匹に! 踊りの輪がどんどん膨らんでいった。<br>  明らかに自然の摂理に反する。私は雌雄三対、計六匹を研究室に持ち帰り、あくる月の月齢が満月になるのを待った。捕握尾で立ち上がったオスにメスが絡み付き交尾を行う。それは神秘的な美しさを伴う光景だったが、だがそれだけだった。普遍的に存在する黄褐斑紋泥鰌となんら変わりがない。翌月、霧生ヶ谷の水路で再度観察を行い、そしてまたしても、奴は奴らに!<br>  反証可能でないものは科学とは呼べない。困り果てた私は真霧間源鎧氏を訪ねた。天才科学者だが世に出ず、霧生ヶ谷という砦から出てこない英才奇才。霊子アンテナの噂は私も聞いてはいたが、そんな眉唾誰が反証出来るだろうか。<br>  真霧間氏は豪放磊落に言い放った。モロモロは霧生ヶ谷市において環境適応としてのニッチに収まっているのだと。位相次元から町かどの穴理論と色々聞いたが、物理畑ではない私には理解不能な話ばかりだった。しかし霊子というものが存在してそれがモロモロに何らかの影響を与えていると考えるなら私にも理解は可能……<br>  私は真霧間邸の一室を借り受けた。そして霊子について、彼の有意義かつ、奇妙奇天烈な示唆を伺いながら、研究を進めていくうち、ある種の帰巣バクテリアを発見した。そしてその中にとある酵素を発見した。霊子にちなんで便宜上《アストラーゼ(帰巣酵素)》と名付ける。さらにそれは黄色の斑紋の部分から見つかり、また黄色の斑紋色素のことを便宜上《モロフェリン(帰巣素)》と呼ぶ。<br>  帰巣バクテリアにおいて、アストラーゼは自己誘導と呼ばれる特徴的な合成方法をとっている。帰巣バクテリアは、互いに存在を認識するためにルナライトと真霧間氏が呼称している伝達物質を産生している。 このルナライトは月光を浴びることで産生されるという。ルナライトはバクテリアが増殖している間に、培地、つまりモロフェリンに蓄積される。そして、ルナライトがある濃度を超えると、バクテリアは菌体数が増えたことを察知し、アストラーゼの誘導が起こる。誘導により、アストラーゼとモロフェリンが化合し、融解することで、黄色色素が広がる。<br>  この結論から言うと……言いがたいが、モロフェリンたる斑紋はある種の術式なのだ。帰巣酵素と帰巣素がぶつかることで、位相がゆらぎ、別次元の自身を引き寄せるのだ。<br>  それも瞬間的に! <br>  つまり斑紋のあるなしはモロフェリンの量数で、性差ではなく、モロモロは雌雄同体なのだ! こんな馬鹿げたことはないが、それでも市外に持ち出して繁殖活動を行うのも説明できる。ただ、瞬間的に増えるというのは、霧生ヶ谷市でしか反証できない。それでは再現実現性において、他の場所で実験が行われた場合、反証は不可能なのだ……」    呆然と倫太郎が放心している。アラトは今更何を聞いてもといった体でデスクの上の干肉を齧っている。<br> 「こんなものを学会に提出したらどうなる? 追放されなくても笑いものになるのがオチだって気付いたんだろうね。狛津教授ならたまに来るよ。水路掃除の時にフィールドワークだって言ってさ。今はこっそりキリュウガヤソコヌキガエルの生態研究をしてるらしいよ。趣味だそうだ。地位を守りたいなら霧生ヶ谷を調べた科学者は表に意見は出せない。どんなに言いたくても。事実でも」<br>  最後にアラトが《ある伝手》から入手した、水路内に仕掛けられたナイトヴィジョンを倫太郎に見せた。撮影日は月齢十五、六。満月の夜。月光にゆらぐ水面の下で、一匹のモロモロが捕握尾で身体を持ち上げ、揺れながら斑紋を収縮させ、<br>  ぽん、と二匹に。<br>  ぽんぽんと三匹に、四匹に。<br>  ぽんぽんぽんぽんぽん。五匹、六匹、七匹、八匹、九匹、十匹……。<br>  <br> 「なぁ、アラト」<br> 「なんだよ」<br> 「何匹か貰っていっても構わないかなぁ。モロモロ」<br> 「ここで食ってけばいいじゃないか」<br> 「食わないよ!」<br> 「ほっときゃ幾らでも増えるし、そこらの水路に網を入れたら何匹でも望むがまま」<br> 「論文書けないけどさ、こいつら好きだ」<br>  《水路》で盛り蕎麦をアラトに奢った後、倫太郎は帰途に着いた。家に帰ったら水槽を窓際に置こう。そして満月の夜、捕握尾で砂上に立つモロモロを観よう。あるいは瞬間的に増えるのを夢見ながら。 </p> <p><a href= "http://bbs15.aimix-z.com/mtpt.cgi?room=kansou&amp;mode=view&amp;no=46">感想BBSへ</a>           </p> </div>

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