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ひび割れた古い扉を開くと、黴臭い空気が溢れ出してきた。 部屋の中は薄暗く、畳敷きの汚く狭い部屋で、荷物が乱雑にうず高く積み上げられているという程度しか見て取れない。日もほとんど暮れかけた頃ということもあって暗いことは分かっていたが、この暗さには、それとはまた違う類のものが含まれているように思えた。 舞い出る埃に、口元を覆う。
「あれを、早く退治してほしいのです。」 依頼人である管理人の奥という初老の男は、形式通りの挨拶が終わるや否やそう切り出した。 聞くところによれば、事が起こったのは数日前。近所をうろつく野良犬や野良猫が、下弦の月で聞いたような無残な姿で打ち捨てられていた。それらは一度に別の場所で見つかり、その発見場所はすぐ裏を流れる大きな水路沿いの、アパート近辺に限定される。 ならばそれを依頼するのはこのアパートではなく、もっと大きな区分、地域住民共々やもしくは町や市ではないのか?「待っても市が妖怪なんて非現実的なものに対応してくれるとは思えません。」 …失言だった。忘れそうになるが、一般住民は怪異に対する力が無数にあることを噂程度にしか知らないのだ。「それに、事態は一刻を争います。ご存知か知りませんが、このアパートは妖怪やお化けが非常によく出るのです。そのため、妖怪に食われたなどという話が大きくなって、真っ先に影響が出るのはここの住人です。それを避けるためなら、私は喜んで私財の一部をなげうちましょう。」 その意気、確かに受け取った。必ずや、その怪異を退治しよう。
そのような会話が交わされたのが、十分ほど前。「あぁ、本当にここは人間が生息できるアパートか?」 私の背後に立つ背の高い影が、辟易を隠しもしない言葉を紡ぐ。先の管理人の誠意ある態度と比較し、この同行者は、全く。「この汚れっぷり、やんごとねーな。」 この男は、シュァンユェと名乗った。 このアパート「菜に花荘」へ辿り着き、住む事になるかもしれない住居のあまりの酷さ加減に数刻固まっていたところ、声をかけられたのだ。曰く、私と同じく下弦の月に依頼された者とのことらしい。 若く背が高く体つきしっかりした、ウルフカットの男、外見上はその程度なものだ。中国人とのことだが、私には特に日本人と差があるように見えない。黒Gパンに長袖のTシャツの雑な服装にも、特に珍しいところはない。 下弦の月が怪異処理に派遣する以上、何らかの魔術や異能に通じているはずなのだが、近辺の学生と言っても通じるその外見では説得力が欠片もない。 ところで、あなたの検知能力は確かなのか。ここに、怪しい怪異の気配があったというが、私には何も感じ取れない。 疑わしげな言葉に、シュァンユェはにやにやとした笑い顔で答える。「当たり前だろ? 何なら、その大仰な剣の術式を述べてやろうか?」 はったりでは決して得られない自信を浮かべた目に、私は小さく首を振る。 いや、信じよう。ルーンによる存在隠蔽を施した保護布の上から剣を見透かせるなら、少なくとも私より上だ。 試すようなことを言って悪かった。「なんだそりゃ。気にすることか? 二人で仕事をやろうってんなら、相手の能力を確認するこたぁ必要だろ。」 どうやら、思った以上にさっぱりした性格の男らしい。 まぁ、それも尤もだがな。試されることを面白くないと思う者も少なくないだろう。「堅苦しーなぁ、オイ。そんなことより、お前は犯人がここに居ると思うか?」 曰く、発見時間から考えてその怪異は深夜に行動していると推測されるらしい。尤も怪異は概してそうなのだが、しかしそれ以外の時間どうしているかは異なる。決まった時間にのみこの世界に現れるものもいれば、日中は物や人に変化しているものもある。 今は使われておらず、物置となっているというこの部屋。 ここに怪異の反応が見られるなら、標的が隠れ潜んでいる可能性は十分にある。 しかし怪異の数の多いこの市だ、無関係の怪異である可能性もまた少なくないところではあるな。「…何だか堅苦しい反応だな、兄ちゃん。やんごとねー。」 ちなみに、男装はばれていないらしい。 しかしその、やんごとない、という表現は用法が間違っている気がするのだが。「あぁ、意味なんてどうでもいいんだよ。響きがいいから言ってるだけさ。」 …そういうものなのか?「そういうもんだ。」 言い切った。そういうものなのか。 釈然としないものを覚えながら、大量の荷物のせいで狭々とした部屋に足を踏み入れる。土足のままだが、あまりに埃が多いのだ、管理人の男には勘弁してもらいたい。 電球は外され灯りがないため、管理人に借りた懐中電灯で周囲を照らす。術もなくはないが、こんなところで科学に対し意地を張る意味もない。 無造作に置かれている電気スタンドを手に取り、厚く積もった埃で手が汚れたことを露骨に嫌な顔をしているシュァンユェはさておき。物の氾濫したこの部屋で探し物をするとは、また気の遠くなる話だ。 手近にあったプラスチック容器から手をつける。 数分埃にまみれて荷物をひっくり返していると、ふと、ダンボールの山の上に積まれたガラクタの中に何かを見つけた。 取り上げ、外套の端で表面の汚れを拭う。 手の中で光を反射するのは、古めかしい瓶だ。 ペルシャ王朝時代の品だろうか。青いガラスでできたそれには積年の汚れにも関わらず細やかな細工が見て取れ、小さな瓶とはいえ庶民が生活に使用していた品でないことは瞭然としている。 私の推測が確かなら千年以上前の芸術品。これ一つで、シュネーケネギンのチョコレートケーキが何千個買えるかわからない。こっそり懐に入れればばれない、などと囁く内なる悪魔をなんとか叩きのめし、どこか遠くを漂っていた視線を瓶へと戻す。 そもそも、この瓶に注目した理由は、その価値故にではない。 …お前は、何者だ?「小生様を見つけるなんて、なかなかやるわね?」 どこからともなく、子供のような甲高い声が耳に届く。 次いで、カタカタと音を立てて小刻みに瓶が震えた。地震などではない、瓶自らが動いている。 近づけば、比較的感知能力の低い私にも感じ取れる。シュァンユェが感じたという怪異の気配、それはこの瓶から生じているということが。 早速出たか、怪異…! 緊張する空気。 犬や猫とはいえ、動物を襲い喰らう存在が人間には優しいと誰が言えよう。たとえ人間にとりたてて害意がなくとも、住処に足を踏み入れた以上、攻撃してくる可能性はありうる。 剣の柄へ乗せられている左手には、じっとりとしたものが滲む。 そして、瓶を持つ私の目の前に、そいつは現れた。 その姿たるや。 いつの間にか背後から覗き込んでいたシュァンユェが、一言。「なんだこりゃ、やんごとねー。」
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