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宵は深く、闇は平等に落ちる。 新月も近い青白い三日月は針金のように細く、広く伸びる雲で姿を隠しては、時折気紛れに姿を見せる。空のほとんどは暗雲に覆われ、星はほとんど見えないと言っていい。加えて言うなら今居る近辺に街灯はほとんどなく、飲み込まれそうな深遠な闇が広がる。 特に顕著に影響を受けるのは、目の前に広がる水路。 昼間は水清らかにモロモロ泳ぐ水の道。しかし今幅広のそこは、嗷嗷と漆黒の液体を循環させる、得体の知れない化物の血管を思わせる。 しかし今宵、この水路はまぎれもなく化け物の一部としての顔を見せる。 気配に集中し、神経を研ぎ澄ます。 薄明かりの下では、感覚が何よりも重要な感覚だ。見え透いた音や幽かに見える残影に惑わされることが、最も危険と教えられた。 蒸し暑さにより頬を伝う汗が、一筋顔を離れ、アスファルトに落ちて吸い込まれていく。 水路に轟々と流れる闇は、光の加減でその形を変え、こちらへと侵食を始める。 比喩ではなく。闇が牙を以って、足元に食らいついてきた。 粗雑な襲撃を退歩により避け、その口が閉じきるより速く、ルーンを湛えた剣を滑り込ませる。 舌を裂き喉を突く、肉の感触。 音にならない、盛大に大気を振るわせるだけの甲高い叫び声が響く。影から伸びた鋭利な牙は刃を噛んで金属音を響かせ、しかしすぐに力なく開かれる。 そこで私はようやく、自らの魔術の光により、敵の正体を知る。 首だけだ。 ふたまわりほど大きくした、男女ともつかない人間の首。 水死体の生首、というのがより適切な表現だろうか。肌は不気味に白くぶよぶよとし、濡れぼそる髪は乱雑に肌に張り付いている。 人間では在りえないのは、まず目が存在しないこと。目のあるはずの場所はすこし窪んでいるのみで、瞑っているのではなく完全にないと考えていいだろう。 首から下に至っては、名残すらない。脊髄が通るはずの位置もまた皮膚で完全に覆われている。そもそも生理機能などまともな形で存在していない怪異には、珍しくはないが。 しかし、耳まで裂けた顎、先ほど見せた肉裂く牙は、この存在が菜食で満足できる類の食欲では在りえないと物語る。 そしてその情報と、突然の襲撃という事実のみで、現状は理解できる。 こいつが犯人…怪異喰い!「すこしはずれだよ、兄ちゃん。」 シュァンユェが、何か平らなものを上へと投げるような動作をする様子が見える。 二三の呪を口にし、唱える。「閃。」 それはほんの十秒に満たない時間だった、しかしその影響たるや。水路の上空に出現した光球は、その僅かな寿命で近辺を一時昼に変えた。絶妙な光量のコントロールがなされていたためだろう、すぐに光に慣れた目が、暗闇の帳を除かれた世界を捉えた。 …まさか、ここまで厄介とはな。「こいつら、だ。やんごとねー。」 肩をすくめるシュァンユェ。 水路の幅を直径とした、半円状の地下水路の出口。涌き出るという表現の似つかわしい夥しい量の怪異が、そこからあふれ出ていた。予測はできていたことだ。しかし、この量は想定外だ。 水路の幅がそこまで大きくないことがせめてもの救いだが、それでも既に出口を抜けた怪異は五十近いだろう。 一様に目に代わる感覚器であろう大きな鼻をひくつかせ、同族の流した血の臭いに惹かれ、よだれで濡れた牙を手近な方向へ向ける。 対象は、血と肉を持つ私とシュァンユェ、そして上空を飛ぶもう一人。 ふ、ふふ… そして明かりは唐突に消える。 隠される様子のない殺気は、変わることなくそこにある。目がない、つまりもともと向こうは光に頼っていないのだ。「どーする、逃げたいんなら構わねぇぜ? 俺が後はやっとくからな。」 赤い粒子と散りつつある怪異の骸を片足で踏み押さえ、剣を引き抜く。望むところだ! この怪異は明らかに危険だ。特筆するほどの力も早さも知性もないが、この数と貪欲さは放って置けない。ここで野放しにすれば、必ずいつか人間が犠牲になる。 剣を構える。 左足を一歩踏み出し体を横に向け、顔のすぐ傍で柄を握る。切っ先を下げ、正 面を見据える。 退くより進め。 斬られるより前に斬れ。 退くほど、被害は増える。「ったく、やんごとねーなぁ、オイ!」「えぇ、私もやるの!?」 来い!!
ジン…?「そ。」 腰まである亜麻色の長髪を包む淡く透ける薄絹のベール、それは纏う橙を基調とする長布を巻きつけた服と同様に、アラブ独特の雰囲気を漂わせる。 場面は、アパートの一室へと戻る。 瓶の中から現れたものは、肉食どころか花の蜜で生存できそうな小さな怪異だった。 黴臭い部屋のガラス瓶の上を飛ぶクッラトゥルと名乗る少女。手の平の倍ほどしかない背丈に赤蜻蛉に似た羽を四枚生やすその姿は、明らかに人間という種と異なる。 善し悪しを別にして、我々人間は彼らのことをひと括りにこう呼ぶ。 怪異、と。「ディズニー映画に出てくる、ランプ擦ったら出てくるやつか。」 片眉を上げるシュァンユェは、埃を被ったダンボールに腰掛けている。 うむ、物語としては千夜一夜物語などが有名だな。アラブ文化における妖怪や魔人の総称で、指輪や壷などに閉じ込められて登場する場合が多いな。「さすがに専門家はよく知ってるねー。いかにも小生様は、この瓶に閉じ込められている魔人!」 クッラトゥル、以下は希望通りクルーと略するが、この少女も同様の杜撰さで、自らが封じ込められていると称する瓶の口に腰掛けている。 待て、封じ込められているはずのお前はなぜこう悠々と雑談に興じられる。「そんなこと気にしてちゃ、人生やってられないって、あははー!」 まさか人でない怪異に、人生を諭されることになるとは思わなかった。 しかし、術士二人を前にしてこの態度。今までのところ、これといって不自然な行動もなく、それでいて術士が自分を狩に来たのではなどと警戒していない。「こりゃはずれっぽいな。ったく、やんごとねー。」 シュァンユェも既に警戒を解いて、南区に新しくできた蕎麦屋の話題に花開いているようだ。いくらなんでもそれは打ち解けすぎだが、しかし別をあたるべきか。 …いや、それは私が見抜けないだけかもしれない。 卓越した弁舌と狡猾な知性は、実に鮮やかに正体を隠蔽する衣だ。未熟な私の目では、欺かれる可能性も十分にある。 ささめの件で、少し私は学んだのだ。 特に怪異は、人間と違って様々に姿を変えることができる。本性はこの姿ではなく、犬猫を食らう獣でないと言い切れない。 お前は、ここで何をやっていた? 十年単位の午睡に耽っていたなどというわけでないこと程度はわかっているのだ。「あー、ヤダヤダ、ぎすぎすしちゃってもー。これだから心にゆとりのない人は…」 最近の怪異は一言多いのが流行なのか? 落ち着け私、冷静になれ。 こんな程度で動揺しているから、いいように弄られるのだ。「小生様はこのアパートの怪異現象総元締めとして、日夜誠心誠意怪異現象を引き起こしているの。」 何だその職業は。 はた迷惑極まりない。「マジックのせいで新鮮味のないポルターガイスト、街灯の完備で出番のない鬼火、環境基準法で訴えられたラップ音…そんなはぐれ異常現象をまとめあげ、活躍の場を与えているのよ。こんな小生様の偉大な活躍、そんなに感動したなら称えてもいいわ!」 そう聞くと聞こえはいいが、実質やっていることは近隣住民へのイタズラでしかないのではないだろうか。 そもそも、不毛な方向に話が捻じ曲げられているような気がしてならない。「まぁ、そんなことは俺にはどーでもいいんだよ。ちょっと聞きてーことがあんだ。」 そうそう、それが本題だった。「わかってるわかってる、怪異喰フ怪異が犬猫を食い荒らしてるってんでしょ?」 怪異喰フ怪異…?「あぁ、怪異喰いか。まさかとは思ったんだが…やんごとねーな。」 ちょっと待て、それはどういう類の怪異だ?「あぁ、兄ちゃん霧生ヶ谷に来て日が浅いんだっけか? やんごとねーな、それじゃしらねーのも無理ないぜ。」 シュァンユェは少し言葉を探し、しかし見つからなかったのか、半ば説明を諦めたような一言で切り出した。「名前の通りだよ。あれは、霧生ヶ谷の地下深くに広がる地下水路にいる、頭だけの妖怪さ。それこそ無限じゃねーかってもんだ。」 そんなものが存在しては、危険だろう。 退治や、せめて遠ざけようという考えはなかったのか?「確かに危険には違いねぇが、浅い位置にはまずいねぇんだ。よっぽど深いとこにだけ巣くって、深淵に近づくほどその数は増えていく。詳細な理由は知らねーが、真霧間博士の研究だと、水路ができた頃から今までの間、水路を流れてきた成仏できていない魂が、水路の深くに溜まって集まり腐り、混沌とした塊となった場所があるらしいんだよ。あいつらはそこから発生して、そのためその近辺に多い、とかナントカ。」 なるほど。 つまるところ、危険ではあるが、現実問題として取り上げるほどの可能性がないということか。山林深くに住む狼の心配など、都会の人間はしない。 しかし、迷い出た事例がないわけではないのだろう?「確かに、たまに一匹二匹が偶然地上に迷い出てくるがな。そもそも、弱ぇえんだよ。怨鬼の中でも下、走れば逃げ切れるし、一般人でも木の棒で勝てる。狭い道で集団組んだ時しか襲い掛かれねぇ怪異が一匹じゃ、何もできねぇわな。加えて、あいつら日光に弱い。一般人に被害が出ることはまずないぜ。」 …シュァンユェ、意外と君は話す事が好きらしいな。 素直な感想だったのだが、なにやら頭を掻きながらそっぽを向いてしまう。「…そういう評価は初めてだな。まぁ、確かにそうかもしれねーが。」「照れてるわねぇ、少年。」「うるせぇ。」 それはいいから、話を続けてくれないか?「あぁ、そうだったな。一般人に被害が出ることはまずない怪異。ところが、今回の怪異はその例に嵌っていない。恐らくは、地上に出て良質な食料…犬や猫を貪り食うことを覚えた、多少賢い集団がいるってこった。」 つまり、当然次は…「そう、調子に乗った奴ら、間違いなくもっと大きい獲物を食いに来るぜ。このあたりで犬より大きい動物っていや、人間くらいだろう?」 無意識の内に、右手は保護布の上から剣の柄を握り締めていた。 上等だ。 来たいだけ来ればいい。 不敵な怪異など、幾ら来ようが悉く塵に還してやる。 指の一本たりとも、貴様らに食わせるものなどない!
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