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自分が何処から生まれ、何処へ行くのか、正直今も分からない。 ただ何となく思うのは、私は以前は水底にたゆたっていたのだろうという事。ユラユラと藻草と泡に揺られながら、時折やって来る魚達とお喋りをしながら、月明かりの中で何となく生きていたというだけ。 決して明るい世界ではない。 かといって暗いだけの世界でもない。 水底でカタチを持たずにただ暮らしていた。カタチがない事が別段不便であるとは思わない。 私は間違いなくそこにいるし、私は間違いなく、そこにはいないものとして感じられるから。 霧の濃い夜に水底に落ちてきた珍しい星を拾い上げたのが、そもそもの始まりだったかもしれない。 コンペイトウにも似た星の欠片は、強く七色の光を放ち、私を包み込んだかと思ったと同時に瞬きをする間に、私を取り巻く世界をガラリと変えてしまった。 ふと気が付くと、私はヒトのカタチを手に入れていた。 先程の星の欠片は私の胸を飾る星のネックレスとして成り変わっていたのだ。――これは? 一体どういう事なのだろう? 今まで自分が自分として生を受けていた世界は、この身を映す水鏡の向こう側で、それは深く透明な蒼色にしか見えなかった。“なぁに、私がお前を呼んだのさ。この向こう側の世界に――” 気が付くと、星のネックレスが応えている。言葉ではなくて、水底で自分が無意識に使っていた(と思われる)テレパシーで。“お前さんも水底以外の世界を覗いてみたくなっただろう? そう、人間を、さ” それはあながち間違ってはいなかった。魚達の噂に聞く、ニンゲンという生き物を見てみたいという気持ちはあった。でもそれは単に興味でしかない。水を汚し、緑を貪り、私利私欲のままに生きる短命で野蛮な種族という認識でしかなかった。 “ただ、人間は自分とは違う生き物を珍しがったり、あるいは仲間はずれにしたり、もっとひどい場合には何らかの実験材料にされてしまう場合も考えられる…… そこで、だ、お前さんにはお前さんの生を入れておく入れ物をあらかじめ用意した。どうだろう? 気に入ったかい?” そこには一人の人間(という事になっている)の女性がユラユラと映っていた。髪と同じ黒い瞳を持ち、仄かに紅色の唇が何かを語りたげに微笑んでいた。――これが、私?“あの世界とでは勝手が違う分、何かと大変かもしれぬが、これもこの世界を生きるためであるぞ。しばらくすれば、それなりに不便でも、慣れるであろう” 時間が空いたときに眺める水晶の奥はやはり透明な蒼色で、それはかつての私の故郷の色をたゆたえている。 瞑想すれば、あの水底へ帰る事は可能だが、いかんせん、今は仕事中だ。目の前のクライアントへカードを提示せねばならない。水底では当たり前だったこのチカラもこちらの世界では重宝するようだ。簡単なタロットカードのリーディングをして、見えない世界へと意識を繋げて、それを伝えるまで。 人間でない私が人間に成りすまし、人間を相手にその世界で生きている。元々の水の住人である者が知ったとしたら笑うだろうか。まぁ、それも私の生きる道。 私は普段はこの霧生ヶ谷市の一角、飲茶カフェ「紅蘭」の奥の席にいる。この世界に誰も知り合いもいないはずにも関わらず、この星の導きによって、ここへとやって来た。またそれについては後ほどにでも。 今宵もマスターが私のために淹れてくれた香り高い茉莉花茶のために人間として生きてみよう。
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