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袖触合縁。あるいは、見知った他人同士の立ち話 作者:しょう
十月初日は、前日までの九月の冗談のような残暑というのも生ぬるい掛け値なしの酷暑が嘘だったのかと思うくらいに涼しいを通り過ぎて肌寒かった。 ついでに文華が委員会で遅くなるとかで、寒いし、眠いし、このまま真っ直ぐ帰って布団に潜り込んでもよかったのだが、丁度文華が欲しがっていた漫画本の発売日という事もあり近所の本屋まで足を伸ばすつもりで欠伸を噛み殺しつつ歩いていた。因みに本のタイトルは『任せて☆モロモロ』。内容は察してくれ……。 そんな感じにぼちぼちと商店街で人混みを避けながら歩いていく最中、不意に声を掛けられた。「そこの君、ちょっと」 何時もだったら振り向かない。無視して行過ぎる。それを立ち止まり、あまつさえ振り向いてしまったのは、それが聞き覚えのある声だったからだ。 手入れのされていなかった髪はきっちりと整えられ、アイロンの掛けられた背広と相まってまるで別人のように見えた。頬は変わらずこけてはいるものの、以前の病的な蒼白さは抜け、何よりも瞳に力が宿っていた。 ああ、上手くいったんだなと一人ごちる。「何か言ったかい?」「いいえ、何も。それより俺がどうかしましたか?」「いや、それなのだけどね。どこかで君と会った事がないかな」「ありませんよ。用はそれだけですか。なら失礼します」 実も蓋もなく言い置き、俺は歩みを再開する。再会を喜ぶような間柄でもない。ましてや、話し込むなんてガラでもないのだから。 だというのに。 しっかりと俺の腕を掴み「少しだけ話を聞いてくれないか」と頭を下げた。傍から見れば実に可笑しな光景だろう。子供相手に良い大人が懇願しているのだから。全く……勘弁して欲しい。 「少しだけですよ」 そう言う他に如何し様がある? あるなら俺に教えてくれ。* ずっと、亡くなった許婚の事が忘れられず自暴自棄な生活を続けていたけれど、ついこの間、昔の伝手を頼り仕事を始めたのだと、苦笑いの様なものを浮かべた。 そうですか、とだけ返す。良かったですねでは親身に過ぎるし、だからといって何も言わないのもかえって変な話だ。中途半端に事情を知っている所為でどうにもこうにもやり難い。 とにかくこんな事は初めてなんで困惑を抱えたまま、聞き手に徹する。 だから最初の言葉通り、ほんの五分程度ただ頷き、返事をする、そんな時間が流れた。「さて」と話を打ち切り、笑った。「話を聞いてくれてありがとう」 そのまま別れれば何事もなく多分印象にも残らないそんなすれ違いに終わっていたのだろう。それを、「どうしてですか」なんて口にしてしまったのは、まだ困惑が残っていたからだ、と思いたい。 「どうしてかな。僕にもよく分からないのだけど、ただ。君の姿を見たら、急に話さないといけない様な気がしたんだ」 生憎俺には、見えないものが見える『瞳』なんてものは持ち合わせていない。いない訳なのだけど、その時何故だろう悪戯っ子めいた笑みを浮かべる女性の姿が男の背にダブった。 それは、欠片なのかもしれない、残像のようなやがて消えてしまう想いの残滓なのかもしれない。だけれど、ひょっとしたら、なおも見守る願いだったのかもしれない。もしそうだとしたら、それは『守護精霊』とでも呼べば良いんだろうか。ああ、本当、なんてお節介。 やれやれ。趣味じゃないのだけど、ねぇ。「そう、ですか」 言って、本屋を目指して歩き出す。別れの言葉など必要ないだろう、当然再会を約束する言葉も。 ただ、まあ。一つくらい悪戯めいた事位やり返しても良いだろうと思った。「それじゃ、橘カヤさんによろしく」 多分鳴阿遼二は驚いた顔をしているのだろうなと予想しながら俺は走り出す。
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