メニュー
人気記事
薫風、れんげの花 作者:らき
日曜日、午前9時28分。メイド服に身を包んだ黒い髪の少女が箒を片手にテーブルの下を掃いて回る。夏休みが少し前に明けてからというもの、興味本位で来店する観光客も減って、シフトはいつも通りに戻った。開店前のホール準備は充分1人で行なえる程度の仕事量だ。制服であるメイド服に着替え、床を掃き、椅子を下ろして、クロスを拭く。それからご主人様――このうどん屋は少々特殊で「お客様」をそう呼ぶものなのだ――を出迎えるために最も大切な入り口の掃除をする。すべて終われば「CLOSED」の札を返し、レジを立ち上げて開店準備は終了だ。その頃には他のバイトも出勤してくることになっている。 テーブルを拭き終わったところで、少女はカウンターにおいてあったヘッドドレス……のついたぬいぐるみを手に取った。「客」を「ご主人様」と呼ぶのと同等に特殊な要素がこの制服にある。霧生ヶ谷市は、市内に多く張り巡らされた水路が特徴的な都市で、そこの水路に生息している泥鰌、この都市ではモロモロと呼ばれるその生物が町のシンボルであり、マスコットとして大きく売り出されている。 彼女が手に持つぬいぐるみもその「モロモロ」をデフォルメした被り物で「カワイイ」とか何とか言われていて、小さな子どもたちと一部の大きなおともだちに多大な人気を誇っているらしい。確かに……なんともやるせない顔つきは憎むことができないな、と少女は思った。ヘッドドレスはほつれていないか? OK。名札は曲がっていないか? …OK。ヘッドドレスを抑えるヒモは緩んでいないか? ……OK。「外見には細心の注意を払いなさい!」とはここで同じく働いている友人から口を酸っぱくして言われている言葉だった。確認のために持ち上げたぬいぐるみを色々な方向から見ているのだが、真っ黒な瞳はどの角度から見てもこちらを見ているような気になってくる。 一通りの点検が終わると少女は鏡の前に立ち、頭の上に乗せた。鏡の前のそれも、やっぱり自分を見ているような気がするのだが……深くは気にしないことが一番だろう。慣れとは恐ろしいものだ。からんころん、と独特な音のドアベルが鳴り、モログルミを被った少女が振り返る。見ると、びしょ濡れの男の子が泣きそうな表情で肩を上げ下げしている。背の丈から判断して間違いなく小学生だろう。 少女、――この冥土喫茶狂気山脈の店員の1人、谷咲れんげ――は、突然の来客に驚いて一瞬沈黙したのち、小さく「あ」と言ってからふわりと笑顔を繕った。「お帰りなさいませ、小さなご主人様? そんなに慌てていかがなさいましたか」「~~~っ!! なぁ! 姉ちゃんくらいの大きさの!! 春兄見なかったか!?」営業スマイルを貼り付けたまま、れんげは首をかしげる。どうもこのままでは意味がわからない。開店時刻まではあと30分ほどあったが残りの仕事は玄関の掃き掃除だけ。こんな小さな、不安そうにしている子どもを放っておく事もできないだろう、とれんげは店の椅子のひとつを引くと、そこに座らせて話を聞くことにした。ぽつりぽつり、彼は大きな瞳をれんげに向けたまま話し出す。彼は日向大樹、(せいぜい4年生くらいに見えたのだが)小学6年生だということ。彼は霧生ヶ谷に住む友人の家へと遊びに来たほかの町の子だということ。彼にはお兄さん(春樹と言うらしい)がいて、春樹の背丈がれんげと同じくらいだということ。そのお兄さんと一緒に駅から歩いてその友人宅へ向かう途中で、濃い霧がかかってきたこと。霧の中から聞こえる声が恐くて走り出し、そのせいでお兄さんとはぐれてしまったこと……。大樹はあたたかいはちみつ入りのミルクを抱え、床に届かない足の先を見つめながらぽつりぽつりとれんげに話した。「でな、そのうち『ダメじゃなーい』『イイじゃなーい』って声が追っかけてきて……すっげー頭にガンガン響いてきてマジ恐くなって……」れんげはタオルでくしゃくしゃと大樹の頭を撫でながら髪の水滴を拭ってやりながら考え込んだ。『ダメじゃなーい』ってことは杉山さんのことかな、とれんげは思い返す。けれど杉山さんは『イイじゃなーい』なんて喋っただろうか。生まれてからずっと霧生ヶ谷で生活しているれんげだが杉山さんの話には関心がほとんどなかった。なぜならば、れんげには「霧の中」でおこる話の諸々が無縁でしかないから、なのだが――それを語るのは、まあ、もう少し後のことになるだろう。「でも正解ですよ。声が聞こえたら逃げないと、さらわれちゃうんです」「げ、嘘!」「本当ですよ。霧生ヶ谷の本当の話。」「じゃあ春兄は!」水気が残ったまま頭を振り上げるものだから、ピシャと水滴が飛んで床に散った。大きな瞳が不安そうに揺れる。嘘でもいい、励ましてあげないといけない、そう直感してれんげは大樹の正面にしゃがみ、頭を撫でながら目線を合わせた。表情を曇らせてはいけない。 元々ポーカーフェイスは得意だけれど、バイトをはじめてからより得意になった穏やかな表情を作ることを心がけて、ゆっくりと、けれど声が震えぬよう歌いだした。「♪ ひとつ 人魂ふらふら悪酔い」「……」「♪ ふたつ 双子が増えたり減ったり」きょとん、とした顔で大樹がれんげの顔を見つめる。おずおずと口を開くと、聞こえるメロディーに合わせて口ずさんだ。「♪ みっつ 幹の根、何眠る よっつ 夜泣きの山烏 いつつ いつか世界が交わり むっつ むくむく霧の中 ななつ 名無しの水源通り やっつ やっぱり戻っておいで ここのつ ここの子、家はここ とお で遠くにさようなら」霧生ヶ谷の子どもじゃないのに知っていたのか、と驚きながら、おわりまで歌い上げた。やさしい音程と、安定したリズム。さようならの言葉をかけておけば彼の帰り道のまじないにもなるはずだ。大樹の顔を覗くと不安な色は多少薄れたようで、れんげはほっと胸を撫で下ろしてから、一度大樹の元を離れ、ロッカーからモップを取り出す。濡れた床ではこれから来店するはずの「ご主人様」たちが滑って転んでしまうかもしれない。それはいけない。 れんげが床を拭く間、大樹は大人しくホットミルクを飲んで待ち――自分の足元にモップが来たときにはその足を大きく持ち上げた。れんげが掃除を終わらせてもう一度大樹の前に立つと、大樹は椅子から飛び降り、早口で捲くし立てた。「オレ思うんだ。ほら、春兄のことだからもう杏里の家に行ってるかもしんない! あ、姉ちゃん、牛乳、ごちそうさま! サンキューなっ!!」だだっ、かちゃり、ころんからんころん、ばたん。勢いよく扉を開けたものの、そのままの勢いで扉は閉められることになった。肩を落として大樹がれんげの方を見る。ドアの向こうはただ一面、「真っ白…ですね……」「姉ちゃぁん……」霧というものは、大量の湿った空気が冷却されて、水の粒になったものであるから、気温が上がれば自然と消滅するものだ。本来は朝・夕の時刻にかかることが多く、れんげがバイトに出かける時刻には朝霧も消えていた。しかし、この街では霧の発生は非常に多く、日中夜中を問わず発生する。大樹がこの店に駆け込んできてからは20分程度、そろそろ自然に雲が切れて日が差してもいい頃合なのだが。困った、とれんげはため息をつく。もうすぐ開店時刻だ。天気が悪くて入客が落ち込むのは困る。とても困る。せっかく客入りに期待のできる日曜日だというのに。それに、何より目の前の少年がそわそわとしている。霧の中で聞こえた声を思い出したのか、また大きな瞳が曇りはじめた。「……大丈夫ですよ」れんげはドアを支える手を大樹と代わり、ドアノブを持つ手と逆の手で背中を撫でてやった。自然現象に介入するのはあまりよろしくない。わかっている。けれど、ご主人様の要望に応えるのはメイドの務めというものだろう。れんげは射抜くような視線で空を見上げた。その瞬間、少しずつ白の世界に色彩が戻る。空の青、石畳の黒、建物の灰色、緑色、煉瓦の色…日差しが強くなって、今まであったはずの水蒸気は霧から虹に姿を変えた。「うわぁ……っ!」「晴れ、ましたね。霧」大樹の表情がにぱっと大きな笑顔に変わる。釣られてれんげの頬も緩んだ。「いってらっしゃいませ、ご主人様。 お兄ちゃん、見つかるといいですね」「うん、きっとダイジョーブ!」大樹が親指をぐっと突きたてた姿に、れんげは笑って手を振った。そのまま玄関を掃くと扉を固定し「OPEN」の看板を表に向ける。作業が終わると同時に裏口に友人が到着するのが見えた。「ごめんなさい! 何だか霧がひどかったから自転車押してきててさ……ねえ遅刻? まだ間に合うっ?」「まだ……ご主人様は帰宅されてないけれど」「ラッキ……! さっすがキラリちゃん、普段の行いの善さが違いますよねー……うんうんっ♪あ、そだそだ、今日真霧間センセ来る予定だから!もし着替えてる間に来ちゃったら絶対、ぜぇったい呼んでねっ!!」「はいはい、早く着替えておいで」「ん……ねー、私のタオル1つなくなってるー」「タオル? ……あ。 ……ごめん、なさい」そういえば、手前にあったものだからと引き抜いて少年に貸してしまったことを思い出す。ああ、でも、次の給料日はもうすぐだから、買ってお詫びでもしようか。そう呆然と思いながられんげはレジの立ち上げを終わらせた。これで客人を出迎える準備は万全、あとはご主人様の気が向いてくれるのを待つばかりだ。…そして、洗濯されて、新品同様にふかふかになったタオルが返ってくるのは、この1週間後の話である。
感想BBSへ
このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー と 利用規約 が適用されます。
1文字以上入力してください
本文は少なくとも1文字以上必要です。
1文字以上入力してください。