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「鍋をするわよっ!」事の始まりは、とある迷惑な女の一言からだった。女の名は、南暮香。この霧生ヶ谷において(良くも悪くも)名の通った、ある意味あらゆる怪異よりも恐ろしい女である。私は旅先でひょんなことから入手した呪文書を、トレーニングがてらに片手腕立てしながら読んでいた。そんな時にアパートの外から大声が響いてきたため、腕が崩れて呪文書のページに頭を突っ込む破目になった。 ここでは語らないが、とある苦い経験からこのアパートは防音という単語に縁がないと、暮らし始めて三日目に学んでいたのだが。私ことスノリ ヴェランドは、やはり行かないという選択肢はありえないのだろうと溜息を一つ落とした。
その日の晩のこと。暗い新月の闇に覆われたアパート「菜に花荘」正面の駐車場に、その住人のほとんどが集まっていた。周囲は空き地や水路などが多く存在し、街灯も少ないためその暗さは際立っている。 人の輪の中心では、大きな鉄鍋がそこらの枯木を燃やした焚き火で熱せられていた。鍋には味噌か何かだろうか、中身が見えない程度に濁った液体がこぽこぽと泡を吹き上げているが、暗いため何なのかよくわからない。その前に立つ、なぜかモロメイド姿の暮香と、モロモロの着ぐるみを着せられた璃衣子。よくよく見ると、暮香の着ているそれは私の服だった。片手に携えた八十センチ近い大きさの木製スプーンを、ホームラン予告をするバッターのように構え、名乗りを上げる騎士のように声を張り上げる暮香。なぜ見えるかといえば、この女の立っている所だけなぜかスポットライトが当たっているせいである。わざわざ仕掛けたのか、それとも妖怪か何かを脅して照らさせているのか…多分後者だろう。「あんたたち、鍋食べたいわねっ!?」「「「いえーす!」」」箸と取り皿を手に叫ぶ声に、乱れは見られない。…一糸乱れないこの異様な団結力が、どこか空恐ろしいものを感じさせなくもないのだが。「霧生ヶ谷の鍋といえば、モロモロつみれ鍋、カエルたんぽ鍋、禁断のアレ鍋…どれも食べたいところだけど、今日ある鍋は一つ!なら、真の霧生ヶ谷っ子は何を食べる!?」「「「闇鍋!!!」」」「激々々々辛キムチ鍋がいいですぅ。」「キムチ鍋却下!!」「ふえぇ…」「そう、不思議大好き人間ならこれで決まり! 具は持ち寄ったわね!?」「「「オフコース!!」」」「ビールと日本酒の準備は!」「「「万全です!!」」」「これより我等は、混沌に挑む! 混沌を楽しんでこそ霧生ヶ谷市民! さぁ遠慮せず各々の厳選した食材を叩き込みなさい! どーせ暗いから他の人から見えないわ!」暮香の合図と共に、何かが鍋の中に入っていく音が聞こえてくる。ぽちゃぽちゃぽちゃ。ぱちゃん。ざらざらざらざらぁ。ぶちっ、ぶちっ。にゅぅぅぅ。ぶれいものぉぉぉ、ぽちゃ。てけりりー。うぞうぞうぞ。ぼちゃ。けきょけきょけきょ…ぶくぶくぶく。「いやぁ、今日は奮発したぜ?」「私も今日の鍋のために、秘蔵のアレを出してきたのよ?」「ふふ…去年から漬け込んだ秘伝のブツにはかなうまい!」…考えるのが怖くなってきた。暮香が一人で音頭をとっているのかと思いきや、この住居の住人はどうもこのイベントを楽しみにしていたらしい。本日二度目の空恐ろしいものを感じながら、私は今朝山で獲ってきた鹿肉を五百グラムくらいのブロックに切って鍋に放り込んだ。
さて、具に一通り火が通った頃。再び近所迷惑だとしか思えない声が響く。前に立っているのは相変わらず暮香だが、フリルの多用された愛らしいモロメイド衣装であるにも関わらず、漂わせる鬼気は歴戦の指揮官のそれである。「復唱!」「「「ひとつ、箸が触れたら食べなければならない!たとえ杉山さんでも!」」」「「「ひとつ、ノルマは一人三杯! 男と大食いはノルマ五杯!!」「「「ひとつ、酒は割り勘だから遠慮しない! 翌日の仕事には気をつけろ!」」」「手を合わせなさい!」「「「アイ、サー!」」」「この鍋の食材たちに感謝を込めて、いただくわよ!」「「「いただきます!」」」食事を前にした一連の動作に、私は完全に圧倒されていた。本当に、この気迫は何だろうか。…正直、ついていける気がしないのだが…固まる私をよそに、彼らは思い思いに箸をなべに突っ込んでは、奇怪極まりない具たちをつまみあげていく。「…へばぁ!」「あ、スパゲッティは当たりね。結構いける…」「トマトはヘタくらい取ってから入れろよ!」「やめろ、くるな、こっちへくるなぁぁぁ!!」「ヨウカンと味噌って合うぜ、これ!」「うわぁぁ!」「どした?」「誰かソコヌキガエル入れたらしくて、伊藤さんがどこかへ落ちてった。」「ふーん。あ、モロメイドのカチューシャ入ってたぞ。これも食うのかよ…」「誰だ、肉をこんなでかい塊で入れるなんてブルジョアなことするやつは!」「遭難したわけじゃないんだから、革靴を煮ようとしないでよ!」阿鼻叫喚。予想は十分にできたわけだが…暗闇で半分見えないとはいえ、うっすらと捉えられる動きだけでも、とても鍋を食べているとは思えない狂乱にあるということがわかる。無害なものとはいえ、怪異が出現しているようですらある。 しかし、驚いたことに。そんな状態にありながらも、誰もがその食事を楽しんでいるようなのだ。とても食べられないものをとっても、周りの人と笑い楽しんでいる。まぁ結局食べるのだが。「箸が進んでないようですね、スノリさん。」その輪から一歩引いた場所で何ともつかない物体を箸で突いていたところ、ふと穏やかな声がかかった。そこに立つのは、日踏 志護朗と言っただろうか、相当大きい伸張と体躯に似合わない温和な顔つきの青年。同じ二階の住人ということもあってか、同居人の弓波七美と共に田舎から送られたブドウをおすそ分けに来てくれたことを覚えている。 …立て続けにキュウリのぬか漬けとエンゼルパイという大ハズレを引いたら、箸も止まろうというものだ。「いえいえ、そういうことではなくて。楽しめていませんか?」なに…?「一歩後ろに引いているので、そうではないかと思っただけです。」私は、その問いに答えあぐねていた。確か同じアパートの住人同士のイベントであるにも関わらず、どこか一歩引いていたということは否めない。にも関わらず、どうにもこの催しが楽しくて仕方がないのだ。思えばここ数年世界を放浪していた私は、こんな騒がしい食事などしたことがなかった。いや、訪れた先々で祭りなどはあった。大から小から、それこそ国を挙げてのものまで。それでなくとも、混沌とした喧騒なら、少し下賎な酒場にでも顔を出せばすぐに見つかった。 なら、自分は何が違うと感じているのだろうか。なぜ楽しいと感じているのか。「まだ気付かないなんて、なかなか根性の座った鈍感ね!」振り返った刹那、頭頂部に戦槌でも叩きつけられたような衝撃が走る。何故か頬を赤くした日踏の唖然とした表情が見える。何事かと思えば、いつの間にか背後にやってきていた暮香の、振り上げたハイヒールのかかとが直撃したらしい。スカートで足をそんなに上げるな、はしたない。しかし、鈍感とはどういうことだ。「どうもこうも…」暮香の話を遮って、驚愕とも困惑ともつかない叫び声が響いた。
騒ぎの原因は、明らかに人垣の中心にあるそれ、この世の混沌という混沌をじっくりことこと煮詰めたような闇鍋にあった。「きゃあああ!!」「うおわぁ!」驚嘆の声を上げる住民の合間を縫って、大鍋の前に立つ。意識せず、ペンダントに刻まれたルーンにより酔いを一時的に抑えこみ、外套に仕込まれた投げナイフに手をやる臨戦態勢をとっていた。料理時の事故に対し剣をとる奇妙さを頭は訴えていたが、体は何らかの脅威を感じ取っていたらしい。 それは確かに、奇妙な光景ではあった。鍋に満たされた味噌仕立ての汁が、淡い光を放っている様などそうそう見れるものではない。それは電灯のようにくっきりした光ではなく、蛍や蝋燭の火に似て薄ぼんやりとしたもので、色は藻草を煮詰めたような濃色の緑をしている。ええい、一体何を煮込んだら蛍光する鍋ができるというのだ!「そうね、これじゃ闇鍋じゃなくて光鍋だわ!」そういう問題ではないと思うのだがな。加えて言うなら、光鍋よりも蛍光鍋や蛍鍋などの方がしっくりくると思うぞ。などとくだらない考察をしながら、杞憂であったことに安堵の息を小さく漏らした。奇妙ではあるが、これといって実害は…まぁ鍋はもう食べれないだろうが、それをさておけば特に害はない。そう思ったのも束の間、鍋には次の変化が現れようとしていた。淡く光る液面に起こる、加熱による対流とは別の波紋。その様は水中に潜った何かが、水面に浮かび上がってくる時に酷似している。…まさかとは思うが。『フフ…この日を待っていたぞ、人間共!』囁くような大きさの、しかし低く渋みのある男の声が確かに耳に聞こえた。『隔絶空間に封印された我輩が再び地上に現れるためには、多数の供物と三次元からなる複雑な魔法陣が必要…偶然の上の偶然を頼った方法だったが、こうして我輩の試みは成功したのだ!』 その言葉は、日本語ではなかった。ヘブライ語に近いものがあるが、アクセントやニュアンスが全く違う。この不明な言語をすんなりと理解できたのは、恐らくこの存在が耳に頼らない方法により直接語りかけてきたためだ。 言葉を信じるなら魔王や悪神に分類されるであろう、この存在が。『今でも鮮明に思い出せる、あの口惜しき瞬間…我輩の指先にも満たない人間相手に封印されたあの屈辱…!』話が真実だとすれば、半人前の魔術師である私如きでは相手にならない強大な存在。はったりと決め付けて斬りかかるか、いや本物なら下手に刺激してはまずい結果にしかならないだろう。どうする、動かないでは好転など在りえないのだ。『慄け、今こそ我輩が支配する暗黒の時代が始まる!』手だった。液面が盛り上がり、味噌仕立ての汁を払い落として現れたのは、キムチとうどんとモロモロはんぺんとスパゲッティとトマトと鹿肉と…要するに闇鍋の具材で構成された手。 しかもそれは、大きく見積もっても赤ん坊程度の大きさしかない。続いて出てきた頭も、人形程度の大きさだった。造詣はいかにも威厳のある魔王、がっしりとした頬のラインに、体の一部なのか目の辺りはバイザーに似たマスクで覆われている。 しかし、はんぺんの唇やダンボールの肌などではどうも締まらない。うどんとスパゲッティの長髪がなびく様など、シュールでしかない。崩れた煮トマトのバイザーが、なんともいえない空気の私たちを睥睨する。「…」『…』「…」『…人間はいつの間に巨人になったのだ?』お前が小さいのだ!何かやるせない憤りのままに、鍋の中にルーンを籠めた短剣を雨あられと叩き込む。投げ込んだ短剣に刻まれたルーン、停滞を意味する棘のルーンを基に組み合わされた多数のルーンの集合体は、私の手によりその魔術的意味を引き出されていく。即ち、行動の制限。怪異以外の対象や技量が完全に上回る相手には効きが悪いが、明らかに緩慢になった動きを見ると、どうやらある程度は効果があったらしい。明らかな格上の存在だが、実力の万分の一も出せていない現在の状況では私の術でも少しは効果があると見える。 鍋の表面には体が沈み腕だけが天へ向かって伸びているという、なんとも奇妙な状態。そこに、巨大なスプーンが突き込まれる。「ふっ、たかだか邪神の分際で、この私の言葉を遮ろうなんて三億年ほど早いわ!」スプーンの持ち主である暮香は啖呵一声、だし汁ごと中身を丸々掬い上げると、身構えるより早くスープと共に具を自らの口へ流しこんでいく。ほとんど一気飲みの様相である。 実際、ずっと固まっていたはずの住人たちは、声を揃えて「イッキ、イッキ!」とコールしていた。何事なのだろうか、この異様な立ち直りの早さは。そして誰か疑問に思わないのか、色々と! やはり暮香というべきか、鍋ほどの容量を持つスプーンの中身を、苦もなく飲み干していく。目に見えて減っていく中身。だんだんとペースの速くなる手拍子。…私はその時、自分で気付いていただろうか。空気を読まないバカ騒ぎの手拍子に、傍観をきめこむはずが、いつの間にか自分も参加していたことを。『ばかな、こんなアホな方法で我輩が…そんな、そんなばかぁぁぁぁぁぁ…!』最後のひとかけらまでを飲み干し、その証に空になったスプーンを掲げる。そして、偉業の達成に湧き上がる歓声。語尾の「な」の字が言えなかっただけで意味が不可解になる。そんな日本語の奥深さを私に教え、名も知らぬ邪神は暮香の腹の中へと消えていった。恐らく欠片も残らず消化され、二度と復活することはないだろう。 …何、ナイフがどこへ消えただと? 一緒に食べたか、小骨としてこっそり捨てたかのどちらかだろう。ナイフごと消化できても私は驚かない。それにしても、全く竜頭蛇尾もいいところだった。恐らくは復活のための供物というのが鍋の具であり、それが彼の血肉となったためあんな体になり、更に材料は鍋の中しかないため具材分の肉体しか構成できなかったのだ。 要するに、材料違いで材料不足が敗因。…まぁ、この悲運については多少哀れに思わないでもないが。
「…というか、さっきの何だったんだ?」「知らね。」騒動が治まったところで、次の問題がやってきたようだ。しまったことに、状況が状況だったとはいえ、一般人の前で魔術を使ってしまった。それで特にペナルティがあるわけではないが、人間関係に支障が出るのは間違いないだろう…ざわざわと的外れな推測が飛び交うなんとも口を開き辛い状況を打破したのは、やはりこの女だった。暮香はスプーンを掲げ、ライトを点灯させ(どうやってかはわからない)、軽く隣人たちを睥睨した後に、一喝。「全て気のせいよ!」なんという…なんといういいかげんなフォローだ!助けてもらって文句を言うのは筋違いかもしれないが、しかし誤魔化すにしても、もう少しマシな方法があったと思うのだが!「あら、気のせいだったの?」「なんだ、そうならそうと言ってくれよ。」そして、そのいいかげんな説明で納得してしまう隣人たち。まてーい!!いいのか、その安直極まりない解決で!「ふっ、ここをどこだと思っているの、スノリ! 酒の場で見たことなんて、全て幻と断言して間違いないわ!」下戸や未成年もいたと思うのだが、この場には。「何より菜に花荘は、朝のラップ音で清々しく目が覚める、そんな不思議なイベントの多発地帯! 邪神の一匹や二匹じゃ動揺しないわ!」いや、邪神は私でも動揺するぞ?それに私は…その、短刀を投げて…「あぁ、邪神相手にナイフでノリツッコミなんて、まぁ私には劣るにしても、なかなか勇敢よね! 返しとくわ!」言って、無造作にナイフを返される。消化したわけではなかったらしい。「かっこよかったぜ、スノリさん。」「お兄様とお呼びしてもいいですか?」「いくら酔ってるからって、鍋にナイフ投げつけるなんてそうできるもんじゃないよな。」「銃刀法には気をつけてくださいね、最近うるさいですから。」鍋の代わりに私を取り囲んだご近所さんたちの賞賛と質問が浴びせかけられ、心配はなんでもないことのように受け流されていく。よくよく考えれば、ナイフが多少光った程度ではそれが魔術が原因などと考える人間もいないだろう。…これでは、思い悩んだ私が馬鹿のようだ。「じゃあ、鍋も空になったことだし、二杯目いくわよ!」「「「待ってました!!!」」」「とっときの具はちゃんと残ってるわね!? こっから先はR-18! 甘いの辛いの酸っぱいの、お子様立ち入り禁止の味の終極を目指すわよ!!」「「「おお!」」」「おー!」「璃衣子は帰りなさい!」「私二十歳超えてますよぅ!!」まだ食べる気か。
できることなら直視したくないような材料を鍋に投げ込んでだし汁をとり、そこに味噌と味噌に似た何かをたっぷりと溶いて汁を作っていく隣人たち。「…さっきの暮香さんの言葉、ですけど。」程よい大きさの石に腰掛け、座っていたところにそう声をかけてきたのは、日踏。…いや、いい。なんとなく。なんとなくなのだが、分かった気がする。今までの私は訪れては去っていくだけの根無し草で、接点がなかった。しかし。今ではこの騒がしい隣人たちが、他人よりもっと近い存在だと考えている。そしてこの騒がしさも、彼らもそういう関係であることに関係しているのだろう。「そうですか。」闇の内で分かり辛いが、しかし確かに笑って、酒都の霧の瓶を勧めた。私は慣れないながらも口元を曲げて笑みを作り、コップで中身を受ける。「…実はこのイベント、スノリさんが主役なんですよ。」…そうなのか?「はい。元々闇鍋パーティはやってましたけど、今日は久々の入居者であるあなたに皆と親交を深めさせようと、お祭り好きの暮香さんが先導して計画したんです。」そうか…なぜだろうか。目頭にたまる熱いものが止まらない。本当に…今ここが闇夜でよかったと思う。見られていたら、どうせ騒動好きで野次馬な皆のことだ、からかい倒されるに決まっている。袖口で目元を拭い、騒ぐ隣人たちを眺めて口に含んだ酒は、懐かしい故郷の匂いがした。
「まずは、ペッパーホリックから略奪してきた人工合成アレ二十八号を投入よ!」「甘いな暮香さん、おれの栽培した走るキノコにはかなうまい!」「なんの、僕の釣った人面魚は…!」
…少しばかり、騒がし過ぎる気もするが。
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