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「おかえりなさい」 作者:あずさ
夏といえば。 海? 山? プール? 花火?「肝試し!」 懐中電灯の光を大きく照らし、一ノ瀬杏里が大きく高らかに叫んだ。日の暮れた山の中、その元気な声は反響を残さず消えていく。 杏里は懐中電灯を顔の下から照らした。可愛らしい顔が一転、影が上手い具合に恐ろしさを増し不気味な形相を作り上げる。ふぎゃ、と短い悲鳴を上げて日向大樹は兄の春樹にしがみついた。 「……大樹」 慣れているらしい春樹は特に振り払うこともなく、ただただ呆れた視線を送ってくるばかり。「怖いなら無理に付き合うなって言ったろ」「べ、べべ別に怖くなんかっ」「どもりすぎ」「ちがっ、これは、あれだ! あれ! お、落ち武者!?」「……武者震いのこと?」「それだ!」 勢いよくうなずけば打って響くような速さでため息が返された。大樹はそれを不満に思う。信じていないのが一目瞭然だ。 このような押し問答を続けているとふいに後頭部が叩かれた。振り向けば、柳川爽真がこちらを見下ろしている。腕を組み眉をひそめているその姿はあからさまに苛立ちの表現だ。 「杏里が喋ってるだろーが」「何だよ、ちゃんと聞いてるっつーの」 むうと頬を膨らませ、軽く睨む。今はそれどころではないのだ。 ふいに、クスクスと控えめな笑い声が耳元をくすぐった。瑞原ほのかだ。その笑い声は上品で大人しそうな彼女にはよく似合っている。 一ノ瀬杏里、柳川爽真、瑞原ほのか。彼女たちは大樹と同じ小学六年生だった。この町の住人ではない大樹たちとも仲良くしてくれている。そしてこのメンバーの大きな共通点といえば、 「さあ、不思議探検隊の肝試しを始めまーす!」 ――不思議探検隊。 杏里が転校先の霧生ヶ谷で結成したグループのメンバーだということであった。 ここ霧生ヶ谷市では不可思議な現象がたびたび起こるという。多くの噂や伝承・伝説がその事実を曖昧ながらもひっそりと裏付けていた。杏里はそうした不思議が大好きで、もはや「不思議萌え」の域に達し、こうして日々、様々な不思議を追い求めているのだ。杏里が転校する前の学校で仲良くしていた大樹と春樹は、たまの休みを使って霧生ヶ谷に遊びにやってくるのだが、いつの間にやら不思議探検隊の一員としてごく当然のように扱われていた。もちろん大樹も不思議なことには興味があるし、実際にいくつか出会った不思議は面白いと思う。だから不思議探検隊としてみんなと色々なところに行く、それはいい。それはいいのだが。 「なっんっでっ、肝試しなんだよ!」 不思議、は、別にいい。それは別にいいが、大樹にとって、不思議と恐怖は全くの別物だった。「え、だって夏だもん」「もっと他にやることあんだろー!?」「だって夜だもん」「花火とかでいーじゃん!」 問い詰めると、一瞬杏里も言葉に詰まった。もしやこのまま説得できるかと思った刹那、再び後頭部に衝撃。「杏里の案に文句つけんな」「うるせー! ボカボカ頭殴んな!」「うるさいのはお前だ」 半眼で睨んでくる爽真。やや後方では相変わらず笑っているばかりで全く止める気配のないほのか。 もうやだこいつら、と大樹は泣きたくなった。バラバラなようでいて大樹の逃げ道をいっさい塞いでいる。鬼か。悪魔か。「だから家にいれば良かったのに……」 そう言ってため息をつく春樹を、大樹はふくれっ面で見上げた。「一人はやだっ」「あ、そ」「それに! もしかしたらみんなお化けに食われて戻ってこないかもしれないじゃん!」「え、そんな心配? 僕ら勝手にすごい勢いで死亡フラグ立てられてる?」 言葉の端々に呆れが滲み出ている。大樹は思い切りふくれた。本当に食われても知らないんだからな!「あーもう、とにかく! 今から肝試し、開始!」 断固として揺るぎない隊長の宣言に、誰も逆らうことはできなかった。 *「えっと、それじゃルールを確認するね。この先の小さなお堂に杏里ちゃんが置いてきたモロモロのキーホルダーがあるから、それを取って戻ってきたらクリア。懐中電灯もあるし、蛍光塗料のやつだから多分見つからないってことはないと思うけど……まあ、何か問題があった場合はすぐに僕に連絡すること。ペアは二人一組で今からクジで決める。一組目が行ってから五分後に次のペアが出発。これでいいかな?」 「オッケーであります!」「杏里がいいなら俺も……」「私も大丈夫です」「……え、春兄は行かねーの?」 素朴な疑問に大樹は首を傾げる。もし行くのなら断然兄の春樹と行った方が心強いので死活問題だ。何より、できることなら友達に情けない姿は見せたくない。――今更とか言うな! しかし、そんな大樹の心情を正確に読みとったであろう春樹は肩を落とした。目が語っている、「話聞いてなかったろ」と。「そりゃ、誰かいた方がいいだろうから。ちゃんと戻ってきたか確認できるし、何かあったら大変だろうし」「えええっ、だったらオレが!」「一人で待ってられるのか?」「う……っ」 それは、嫌だ。ものすごく。 肝試しで歩き回るのも嫌だが、ただ一人こんな暗い場所に立ち尽くしているより、まだ二人でいた方がマシというものである。 今度こそ反対意見が出なくなり、春樹は小さく息をついた。ずい、と割り箸を取り出す。先の方は春樹がしっかりと握っているので見えない。「杏里ちゃんが用意した簡易くじ引き。先の色が同じだった人同士がペアだよ」 このちっぽけな割り箸がまるで死神の鎌に見えてしまうのは大樹だけに違いない。「じゃあ私これ!」「……これ」「これにします」「ぅうう」「――みんな持った? それじゃ……」 せーの、という杏里の掛け声と同時に春樹が手を放し。「赤だ」「青……」「赤ですね。杏里さん、よろしくお願いします」「うん、頑張ろうね!」「…………」「何だよ、オレ悪くねーもん! 先に引いたのそっちじゃん! 睨むなよ!」「うるせえチビっこ」「んなぁあ!?」(不安だなぁ……) 春樹がぬぐえない不安を抱えつつ、こうして肝試しは開始された。 * 山の中は暗くて先が見えなかった。杏里の家の近くにある小さな山なのである程度道らしい道ができているし、遭難するようなことはないものの、夜の暗がりが不気味さをいっそう醸し出している。その上、相手が爽真ときたもんだ。彼は何もしてなくてもいきなり睨んでくるときがあるので大樹としてはやめてもらいたい。普段は別段気にすることでもないが、こういう場ではあまりにも心臓に悪い。 ゆらゆらと頼りない懐中電灯の明かりを必死の形相で見つめていると、ふいに爽真がこちらを振り返った。必死すぎる大樹に何か言いたげにし、しかし上手く言葉は出てこなかったのか、足元に転がっていた石を蹴る。その音にうっかり「に!?」と声が出ると(出す気はなかった! 本当に!)、今度こそ大きなため息が送られてきた。 「あのなあ……」「な、何だよ?」「お前、今更何に怖がる必要があるんだよ」「怖がってなんかっ、……今更?」 反論しようと噛みついた大樹だが、すぐに気になる言葉に意識が逸れる。ああ、と爽真はつまらなさそうに口を尖らせた。「だってお前、何だかんだいって結構不思議なこと体験してるだろ。夜桜とかも見たんだろ?」 夜桜。それはここ霧生ヶ谷市では、夜にだけ咲くらしい不可思議な桜のことを示す。 今度は大樹が「はあ?」とつまらなさそうな顔をする番だった。「バカ、桜は人食べたりとかしないじゃんか」「……は?」「だからー、桜とかは人食べたり襲ったりしないじゃん。咲いてるだけなんだし。でも! お化けとか幽霊は危ないだろっ、杉山さんとか!」「……あー、まあ、あー」 何だその気の抜けた声は。そうジト目で睨むと、それ以上の半眼が返ってきた。「ガキ」「何でだよ!?」 素直に答えただけだというのにその対応はいただけない。大樹は思い切り唸って爽真を威嚇した。しかし爽真はもう取り合うつもりもないらしくさっさと歩調を速める。どうでもいいが普段歩くよりペースが速い。あまりにも速いと杏里たちに追いついてしまいそうだが、それはルール上ありなのだろうか。 しかし一人より二人、二人より三人、四人。人数が多い方が大樹も心強いし賛成だ。だからとりあえず追おうとし、「……あ、靴ひもほどけた」「はあ? 早くしろよ、置いてくぞ」「待てってば!?」 慌ててしゃがみ込み、靴ひもに手をかける。一応山の中だから歩きやすい方がいいんじゃないかと春樹に言われてサンダルをやめたのだが、逆効果だっただろうか。それにしてもいつもならばすぐに済む行為が、こうも手元が暗いとなかなか思うように進まない。早くしなければと焦れば焦るほど変な力が入ってしまう。 「うあー……爽真、懐中電灯! 貸し……」 ふいに、自分の周りがやけに暗いことに思い当たった。夜の山には街灯があるわけでもないのだから当然のことではあるのだが、今までは頼りないながらも懐中電灯の光が周りをうすらぼんやりと照らしていた。持っていたのは爽真だが、大樹と爽真はそれほど離れて歩いていたわけではない。というより無意識に大樹が離れるのを嫌がっていたのでむしろ近かった方だ。だからそれとなく周りの様子は見てとれた。だというのに、暗い。途方もないほどに暗く静かだ。 ざっと、血の気が引いた。「そうっ……」 叫ぼうとしてからハタ、と気付く。道は険しくないしそう難しくもない。しかし懐中電灯を持っていない大樹にはしっかりと道を見極めることができなかった。追いかけるにしてもどちらへ向かえば良いのか。立ち尽くす。 「……」 冷たくもない風が吹き抜ける。 叫べば良かった、と大樹は一拍遅れて気付いた。すぐに叫び、駆け出し、追いかければ良かった。一度自分の置かれた状況を正確に把握してしまえば、変な話だが冷静に恐怖を認識してしまう。方向が分からなくたって訳も分からないうちに走り出せば良かったものの、木々の音や風の音が妙に纏わりつくのを感じ取ってしまった今、身が竦んで動けない。動いたとたんに全ての均衡が崩れてしまうのではないかという恐怖感。 (ていうかありえねぇし、置いてくとかひどすぎるしっ、明かりも電話も全部あいつが持ってるとか意味わかんねーしっ……爽真のアホぉおおうああ春兄ぃいい) やばい怖いやばい泣きたいやばいやばいやばい。 背後のこするような音に肩を強張らせた。とっさに思う、何かが出てくるかもしれない。あの茂みから何かが襲ってくるかもしれない。――いや違う、あれは風の音だ、木々のこすれ合う音、ただそれだけだ。そうに決まっている。そうじゃないと怖すぎる! もうやだ、と大樹は本気で思った。何なんだこの霧生ヶ谷という場所は。怖いにも程がある、っつーか怖すぎだバカアホマヌケ! 事実、霧生ヶ谷には不思議な話はもちろん、怖い話も多いのだ。杉山さんはその典型である。いわく、白く濃い霧の夜に人通りのない道で奇妙な笑い声が聞こえたら立ち止まってはいけない。立ち止まってしまえば、杉山さんが訪れて立ち止まっていた人間を消し去ってしまう……。 他にも、どこぞの学校の怪談では「みよこさん」というものがある、と杏里が教えてくれた。なんでも壁の中から腕が現れ、人を引きずり込んでしまうという。他にも吸血鬼がいるだとかそれは殺人鬼だとか何とか……。これらの話を聞いた日、大樹は寝付くのにかなり苦労した。不思議の多い霧生ヶ谷だからこそ本当に起こってもおかしくないような気がして不安は大きくなるばかりだった。 怖い話にも嬉々としている杏里、ニコニコしていてばかりで全く止める気配のないほのか、叩くわ悪口ばかり言うわ人を置いていくわでいいところを挙げろという方が難しいかもしれない爽真。みんなみんな嫌いだ。怖い霧生ヶ谷はもっと嫌いだ。そのせいで今こんなに怖いのだ。全部全部消えてしまえ! 大樹の思考は珍しくネガティブな方向へグルグルと渦巻いていた。そのとたんに再度物音が聞こえ、大樹は思い切り飛び上がる。 今。ガサリと聞こえた。ついでに人の声みたいなのも聞こえた。聞き間違いだとは思えないほどはっきりと。「こ、怖くなんてないぞ怖くなんて……だ、だいじょぶダイジョーブ……」 一人で言い聞かせながら、大樹は渾身の限りの勇気を振り絞ることで一歩踏み出した。自分の足ではないかのようにぎしぎしする。ああ、もしお化けが近くにいた場合、今ので起きちゃいませんように。そう心の中で何度も願いながら、これから起こることをシミュレーションしてみる。事前に何かがあると構えていれば少しは恐怖が緩和されるような気がした。――例えば、大きなお化けが目をむきながら出てくるとか。刃物を研いだお婆さんが追いかけてくるとか。そうしたらとにかく反対方向にダッシュで逃げて……あああなしなしいくら何でもそんなの怖すぎて逃げる前に死んでしまう! それよりはぐれたことに気付いた爽真が戻ってきたとか、連絡を受けた春樹が探しに来てくれたとか。何だその素敵な奇跡。そうであれば神様というものを心の底から尊敬してやってもいい。 「……ない……」「ふえっ!」 変な声が出た。大樹はいよいよ泣きたくなる。違う、だっていきなり低い声が聞こえるから、出そうと思って出したわけじゃないしだからどうかどうかどうか気付かれませんように! むしろ空耳でありますように目の前に何もいませんように! しかしあれだけはっきりと声が聞こえていながら何もいない、というのも逆に怖いような気がした。結局怖いのかバカヤローと誰に言うでもなく叫びたい衝動を堪えて目を凝らすと、――案の定影が見えた。嬉しいのか悲しいのか分からない。そして次の瞬間、非常に悲しいことに影が、こちらを向いた。それも完全に身体の向きをこちらに変えて。 「ひっ……」 声が、喉の奥でひきつった。しかし湧き起こった恐怖はそんな支(つか)えなど軽く上回るもので。「う、あああああ!?」「わああ!?」 悲鳴が重なる。こんな近くで大声で叫ばれたのだから――考えてみればそれは相手も同じなのだが――パニックは相当だ。「うわああああん春兄ぃいいい!!」「え、あの」 人影がゆらゆらと近づいてくる。手を伸ばしてくる。無意識に大樹は一歩後退りしていた。だが結べていなかった靴ひもを思い切り踏んづける結果となり、あっさりとバランスを崩す。 「っ」「あ」 反射だったのだろう、どこか間の抜けた声を出した相手が――ぐいと大樹の腕をつかみ引き戻した。勢いで相手の胸に額がぶつかる。「大丈……」「ふみゃあああ!?」「え!?」 触られた! 幽霊に捕まえられた! ――食べられる!!!「く、来んな来んな来んなー!」「あの、危な……」「ごめっ、ごめんなさい! ごめんなさいごめんなさい! オレ悪い子だった!! 反省する、するからー! だから食べないでぇええ!?」「た、食べないよ!? あ、あの、ほら僕、甘いものが好きだし! ね、えぇとほら、シェネーケネギンのチョコとか美味しいよね」「――え?」「え?」 ポンと頭に右手を置かれ、それから励ますように肩や背中を数度軽く叩かれた。しかしそんな優しさらしき行為より、現実的なんだか何なんだかよく分からない言葉に思考が一時停止した。大樹はおそるおそる顔を上げる。正直、恐怖で涙腺が緩みまくっていたものだから判別するのにも苦労した。かろうじて泣いていないが涙は間違いなく溜まっているはずだ。 相手は、ひょろりとした少年だった。制服らしきシャツを第一ボタンだけ外して着ている。それ以外はどこか目立たなく特徴をあげるのが難しい。身長からして春樹より年上だろうか。しかし春樹よりもやや幼い表情で、眉を八の字にしながら小さく笑う。そして消え入るような、申し訳なさそうな声を絞り出してきた。 「あの、その、怖くないから。えっと僕……」「……」「堤下健吾と申しマス……」「……ひ、ひゅうがだいきです……」 大樹にしては珍しく丁寧に名乗ってしまったが、それもこれも、思考回路がパンクしていたからに違いない。 *「そっか、君も肝試しで来てたんだ」 落ち着いた――というより思考回路がパンクしきった結果、全ての感情が一旦リセットされてしまった――大樹を隣に座らせ、健吾と名乗った少年はしみじみと呟いた。 「君もって……健吾もなのか?」「僕はちょっと違うけど。でも、結構来てるのを見るよ。怖いよねぇ」「怖い?」「うん。だってさ、お経とか唱えてる子もいるんだよ?」 うへぇ、と大樹は奇妙な声を漏らして眉をひそめた。なるほど。確かにこんな鬱蒼とした木々の隙間からお経が聞こえてくるなんて不気味にも程がある。お経を唱えるくらいなら肝試しなんてやらなければいいのに。その方が自分のためだし幽霊のためだ。多分、きっと。 「大樹くんの驚きっぷりにもビックリしたけどね」「や、だってあれは!」「悪い子を食べちゃうのってナマハゲじゃなかったっけ」「う……」 クスクスと笑われ、大樹は目を逸らすしかなかった。生だろうと焼いてあろうと、どんなハゲだろうと関係ない。生きるか死ぬか、ただそれだけの問題だったのだ。「それにしてもはぐれちゃうなんて災難だったね」「おう……もー死ぬかと思った」「あはは」「笑い事じゃないっ!」「ごめんごめん。それで、道は? 分かる?」 言われ、大樹は瞬いた。「ほとんど一本道だとは聞いてる、けど……」 言葉は尻すぼみとなって消えていく。道は簡単だと聞いた。しかしほとんど一本道と言ったって、一体どれくらいまでなら「ほとんど」になるのだろうか。何回か曲がるのだろうか、分かれ道があるのだろうか。霧生ヶ谷に住んでいるわけではない大樹としてはここにあるお堂がどんなものなのかさえ分からない。 ――あれ、そういやここまで来るのも一度は曲がったっけ、曲がってないっけ?「春兄ぃい」 情けないのと泣きたいので思わず声に涙が滲んだ、そのとたん。 よしよしとばかりに頭を撫でられた。「お堂なら僕、多分知ってるよ。手伝ってあげる」「え……ホントかっ?」「うん、僕の用事のついでだし」 いつもなら頭を撫でられれば「子供扱いすんな」と怒りたくなる大樹だが、このときばかりはそんな気持ちも吹き飛んでいた。冷たい手は生ぬるい気温のせいもあり、不快どころかむしろ心地良い。もう大樹には健吾に後光が見えてならない。ニコニコと穏やかなのでますます仏のようだ。 「あ、もちろん大樹くんが良ければ、だけど」「助かる! サンキューなっ」「それなら良かった」「あ……でも健吾の用事って?」「探し物」 ポツリと言い、健吾は立ち上がった。ズボンの汚れをぱたぱたと叩き落としながら、「どうせだから歩きながら話そうか」と笑みを浮かべる。大樹は素直にうなずいた。早く帰れるに越したことはない。 * でこぼこした道を歩きながら、健吾はゆったりと話してくれた。「大切なものを落としちゃったんだよ。恥ずかしい話だけど、久々にこっちに帰ってきたから浮かれすぎてたみたいでさ」 それで「ない……」だなんて言っていたのか、と大樹は一人で納得する。それと同時に別の疑問も浮かんだ。「健吾は霧生ヶ谷の人じゃねーの?」「住まいはね。生まれは霧生ヶ谷なんだけど、どうしても外に出たくなったんだよ。だから親戚がいるのをいいことに、高校はその親戚の家の近くに通わせてもらうことにして……」 「高校!」「え、うん」「中学生くらいかと思ってた! 春兄よりちょっと上くらいかなーって」「……素直だね、大樹くんって」「へっ?」 首を傾げれば、「ハハハ別に」とひどく乾いた笑い声が返ってきた。次いで「どうせ子供っぽいよ……」などとブツクサ言っているのが聞こえる。どうやら落ち込ませてしまったらしい。だが正直なところ、それよりもまだ聞きたいことがあったので、大樹はさっくりとその興味を優先させた。 「そんで、何でこんな山なんかにいんの?」「ちょっとしたお墓参りも兼ねて……かな。それに僕、学校で宿題があるんだけど、それがなかなか終わらなくて……友達が『お前は根性がないからだ!』とか言って」 「? 関係あんのか?」「はは。夜のこんな山の中にいれば、度胸とか根性はつくだろってことじゃないかな」「えぇえ? そんなのメチャクチャだぜっ。いじめられてんじゃねーの? 言ってやろうか?」「いやいや、いい奴だよ。確かにムチャクチャなとこあるけど」 笑う健吾に無理は見られない。むしろ楽しそうだ。よく分からなかったが、大樹は「ふぅん」と納得することにした。 それにしても、と健吾に手を引かれながら思う。今日はどうも音がうるさい。木々のざわめきがひっきりなしに耳に飛び込んでくる。爽真といたときから意識の底で感じていたことだが、健吾と歩き始めた今、それはますます勢いを増しているようだ。ザワザワガヤガヤとまるで休み時間の教室にいるような――。 (……あれ?) 引っかかるものがあり、大樹は思わず歩みを鈍くした。健吾が不思議そうに振り返るが、大樹は曖昧な表情で辺りを見渡す。暗い闇、うるさい木々、どこかで鳥が飛んだような羽音。 (……風、ない?) 違和感に思い当たったその刹那、音の塊がいっそう勢いを増した。 ハッとなってその中心に視線を向けると、そこはうっすらと光が漏れている。ぼんやりと発光する何かが、大きな木の奥でゆらゆらと動いている。右に左に、前に後ろに。不安定な動きを繰り返しながらもその場に佇み、少しずつ先へ進んでいく。 ――だ……も……すぐ…… ――……しみ……どう……て…… ノイズ混じりとも言える声たちが空気をさざめかせ、波が引くようにして遠くなり、またすぐに近くなる。 今までずっと木々の擦れ合うざわめきだと思っていたのは、彼らの話し声だったのだ。 そう気付いた瞬間に大樹の身体は強張った。「ユーレ……!」 イ、と言う前に後ろから手で口を塞がれた。「しっ」 何事かと思ったが、その声で理解する。健吾だ。彼は硬直したままの大樹に「静かに」と、それはそれは見事な手本のごとく静かに指示してみせた。ぎこちなくうなずけば、回されていた腕の力が少しだけ緩む。 「健吾、あれ」「帰ってきたんじゃないかな」「……え?」「お盆だからね」 お盆。一瞬、大樹は木や金属で作られた丸くて平らな道具を思い出した。よくお茶などを乗せて運ぶやつだ。それと「帰ってくる」ことが全く結びつかなくて頭上に「?」を浮かべまくる。それを見ていた健吾がクスリと笑いをこぼした。 「聞いたことないかな、お盆にはご先祖さまが帰ってくるって。あと……そうだ、盆踊りとか。あのお盆」「ご先祖さまが帰ってくる……?」 鸚鵡返しに呟けば、健吾がうなずいた気配があった。「だから邪魔しないでおこう。あの人たちはちゃんと目的があるんだから、ちょっかい出さなきゃこっちに害はないはずだよ。下手に騒いだら連れていかれちゃうかもしれないけど」 さらりと恐ろしいことを言われた気がした。しかし大樹は唇を引き結んでうなずいた。あまりにも突然で心臓がバクバクとうるさかったが、健吾の落ち着き払った声音で徐々に本来のペースを取り戻してくる。 落ち着いて耳を澄ませば、彼らの笑い声はどこか浮かれていた。足取り軽く(幽霊も足が見えるんだなぁと大樹は思ったが、もしかしたら今日だけ特別なのかもしれない)駆けている者もいれば、歌うようにくるくると回っている者もいる。もちろんそんな人たちばかりではないが、ただ、誰もがこの先の何かに想いを馳せているようだった。 「何で……帰ってくんの?」「さあ」 健吾はいまだこちらに腕を緩く回したまま、器用に肩をすくめてみせる。大樹は顔だけを健吾に向けてそれを見た。そのポーズはあまり健吾には似合わないかもしれない。 「多分、本人たちもはっきりはしてないんじゃないかなぁ。何かに呼ばれて来ている気もするし、家族の顔や家、世界を見たいから来ている気もする。でも、まあ……ここが、好きだからかもしれないな」 「ここが?」「うん。霧生ヶ谷が好きだから、霧生ヶ谷にいる家や家族が好きだから……だから帰ってきたくなっちゃうのかも。――僕も、そうだしね」「……そ、か」 ふわりと笑った健吾に呆気に取られ、大樹はもう一度視線を行列に戻した。そわそわ、わくわく、そんな気持ちが風に乗って伝わってくる。これから彼らは何をするのだろうか。霧生ヶ谷の空気を、思う存分に吸うのだろうか。そうしてのんびりするのだろうか。 それならいいな、と大樹は思った。あそこにいるのは知らない人たちばかりだけれど、杏里たちと走り回った霧生ヶ谷を、彼らもきっと駆け回ったことがあるのだろう。今日くらいはそんな彼らを不思議探検隊のメンバーだと思ってみるのも悪くない。もしかすると同じ景色を見、同じ不思議を経験したことがあるかもしれないのだ。変わってしまった景色も多いと思うが、その変化に彼らが驚くのもまた面白いに違いない。 あのさ、と大樹は呟いた。健吾が首を傾げてみせる。「オレも分かるかも。……嫌いだーなんて思ったりもしたけどさ。やっぱ、好きだな。霧生ヶ谷のこと」 そっか、と笑った健吾が頭を撫でてくる。今度ばかりは「やめろよ」と言ったが、それでも大声を出してこの空間を壊す気にはなれなかった。「そろそろ行こうか」 促され、大樹はその手を再度取る。行ってらっしゃい、と遠くなる彼らに心の中で手を振った。 それからは一本道で迷う心配もなかった。さくさくと進んでいけば、それらしき物が徐々に見えてくる。期待通りに健吾も先を指差した。「ほら、お堂はあそこだよ」 そこには、確かにちっぽけな木造のお堂があった。妙に古めかしく、奥にはよく分からない像が飾ってある。大樹の知識をフル稼働しても「なんか怖そう」くらいしか分からなかった。さらに言うなら目立たないくらいひっそりとお供え物か何かが置かれているので、一応今でも現役らしい。今更ながらこういうものを肝試しに使うなんて罰当たりなのではないだろうかと疑問に思ったが、本当に今更でしかないので黙っておく。 「誰もいないね……」「キーホルダーもねぇや……すれ違った?」 キーホルダーがないということは、杏里とほのかはもちろん、爽真もここに来たということだ。ここは比較的見晴らしがいいので彼女たちが隠れられるような場所もない。もう誰もいないと思って間違いないだろう。 「仕方ないか。それじゃ、お兄さんがいるところまで戻ってみよう?」「うー」 未練がましく中を覗き――ふと、小さな箱が目に留まった。木造の箱なら特に気に留めなかっただろうが、やたらツルツルしたそれはこの場にはやや不自然で、大樹はそっと手を伸ばす。中のものをいじるなんてそれこそ罰当たりなものだが、残念ながら思ったことをすぐさま忘れるタチの大樹はあっさりそれを手に取ってしまった。 「何だこれ?」 思っていた以上にずっと軽い。何も入っていないのかもしれないと思ったが、軽く揺すればわずかながら音がする。「え? ……あ」「あ?」「あーっ!!」 耳元で叫ばれ思わず箱を放り出す。痛い! 耳が痛いし頭も痛い! ついでにビックリしすぎて心臓も痛い! だが文句を言う気は失せた。大樹が放り出してしまった箱を、健吾はものすごく必死にキャッチしていたからだ。「け……健吾?」「これ、これ! 僕の探し物!」「……え、マジで?」「良かったー! ありがとう大樹くん!」「え、お、おう……?」 正直なところ何もしていない大樹としてはどう反応していいか分からない。だが健吾は喜びのあまり箱に頬ずりまでしている。とても否定できる空気ではなかった。お礼を言われるのは別に嫌いじゃないからまあいいか、と大樹も深くは考えないでおく。 「そんなに大切なのか?」「うんっ、そりゃそうさ」「何入ってんだ?」 至極もっともな興味を抱いた大樹の質問に、一瞬、健吾の動きが止まった。彼は遠くを見やるようにし、クスクスと笑い出す。その謎の流れに大樹が呆気に取られていると、彼は大樹に身長を合わせるようにして屈み込んだ。 「大樹くん、本当にありがとう。探し物も見つかったし、おかげで宿題も何とかなったし。それに何より楽しかったよ」「へっ……?」 ポンポン、と右手が頭に乗せられる。もう何度目だろうか。しかし退けようという気にはなぜだかなれなかった。大樹は怪訝な表情で健吾を見つめる。「健吾?」「大樹くんも早くみんなと帰ろうね。……ふふ、僕もそろそろ帰りたくなっちゃったな」「……は?」 何だって? 聞き返そうと思った直後、「あー!」と絶叫に近い声が後ろから刺さってきた。口から何か危ないものが出そうだったと半ば本気で思いながら振り返れば、ちらちらと光が揺れて見える。頼りないか細い光だが、それは先ほど見た光よりもずい分とはっきりしていて。 「大樹いたー!」 その聞き覚えのある声に、大樹はぽかりと口を開けた。近づいてきたところで思い切り光が顔に向けられる。眩しい。まるで追い詰められた犯人だ。「やっと見つけた! 発見!」「あ、杏里?」「こちらにいたんですね……大丈夫ですか?」「ほのか……」「お前はぐれたんだって?」「春兄」 口々に言って近づいてくるのは、お馴染みのメンバーたち。大樹は無意識にホッとした。ふと後方に目をやれば、遅れて爽真がやって来る。ものすごく仏頂面だ。恐らく今日一番の。 その表情のまま彼は渋々と口を開き、「お、前……気付いたらいないし何やってんだよ、ほんとトロすぎるだろ」「んな!?」「まあまあまあ」 気色ばんだ自分の前に立った杏里が何やら意味深な表情で笑う。その隣に立つほのかもどこか楽しげだ。「爽真くん、すっごい心配してたんだよー。いきなり走ってきて、『あいつとはぐれた!』って」「責任感は強い方ですからね。人一倍探していましたよ」「なっ……あ、杏里! 瑞原まで……!」「悪いことじゃないと思うよ?」「ええ、当然のことです」「な、だ、ちがっ……あああちくしょうお前のせいだぞ!」 ビシリと指を突きつけられ、ポカンとした表情で大樹はその指を、そして次に彼の顔を見上げた。暗い中でもうっすらと分かるが、どうやらかなり赤いようだ。「えっと……ありがとう?」 思わず笑って答えれば、がっくりと爽真がうなだれた。「お前……それはおかしいだろ」「オレもそう思う」 笑いつつ春樹を見れば、彼は苦笑気味にこちらを見ていた。苦笑とはいえ一応笑顔だが、ああこれは後で怒られるなーと直感で分かってしまう。ずい分心配をかけてしまったらしい。 春樹に怒られるのは怖い。何より彼はくどいししつこい。しかしそれでも、なぜか嬉しいと思う気持ちがあるのも確かだった。 はあ、とため息をついた春樹が頭に手を乗せてきた。瞬間、ぐりぐりと乱暴に撫で――いやかき混ぜてくる。「あだだだだっ」「とにかく無事で良かったよ」「今ので頭が無事じゃな……」「ハイハイ、文句は後で。それじゃもう遅いし、一旦帰ろう?」「はーい! 不思議探検隊による肝試し、これにて終了!」「お疲れ様です」「……肝試ししたんだかしてないんだか分かんねぇ……」 みんながみんな、口々に言い合いながら引き返していく。 大樹はちらりと背後に目をやった。そこにはお堂がひっそりと建っているだけで、今まで傍に立っていた健吾の姿はどこにも見当たらない。わずかな風に木々が控えめに揺れ動いているばかり。 「大樹、どうしたのー?」 杏里の呼ぶ声で我に返り、大樹はそちらの方に駆け出した。 バイバイ、はやっぱり心の中だけで。「へへー。オレ、やっぱみんなも霧生ヶ谷も大好きだぜ!」「え? どしたの、急に」「んにゃ、別に。思っただけ!」「変な奴。ていうかてっきり泣いてるかと思ったのによ」「あ、何だよそれー!」「あー、でも僕も思ってた」「春兄まで!?」「大樹さんもきっと成長なさったんですよ」「瑞原、こいつを甘やかすとすぐ調子乗るぞ」「さっきから何なんだよ爽真はー!」 * * * 木の上に寝転んでいる影があった。それに気付いた健吾は顔を輝かせ、思い切り手を振ってみせる。「シンちゃんシンちゃん!」「んあ?」「骨見つかった!」「ああ……やっとか。てか、そもそもそんなもの持ち出すなよ。いくら自分のだからって泥棒みたいなもんだぞ。浮かれすぎだろ」「ごめんね。でもつい、懐かしくなっちゃってさ。僕の右手、こんなに小さくなっちゃったんだなぁ~って思ったら感慨深いじゃない?」「知らね」 頬を掻いて謝る健吾に、「シンちゃん」と呼ばれた相手が降りてくる。ぼさぼさの髪を無造作に掻き撫でている彼に健吾は身を乗り出した。「あと僕、宿題もできたよ! 一人脅かせた!」「アホ。最低限一人、だろうが! 俺なんて十人はビビらせてやったぞ。それくらいやんなきゃあの先生あからさまにがっかりするし」「う……だってみんな怖いんだもん。中にはお札持ってくるような子もいるしさ。人間ってたくましいよねぇ」 今日はお経だけだったけど、と呟くと、彼は肩をすくめた。健吾は知っている。シンちゃんもお経はちょっと苦手なのだ。「ったくよ~……。ま、お前にしちゃ上出来か。これで補習は受けなくて済むな」「うん。それにしても元気な子だったなぁ。驚かせたのが申し訳ないくらい……ていうか僕が脅かす前に驚いてたから僕まで慌てちゃった」 「お前、それ宿題できたって言えるのか?」なんて呟きが聞こえてきたが、健吾は思い切り聞こえなかった振りをした。「もう全身で生きてるって感じだったなぁ。何だか懐かしくなって、僕もまた生きたいなぁって思っちゃったよ」「だったらさっさと学校卒業しろよ。お前どんくさいんだからいつまで経っても幽霊のまんまだぞ」「シンちゃんだって」「俺はお前に合わせてやってんだろーが」「じゃあ脅かすの、手伝ってくれてもいいのに」「だから……それじゃお前、試験とか一人で乗り切れねーだろうが。俺の優しさだ、優しさ」「ちぇー」 口を尖らせるが、彼は知らん振り。本当に相手は、口調はどこぞの不良ですかと言いたくなるほどガサツだというのに意外とお堅い。それが彼のいいところだと分かってはいるけれど。 「ま、宿題も済んだことだし骨も見つかったし。お盆が終わりきるまでのんびり故郷を楽しむかね」「賛成。シェネーケネギンの新作出てるかな、僕好きなんだよねあそこのお菓子」「供えてもらえよ」「でもちょっと高いし……」「んじゃ文句言うな」「シンちゃん、寝起きだからって冷たくない?」「いつもこんなもんだろ」「確かに」「オイコラ」 こんなくだらないことを当たり前のように言い合いながら、健吾たちは霧生ヶ谷の市街へのんびりと足を向けた。街の明かりが見えてくるたびに少しずつ足が、気持ちが、せいてくる。 街並みは変わっているだろうか。あの懐かしくも不思議な居心地は、変わらずにそのまま在り続けているのだろうか。 素敵な、大好きな場所。懐かしい、忘れられない場所たち。 ――ただいま。感想BBSへ
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