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見上げた空から突然に。 作者:甲斐ミサキ 見上げた空から突然に。 突然に「なに」が降ってきたら意表を突くだろう。 名取新人は「空から降ってくるそれ」を見上げながらぼ~っと思案した。 そういえば、昔のコントにオチが必ずカナダライってのがあったよなー。 降ってくる「それ」などまるで無かったかのように、水路脇のアスファルトに名取を置き去りにしたまま、きゃらきゃらと黄色い華やいだ声を上げながら女子高生が通り過ぎてゆく。サラリーマン風のスーツ姿が急ぎ足で駅へと向かっていく。 うーむ。見えているのは「自分だけ」なんだろうか。 五月晴の空を見上げる。相変わらずそれはさも当たり前かのように降り注いでいる。 確認のために名取は「それ」を摘み上げ……、 うどん。 ……あるいはうどん粉を練って紐状にしたものかもしれない。 首をぶんぶんと横に振る。おんなじことじゃないか。アホの子か僕は。 嗚呼、宙はなんで青いんかなァー。 市民局行きの市営バスが来る。名取が待っていたのは「六道48系統東区十六夜寮前」というありがたいほどにニーズナブルな名称のバス停である。 最後部座席に陣取り、さりげなく後ろを振り返る。まだうどんは降り続いていた。 ちょっとした小山が出来ている。しかもどんどん大きくなっている。 つい持ってきてしまったうどん玉をむにむにと手にうーむ、と名取は首を傾げた。 * 「課長」「なんだ新人」「アラトです! というか名取と呼んでください」「で、なんだ新人」 新人研修を終え、名取が配属されたのが生活環境部生活安全課だった。新人という名前がよほど面白いのか、みんなついでのようにとりあえず、「よう新人」と声をかけてくる。それは上司も例外ではなく、毎日一回は必ずお約束をやってくれる。 「僕のことをアホの子だと思わないでください」「なんだ、そんなこと。オヤヂギャグに苦しんでたのか」「ちゃいますっ」「あん?」「例えばですよ……うどんがこう空から降ってくるなんて……いや、いいです」 沈思黙考することなく「ある」と課長は答えた。「季節によっちゃな」「そのうどんとやらは今ここにあるのか?」 名取が課長マヂですかと内心、差し出すとつるりと何のためらいも無く口に含む。しこしこ噛んでいる。「この噛み応え、太さ、乳白色の艶。絶妙の塩加減。こりゃー、サの四六号麺だ」 課長がまだ噛みながらタウンページをめくり電話をかける。「もしもし、佐野製麺所さん? 市民局生活安全課の者ですが。うどんの件で。はい、はい。ああ、やっぱりそうですか。はい、すぐ伺いに参ります。はいそれじゃ後で」 がちゃりと電話を切った後、課長が名取に向けてニヤァリと笑った。 これから忙しくなるぞ。新人君。中年のおっさんに笑い顔を向けられたって嬉しさなど微塵もなかったが、ただただ、それは底知れない不安をルーキーに予期させるには十分過ぎるほど効果的なチェシャ猫めいた笑い顔だった。 北区にある、佐野製麺所は小さな町工場だった。手打ちのうどんにこだわる職人がまだ多い中、佐野のうどんは機械製麺とは思えない、上質の麺を提供しており、北区だけで百八あるうどん屋のおよそ半分はベストセラー「サの四六号麺」を使用していた。課長がぴんときたのも、うどんソムリエだからではなく、単に食べなれた味だったからである。 「ここですか」課長が裁断され一玉分の分量に分けられ流れてくるベルトコンベアーの一角を指す。そこから真っ直ぐに進めばパッケージングの機械が待ち構えているのだが、そこにたどり着く前にうどんが落とし穴にはまったかの如く、「消失」していた。なんとなく揺らいで視える消失場所に、無造作に腕を突っ込んだ課長がうむむむと唸り、えいやっと気合い一発、取り出したのは一匹のカエルだった。それを持参した網に放り込み、そしてこれもまた持参したボトルからオリーブ油のようなものをてのひらに落とし、先ほどまで手を突っ込んでいた部位にぬるぬる塗りこんでいく。 「いやぁ、助かりました。電話でこのことを知ったありさまで」「いえいえ、こちらも仕事ですから」「それにしても、もうこんな時期なんですなぁ」「いや、まったくです。季節を感じますなぁ」 あっはっは、オヤジが二人して笑っている。訳が分からない。「そうそう、コイツ。佐野さん、コイツがうちのルーキーで新人って言うんですよ」「アラトです!」「なにかあったらコイツ寄越しますんで宜しく」「はいはい。新人君。一つ宜しく頼むわな」「アラトです!」 * 遡れば、怪しいことの前兆は幾らでもあったのだ。 例えば新人研修の時の適性検査。 名取は霧生ヶ谷市民局に入局したが、市民局と言っても三十近くの部署がある。その分類分けの参考にする、というので意気込んで用紙に向かったのだが……。 未だに怪しさ満載で記憶の引き出しに残っている印象深い奴を思い出してみる。 問い。この作家群の中でどれを好むか。 1.三島由紀夫 2.太宰治 3.芥川龍之介 4.江戸川乱歩 江戸川乱歩以外は自殺してるじゃないか。メランコリックな調査かもしれない。4。 問い。金縛りは存在すると思うか。 睡眠麻痺のことだろう。存在するっと。 問い。界門綱目科属種を問わず生物は好きか。 生物ドキュメンタリーは観るし水族館も好きだ。猫は大好きだし、熱帯魚も飼っていたことがある。犬も場合によっては好きだ。パージェス頁岩も燃える。好きに丸。 問い。どんなことがあっても動じない精神を保てるか。 これは難しい。お化け屋敷は苦手なのだ。でもここで苦手と書いたら、軟弱と思われてしまうのだろうか……保てる。 問い。体力に自身はあるか。 嘘をついても仕方がない、人並みに。 問い。虫の知らせや第六感、霊感といったものを信じるか。 なんていやな質問か。鉛筆を握る右手に力がこもる。恥ずかしながら、名取は霊感めいたものを持っている。でもそれを信じるかは本人の問題だ。信じないに丸。 問い。噂話(例示として都市伝説)に興味はあるか。 興味はある……ってこれいったい何の適性なんだろう。 結局、五十項目ほどの回答を終え、そのあと、適性診断に向かった。健康診断ではなく適性診断。なんのことやら。 一人ずつ順番に、市役所庁舎内にある保健管理室、通称ホケカンに呼ばれる。 ノックして入ると、それほど自分と年齢差を感じさせない妙齢の女性が白衣のポケットに手を突っ込んでカウチに座っている。カウチ? フランクリー過ぎやしないか? 名取はその前に置かれたストゥールに腰掛ける。「もっとこっち来てくれる? 椅子ごと」 女性が動くのもいややねん的な発言をして名取を促す。「ふむ。名取新人君。ふむふむ、アラトと呼ぶのか」 興が乗ったのか、アラト、アラトと口に出しながら白衣のポケットからメジャーを取り出す。白衣の脇腹あたりにIDカードが吊ってあり「真霧間キリコ」と読める。 「顔、もっとこっち寄せて」 真霧間の顔が間近になる。吐息が頬に触れる。名取は内心赤面した……って、なんだか日本酒臭いような。そんな場違いなことを考えている間にも、真霧間は名取の眉間の幅や鼻梁の長さ、口唇から顎の先までの長さなどを診断書に淡々と記録していく。 「利き手はどっち?」「右です」「じゃ、左手出す」 指一本一本の長さを測定して合計値から平均を割り出す作業をしているようだ。「アラト君、指きれいね」 名取は今度こそ真っ赤に赤面した。 * そうしてこうして、名取が配属されたのが生活安全課。連れ合いをなくし、独居生活を送っているご老人宅を訪問して、変がないかを調べるのが名取に命ぜられた仕事。 変がある、というのはつまりあっさり言うと「孤独死」のことで、家族とも疎遠に暮らしているご老人であれば変があっても誰も気付くことなく腐敗して、臭気でやっと近所に知れるといったものだ。その見回りをするのが名取。 この日は朝から北区のご町内を訪ねて回っていた。 男性の場合、意外と楽である。囲碁場や将棋場、パチンコ屋、うどん屋などをぐるり回れば大抵の人は確保できる。 問題は女性。老人会の行事やカラオケ同好会、気功体操などの集まり(こう書くと忙しそうに見えるが実際忙しい)の日はいいが、それ以外の日は退屈を極めている。 間が悪かった。 いや、これも必然なのか。 名取など蟻地獄にかかった蟻以下だった。ミトコンドリア級王者と言ってもいい。「まあまあまあまあ」 課長指示で一軒目に伺った福山ハルさん宅で名取は洗礼を受けた。前任者はいやってほど知ってたはずなのになぜか名取には引き継いではくれなかった。なぜか。「こんなこともあろうかと」 なんて悪漢。もとい、圧巻。 おかしくないのん? お茶受け皿に載せるのって? 名取の目の前には二十センチほどの小倉小豆羊羹が切れ目が入ってはいるものも、控えめに表現しても「まるごと一本」。豪快さもさることながら、名取はそれを老舗の和菓子屋「安寿」の逸品とにらんだ。祖母が好きなのである。その横には寿司屋で出てくるようなトールサイズの湯のみ。それがどういう意味か分からないほど名取は野暮ちんではない。独居老人は話し相手に餓えている。まして話し飽きた前任者ではなく、新人の活きの良さといったら! 名取は腹をくくった。 それから一時間有余。 ……並みの覚悟では無理でした。名取は誰かしら「神」と呼ばれる存在に告解した。 話題が尽きないのである。どこそこの奥さんはゴミ出しをちゃんとしないとか、最近、この俳優の男前が増したとか。飼っている黒猫ちゃんの話とか。しかも、うっかり気を許すと太平洋戦争の頃まで話が飛ぶ。これはいかんのではないか。 そもそも羊羹がいけない。平らげるまで帰さないという謎かけだこれは。 甘いものが不得手で「ご遠慮」してたが、平らげて次のお宅へと向かわねば。 悲壮な使命感が名取を襲う。食べるの? これを、僕が、全部? 必死の思いで甘さ掛け値なしの小倉小豆羊羹を一本胃の腑に収めると、「うっぷ。そろそろ次のお宅へと参りたいと思うので……」「あらあら、若い人は奥手なのねェ。こんなこともあろうかと」 名取にとって、唯一の救済材料を上げたい。 それは「栗羊羹」に見えた。 ……。 神も仏もないとはこのことか。名取は天井の染みを見つめ、嘆息した。 あろうことか、ハルさんは全部ご承知で名取をからかっていたそうな。刹那、ちゃぶ台の膝元に手を突っ込むと蜻蛉玉のストラップが付いた携帯電話を取り出し。名取では不可能な高速両手打ちでメール文を打ち始め、ハルさんはものの二、三分で送信し終えた。 「脳のトレーニングにいいのよ、これ」 ハルさんは、ご近所で独り住まいしている「独身女性」全員に「今、うちに獲物がいる」とメールを送ったそうな。そうなというのは詳細を教えてはくれなかったからだ。未亡人の獲物なのかと名取は訳の分からぬドギマギ感に苛まれたが、ハルさんの言葉に嘘はなく、三々五々、近所から女性が集まってきた。五十名は優に数える。名取は名簿を見ながら、一人一人、様子は大丈夫か、医者にかかっている者はいるかと質問項目を潰していく。 「こんなこともあろうかと、か」 集まった座敷に人が入りきらないので、隣の仏間の境であるふすまを取り外し、好き勝手に座っているおばあちゃんたちに名取はハルさんが「こんなこともあろうかと」用意してあった抹茶羊羹を切り分け、皆さんに配って回る。 右も左も前も後ろも上も下もおばあちゃん。石切さんか、ここは。「アラト君は生活安全課の新人さんなんですってよ」「なるほどなるほど」「ほおの色艶がいいわいな」「兄ちゃん、せんべい食わんか」 俎上の鯉というか、これは一体なんのフラグか、とゲーマーのような思考で思わずまた天井の染みとご対面。もはやゲシュタルト崩壊が完了した名取には、それが課長の顔に見えてくる。最悪極まりない。 「ところで新人君。「恋愛成就の神さん」知ってなさるか?」 ハルさんが突然話題を切り替える。いや、そうじゃない。おばあちゃんたちの視線が全部自分に向いているのが分かる。ツバを飲み込む。「京都の地主神社みたいなものですか」「ちがうのやで。もっと実際的なものなんや。ほれ」 ハルさんが涙型をしたローズクォーツのような桃色石を、文机の引き出しから取り出してみせる。他のおばあちゃん方も「全員」それを取り出して掲げた。「これはな。新人君。恋愛成就の神さんから直接に貰うたもんなのや」 うんうんとおばあちゃん連が頷く。「うちの爺さんは、これ持っておったらイチコロやった」「あんたとこの旦那さん、別にこれ使わんでも宜しかったがな」 くすくすとおばあちゃん連が笑い転げている。 後ろに控えていたおばあちゃんが背伸びして腕を突き出した。六十年も前ならお付き合い願いたかったと思わせる品の良い整った顔がはにかみながらホイッスルを名取の目の前でぶらぶらさせた。「女殺しも忘れたらあかんわよ」 「せやせや。女殺しの陰陽師……いや、凄腕なんやけどな。流し着で助平でつまようじがよう似合ってた。気に入った娘がいたらホイッスル渡して「困ったことあったら吹いて俺っちを呼びねい」って」あたしは貰えンかったと愚痴をこぼすおばあちゃんもいて、場が一気にきゃいきゃいと加熱する。 「わたいらは早う寝んと、杉山さんが来るでぇ言われて布団に頭突っ込んでたよ」「そうそう、杉山さん。白い衣着た杉山さんな」「お兄ちゃん、頼みますわ。これ、あんたの仕事なんやでな」「うちのひ孫はフィラデルフィア・スタンレーと話した言うてた」「ふいらる……仰々しい名前。誰やのん」「カメやわ」「ああー、まだ生きてはんのか。わたしらと同じやな」 名取独り、話の輪に入れず疎外感を感じていたが、聞いていると何だかありもしなさそうな絵空事ばかり話しているように思え、しかし何かが引っかかるのだ。「わたしらはな、新人君。古うからこの町に住んでおる。知らんいうことはなぁんもあらへんのです」「あんたとこの課長さんが新人仕込んだってくれと電話くれはってな」「こいつ見どころあるから教えてもええからって。一日貸切やの」 課長の仕業か。何となく構造がつかめてきた。課長には何か意図があるのだ。「ありゃ、新人君。栗羊羹食べてしもうたんやな」 あまりにも話しについて行けず、慰みに黙々と手と口を動かしていて知らぬ間にもう一本平らげたらしい。恐るべきかな。無意識の所作。「こんなこともあろうかと」 霞む視界に今川焼きが見えた。ポテチが恋しかった。 * 話は冒頭から少し後に戻る。 「名取は市外から応募してきたんだったな」「そうですけど、何か」「前にハルさんとこで変なこと一杯聞いたやろ」「それはもう、いやーっぁってほど」思い出すだけで口が甘くなる。「エントリーシート出す時、霧生ヶ谷市のことサイトで調べたりしただろ」「そりゃ人並みに」「でも、ハルさんらに聞いたようなことなぁんも載ってへんかっただろ」 そういえば、そうだった。例えば、うどんが空から降ってくるなんて、注意書きにはまるでなかった。「市庁舎にどでかいアンテナが付いてるの知ってるか?」 無論、知ってる。一度見たら忘れようもない奇妙奇っ怪なアンテナだから。「あれは霊子アンテナと言って、戦後のどさくさに建設された。アンテナは霊子の送受信を行い、霊子の拡散波を遮断、結合具象化を防ぐ役割を果たし、また特殊な電波を発信することで通常人の脳波に影響を及ぼし、怪異の存在を脳裏から消すことに成功……」 「課長」「なんだ新人」「訳分かりません」「資料にあるト書き読んだけやからな。あっさり説明すると、霊子っちゅうもんにこの市に住む生態系は例外なく晒されているわけだ。もっと平たく言うと怪奇現象の元とでも言うかな」 怪奇現象。宙からうどんが降ってきたらそりゃー怪奇極まりないだろうさ。「で、それがなんだって言うんです?」「怪異の存在を脳裏から消すことが出来るがいきなりってことじゃないんだ。例えば、アンテナが設置される前から住んでいるご老人方は昔に起こった怪異を記憶しているし、幼い子は霊子アンテナの作用が十分に浸透せずに怪異を目にする」 「それが本当ならご老人方の仰ってたことはホラ話じゃないんですか」「全部追跡調査されている。俺が教えてやってくれって頼んだんだから」「それじゃあ、今朝のうどんはなんなんです?」 自分以外はそんなものなかったかのように通り過ぎていった。うどんは課長も目にしているし。「霊的現象に接触したモノは、そのモノの霊子濃度に影響が及ぶ。つまりうどんは霊子の干渉を受けたんだ。この市の住人は霊子アンテナの影響下にある。それゆえ、霊的現象は意識の範疇外になってるのさ。つまり、見えているけど見えてはいない。枕元の綿ぼこリと同じ。新人。お前、枕元の綿ぼこりなんて気にするか?」 「僕はしますけど?」「じゃぁ水たまりで溺れているミジンコでもいい。目には入っているが意識には残らないんだ。興味のないCMを覚えていないのと同じだ。 新人は外から来た人間。霊子の影響なんざ皆無に等しい。だからうどんをうどんとして視界に捉える事が出来たのさ」「はぁ」「なんだ、覇気を出せ。独居老人宅訪問はひとまず終わり。明日から忙しくなるぞ!」 * スーツに胴長靴の組み合わせは歩きにくい。 動きやすい格好でこいと言われたから、ネクタイは外してきたのだが、前もってこんなことだと分かっていればジャージーでも着てきたのに。 朝一で召集かけられたのはいい。仕事だから。 北区。通いなれた場所だ。羊羹や最中を制覇したのは伊達じゃないぞ! 名取は自分の真横を見つめた。石垣。 名取は自分の真下を見つめた。自分の顔がゆらりと水面に揺れている。 水路。そう、ここは水路の中。腰までどっぷりである。 課長はといえば、談笑の輪に加わって、何か話をしている。区割りでもしているんだろうか。あまり一人にして欲しくない状況である。「ふむ、これは新人君」 耳に心地好い声がする、この声は確かホケカンの……。「よう、キリコちゃん」 課長が真霧間キリコに声をかける。「あら、課長さん」「ほどほどに頼むよ、キリコちゃん」 課長が苦笑しながら釘を刺す。その真霧間キリコと言うと、白衣に胴長靴姿。「マッドサイエンスにほどほどなんて辞書はないのであしからず。ぬっふっふ」 ぬっしぬっしと去っていく後姿。わけがわからない。「彼女、えーと真霧間さんも公務で?」「アホ言え。ホケカンが水路に出張る必要ないだろ。彼女は有給。趣味だよ」「有給……。で、先ほど集まっておられた方々は一体?」「水路管理局の霧生ヶ谷水路調査室と北区水路環境保全センター、式王子大学の生物学者先生。それに老人センターのボランティアの人らやな」「なぜ、大学の先生まで。これって水路掃除じゃないんですか?」 刹那。ずびゅんと伸びた課長の右ゴム手長袋がむんずと一匹のカエルを捕らえていた。佐野製麺所でも見た同種のカエルだ。一回りは小さいが。「まず、一機」魚籠にぽーんと放り込む。ついでにその魚籠を名取に押し付ける。「このカエルはな。霧生ヶ谷底抜き蛙、市ではソコヌキって呼ばれている。 オスは繁殖期になると、分泌液を利用して次元に穴をうがち、巣穴を作る。 より大きい巣穴を作れることがこいつらにとっちゃ偉大なオスであり、繁殖の際の大きなアピールとなるんだ。 メスは巣穴に卵を産んだ後、外的から卵を守るために分泌液を抽出して次元穴を塞いでしまう。 連中さん、ところかまわず次元に穴を開けるもんだから繁殖期になると、市内各地で紛失事件や神隠しが起こる、それは彼らの巣穴の上にあった運の悪さで気の毒なこった 」 魚籠に入っているソコヌキに目をやる。 体表から特殊な分泌液を抽出している所為か、ゼラチン質の肌は揺らいで見える。 マジョーラのように緑といぶし銀が混ざりったかのような表皮は偏光性だろうか。色がてんで定まっていない。「次元に穴……」「次元に穴だ。だから学者先生も水路調査室も来ている」「で、なんで生活安全課の僕らがここにいるんですか?」「次元の穴を塞ぐのさ」「塞ぐ?」「こういった類はうちのお家芸でね」課長が担いでいたバックパックから先日見た油の入ったボトルをチラリと見せる。メスからたっぷり絞った油らしい。「もっとも、穴を開けられる前に、つまり繁殖期前に連中を捕獲すれば手っ取り早い。佐野さんとこや、お前が見た怪奇現象の元を絶つ。つまりは市民の生活安全を未然に確保できるわけなのさ」 びゅっと課長の手が水面を割り、引き抜かれた手にはソコヌキ。「二機目っと」魚籠を持つ名取にぽーんと放りやる。慌てて受け取る名取。形容しがたいぬめぬめ感が手袋越しに伝わってくる。 ボランティアのご老人方もほいほいとソコヌキを捕まえては喊声を挙げている。その中には福山ハルさんの姿も見える。他に見知った顔も……おえっぷ。胃が条件反射。 「新人君。お前にいきなり、位相次元の磁軸復元可塑性、とか町かどの穴理論、なんて説明しても全然伝わらんだろう。だから今日は実地でこれからの仕事を体験してもらうことにしたんだ」 「これからの仕事って、僕は生活安全化からトバされるんですか……?」「なに言ってんだい。生活安全課にはな。もう一つ下の係があるんだよ」「そうそう、わたしが目をつけた子なんだから間違いないわ」 にゅっと背後から真霧間キリコが現れ、口を挟む。「キリコちゃんか。何匹?」「十四匹」「さすがというか……。キリコちゃんはうちのスーパーバイザー。別名、霧生ヶ谷市のリーサルウェポンともいう。普段はホケカンでボーっとしているが、非番や終業時刻になると趣味の顔になるんだ」 「ぬっほっほ」「もう一つの……顔?」「マッドサイエンティストだ。市長公認の」 会話ばかりのように見えるが、その間も課長と真霧間キリコは神速でソコヌキを引き抜いてカウントを競いあっている。 マッドサイエンティストに次元の穴。「ようこそ、不思議現象対処係へ新人君」「いらっしゃい、マッドなサイエンスの世界へ」 二人の目がマヂだった。名取は思わず一歩後退し、 なぜかそこにあった次元の穴に足を突っ込み、盛大に水しぶきを上げた。 感想BBSへ
見上げた空から突然に。 作者:甲斐ミサキ
見上げた空から突然に。 突然に「なに」が降ってきたら意表を突くだろう。 名取新人は「空から降ってくるそれ」を見上げながらぼ~っと思案した。 そういえば、昔のコントにオチが必ずカナダライってのがあったよなー。 降ってくる「それ」などまるで無かったかのように、水路脇のアスファルトに名取を置き去りにしたまま、きゃらきゃらと黄色い華やいだ声を上げながら女子高生が通り過ぎてゆく。サラリーマン風のスーツ姿が急ぎ足で駅へと向かっていく。 うーむ。見えているのは「自分だけ」なんだろうか。 五月晴の空を見上げる。相変わらずそれはさも当たり前かのように降り注いでいる。 確認のために名取は「それ」を摘み上げ……、 うどん。 ……あるいはうどん粉を練って紐状にしたものかもしれない。 首をぶんぶんと横に振る。おんなじことじゃないか。アホの子か僕は。 嗚呼、宙はなんで青いんかなァー。 市民局行きの市営バスが来る。名取が待っていたのは「六道48系統東区十六夜寮前」というありがたいほどにニーズナブルな名称のバス停である。 最後部座席に陣取り、さりげなく後ろを振り返る。まだうどんは降り続いていた。 ちょっとした小山が出来ている。しかもどんどん大きくなっている。 つい持ってきてしまったうどん玉をむにむにと手にうーむ、と名取は首を傾げた。 * 「課長」「なんだ新人」「アラトです! というか名取と呼んでください」「で、なんだ新人」 新人研修を終え、名取が配属されたのが生活環境部生活安全課だった。新人という名前がよほど面白いのか、みんなついでのようにとりあえず、「よう新人」と声をかけてくる。それは上司も例外ではなく、毎日一回は必ずお約束をやってくれる。 「僕のことをアホの子だと思わないでください」「なんだ、そんなこと。オヤヂギャグに苦しんでたのか」「ちゃいますっ」「あん?」「例えばですよ……うどんがこう空から降ってくるなんて……いや、いいです」 沈思黙考することなく「ある」と課長は答えた。「季節によっちゃな」「そのうどんとやらは今ここにあるのか?」 名取が課長マヂですかと内心、差し出すとつるりと何のためらいも無く口に含む。しこしこ噛んでいる。「この噛み応え、太さ、乳白色の艶。絶妙の塩加減。こりゃー、サの四六号麺だ」 課長がまだ噛みながらタウンページをめくり電話をかける。「もしもし、佐野製麺所さん? 市民局生活安全課の者ですが。うどんの件で。はい、はい。ああ、やっぱりそうですか。はい、すぐ伺いに参ります。はいそれじゃ後で」 がちゃりと電話を切った後、課長が名取に向けてニヤァリと笑った。 これから忙しくなるぞ。新人君。中年のおっさんに笑い顔を向けられたって嬉しさなど微塵もなかったが、ただただ、それは底知れない不安をルーキーに予期させるには十分過ぎるほど効果的なチェシャ猫めいた笑い顔だった。 北区にある、佐野製麺所は小さな町工場だった。手打ちのうどんにこだわる職人がまだ多い中、佐野のうどんは機械製麺とは思えない、上質の麺を提供しており、北区だけで百八あるうどん屋のおよそ半分はベストセラー「サの四六号麺」を使用していた。課長がぴんときたのも、うどんソムリエだからではなく、単に食べなれた味だったからである。 「ここですか」課長が裁断され一玉分の分量に分けられ流れてくるベルトコンベアーの一角を指す。そこから真っ直ぐに進めばパッケージングの機械が待ち構えているのだが、そこにたどり着く前にうどんが落とし穴にはまったかの如く、「消失」していた。なんとなく揺らいで視える消失場所に、無造作に腕を突っ込んだ課長がうむむむと唸り、えいやっと気合い一発、取り出したのは一匹のカエルだった。それを持参した網に放り込み、そしてこれもまた持参したボトルからオリーブ油のようなものをてのひらに落とし、先ほどまで手を突っ込んでいた部位にぬるぬる塗りこんでいく。 「いやぁ、助かりました。電話でこのことを知ったありさまで」「いえいえ、こちらも仕事ですから」「それにしても、もうこんな時期なんですなぁ」「いや、まったくです。季節を感じますなぁ」 あっはっは、オヤジが二人して笑っている。訳が分からない。「そうそう、コイツ。佐野さん、コイツがうちのルーキーで新人って言うんですよ」「アラトです!」「なにかあったらコイツ寄越しますんで宜しく」「はいはい。新人君。一つ宜しく頼むわな」「アラトです!」 * 遡れば、怪しいことの前兆は幾らでもあったのだ。 例えば新人研修の時の適性検査。 名取は霧生ヶ谷市民局に入局したが、市民局と言っても三十近くの部署がある。その分類分けの参考にする、というので意気込んで用紙に向かったのだが……。 未だに怪しさ満載で記憶の引き出しに残っている印象深い奴を思い出してみる。 問い。この作家群の中でどれを好むか。 1.三島由紀夫 2.太宰治 3.芥川龍之介 4.江戸川乱歩 江戸川乱歩以外は自殺してるじゃないか。メランコリックな調査かもしれない。4。 問い。金縛りは存在すると思うか。 睡眠麻痺のことだろう。存在するっと。 問い。界門綱目科属種を問わず生物は好きか。 生物ドキュメンタリーは観るし水族館も好きだ。猫は大好きだし、熱帯魚も飼っていたことがある。犬も場合によっては好きだ。パージェス頁岩も燃える。好きに丸。 問い。どんなことがあっても動じない精神を保てるか。 これは難しい。お化け屋敷は苦手なのだ。でもここで苦手と書いたら、軟弱と思われてしまうのだろうか……保てる。 問い。体力に自身はあるか。 嘘をついても仕方がない、人並みに。 問い。虫の知らせや第六感、霊感といったものを信じるか。 なんていやな質問か。鉛筆を握る右手に力がこもる。恥ずかしながら、名取は霊感めいたものを持っている。でもそれを信じるかは本人の問題だ。信じないに丸。 問い。噂話(例示として都市伝説)に興味はあるか。 興味はある……ってこれいったい何の適性なんだろう。 結局、五十項目ほどの回答を終え、そのあと、適性診断に向かった。健康診断ではなく適性診断。なんのことやら。 一人ずつ順番に、市役所庁舎内にある保健管理室、通称ホケカンに呼ばれる。 ノックして入ると、それほど自分と年齢差を感じさせない妙齢の女性が白衣のポケットに手を突っ込んでカウチに座っている。カウチ? フランクリー過ぎやしないか? 名取はその前に置かれたストゥールに腰掛ける。「もっとこっち来てくれる? 椅子ごと」 女性が動くのもいややねん的な発言をして名取を促す。「ふむ。名取新人君。ふむふむ、アラトと呼ぶのか」 興が乗ったのか、アラト、アラトと口に出しながら白衣のポケットからメジャーを取り出す。白衣の脇腹あたりにIDカードが吊ってあり「真霧間キリコ」と読める。 「顔、もっとこっち寄せて」 真霧間の顔が間近になる。吐息が頬に触れる。名取は内心赤面した……って、なんだか日本酒臭いような。そんな場違いなことを考えている間にも、真霧間は名取の眉間の幅や鼻梁の長さ、口唇から顎の先までの長さなどを診断書に淡々と記録していく。 「利き手はどっち?」「右です」「じゃ、左手出す」 指一本一本の長さを測定して合計値から平均を割り出す作業をしているようだ。「アラト君、指きれいね」 名取は今度こそ真っ赤に赤面した。 * そうしてこうして、名取が配属されたのが生活安全課。連れ合いをなくし、独居生活を送っているご老人宅を訪問して、変がないかを調べるのが名取に命ぜられた仕事。 変がある、というのはつまりあっさり言うと「孤独死」のことで、家族とも疎遠に暮らしているご老人であれば変があっても誰も気付くことなく腐敗して、臭気でやっと近所に知れるといったものだ。その見回りをするのが名取。 この日は朝から北区のご町内を訪ねて回っていた。 男性の場合、意外と楽である。囲碁場や将棋場、パチンコ屋、うどん屋などをぐるり回れば大抵の人は確保できる。 問題は女性。老人会の行事やカラオケ同好会、気功体操などの集まり(こう書くと忙しそうに見えるが実際忙しい)の日はいいが、それ以外の日は退屈を極めている。 間が悪かった。 いや、これも必然なのか。 名取など蟻地獄にかかった蟻以下だった。ミトコンドリア級王者と言ってもいい。「まあまあまあまあ」 課長指示で一軒目に伺った福山ハルさん宅で名取は洗礼を受けた。前任者はいやってほど知ってたはずなのになぜか名取には引き継いではくれなかった。なぜか。「こんなこともあろうかと」 なんて悪漢。もとい、圧巻。 おかしくないのん? お茶受け皿に載せるのって? 名取の目の前には二十センチほどの小倉小豆羊羹が切れ目が入ってはいるものも、控えめに表現しても「まるごと一本」。豪快さもさることながら、名取はそれを老舗の和菓子屋「安寿」の逸品とにらんだ。祖母が好きなのである。その横には寿司屋で出てくるようなトールサイズの湯のみ。それがどういう意味か分からないほど名取は野暮ちんではない。独居老人は話し相手に餓えている。まして話し飽きた前任者ではなく、新人の活きの良さといったら! 名取は腹をくくった。 それから一時間有余。 ……並みの覚悟では無理でした。名取は誰かしら「神」と呼ばれる存在に告解した。 話題が尽きないのである。どこそこの奥さんはゴミ出しをちゃんとしないとか、最近、この俳優の男前が増したとか。飼っている黒猫ちゃんの話とか。しかも、うっかり気を許すと太平洋戦争の頃まで話が飛ぶ。これはいかんのではないか。 そもそも羊羹がいけない。平らげるまで帰さないという謎かけだこれは。 甘いものが不得手で「ご遠慮」してたが、平らげて次のお宅へと向かわねば。 悲壮な使命感が名取を襲う。食べるの? これを、僕が、全部? 必死の思いで甘さ掛け値なしの小倉小豆羊羹を一本胃の腑に収めると、「うっぷ。そろそろ次のお宅へと参りたいと思うので……」「あらあら、若い人は奥手なのねェ。こんなこともあろうかと」 名取にとって、唯一の救済材料を上げたい。 それは「栗羊羹」に見えた。 ……。 神も仏もないとはこのことか。名取は天井の染みを見つめ、嘆息した。 あろうことか、ハルさんは全部ご承知で名取をからかっていたそうな。刹那、ちゃぶ台の膝元に手を突っ込むと蜻蛉玉のストラップが付いた携帯電話を取り出し。名取では不可能な高速両手打ちでメール文を打ち始め、ハルさんはものの二、三分で送信し終えた。 「脳のトレーニングにいいのよ、これ」 ハルさんは、ご近所で独り住まいしている「独身女性」全員に「今、うちに獲物がいる」とメールを送ったそうな。そうなというのは詳細を教えてはくれなかったからだ。未亡人の獲物なのかと名取は訳の分からぬドギマギ感に苛まれたが、ハルさんの言葉に嘘はなく、三々五々、近所から女性が集まってきた。五十名は優に数える。名取は名簿を見ながら、一人一人、様子は大丈夫か、医者にかかっている者はいるかと質問項目を潰していく。 「こんなこともあろうかと、か」 集まった座敷に人が入りきらないので、隣の仏間の境であるふすまを取り外し、好き勝手に座っているおばあちゃんたちに名取はハルさんが「こんなこともあろうかと」用意してあった抹茶羊羹を切り分け、皆さんに配って回る。 右も左も前も後ろも上も下もおばあちゃん。石切さんか、ここは。「アラト君は生活安全課の新人さんなんですってよ」「なるほどなるほど」「ほおの色艶がいいわいな」「兄ちゃん、せんべい食わんか」 俎上の鯉というか、これは一体なんのフラグか、とゲーマーのような思考で思わずまた天井の染みとご対面。もはやゲシュタルト崩壊が完了した名取には、それが課長の顔に見えてくる。最悪極まりない。 「ところで新人君。「恋愛成就の神さん」知ってなさるか?」 ハルさんが突然話題を切り替える。いや、そうじゃない。おばあちゃんたちの視線が全部自分に向いているのが分かる。ツバを飲み込む。「京都の地主神社みたいなものですか」「ちがうのやで。もっと実際的なものなんや。ほれ」 ハルさんが涙型をしたローズクォーツのような桃色石を、文机の引き出しから取り出してみせる。他のおばあちゃん方も「全員」それを取り出して掲げた。「これはな。新人君。恋愛成就の神さんから直接に貰うたもんなのや」 うんうんとおばあちゃん連が頷く。「うちの爺さんは、これ持っておったらイチコロやった」「あんたとこの旦那さん、別にこれ使わんでも宜しかったがな」 くすくすとおばあちゃん連が笑い転げている。 後ろに控えていたおばあちゃんが背伸びして腕を突き出した。六十年も前ならお付き合い願いたかったと思わせる品の良い整った顔がはにかみながらホイッスルを名取の目の前でぶらぶらさせた。「女殺しも忘れたらあかんわよ」 「せやせや。女殺しの陰陽師……いや、凄腕なんやけどな。流し着で助平でつまようじがよう似合ってた。気に入った娘がいたらホイッスル渡して「困ったことあったら吹いて俺っちを呼びねい」って」あたしは貰えンかったと愚痴をこぼすおばあちゃんもいて、場が一気にきゃいきゃいと加熱する。 「わたいらは早う寝んと、杉山さんが来るでぇ言われて布団に頭突っ込んでたよ」「そうそう、杉山さん。白い衣着た杉山さんな」「お兄ちゃん、頼みますわ。これ、あんたの仕事なんやでな」「うちのひ孫はフィラデルフィア・スタンレーと話した言うてた」「ふいらる……仰々しい名前。誰やのん」「カメやわ」「ああー、まだ生きてはんのか。わたしらと同じやな」 名取独り、話の輪に入れず疎外感を感じていたが、聞いていると何だかありもしなさそうな絵空事ばかり話しているように思え、しかし何かが引っかかるのだ。「わたしらはな、新人君。古うからこの町に住んでおる。知らんいうことはなぁんもあらへんのです」「あんたとこの課長さんが新人仕込んだってくれと電話くれはってな」「こいつ見どころあるから教えてもええからって。一日貸切やの」 課長の仕業か。何となく構造がつかめてきた。課長には何か意図があるのだ。「ありゃ、新人君。栗羊羹食べてしもうたんやな」 あまりにも話しについて行けず、慰みに黙々と手と口を動かしていて知らぬ間にもう一本平らげたらしい。恐るべきかな。無意識の所作。「こんなこともあろうかと」 霞む視界に今川焼きが見えた。ポテチが恋しかった。 * 話は冒頭から少し後に戻る。 「名取は市外から応募してきたんだったな」「そうですけど、何か」「前にハルさんとこで変なこと一杯聞いたやろ」「それはもう、いやーっぁってほど」思い出すだけで口が甘くなる。「エントリーシート出す時、霧生ヶ谷市のことサイトで調べたりしただろ」「そりゃ人並みに」「でも、ハルさんらに聞いたようなことなぁんも載ってへんかっただろ」 そういえば、そうだった。例えば、うどんが空から降ってくるなんて、注意書きにはまるでなかった。「市庁舎にどでかいアンテナが付いてるの知ってるか?」 無論、知ってる。一度見たら忘れようもない奇妙奇っ怪なアンテナだから。「あれは霊子アンテナと言って、戦後のどさくさに建設された。アンテナは霊子の送受信を行い、霊子の拡散波を遮断、結合具象化を防ぐ役割を果たし、また特殊な電波を発信することで通常人の脳波に影響を及ぼし、怪異の存在を脳裏から消すことに成功……」 「課長」「なんだ新人」「訳分かりません」「資料にあるト書き読んだけやからな。あっさり説明すると、霊子っちゅうもんにこの市に住む生態系は例外なく晒されているわけだ。もっと平たく言うと怪奇現象の元とでも言うかな」 怪奇現象。宙からうどんが降ってきたらそりゃー怪奇極まりないだろうさ。「で、それがなんだって言うんです?」「怪異の存在を脳裏から消すことが出来るがいきなりってことじゃないんだ。例えば、アンテナが設置される前から住んでいるご老人方は昔に起こった怪異を記憶しているし、幼い子は霊子アンテナの作用が十分に浸透せずに怪異を目にする」 「それが本当ならご老人方の仰ってたことはホラ話じゃないんですか」「全部追跡調査されている。俺が教えてやってくれって頼んだんだから」「それじゃあ、今朝のうどんはなんなんです?」 自分以外はそんなものなかったかのように通り過ぎていった。うどんは課長も目にしているし。「霊的現象に接触したモノは、そのモノの霊子濃度に影響が及ぶ。つまりうどんは霊子の干渉を受けたんだ。この市の住人は霊子アンテナの影響下にある。それゆえ、霊的現象は意識の範疇外になってるのさ。つまり、見えているけど見えてはいない。枕元の綿ぼこリと同じ。新人。お前、枕元の綿ぼこりなんて気にするか?」 「僕はしますけど?」「じゃぁ水たまりで溺れているミジンコでもいい。目には入っているが意識には残らないんだ。興味のないCMを覚えていないのと同じだ。 新人は外から来た人間。霊子の影響なんざ皆無に等しい。だからうどんをうどんとして視界に捉える事が出来たのさ」「はぁ」「なんだ、覇気を出せ。独居老人宅訪問はひとまず終わり。明日から忙しくなるぞ!」 * スーツに胴長靴の組み合わせは歩きにくい。 動きやすい格好でこいと言われたから、ネクタイは外してきたのだが、前もってこんなことだと分かっていればジャージーでも着てきたのに。 朝一で召集かけられたのはいい。仕事だから。 北区。通いなれた場所だ。羊羹や最中を制覇したのは伊達じゃないぞ!
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