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MoonLight 作者:GildingManさん 私は、他の誰でもなく、私自身に約束する。 失敗するなら。間違えるなら。もどかしいなら。報われないなら。届かないなら。 これほどまでに、哀しいなら。 もう、そんなものには振り向かない。 もう二度と、恋なんてしない。 「ちょっ、ちょっと待って!」 それほど高くはないビル群の谷間、大して多いといえない人通りの合間、取り立てて言うほど珍しくもない平凡の隙間。「…一体、何事?」 背中にかかる声に、私は振り向く。 そこにあるのは、全速力で追いかけて来たのであろう、汗に塗れたYシャツ姿のまま肩で息をする青年の姿。 知った顔だ。なにせ、以前から同じプロジェクトに携わっているのだから。「忘れ物ですよ、ほら、例の会計のファイル。明日までに仕上げないといけませんからね」 言いつつ、鞄の中を漁る青年。 十数秒後に私へと手渡されたファイルを受け取るなり、私はそれを丸めて軽く青年の頭へと振り下ろす。「いてっ」「これ、もう終わらせてあるから置いておいたの」「え…? …ああっ、本当だ!」「…」「す、すいませんッ!すぐに社に戻って…」 そしてまた、溜息をひとつ。「もういいわ。明日出せば済むことだから」「すいません、本当にすいませんっ!」 人目も気にせず、ひたすら謝罪を述べ続ける青年。 しかし私の意識はといえば、既に眼前の光景よりも今夜の一杯についてへと向けられていたのだが。「…あ、あとですね!」 自然と帰ろうとする足を、再びおどおどした声が引きとめる。「もし時間があれば…一緒に飲みに行きませんか?」「凄いですよ、ほんとに」 雑居ビルの地下にある、落ち着いた雰囲気のバー。三日月のように淡い青の溶けたカクテルグラスの中身を一口含み、舌の上で転がして香りと味を楽しむ。「その年で高柳グループの上層から声がかかるなんて、誇っていいことですよ!」「別に、興味ないわ」「それでもあんなに難しい仕事をこなせして、失敗ばかりの僕と違って有能ですよ」 ロックアイスだけが残ったクリスタルグラスを片手に、青年は饒舌に私を誉めちぎる。「…ただ、単に他に打ち込めることがなかったから、仕事に集中してただけよ」 相変わらず騒がしい。店内の客が、マスターと話しこんでいるやけに日本語の流暢なアメリカ系白人の男性だけでなければ、文句の一つも言っているところだ。「他にすることが、なかった…? それじゃ、趣味とかはないんですか?」「趣味がないわけじゃないの。 お酒も好きだし、編み物もやってる。休みの日にはバイクで走りに行ってるわ」「へぇ、バイクに乗るんですか。僕も学生の頃、バイトで貯めた金で400ccのイナズマを中古で…」「でも、それとは何か違うのよ」 場を盛り上げようと気遣う優しい青年の言葉を断って、私は呟く。「違うの、それとは」「違うって…どういうことなんですか?」 答えない。 酒のせいか、つい話しすぎてしまったようだ。 これ以上は、青年には関係のないこと。「…」 だから。 不覚にも私の眼に姿を現した、開きかけた古傷の疼きを悟られないように。 私は、答えない。「ふーっ、やっと酔いが醒めましたよ…」 いつも霧深いはずの町は珍しくも一切の帳を掃われ、点々と燈る星界に浮かぶ月が美しく世界を照らす。 世界には、バーからほど近い位置にある、私達以外の人気がないこの波止場も含まれているらしい。「そう、それはよかったわ」 自身も頭を支配する酒気を追い払おうと、飛沫と潮のにおいが混在する空気を大きく吸い込む。効果の程は、自分ではよく分からない。「遅くなっちゃいましたね…」「そう…明日も仕事だから、そろそろ帰るわ」「え?あ、はい…」 あまりに唐突なセリフに対して出た、青年の歯切れの悪い返事を、しかし意図的に無視する。「今日は、いい店を紹介してくれてありがとう」「はい…」「では、また明日」 背を向け、駅の方向へと歩いていく。 数えて、三歩目がちょうど地面についたその時に。「ちょっ、ちょっと待って!」 背中にかかる声に、私は振り向く。「…一体何事?」 そこにあるのは、恥ずかしいぐらいに顔を赤らめた青年の姿。 昼間の複製のような問答。 確たる証拠はなかったのだが、しかし次のセリフの推測は容易だった。「その…あの… …すいません、惚れてます」 「無理、よ」 …私は、考えた。 青年は、善良な人間である。収入も外見も、水準以上にあるだろう。 何より、分け隔てなく優しく気遣いある性格は、一緒に行動していてほっとする。 一般の考え方からすれば、断る理由の方がほとんど見つからない。 だが。 たった一つだけ。 そのたった一つこそが最も重要な問題にして、理由。「…理由を、聞いてもいいですか…?」 打ちのめされた、という形容のこれ以上なく相応しい様子の青年は、やっとのことでそれだけ呟く。 その姿が昔の自分に重なって見え、しかしこれも青年のためであると幻像を振り払った。 答えは、心に誓った一言。「もう、恋なんてしない」 同じく月明りの舞台で、自らを縛りつけた一言。 想い、想い、想い、想い、ただひたすらに想った結果、返ってきたものはただ哀しさだけ。 裏切られることのつらさを知り、自ら閉じこもった牢獄。 想わなければ、報われないことはない。 愛しさえ、恋さえしなければ、哀しみはない。「そう、自分と約束したの」 そして、何より自分も、愛した人を裏切らないとは限らない。 今の内ならば、断られた青年の傷も浅くて済む。 卑劣な免罪符を掲げ、耳を塞ぐようにして青年の反応を顧みもせず。 毅然とした姿を装ったまま、逃げ出した。「ちょっと待ってください!」 左肩を掴んで引き止められたと気付くまでには、しばらくの時間がかかった。 追ってくるとさえ思っていなかったというのが、正直なところだ。「…まだ、何か…?」 後ろめたさに押し潰され、まともに振り向くこともできない。 平常を装った口調は、強がっているようにしか聞こえないだろう。 対する青年はいつになく、驚くべき事に、告白した時よりも強烈な意思の力を以って、兎のようにおどおどとした私の眼を直視している。「断ったのはその約束とやらのためなんですね?」「…ええ」「じゃあ、僕が嫌いだから断ったわけじゃないんですね?」「ええ」「わかりました。それなら、大丈夫です!」「一体、何が大丈夫なの…」 と。 前触れなく、青年の腕が強引に私を振り向かせた。「…!?」 『思考がフリーズする』というよくある表現を、自ら体感するとは思いもしなかった。 瞳が、ごく間近で青年の顔を見つめていた。 体が、回された両腕で抱きとめられていた。 唇が、気がつけば何か柔らかいもので塞がれていた。 それがキスだと気付いたのは、数秒か数十秒かの後に、彼が顔を離した時。「…え…?」「あなたは、僕を恋しなくても構いません。 僕も、恋なんて必要ありません。」「え…?」「ですから、僕はあなたを勝手に恋します。 あなたはそれに何も返す必要はありません」 何を…?「何があなたをそうさせているのかは僕には全くわかりませんし、それを訊くこともできませんから」 そこで、ようやく私は彼が言わんとしていることを理解した。 つまり。 彼は、私の勝手さごと恋し愛してくれようとしているのだ。 勝手に逃げた、私ごと。 何て、清々しいくらいにまっすぐなんだろう。 …気を抜いたら、恋してしまいそうだ。 そう考えた途端、なぜだか、口元が笑みに形作られていることに気がつき。 …随分と久しぶりに、声を出して笑っていた。「ふ、ふふふっ」「えー、あ、あれ? 僕、何か笑えるようなこと言いましたっけ…?」「ふふ…いいわ、付き合ってあげる。 でも、どうなるかは保障できないわよ?」 そして私は、月光の舞台へ足を踏み出す。 私は、他の誰でもなく、私自身に約束した。 失敗するなら。間違えるなら。もどかしいなら。報われないなら。届かないなら。 これほどまでに、哀しいなら。 もう、そんなものには振り向かない。 もう二度と、恋なんてしない。 その約束を、いつか破り捨てられますように… 感想BBSへ
MoonLight 作者:GildingManさん
私は、他の誰でもなく、私自身に約束する。 失敗するなら。間違えるなら。もどかしいなら。報われないなら。届かないなら。 これほどまでに、哀しいなら。 もう、そんなものには振り向かない。 もう二度と、恋なんてしない。 「ちょっ、ちょっと待って!」 それほど高くはないビル群の谷間、大して多いといえない人通りの合間、取り立てて言うほど珍しくもない平凡の隙間。「…一体、何事?」 背中にかかる声に、私は振り向く。 そこにあるのは、全速力で追いかけて来たのであろう、汗に塗れたYシャツ姿のまま肩で息をする青年の姿。 知った顔だ。なにせ、以前から同じプロジェクトに携わっているのだから。「忘れ物ですよ、ほら、例の会計のファイル。明日までに仕上げないといけませんからね」 言いつつ、鞄の中を漁る青年。 十数秒後に私へと手渡されたファイルを受け取るなり、私はそれを丸めて軽く青年の頭へと振り下ろす。「いてっ」「これ、もう終わらせてあるから置いておいたの」「え…? …ああっ、本当だ!」「…」「す、すいませんッ!すぐに社に戻って…」 そしてまた、溜息をひとつ。「もういいわ。明日出せば済むことだから」「すいません、本当にすいませんっ!」 人目も気にせず、ひたすら謝罪を述べ続ける青年。 しかし私の意識はといえば、既に眼前の光景よりも今夜の一杯についてへと向けられていたのだが。「…あ、あとですね!」 自然と帰ろうとする足を、再びおどおどした声が引きとめる。「もし時間があれば…一緒に飲みに行きませんか?」「凄いですよ、ほんとに」 雑居ビルの地下にある、落ち着いた雰囲気のバー。三日月のように淡い青の溶けたカクテルグラスの中身を一口含み、舌の上で転がして香りと味を楽しむ。「その年で高柳グループの上層から声がかかるなんて、誇っていいことですよ!」「別に、興味ないわ」「それでもあんなに難しい仕事をこなせして、失敗ばかりの僕と違って有能ですよ」 ロックアイスだけが残ったクリスタルグラスを片手に、青年は饒舌に私を誉めちぎる。「…ただ、単に他に打ち込めることがなかったから、仕事に集中してただけよ」 相変わらず騒がしい。店内の客が、マスターと話しこんでいるやけに日本語の流暢なアメリカ系白人の男性だけでなければ、文句の一つも言っているところだ。「他にすることが、なかった…? それじゃ、趣味とかはないんですか?」「趣味がないわけじゃないの。 お酒も好きだし、編み物もやってる。休みの日にはバイクで走りに行ってるわ」「へぇ、バイクに乗るんですか。僕も学生の頃、バイトで貯めた金で400ccのイナズマを中古で…」「でも、それとは何か違うのよ」 場を盛り上げようと気遣う優しい青年の言葉を断って、私は呟く。「違うの、それとは」「違うって…どういうことなんですか?」 答えない。 酒のせいか、つい話しすぎてしまったようだ。 これ以上は、青年には関係のないこと。「…」 だから。 不覚にも私の眼に姿を現した、開きかけた古傷の疼きを悟られないように。 私は、答えない。「ふーっ、やっと酔いが醒めましたよ…」 いつも霧深いはずの町は珍しくも一切の帳を掃われ、点々と燈る星界に浮かぶ月が美しく世界を照らす。 世界には、バーからほど近い位置にある、私達以外の人気がないこの波止場も含まれているらしい。「そう、それはよかったわ」 自身も頭を支配する酒気を追い払おうと、飛沫と潮のにおいが混在する空気を大きく吸い込む。効果の程は、自分ではよく分からない。「遅くなっちゃいましたね…」「そう…明日も仕事だから、そろそろ帰るわ」「え?あ、はい…」 あまりに唐突なセリフに対して出た、青年の歯切れの悪い返事を、しかし意図的に無視する。「今日は、いい店を紹介してくれてありがとう」「はい…」「では、また明日」 背を向け、駅の方向へと歩いていく。 数えて、三歩目がちょうど地面についたその時に。「ちょっ、ちょっと待って!」 背中にかかる声に、私は振り向く。「…一体何事?」 そこにあるのは、恥ずかしいぐらいに顔を赤らめた青年の姿。 昼間の複製のような問答。 確たる証拠はなかったのだが、しかし次のセリフの推測は容易だった。「その…あの… …すいません、惚れてます」 「無理、よ」 …私は、考えた。 青年は、善良な人間である。収入も外見も、水準以上にあるだろう。 何より、分け隔てなく優しく気遣いある性格は、一緒に行動していてほっとする。 一般の考え方からすれば、断る理由の方がほとんど見つからない。 だが。 たった一つだけ。 そのたった一つこそが最も重要な問題にして、理由。「…理由を、聞いてもいいですか…?」 打ちのめされた、という形容のこれ以上なく相応しい様子の青年は、やっとのことでそれだけ呟く。 その姿が昔の自分に重なって見え、しかしこれも青年のためであると幻像を振り払った。 答えは、心に誓った一言。「もう、恋なんてしない」 同じく月明りの舞台で、自らを縛りつけた一言。 想い、想い、想い、想い、ただひたすらに想った結果、返ってきたものはただ哀しさだけ。 裏切られることのつらさを知り、自ら閉じこもった牢獄。 想わなければ、報われないことはない。 愛しさえ、恋さえしなければ、哀しみはない。「そう、自分と約束したの」 そして、何より自分も、愛した人を裏切らないとは限らない。 今の内ならば、断られた青年の傷も浅くて済む。 卑劣な免罪符を掲げ、耳を塞ぐようにして青年の反応を顧みもせず。 毅然とした姿を装ったまま、逃げ出した。「ちょっと待ってください!」 左肩を掴んで引き止められたと気付くまでには、しばらくの時間がかかった。 追ってくるとさえ思っていなかったというのが、正直なところだ。「…まだ、何か…?」 後ろめたさに押し潰され、まともに振り向くこともできない。 平常を装った口調は、強がっているようにしか聞こえないだろう。 対する青年はいつになく、驚くべき事に、告白した時よりも強烈な意思の力を以って、兎のようにおどおどとした私の眼を直視している。「断ったのはその約束とやらのためなんですね?」「…ええ」「じゃあ、僕が嫌いだから断ったわけじゃないんですね?」「ええ」「わかりました。それなら、大丈夫です!」「一体、何が大丈夫なの…」 と。 前触れなく、青年の腕が強引に私を振り向かせた。「…!?」 『思考がフリーズする』というよくある表現を、自ら体感するとは思いもしなかった。 瞳が、ごく間近で青年の顔を見つめていた。 体が、回された両腕で抱きとめられていた。 唇が、気がつけば何か柔らかいもので塞がれていた。 それがキスだと気付いたのは、数秒か数十秒かの後に、彼が顔を離した時。「…え…?」「あなたは、僕を恋しなくても構いません。 僕も、恋なんて必要ありません。」「え…?」「ですから、僕はあなたを勝手に恋します。 あなたはそれに何も返す必要はありません」 何を…?「何があなたをそうさせているのかは僕には全くわかりませんし、それを訊くこともできませんから」 そこで、ようやく私は彼が言わんとしていることを理解した。 つまり。 彼は、私の勝手さごと恋し愛してくれようとしているのだ。 勝手に逃げた、私ごと。 何て、清々しいくらいにまっすぐなんだろう。 …気を抜いたら、恋してしまいそうだ。 そう考えた途端、なぜだか、口元が笑みに形作られていることに気がつき。 …随分と久しぶりに、声を出して笑っていた。「ふ、ふふふっ」「えー、あ、あれ? 僕、何か笑えるようなこと言いましたっけ…?」「ふふ…いいわ、付き合ってあげる。 でも、どうなるかは保障できないわよ?」 そして私は、月光の舞台へ足を踏み出す。 私は、他の誰でもなく、私自身に約束した。 失敗するなら。間違えるなら。もどかしいなら。報われないなら。届かないなら。 これほどまでに、哀しいなら。 もう、そんなものには振り向かない。 もう二度と、恋なんてしない。 その約束を、いつか破り捨てられますように…
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