最後にきみがいた 作者:榎本 亮さん
霧ヶ谷線。
主要な鉄道はこれしかないため、規模としては巨大な部類に入るが、人口や利用客が少ない場所の駅は無人駅が多い。
立待駅もその1つ。
区としては北区に属しており、かつてメッカと言われた霧谷町にあるものの、街の外れのほうはやはり栄えているとは言い難い。
山も遠くに見えるわけでもなく、高いビルが立ち並ぶこともなく、平和な光景が広がっている。
立待駅から市営バスに揺られて約15分。
待来というバス停がある。
このバス停もなんとも不思議なバス停なのだ。
見渡す限り民家など1つもなく、店舗があるわけでもない。
不法投棄された車や冷蔵庫が点々と転がっている山の入口、といった風な場所。
しかしその山への入り口である道も最後に使われてから長い月日がたっているのだろう、草木に覆われて緑に飲み込まれようとしている。
あるものと言えば廃墟となった5階建てのビル1つ。
調べればわかるだろうが、地元の人ぐらいでは持主を知っているひとはいない。
窓はすべて砕け、ガラスなど残っていない。
外装もほとんどがれ落ち、そこからはコンクリートが冷たく顔を覗かせている。
蛍光灯などつくはずもなく、室内は昼でも薄暗い。
そのビルへと続く道の正面に待来駅はあった。
そんな立地条件にある廃ビルとなると、オカルトスポット扱いをされて噂の1つや2つあってもよさそうなもの。
このビルも例外ではなく、複数あるオカルト的な噂話に引き寄せられて夜中に集まる若者も後を絶たない。
しかし、この廃ビルは他の廃ビルとは少し違うところがある。
ビルの2階の左の突き当りの部屋。
見晴らしもそこそこよく、流れる九頭身川と山が見える部屋。
部屋は30畳ほどあるだろうか、その部屋の中央にピアノが1台置かれている。
壁掛けタイプではなく、グランドピアノ。
塗装の黒は美しく輝き、音をならせば調律もしてあるのか澄んだ音を響かせる。
塗装はどこも剥げていない、埃もかぶっていない廃ビルにある美しいピアノ。
このピアノがあまりしられていない噂話の鍵なのだ…。
最後に君がいた。
「はぁ…はぁ…」
足音からして走っているのだろう。
口から漏れる息も荒い。
階段を駆け上がり、廊下を走りぬけ、少年は突き当たり左の部屋へ駆け込んだ。
何もない殺風景な部屋だが、破損していた壁の窪みに体を丸めて滑り込む。
少し遅れて荒っぽい足音。明らかに荒立っているような。
それを肯定するかのように響く男性のどなり声。
聞こえる度にビクつく体を無理やり両手で押えこみ、上がっている息を必死で殺した。
足音もどなり声も次第に遠ざかっていく。
少年はほっと胸なでおろし、それでも注意深くゆっくりと窪みから出てきた。
大きく息を吐いて、ぐっと体を伸ばす。
緊張しきっていた体のあちこちからパキポキ音がする。
ふと見ると、部屋の中央には異様な存在感を放つピアノが1台。
月明かりに照らされて、まるでスポットライトで照らされているかのように暗闇の中に浮かび上がっている。
反射する黒い外装は高級感や存在感を放つが、同時にとても朧げで消えてしまいそうな儚さがあった。
吸い寄せられるようにピアノに近づき、ふたを開けた。
白と黒の鍵盤が規則的に並んでいる。
手あかなどどこにもない。
埃なんてどこにもない。
そう言えばこんな廃墟にあるのに、何でこんなに綺麗なままなんだ?
そもそも何で場所にピアノが…。
その時
「何してるの?あなた」
「!?」
後ろから聞こえた声に飛び上るように振り返った。
今まで影になっていたところから足音が聞こえてくる。
ゆっくりと現れたのは、1人の少女だった。
身長は150cmはないだろう。
白いワンピースを着ていて、歩くたびにふわりと揺れる。
腰まで届きそうな長い黒髪。大きな瞳は力づよく、吸い込まれそうだ。
幼さがまだ残るが、顔立ちの整った美しい少女だった。
「ねぇ、聞こえないの?」
無視されたのかと少女は不愉快そうに眉をよせた。
「え、あ、ごめん」
少年は慌てて謝った。
まぁいいわ と少女は少年に歩み寄った。
少年は155cm前後といった身長なので、少女は少年を見上げる。
「こんな所でなにしてるの?しかもかんな時間に」
確かにそうだ。
今は世間では深夜と呼ばれる時間帯。月も昇りきっていて、聞こえてくる音と言ったら少女の声と川のせせらぎぐらい。
「いや、ちょっとね…」
「言いづらいこと?」
「うん、まぁ…」
「そう、なら聞かない」
その言葉は本当なようで、気にするそぶりも見せずにピアノの前に置かれている椅子に腰を下ろした。
椅子がギシリと軋む。
長い髪と白いスカートがふわりと揺れた。
「君は?」
少年が尋ねると少女は少年を椅子に座ったまま見上げた。
「君はどうしてこんなところにいるの? お父さんとかお母さんとか心配しないの?」
「『こんな所』なんて失礼ね」
「ご、ごめん…」
少女がまた不愉快そうに眉をひそめたので、少年は慌てて謝罪した。
「わたしはいいの。お父さんもお母さんも、もう誰だか分らないから」
「何それ」
「言ってもきっとわからないから」
だから言わない。
少女は少年から視線を外し、ピアノに向き合った。
少年は少女の言葉の意味がものすごく気にはなったが、少女は自分を詮索しなかったし、何より聞いてはいけないような気がして黙りこんだ。
「…ピアノ」
少女の言葉にうつむき加減だった顔をあげた。
「ピアノ好き?」
「ピアノ…。僕は弾けないな。あんまり興味なかったから」
「ふぅん。わたしは好きだけど」
そう言って少女はピアノに手をかざした。
集中するかのように目を閉じる。その瞬間時が止まったかのようにすべての音が消えた。
少女は瞳をゆっくりと明け、静かに手を鍵盤に落とした。
静かに、そしてゆっくりと音があふれ出す。
すらりと長い指が滑らかに鍵盤を踊り、奏を紡ぐ。
月明かりに照らされた少女の顔は驚くほど大人びて見えて、少年は完全に少女の世界にいた。
うっとりするような余韻を残し、少女はゆっくりと鍵盤から手を引いた。
何の反応もない少年を少女は不審に思い椅子に座ったまま見上げる。
はたと目が合って、少年はようやく現実に帰ってきた。
「何?黙りこくって」
「え?! あ。いや…」
いったいどれほどの時間がっ立ったのだろう。
ピアノの曲なら長くても10数分といったところだろうか。
しかし少年には永遠にも感じられた。
「上手だね、ピアノ」
「まぁここにはこれくらいしかないから。でも、とりあえずありがとう」
少女はピアノに優しく触れた。
ピアノに向かうその瞳は優しかったが、少年にはとても悲しそうに映った。
「今までピアノなんて興味なかったんだけどさ、いいなって思ったよ。僕も習ってみたいなぁ」
「本当? ピアノ好きになったの?」
驚いたように少女は少年を見上げた。その目は驚きと喜びに輝いている。
「うん。さっきの聞いて。なんていう曲なの?」
「さっきのはね、フォーレの子守唄っていう曲でね…」
少女はうれしそうに語りだした。
それから少年は何度となく廃墟と化したビルを訪れた。
時には昼間に、時には夜に。
普段は何をしているのか、どんなときに訪れても必ず少女はその部屋にいた。
文句や貶し言葉も言うけれど、少女のレッスンは楽しかった。
少年はそこでしかピアノは決して触らなかったが、目を見張るような勢いで上達していった。
訪れるたびにピアノを弾き、多くを語りあったが、お互いの一線を超えるようなことは語らず、尋ねなかった。
「あのさ、」
「ん?」
今日もひとしきりピアノを弾き、コンクリートがむき出しの壁に2人で寄かかって座りながら話をしていた。
初めて少女と会ってから6年の月日が流れていた。
「初めて会った時覚えてる?」
「覚えてるよ」
「俺が親父から逃げてここに逃げ込んだんだよな。そうしたらピアノがあって、後ろから声掛けられたんだ『何してるの?』って」
「そうだった、そうだった」
少女は懐かしそうに相槌を打った。
「それからここにちょくちょく来るようになったんだよな」
「飽きもせずにね。週に何回来てたんだろう」
「レッスンもスパルタでさー」
「そう? けっこう優しく教えてたつもりだけど」
「嘘つけ。しょっちゅう暴言吐いてたくせに」
「まぁね」
くすくすと2人で笑いあう。
その姿を月明かりが照らし、まるでオペラのワンシーンのよう。
「今日は星が見えないな」
「たまにはいいんじゃない? 月だけっていうのも」
「そうだね」
それからその場から動かずに、月を見つめた。
オレンジや赤に近い色のときもあるが、今日は柔らかな黄色だった。
夜の漆黒に柔らかな光を放ち、優しく世界を照らし出す。
少年の好きな、静かで儚く、優しい光で。
「…あれからもう6年もたつんだよな」
「そう…、もうそんなに経つの…」
少年のつぶやきに少女の表情は暗くなった。
この年月で、少年は青年へと変わっていった。
少女は…、少女のままだった。
伸長差はどんどん開き、今では30cm近くになる。
どんなに寒くても、どんなに暑くても、少女はいつも優しく揺れる真っ白なワンピース。
「…こんなに長い間ここに来てたのはあなたが初めて」
何かを諦めたかのような少女の口調。
少年…、否、青年はまっすぐに前を向き、少女は少しうつむき加減。
訪れる沈黙は今までで1番嫌なものだった。
「俺さ、」
少女の言葉を遮るように少年が口を開いた。
この年月で1人称も『僕』から『俺』へと変わっていった。
「何となく、本当に何となくだけど気づいてたんだよね。君のこと」
少年はへらりと笑った。
「しばらく来なくなった頃があったろ? 君が急に怖くなったんだよ。でもさ、結局ここに来ちゃうんだよね」
少女はうつむいたまま、表情は見えない。
「はじめて聞いたピアノが忘れられなくってさ。何て言うんだろ、こう、月の光の中で幻想的って云うより奇麗だったんだよ。音も君も」
しかし青年は構わず語り続ける。
青年には少女がうつむいてどんな顔をしているのか何故かわかっっていた。
「…そんな記憶だけで来続けるなんて、どうかしてるんじゃない?」
「そうかも。でもさ、俺自身すごく楽しかったんだ」
そしてまた沈黙がふたりの世界を支配する。
ここにあるのは静寂と月とピアノと2人だけ。
「…俺さ、もうここにはこれなくなる」
「……そう」
「留学するんだ。イギリスに」
「……そう」
「いくら頑張って練習しても全然君には及ばないしさぁ。本場で少し練習してようと思って」
「………いつ?」
「来週。でも準備とかでごたつくと思うから、ここには来れないと思う」
「……そう」
「……見送りには…来なくていいよ」
「……わかった」
青年はそれ以上は言わなかった。
青年は少女にはいつも嘘をつかなかった。
しかし、初めて嘘をついた。
否、本当のことを言わなかった。
留学するのも本当。イギリスなのも本当。出発が来週なのも本当だ。
「君のおかげだよ。君が音楽の楽しさを教えてくれた。音楽ってさ『音』を『楽しむ』って書くんだもんな。
君に会わなかったらそんなことも知らないままだったかもしれない」
青年の表情は、優しい。
少女は相変わらずうつむいたままだったが、床にはわずかに水滴が染み込んだ跡があった。
「『ありがとう』って、ずっと言いたかった。でもなかなか言えなくてさ…」
青年は苦笑した。
少女は何も言わない。
「それじゃぁ俺はそろそろ帰るよ」
青年はゆっくり腰を上げた。
そしていつもの帰りのように扉のない入口へ向かう。
「あ、そうだ」
思う出したかのように青年は立ち止って振り返った。
「よく考えたら、名前聞いてなかったよな。って、よくこんなので6年も続いたもんだよ」
手の甲で涙をぬぐい、少女も立ち上がった。
意地っ張りな彼女のことだ、目が赤いと指摘したら意地を張って否定してくるだろうと喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「美月…。三浦美月」
「美月か。うんうん、いい名前だよく似合う。道理で月が似合うはずだ」
青年はうれしそうに笑った。
「そんなにかわいい名前なんだったら、もう少し早く聞けばよかったな。そうすればいっぱい呼べたのに」
「ばーか」
「俺は西村一輝。数漢字の『1』に指揮者の『輝』で一輝。」
「あなたこそ素敵じゃない。『一』番『輝』るなんて」
「止せよ」
青年、一輝は照れたように笑った。
じゃあ と短い別れもいつもと同じ。
そしていつものようにピアノの前から姿を消した。
ピアノがあるのは2階の突き当りの左のへや。
部屋を右に出てまっすぐ行くと階段がある。
部屋は月や星、昼間なら太陽の光で真っ暗ということはないが、廊下や階段はそうはいかない。
真っ暗としか言いようがないほど世界は一気に黒へと染まる。
ここに通うようになった当初は夜にこの廊下や階段を通るのが怖かったものだ。
なんだか懐かしい。
しかし今日は暗くてよかったと思う。
暗いから、ここなら声や音をを出さなければ何をしても気づかれない。
そう、今の一輝のように必死に唇を噛んで涙をこらえていても、誰にも見られることはないのだ。
初めてここへ来た時、お酒に酔った父親に殴られることに耐えきれず、家から逃げ出して来たのだ。
それまでに何度か逃走したが、ことごとく見つかって連れ戻されてぼこぼこに殴られた。
母も怯えきっていて、毎日泣いていた。
毎日家に帰るのが嫌だった。
だからと言って学校が大好きというわけでもなく、友人の家でずっと遊んでいたり、図書館でなるべく時間を潰していた。
そんな日々の中で彼女、美月と出会った。
何も聞かず、彼女も自身のことは何も語らない。
当時の一輝にとっては唯一の帰れる場所だった。
もう少し彼女との出会いが遅かったら、あらぬ方向に走っていたかもしれない。
それから両親は離婚。やさしい男性と再婚もしたが、一輝は新しい父親とは打ち解けられなかった。
妹も生まれたが、自分がいるとぎくしゃくした家庭になった。妹も妹とは思えず、親戚の子のように感じていた。
何かに嫌気がさしたり家に帰りたくないときは美月のもとで朝までピアノを弾いていた。
そのころになると、美月が全く成長しないことに気が付き、恐れてしばらく遠ざかった。
しかし、彼女と彼女の紡ぎだす音は魅力的で、また聞きたいという思いは恐れなどよりも勝っていた。
大学は音大を受けた。
突然音大を受けると言い出すと、両親は勿論担任も反対した。
普通科高校の特進学級にいて、今までピアノなど1度も触れたところが見たことのない両親や担任からすれば当然だろう。
しかし他の大学を受けるという条件のもと両親と担任を説得し、音大受験を認めてもらった。
それから美月のもととは別にピアノのレッスンに通って猛特訓。
出席日数がたりると確定すると、学校にも来ずにレッスンで練習し続けた。
朝から晩まで弾き続け、終わるころにはもうぐったりしていたが、美月のもとには通い続けた。
そこで語らい、課題曲ではなく好きな曲を好きなだけ弾いた。
どんなに辛い日々でも、何故か楽しくて苦しいとは思わなかった。
そして、見事に希望の音大に合格、大学の近くにアパートを借りたが、それでも廃ビルには頻度は落ちたものの通い続けた。
大学内でも成績は優秀で、コンクールでも上位入賞者の常連となった。
今回の留学も以前のコンクールの副賞なのだ。
有名音大への留学。
そこで成功すれば音楽で生きていくための道が開ける。
少なくとも日本にいるよりはずっと輝かしくて広い道が。
うれしかった、行きたいと思ったが、美月が頭に思い浮かんだ。
しかし周囲の熱心な説得に負けて留学を決意したのだ。
初対面も淡白な美月だったが、別れもさっぱりしていた。
何となく予想していたし、引きとめられても困るのだが、いざあっさり別れてしまうとなんだか悲しい。
多少悲しんでくれたようだったが…。
別れが悲しいのもそうだが、彼女の中の自分の大きさが知らされたようで。
一輝の中で、美月の存在は少しずつ大きなものとなっていった。
少なくとも下宿先から戻ってきたり、留学を躊躇してしまうほどに。
かつては恐れたこともあったが、彼女はいままで彼女のままだった。
何も飾らず、媚びず、どこまでもマイペースだが、いつも一輝の欲しい言葉をくれた。辛い時には黙って傍にいてくれた。
本当はなんでも良かったのだ、彼女の正体など。
幽霊でも妖怪でも精霊でもどうでもよかった。
美月が大切だったのだ。
本当は見送りに来てほしかったが、きっと美月はこの場から離れられない。
そんな気がして『来なくていい』と言った。
自分の中にある想いに、一輝は気づいていたが気付かないふりをしていた。
出てこないように蓋をして、鍵をかけて、自分なかに大切にしまっていた。
彼女には伝えるつもりはない。そして、きっとこれからも。
日本にいつ帰ってこられるか分らない。そして帰って来た時にこの廃ビルが残っているかわからない。
だから『またね』と別れることが一輝にはどうしてもできなかった。
外へ出ると月が明るい。
月明かりは草木も照らし出して緑が暗闇の中に浮かび上がる。
その中をゆっくりと歩き出す。
しみじみなんて柄ではないし、ずっと離れなくなってしまいそうだから、いつものペースで歩き出した。
「一輝!」
後ろから聞こえた、始め聞く美月の大声。
振り返ると息ひとつ切らしていない美月がビルの入口に立っていた。
「また来てくれる?」
静まり返った廃ビルとその周辺に声を邪魔するものもなく、美月は声のボリュームを下げた。
「行くよ」
一輝も同じくらいの大きさで答える。
「いつ?」
「わからないけど、きっと」
「留学…、ピアノを練習しに行くの?」
「そうだよ」
「帰ってきたら、またピアノ聞かせて」
「もちろん。」
「わたしより上手くなってきてね」
「もちろん」
「わたし、ずっとここにいるから」
「そうでないと俺が帰ってこれない」
「……そろそろ行くよ」
「……ん」
「またね」
「うん、またね」
軽くてをあげて一輝は再び家路についた。
廃ビルが見えなくなるまで、一輝は後ろを振り返れなかった。
見えている間は美月がずっと見ていてくれているような気がして振り返れなかった。
何かが頬を伝っているような気がしたが、誰もいない廃屋、今日だけはぬぐいもしなかった。
霧ヶ谷線。
主要な鉄道はこれしかないため、規模としては巨大な部類に入るが、人口や利用客が少ない場所の駅は無人駅が多い。
立待駅もその1つ。
区としては北区に属しており、かつてメッカと言われた霧谷町にあるものの、街の外れのほうはやはり栄えているとは言い難い。
山も遠くに見えるわけでもなく、高いビルが立ち並ぶこともなく、平和な光景が広がっている。
立待駅から市営バスに揺られて約15分。
待来というバス停がある。
このバス停もなんとも不思議なバス停なのだ。
見渡す限り民家など1つもなく、店舗があるわけでもない。
不法投棄された車や冷蔵庫が点々と転がっている山の入口、といった風な場所。
しかしその山への入り口である道も最後に使われてから長い月日がたっているのだろう、草木に覆われて緑に飲み込まれようとしている。
あるものと言えば廃墟となった5階建てのビル1つ。
調べればわかるだろうが、地元の人ぐらいでは持主を知っているひとはいない。
窓はすべて砕け、ガラスなど残っていない。
外装もほとんど剥れ落ち、そこからはコンクリートが冷たく顔を覗かせている。
蛍光灯などつくはずもなく、室内は昼でも薄暗い。
そのビルへと続く道の正面に待来駅はあった。
そんな立地条件にある廃ビルとなると、オカルトスポット扱いをされて噂の1つや2つあってもよさそうなもの。
このビルも例外ではなく、複数あるオカルト的な噂話に引き寄せられて夜中に集まる若者も後を絶たない。
しかし、この廃ビルは他の廃ビルとは少し違うところがある。
ビルの2階の左の突き当りの部屋。
見晴らしもそこそこよく、流れる九頭身川と山が見える部屋。
部屋は30畳ほどあるだろうか、その部屋の中央にピアノが1台置かれている。
壁掛けタイプではなく、グランドピアノ。
塗装の黒は美しく輝き、音をならせば調律もしてあるのか澄んだ音を響かせる。
塗装はどこも剥げていない、埃もかぶっていない廃ビルにある美しいピアノ。
そんな妙な土地が購入された。
買い手は有名な日本人ピアニスト。
立地や物価から考えても到底はじき出されないような高額を積んで廃ビルを中心に半径1km買い取った。
前の持ち主もなぜこんな土地にこんな高額を出すのかと不審に思って尋ねたが、そのピアニストは笑顔のまま答えなかった。
コツ コツ コツ コツ……
夜の階段を上る足音が響く。足音からしてひとりだろう。話し声もしない。
肝試し目的で来た若者の集団ではないようだ。
その足音は真っ暗な廊下をまっすぐ進む。
明かりもつけずに、目的地があるかのようにその足取りはしっかりしていた。
この廃ビルが他の廃ビルと違うのは、その噂に呪いや恨みというものが一切でてこないというとことだ。
その足音のはある部屋に入っていった。
2階の廊下の突き当たり、左側の部屋。
そこには大きく美しい、こんな廃墟には似合わないようなグランドピアノが埃ひとつなく部屋の真ん中に置かれていた。
月明かりに照らされたピアノは美しさ、高級感と存在感を漂わせながらも、同時に儚さと今にも消えてしまいそうな危うさがあった。
「おぉ…よかった。まだ変わらずにあった…」
上って来た老紳士がそっとピアノに触れる。
その噂というのは、白いワンピースを着た少女と男性ピアニストが夜な夜なピアノを弾いている、というもの。
カバーをはずして鍵盤を1つ押す。
調律のされた、澄んだ美しい音が闇にこぼれる。
そこには一切の悪意も他者に対する恨みもない。
「ねぇ 何してるの」
後ろから聞こえてきた声に、老紳士はゆっくりと振り返った。
月明かりの影から現れたのはまだ幼さの残る少女だった。
身長は150cmないだろう。長い髪は腰まで届き、大きな瞳は力強い。
歩み寄るたびに身につけた真っ白なワンピースと黒髪がふわりと揺れる。
顔立ちの整った美しい少女だった。
リクエスト曲も受け付けてくれるとか
望むなら手ほどきもしてくれるという
「以前もこんなふうだったかな」
「そうね。そうだった」
少女は老紳士に歩み寄った。
「ずいぶん待たせてしまったね」
「本当にね」
「しかし、以前と変わらず可愛らしい」
「ありがとう。でも見た目が変わらないのはわたしからすれば当たり前」
「そうだったね」
老紳士が苦笑すると、少女もつられたように笑みをこぼした。
「何か弾いて。約束だったでしょ?」
「そうだね。それじゃあ…フォーレの子守唄を弾こうか」
老紳士は鍵盤に両手をかざし、瞳を閉じた。
それからゆっくりと鍵盤に両手を落とす。
その節くれだった両手から生み出される音は優しく夜の闇に溶けた。
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