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夢で、逢いましょう 作者:見越入道
どんよりと曇った空。道の両側に聳え立つ黒々とした壁。蹴り上げる足元はさらさらと流れる白い砂。 履きなれないスニーカーに容赦なく砂は入り込み、もんどりうって倒れると口といわず目といわず、砂は入り込んで目も開けられない始末だ。 砂にまみれた両手を伸ばして顔を上げ、息を吸い込むが砂は肺にまで侵入しようとするので肉体が拒否反応を起こして激しく咳き込む。 ようやく目を開けるとあたりは荒涼たる砂漠になっていた。空には冷ややかに月が浮かび、白い砂漠はおぼろげに輝いてさえいる。 悪夢だ。これは間違いなく悪夢。 鳴阿遼二は砂だらけの唾を吐き出しながらゆるゆると立ち上がる。その目の前に、黒いロングドレスの女が現れた。長い黒髪をゆらりとなびかせて、白い肌、氷のような目、しかしどこか優しげに微笑んでいる。 悪夢だ。これは間違いなく「遼二」 女は彼の名を呼ぶ。 両手を広げて彼を招く。遼二はするりと右に避け、砂漠を歩き出す。女はそのままの姿勢で、今しがた遼二が居た方を向いたまま、まだ微笑んでいる。 わずかに振り向き、女が未だそうしている事を確認してから、遼二はまた歩き出す。 女の姿が砂丘の向こうに消えるまで、遼二は歩みを止めなかった。振り向く事もしなかった。振り向けば、思いに囚われてしまうから。砂丘の向こうから、女の悲痛な声が聞こえてくる。 「遼二、どこ?どこなの?」 女の姿が見えないことに少し安堵したのか、遼二は歩みを止め、流れる涙を拭った。 これは、悪夢だ。現実ではない。 遼二の足元の砂を掻き分けて白い手が現れ、砂まみれの足首を掴む。砂の中から、まるで水中から浮かび上がるようにあの黒髪の女が浮かび上がってきた。 女は遼二のズボンをつたい、シャツをつたい、這い上がってくる。遼二は視線を逸らしてそれを見ないことにした。女の顔が遼二の顔の前まで伸び上がり、すぐ目の前で言う。 「遼二、なぜ逃げるの?」 遼二は女を見る。美しい顔。艶かしい黒髪。遼二は砂にまみれた手で彼女の頬に優しく触れる。彼女の顔に安堵の表情が浮かび、彼女は自分の頬に触れる遼二の手に自分の手を重ねる。彼女の名は、カヤ。遼二が人生でただ一度、愛した女性。 遼二は眉間にしわを寄せ、目をそむける。そして彼女の手を振り払って、再び砂漠をあてども無く歩き始める。 彼女が一歩、遼二の後を追うように歩を進める。それを背中で感じた遼二は後ろを振り返ることなく叫ぶ。「来るな!」 彼女はびくりと歩を止める。遼二は静に続ける。「もう、俺の事は、忘れてくれ」「嫌よ!だって今でもあなたを」「今でも?だって君はもう」「もう?」「君はもう、死んでいるんだから」 遼二は振り返る。後ろには誰もいない。ただ荒涼たる砂漠に遼二一人だけが立っている。 再び前を、いや、遼二が前だと思っている方を向き、歩き出す。「忘れられない」後ろから女の声。 遼二は構わず歩みを速める。また後ろから女の声がそれを追いかける。「あなたは新しい何かを見つけたの?私ではない何かを」遼二は走り出す。砂を割って黒い壁が突き出し、彼の両側にそそり立つ。遼二は再び元の回廊に戻っていた。 もう、何度この悪夢を見ただろうか。そもそも遼二は悪夢を見ないで眠った事があっただろうか。 医者にも相談した。カウンセリングも受けた。どれも、どれ一つも解決にはならなかった。時間がたてば収まるだろう。そう思い込もうとしたが、それは儚い願いだったのだろうか。悪夢は、実に十年経った今でも続いている。 この悪夢は大抵、回廊と砂漠を行ったり来たりしているうちに朝になり、消えていく。もう慣れても良さそうなものだが、こればかりは慣れはないらしい。 遼二はまた砂漠に出ていた。彼女が立っている。 あの日と同じように、美しい微笑み。遼二は堪えきれず手を伸ばす。突然、二人の周りを人だかりが包み込む。 遼二は真夏の雑踏の中にいた。 照りつける日差しであたりは陽炎のように揺らめく。前を見ると、押し寄せる人並みに揉まれる様にカヤがこちらに向かって歩こうとしている。気だるげに信号から垂れ流されるとうりゃんせのメロディー。人ごみを掻き分けて彼女を引き寄せようとするが、人並みは容赦なく二人を分かつ。 とうりゃんせ、とうりゃんせ。 ここはどこの細道だ。 天神様の細道だ。 ちょっととおしてくりゃさんせ。 御用の無いものとおりゃせぬ。 メロディが止まり、信号が青から赤へ。遼二は横断歩道へ飛び出す。まだカヤは車道の真ん中だ。喘ぐ様に一歩、二歩、カヤもこちらに歩こうとした。横合いから大型のトラックが割って入る。赤信号を直進してきたのか。遼二の視界が一瞬途切れ、再び歩道が見えた時、カヤの姿は無かった。カヤはトラックに跳ね飛ばされ、車道に人形のように横たわっている。駆け寄る遼二。カヤは、美しい顔のまま事切れていた。遼二は叫び、わめき、泣き、彼女を抱きしめる。辺りの雑踏は陽炎のようにぼやけて消え、またあの砂漠に変わっていた。 遼二の腕には何も無かった。彼女の重み、ぬくもり、血のぬめり、それらの感触が生々しく残るが、遼二の腕には何も無かった。 荒涼たる砂漠に、鳴阿遼二の狂った叫びが響き渡る。 砂漠にうずくまる遼二の耳に、カヤが優しくささやき掛ける。「また、夢で逢いましょう」 朝の光が部屋に差し込み、鳴阿遼二は気だるげに、ゆっくりと起き上がる。夏の日差しは朝だと言うのに容赦なく部屋の中をじりじりと焼き、遼二は全身を襲う気だるさに抗いながらベッドから身を起こす。 静かな部屋。そこで彼はつぶやく。「誰も俺を救えない。俺は誰にも君を渡さない。」 鳴阿遼二を縛る悪夢は、まだ終わらない。
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