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夏の香り 作者:須泉
階段をぜえぜえいいながら上がっていると、横から機械音が聞こえてきた。どうやら僕がしたくもない過酷なトレーニングをしている間にエレベーターが復旧したらしい。 部屋のある5階へ着くと、最近隣に越してきたOLさんが涼しい顔をしてこちらに歩いてきた。扉の前にたどりつくと、鍵を取り出すのも億劫だったからチャイムを鳴らす。足音が聞こえ、カチャリと鍵が外れる音がした。ゆっくりと扉が開く。「おかえりなさいませ」そうか、部屋を間違えたんだな。一拍おいてそう認識した僕は、「すいません、間違えました」そう言って早く扉を閉めようとドアノブに手をかけた。「ちょ、ユーキ、それわざとやってる?」呼び止められて振り向くと、ああなるほど、そこにあるのは確かに母さんの顔である。「‥あの‥これは一体‥」一応訊いてみると母さんは満面の笑みを浮かべて、「メイド服でございます‥えーっと‥あ、ユーキぼっちゃま」‥やめてほしい‥「いや、執事になってるし」僕はため息混じりにそう言うと、部屋に入りエナメルを脇に置いた。「ほら、明日彼女さんとも会うことだし。だから衣装合わせを、ね」母は扉からなぜか顔を半分出し、ね、のところでウィンク。「ね、じゃない。わかった、よし明日の夏祭りは自転車で行くかあー自転車も結構楽しそうだなあ遠いけど。優以にも連絡しないと」僕はわざとらしく言いながら母さんを見ると、頬を膨らませて足をぶらぶらさせている。「なんですかユーキぼっちゃまおちゃめでやっただけなのに」「ぼっちゃまはやめてくれ」「じゃあユーキお兄ちゃん」こんな人が社会で働いていて大丈夫なのだろうかと、本気で心配になることがある。ふりふりの膝丈スカートを見ながら、変な親だけどごめんね、と、優以にメールを送っておかなければ、と思った。
*
「いやあー、いつも悠紀がお世話になってますどうもー」母さんは深々と頭を下げながら言った。そんな母さんを見た優以はふわりと微笑みながら、「あ、いえ、そんな、私がお世話になってるくらいで」それを聞いた母さんは顔を上げて、あらやだ、もう役に立たない息子でねもうーなんて言って僕の背中をばしばし叩いた。優以は母さんを見て僕を見て、微笑ましいといわんばかりに口元に手を寄せた。「ほら悠紀、優以ちゃんと夜店でも見てきなさい」最後にばしんと結構な力で背中をはたかれた。「はいはい」うんざりしたように言いながら、あっはっはっはなんて笑い方をしている母さんを横目で見てみると、こっちを向いて親指を立てていた。それを軽く流して僕は夜店の方へと方向転換した。背後の気配が気になったものの、でも振り向いてはいけないと思っていたら、後から駆けてきた優以が僕の隣でくるりと振り返り、ひらひらと手を振った。揺れるポニーテールから女の子らしい柑橘系の香りがして、何だかいっそう申し訳なくなった僕は、彼女にわたあめを買ってあげようと思った。 「ごめん、変な親で」「ん、なんで?可愛いお母さまじゃない」にこにこしながら言う優以を見て、僕は彼女にわたあめとりんごあめを買ってあげなければならない、と思った。
「ジャングルジム登ったの久しぶりだわ」そう言いながら、優以はわたあめとりんごあめを一本ずつ、両手に持った状態で一段目に足をかける。「大丈夫?」「うん、ヘーキ」足を滑らすんじゃないかと心配だったが、優以は器用に登っていって、てっぺんに腰かけた。その姿を見ていると、彼女がこのまま飛んで行ってしまいそうで少し焦った。慌てて僕も登ろうとしたら、あろうことか浴衣の裾が引っかかり一段目から落ちてしりもちをついた。 「っ、‥」「あらら、人の心配する前に自分の心配しなきゃ」含み笑いでそう言った優以は、僕に向けて手を伸ばした。「‥面目ない」しぶしぶその手を掴むと、手を引いてくれるのかと思ったら、よいしょ、というかけ声が聞こえると同時にふわりと優以が降りてきた。僕が驚いて優以を見ると、彼女は微笑んで、「やっぱここがいいや。‥ね」ね、のところで、おしとやかに彼女のポニーテールが揺れた。やっぱり柑橘系の香りが、鼻をかすめた。ああ、分かった。これはグレープフルーツの匂いか‥*ぼやけた視界の中に、デジタル時計の文字が見えた。時刻はAM10:00。そうか、昨日は遅かったんだっけ..「おはよ‥」寝ぼけなまこで階段を降りると、台所に立っていた母さんと目が合った。「あんた‥」しばらくフライパンを持つ手を止めていた母さんは、真顔でそう言うと、次になぜかにっこり微笑んで、言った。「優以ちゃんと‥何回チューした?」「チュ、う?!」「ほら、黙ってようと思ってたんだけどさ、見ちゃうと確かめずにはいられないというか、なんというか」「見、た?見ちゃったって‥え、見た?!」
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