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『掴れたのは手』 作者:香月
季節の変化は視覚よりも嗅覚で感じるのが先だと思っている。 春の香り。在り来たりな表現だが、暖かで柔らかい。霧生ヶ谷にも春が来た、と毎年懐かしい気持ちで春を迎えている気がする。 九頭身川沿いを気まぐれに散歩するのも、たまには悪くない。何を見るわけでもなく、ただ歩いている。楽しくはないが、つまらなくもない。「まあ、散歩なんてこんなもんか」 そうね。と、いつもより間延びした声で爽香が言う。春は、爽香さえもバカにするのだろうか。「もう少し、風が冷たいとなお嬉しい」「暖かくていいじゃない」「ちょっと暖かすぎる気は」「しない」 左様で。まあ、何も言うまい。春ってのはそんなもんだ。 暖かくなって、今まで張り詰めていた何かを霧散させる。そのせいで、人は一時的にバカになる……気がする。 で、その霧散させた何かを春に慣れてきた頃にもう一度集め、それに耐えられなかった奴が5月病にかかるのだ。これは世の理だろう。多分。 実を言うと、俺は冬好きである。冷たい、油断を許さないような空気がなんとも言えない心地良さをもたらしてくれる。 だから、こんな春の日差しに眼を細めるような人ではなかったはずなのだが。なぜか今は、これもいいと思ってしまっている。 決して春が嫌いなわけではない。全ての季節にそれぞれ良いところはあるものだ。ただ、冬が最も好きなところが多いというだけの話である。「春といえば、花見か」「必ずしもそれだけじゃないとは思うけど」 花を見るのも悪くない。ただ、食って飲んでという花見はあまり好きじゃない。あれは、賑やかなようで陰鬱だ。とくに大人は。 バイト先でもいつも思っていることだが、人間どうしてああも愚痴っぽいのか。スーツ姿で現れるどこぞのサラリーマンと思しき人達の話を暇潰しに聞いていても、出てくるのが愚痴ばかり。あれで何が楽しいのか、俺にはさっぱりわからない。ついでに言うと、自分の話ばかりでもある。俺は、私は、僕は。まあ、そんなのばっかりだ。小次郎に顔を出すおっさん連中は、俺がなりたくない大人の見本市である。 「ここから下っていけば桜あるわよ。見に行く?」「俺はそこらの草木を見てるだけ十分だから」 春を感じるのなら、わざわざ桜なんて見なくとも河川敷をこうして歩いているだけで十分事足りる。眼を閉じていてもわかる。自分で、春と言えば花見と言っておいて何だとは思うが。 「あんたの考えてることなんて大体わかるわよ。何もせず、黙って見てればいいんでしょ」 適当に言っているのか、本当にわかっているのか。当たらずしも遠からずである。「黙ってとは言わない。前向きに楽しみたいというだけで」 ふーん。とまあ、わかったようなわかってないような返事をした。と思ったら足は先ほど桜があると指差した方へと向いている。 酒を飲むわけでも何か食うわけでもないから、いいか。「どのくらい歩くんだ」「けっこう長いわよ」「もう少し正確に」「あんた、自分の家から学校までの距離を正確に言える? それと一緒」 たしかに言えない。屁理屈な気がしないでもないが、爽香と討論したところで勝てるとも思えない。 そんな難しいことは春の風に乗せて飛ばしてしまおう。春に、物事を深く考えてはいけないのだ。バカになっていればいいのだ。始まりの季節だから。 しかし、始まりの季節に色々と思い出してしまうのはなんでだろう。春の風が吹き始めると、望郷の念みたいなものが押し寄せてくる。もしや、5月病の前触れだろうか。俺は今までなったことはないが。 いや、考えてはいけない。春に深く考えてはいけない。ただ思い出す。それだけにしたい。「あんたさぁ」「ん」「中学の時、覚えてる?」 俺があんなこと考えていたからか。それとも、春は本当に思い出す時期なのだろうか。「そりゃもう、色々と覚えてるが」「進学してから、私はあんたのことを知らないのよ。再会したのが、夏頃だっけ? 爽真の話した」「あれ、そうだったか? 秋、いや冬に会った時、かなり久しぶりな気がしてたんだが。もっと前に爽真君の話を聞いた気がしてた」 ボケてたのだろうか。まあ、それでも秋という季節を飛ばしている。久しぶりなことには変わりないだろう。「1年間何してたのかと思って」「そんなこと、どうでもいいだろう。そっちがどう過ごしてたかが俺は気になる」「それこそどうでもいいわ。私の生活を知ってどうする気よ」「そのまま返す」 足を止め、睨み合う。相変わらず、強い眼をしている人だった。爽香が俺を見上げているのに、圧倒されている気がしてしまう。あれ、こんなことを前にも考えていたような。やはり、春は思い出す季節でもあるのか。 前回よりも睨み合いの時間が長いかもしれない。「降参」「じゃあ、話しなさい」 何を話せばいいのか。「まあ、結局のところ今とあまり変わらない」 変わったことといえば、高校に進学したこと。アルバイトを始めたこと。学校での友人以外で、知り合いが増えたこと。そのくらいだろうか。 爽香が足を速めた。今の話が気に入らなかったのだろうか。 黙っていても、気まずい相手とそうでない相手がいる。爽香は、気まずい相手ではない。ただ何となく、そういう過ごし方が最も合っている気がする。 川に沿って歩き続けている。桜は、いつになったら見ることができるのか。視界にはまだない。 急に、爽香が振り返った。「何か?」「別に」 また歩き出す。「あんたはさぁ」「ん?」「ふらっと、どこかに行きそうな気がするのよね」 俺がいない気がしたということか。「桜を見るまでは、後ろにいると思う」「そのあたりが頼りないのよ」 風。また、春の香り。もう少ししたら、この心地良さが暑さに変わるのだろう。夏が近づいてくるのを感じることができる日も、そう遠くないのかもしれない。今年は、海にでも行ってみようか。いくつか、顔が浮かんだ。 上月さんとツキは、まず普通に泳がないだろう。泳いでいたとしても、何か別のことを目的としている気がする。 石動さんは、浜辺でバーベキューの準備あたりをしている絵が浮かんでくる。団扇とか、持ってそうだ。 小夜は色気より食気である。きっと、石動さんの横で肉が焼き上がるのを今か今かと待っているに違いない。真壁君が補佐といったところか。 キリコさんは、何となく子分を連れてそうな気がする。あの人についてはあまり詳しいことを知らないので、読めないところが多い。 亀は塩水でも平気なのだろうか。キムチは黙って流れていけ。 俺が知る限り、最も美人な女性であるスノリさんはどうなのだろう。何かサプライズがありそうな気はするけども。 もっとも騒ぎそうなのが、鶴ヶ丘さんである。バーベキューの準備を眺めていたと思えば、泳いでいる。そういう感じがする。 爽真君とも会いたい。噂の杏里ちゃんや、大樹君がいればさらにおもしろいだろう。大樹君の兄貴は、春樹君だったか。「涼成」 眼鏡をかけたこの人は、きっといつも変わりないのだろう。「桜」 川に背を向けた。「これか」 歩いてきた道筋からは、うまく建物に隠れて見えていなかったようだ。 狂い咲き、なんてことはない。慎ましやかに、建物に囲まれて何本かの桜の木が並んでいた。花も、半ば散っている。 それでも、綺麗だった。半端な桜だ、という思いと同時に、何よりも綺麗な桜だという気がした。 また、風が来る。何となくそう思った。「まあ、俺が見る桜はこれで十分だな」 風が吹いた。花弁が散るのを、ぼうっと見つめる。強い、風だった。桜の香りがした。春は、本当によく香る。バカになりそうだ。「散ったわね」 いくらか、桜の木々がしょぼくれた気がする。少し焦燥を感じた。「帰るかな」 見るもとは見た。踵を返して歩く。と、襟首を掴れた。他に掴むところはないのか。「どこに帰るつもり?」「そりゃあ、我が家に」「あんたは空気が読めないの? 雰囲気的に、もう少し歩こうみたいな流れにならない?」 それをあえて避けたのだが。俺は決して鈍い人間ではない。人の気持ちの機微には、ある程度鼻が利くつもりである。「わかった。じゃあ、少しだけ」 実を言えば、爽香が中学を卒業してからの1年間は、あの桜が散ったような感じだった。ぱっと花が現れ、すぐに散ったのだ。 なぜ、あの頃を短く感じたのかはわからない。華やかで、しかし空虚だった。どこかで憧れていた爽香がいなくなったからだろうか。 今こうして会っても、あの頃の気持ちを思い出すことはあまりない。しかし、稀にそれを思い出すことがある。というか、思い出した。 こういう時は、あまり一緒にいたくない。1人になりたかった。この人とは、距離を取っておくべきだという気がしてならないのだ。「やっぱり帰る。それじゃあ、また夏にでも」 再度踵を返してみる。例によって掴れた。しかし、今回は襟首ではない。「待ちなさい」 爽香が手を握るのを感じる。掴まれているのは、右手だった。ぐっと引かれ、思わず爽香に向き直る。 また風が吹いた。何かが、爽やかに香る。春の香りではない。どこか懐かしい、そう思わせる香りだった。「そうか」 今のは、爽香の。「それじゃあ、爽香。また今度」 一瞬睨まれたが、案外素直に手を離してくれた。「じゃあね」 少し笑った。気がした。爽香に笑いかけられたのは、初めてではないだろうか。いや、違う。俺は、あれに憧れていたのだ。 決して笑わない人ではないが、時々ああいう顔をする。あの頃の俺は、それが好きだったのだろう。「帰らないの?」 爽香が振り返ってこちらを見ていた。「昔を、思い出しただけだよ」「ふーん」 向こうから、振り返ってくれた。今の俺は、それが少し嬉しい。
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