シェアワールド@霧生ヶ谷市企画部考案課

朱色に染まる甘い罠

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朱色に染まる甘い罠 作者:あずさ

 

  六道区の外れにある、小さなバー。
 そこにはとんでもない化け物が巣くっている。

 近頃、社内でそんな噂がまことしやかに流れつつあった。奇妙なことにその噂は男性を中心に流れているらしく、青年が耳にしたときも例に漏れず男性の同僚から告げられたのであった。一体どんな化け物なのか、そのバーに行くと何をされるのか。誰も詳しくは語らない。ただ、一部の者は苦い顔を揃えて言うのだ。――「行けば分かる」と。
 青年は化け物の存在など信じていなかった。霧生ヶ谷市に住み続けているからにはいくつかの不思議な噂を耳にすることもあるが、所詮噂と割り切って今日まで生きてきた。子供の頃は親に聞かされ怯えていた日があったものの――時が経ち成長するにつれ、青年は受験や就職といった現実の荒波に目を向けざるを得なかったのだ。今では現実味のない噂話などより、客からの無茶なクレームの方がよほど堪える。
 だからそんな噂を耳打ちされても、青年は苦笑いを浮かべることしかできなかった。そうして今日も代わり映えのない一日を過ごすはずだったのだが。


「……ここか」
 青年は一人呟き、自嘲気味に看板を見やる。<<バー ルアー>>とシンプルに描かれ、白く密やかに飾られたそれは小奇麗な印象を受けた。
 普段なら訪れようともせず、他愛無い噂だと受け流していただろう。しかし今日は仕事で性質の悪い失敗をしでかし、上司にうんざりするほど絞られた青年は辟易していた。
 失敗は認める。しかしあそこまでネチネチと責めなくてもいいではないか、自分だけの責任でもないのだ、反省はしているし今後は十二分に注意を払う。――だというのに、横柄な上司はその大きく邪魔そうな口を閉ざすことなく延々と訳の分からない言葉の塊を投げつけてくるのだ。
 結局のところヤケだった。家に帰ってぐっすり休んでしまおうという気にもなれず、酒でも飲まなければやっていられないと自分を奮い立たせ――しかし薄情なことに暇を持て余しているような同僚は捕まらず――せっかくなら噂の真偽を確かめてやろうと、青年はここへ流されるように辿り着いたのだ。
 ドアに手をかけ、軽く押しやる。からりころりと心もとない音を立て、ドアは易々と開いた。
 ゆったりと出迎えたジャズ、濃く深い色合いの茶が基調とされた壁、辺りをほの暗く照らすライト。それぞれが室内の落ち着いた雰囲気を醸し出している。客は数人。なぜかほとんどがテーブル席を使用しており、カウンターには奥に一人、ひっそりと女性が佇んでいるだけであった。
 ふと、バーテンダーと思しき人物と目が合う。一見しただけで若いと分かる女性のバーテンダーは、柔らかい声音で「いらっしゃい」と青年を軽く手招いた。青年は雰囲気に気圧されつつ中へ進む。早々と、そしてひしひしと後悔が押し寄せてきている。元来、青年はこのようなバーに縁がない。そもそも頻繁に酒を嗜むわけでもなく、飲むにしても賑やかな居酒屋で目に留まったものを深く考えずに頼むことの方が多いのだ。一人で来るのは無謀だったと、分かりすぎていた結果に急速に頭が冷えてくる。それでもここで逃げるわけにもいかず、青年は及び腰のまま改めて視線を巡らせ、
 カウンターに腰掛けていた女性に引き寄せられた。
 黒目がちな瞳に、腰ほどまである艶やかなウェーブのかかった黒髪。黒い胸元までのドレスが彼女の身をしっかりと包み込んでいる。上から下まで漆黒に包まれた女性はそれだけで一つの世界のようだが、深く刻まれたスリットが異質を際立たせるかのように彼女の白い足を惜しげもなくさらけ出していた。その足がすらりと組みかえられ、ちらつく白さに目眩がする。
「隣、いいですか」
 気付けばそう口を開いていた。彼女は顔を上げ、そっとこちらに視線を移す。ゆったりとした動作だが気だるいようには見えず、いっそ優雅と評するに値する振る舞いだと青年は思った。
「どうぞ」
 うっすら開いた唇から放たれた音色は、想像よりハスキーで、それが青年の動悸をいたずらに弄ぶ。
「ありがとうございます」
「いいの。一人で寂しかったところだから」
「貴女ほどの人が?」
 わざとらしいほど目を丸くしてみせれば、対照的に彼女は目を細め、小さく笑う。お上手ね、と笑い混じりの声音は柔らかに青年の耳を撫でていった。
 ――何をしているんだ、と内心で冷や汗が滴り落ちる。この女性を口説こうとでもいうのか。まさか、そんな馬鹿な。見ず知らずの人間を軽々しく口説くような、そんな柄では決してない。
 ただ。ただ、無意識に近寄らずにはいられないほどその女性が魅惑的だったのだと、青年は遅れて気付いた。
 同時に、周りの視線が控えめながらも確かに青年と彼女に注がれていることに気付く。
(……当たり前か)
 これほど魅力的な女性だ。男がホイホイと話しかけに行けば注目を浴びるのも道理というものだろう。今まで彼女が一人でいたことの方が不思議なのだ。
「何にします?」
「ええと、……彼女と同じものを」
 戸惑った挙句にそんなことを言うと、バーテンダーは嫌な顔を見せずに手早く青年にカクテルを作ってくれる。鮮やかな動きで差し出されたカクテルは、澄んだ夕暮れの色合いでグレープフルーツが絞られていた。試しに一口含み、舌で転がしてみる。甘いようで、どこかほろ苦い。
 一連の動作を見ていた彼女が微笑んだ。
「お仕事のお帰り?」
「ええ、まあ」
「お疲れなのかな」
「そんなに疲れた顔、してます?」
「ええ。上司にこってり叱られて、もう仕事なんてうんざりって顔」
 青年は内心でぎくりと強張った。参ったなあ、と緩く苦笑する。そんなにくたびれた様子をしていただろうか。
「ご名答、です。上司に叱られまして……少々自己嫌悪を」
「それでここを選ぶなんて、奇特な人」
「はは」
 乾いた笑い声を上げ、薄暗いライトを浴びる彼女を遠慮がちに見つめる。歳は一見しただけでは分かりそうになかった。若いのは確かだが、二十代の前半か、後半か。想像より気さくな言葉遣いは若々しさを感じさせるが、口調そのものは男を翻弄するかのように甘く、眼差しは落ち着いて見える。いっそ尋ねてしまおうかと思ったが、それは気の迷いとして切り捨てられた。彼女相手に下手なことはしたくない。
「貴女はどうしてここに? しかも、その……一人で」
「一人で寂しく飲む奴なんて、嫌?」
「いえ、その」
 思いがけない返答に口ごもる。冗談よ、と低く笑う彼女はカクテルを口に含んだ。
 吐息。頼んだカクテルはほろ苦かったはずなのに、吹き付けられた息は妙に甘い。
「私は……そうだな。あえて言うなら、言葉に、形にするなら。運命の人を待っているの」
「運命の人、ですか」
「夢見がちでしょう?」
 クスクスと彼女は空気を震わせる。さざやかに、軽やかに。
 青年は深く深く息をついた。酸素を取り込みたかった。ここは酸素が薄いわけでもないのに、なぜか息が、胸が苦しく感じられて。
「……貴女ほどの人なら相手はいくらでもいるでしょう。冗談でもお世辞でもなく」
「本当に上手い人。でもね、言い寄ってくる相手が運命の人だとは限らないでしょう?」
 それはそうかもしれない。が。
「けど」
「あなたは赤い糸って信じる?」
「赤い糸……ですか」
 遮られた言葉を不満に見せないよう取り繕いながら、青年は自問する。赤い糸。正直興味はなかったし、信じてもいなかった。青年はロマンチックな恋にもドラマチックな愛にもそれほど縁がなく、ただ平凡な人生を歩んできたに過ぎないと自負していたので尚更だ。しかし、それを率直に彼女に言っていいものか。
 悩んでいると、見抜いたとでもいうように彼女は瞳を細めた。憂えるような瞳に青年の視線は吸い寄せられる。
「馬鹿だと思われるかもしれない。くだらないと笑われるかもしれない。それでも私は信じているの。運命の人を、きっと結ばれているであろう赤い糸を。……素敵じゃない? 何十億ものひしめき合っている人間の中から、私だけのたった一人を見つけるなんて」
「…………」
「ただ、赤い糸は目に見えるものじゃないから」
 そう言って彼女は細く長い手を差し出した。静かに小指を立てる。ちらとこちらを見、――はにかむようで、どこか挑むような、笑顔。
「私とあなたが結ばれていない証拠なんて、どこにもないわ」
「……あの」
「結ばれている証拠もないけどね」
 言葉に詰まる青年をからかうように、彼女は再び笑んだ。直視できずに青年は目を泳がせ、残りのカクテルを口に運ぶ。ほろ苦さが口内をしっとりと侵し、微かに感じられる甘みに脳がクラクラする。
「ごめんなさいね、変なこと言って」
「あの」
 気付けば青年は身を乗り出していた。彼女の手を握り込む。熱い。うっすらと汗ばんでいるのは恐らく自分のものだろう。気持ち悪いと思われるかもしれない。一瞬冷静になりそう思ったが、小首を傾げた彼女にその考えも消し飛んだ。
「試してみるのは、どうでしょうか」
「試す? 何を、どう、試すというの」
「俺が、あなたの運命の人かどうか」
 何を言っている。何を、何を、何を。
 しかし自制は利かなかった。彼女が手を振り払いでもすれば我に返ることもできたというのに、彼女はさらに微笑むのだ。青年の眼差しを真っ直ぐに受け止め、恐ろしく深い真紅の唇をわずかにたゆませ、それから静かに瞳を伏せ――あまつさえ、青年の手を強く握り返してくるのだ。止められるはずがなかった。
「気持ちは嬉しい。すごく」
 気持ちは。
 そこには特有の響きがあり、青年は混乱に陥った。
「……駄目ということですか? 確かに会ったばかりでこんなことを言われては困惑するかもしれません。しかしこれから回数を重ねていけば」
「ありがとう」
 彼女の笑みは、どこか悲しげなものに彩られた。
「あなたが本当に運命の人なら嬉しいけど……」
 引き寄せられる、手。彼女が自身の方にその手を導き、
(…………、
 …………、
 ――――え?)
 あってはならないものが、そこに、あった。
 それを理解したとき、――青年の記憶はぷつりと途切れた。


 * * *


 我に返ったときに青年がいたのは自分の家だった。茫然としたままどうやってここへ戻ってきたのか分からない。夢か幻か。そんなことを思うがどこかで現実だと理解していた。未だに脳内が麻痺しているようで、青年は短く息を吐く。は、と情けない声が漏れた。
「化け物だ」
 ――噂が男性を中心に広まっているのも納得できた。こんな話を女性にできるものか。馬鹿にされるに、軽蔑されるに違いない。
 青年はその日、残酷な現実にさめざめと枕を濡らした。


 * * *


「哀れな被害者がまた一人、ね」
 バーテンダーが溜息と共に言葉を吐き出す。それを聞きとがめた相手は形のいい眉を寄せた。小さく艶やかな唇を突き出し、バーテンダーを見上げる。
「ひどい言い草。意地悪言うと、下弦の月に乗り換えちゃうんだから」
「事実でしょう。確かにあんた目当てで来る客がいるのは、こっちとしては助かるけどね。欲を言えばリピーターを増やしてちょうだい」
「私は見世物じゃない」
「そう思うなら必要以上に男を口説こうとしないの」
「だって、運命の人かもしれないでしょう?」
 流れ行くジャズを耳に留めながらバーテンダーは肩を落とす。目の前の相手は本当にこれが素なのだから困る。
 奥に目をやれば、テーブル席の客が笑い声を交えてさざめき合っていた。彼らは眼前の相手の正体を知っている者たちだ。恐らく青年がどんな行動に出るか賭けていたのだろう。最近ではもはや見慣れた光景だった。
「静雄」
「シズって呼んで」
「あのね……。あんた、いい加減に下も取っちゃいなさいよ。そのせいでみんな逃げていくんだから」
 行儀悪く指を差して言えば、相手は頬を膨らませた。
「そう簡単に言わないで。胸だけでもお金がかかって大変だったんだから。それに……」
「それに?」
「男の自分が嫌なわけじゃないの。だから結構気に入ってるのよ、確かな自分の象徴もね」
「……さいですか」
「ええ」
 微笑む彼女――否、紛れもなく彼なのだ――はほの暗さも手伝って、女性のバーテンダーから見ても目眩を起こしそうなものだった。しかしそんなことはおくびも顔に出さず、バーテンダーはただただ仕事に精を出す。
 からりころり、聞き方によっては情けない音がする。慣れていない様子の男性が入ってきたことを確認し、バーテンダーは胸中で苦笑した。もしかすると、また、もしかするのかもしれない。
 目が合う。怖気づいた男性を落ち着かせるよう、バーテンダーは営業スマイルを浮かべてみせた。

 六道区の外れに佇む、小さな店。化け物が巣くうと奇異で不本意な噂の流れるバー、ルアーへ。

「いらっしゃい」

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