討魔物語 角蟹
作者:清水光
音がする、激しく、常しえの闇の中で。
がりがりと暗黒の外殻を削り取っていく。コンクリートの破片がこぼれ、飛び散った。
閑寂とした地下水路を、騒音が無限に反射する。
それは一匹の蟹だった。
といって尋常の大きさではない。大人二三人が並んで歩ける水路、その空間をたった一つの体でもってふさぐ。
自然の造形から随分とかけはなれていしまっている。
異形はなおもコンクリ壁を食い破る。
ここには誰の手も届きはしない。何重にも複雑に絡み合った暗渠を、この街は奥底に抱えこむ。
あるいは、この地下水路こそが本当の霧生ヶ谷そのものなのかもしれない。
魍魎蠢くこの魔境へと、自ら踏み入るものがあるとすれば、それは地下棲息者らと同じ、非日常に属する存在にほかならない。
乾いた足音が響いていた。異質の蟹から遠く離れて、ぼんやりと淡い明りが浮かび上がった。
火炎の濁流が水路を押し寄せる。触れるものすべてを喰らいつくしながら突き進む。
甲殻の巨体をも一息に飲みこんだ。止まらない。
ありとあらゆるものを灰燼と帰しては、押し流していく。
いったいその去った後に、何が残されるというのだろう。
提灯を携える、喪服の少女が現れた。
灯真深鳥(トウマミトリ)。齢二十に届かずして、発火能力者の血統、灯真が家の現当主。
炎が駆け抜け、暗色が取り戻される。
けれど少女の瞳には、依然として殺気が保たれていた。
音は止まない。構造は破壊されつづけている。
青黒い蟹は、炎流が過ぎ去った今もってなお、そこにとどまる。
セメントを食い散らかす。自らを襲った災害にまるで無頓着に。
少女は深く息を吐いた。右足を後ろに引く。蟹に対して横に構える。
左腕を前へと伸ばす。そこに弓矢があるかのように、少女は右手で持って架空の弦を引き伸ばしていく。
仮想は現実にとってかわる。鏃から矢羽まで真紅に染まった一本の矢が、少女の手には握られていた。
手を離す。燃え盛る矢は、少女と蟹の間に直線を描く。
ただ一点に凝縮されたその勢いは、先の雪崩打つ炎よりはるかに強い。
甲殻に届く。貫くは必然かと思われた。
弾かれる。濃染の外骨格を前にして、炎の矢はあっさりと霧消する。
そこに傷一つすら刻まれてはいない。
さらに悪いことに、蟹はその巨大な眼球を、ぐるりと喪服の少女に向けた。自身の破壊を愚かにも試みる、脆弱な存在に。
深鳥の漆黒の虹彩にはなんの感情もありはしなかった。驚愕も失望も憤激も、愉悦さえも。
ただ殲滅する対象として、蟹へと焦点を合わせているにすぎない。
無言。唇を引き締める。
蟹は簡単に人間一人を押しつぶせよう、著大な右鋏を高々と振り上げた。
対する少女は、まっすぐに前へと跳躍した。
守りの概念などない。あるは必滅。魔性のものは何であろうと殺戮する。
この霧生ヶ谷に一片として、魔の存在を許さない。
大振りな一撃が少女を襲った。
横に跳ぶ。大質量が右肩に触れた。紙一重で避けたはず。
体全体が歪んだ。衝撃の余波が、少女の薄い皮膚を裂き、肉をえぐった。
それでも深鳥は蟹の近くに迫っていた。
素早い動作で弓を引く。火矢は甲殻へと突き刺さる。
だが至らない。堅牢を極めたる鎧甲胄に、その突進は阻まれた。少女の一撃は大蟹の防壁の前にまったくの無力と化す。
発火後に生じる不可避の硬直。
横振りされた鋏が少女を芯でとらえる。
あっけなく一個の木偶みたいに、少女の体は宙を飛んだ。
喪服に包まれた細い体が、硬い床に幾度か跳ねる。
水底を滑ってようやく止まる。
魔物の視線は倒れ伏す少女に未だ向けられていた。そこにはもとより意思はない。
少女が生きていようが死んでいようが。再び立ち向かってこようが立ち去っていこうが。
そも彼にとって彼女は外敵ではない。
食事を邪魔するものを手荒く追い払っただけの話、その存在に十分な興味を抱いていない。
けれど、少女、灯真深鳥はまったく異なっている。
どれだけの肉が切り裂かれているのだろう、わからない。
どれだけの骨が折り砕かれているのだろう、わからない。
内臓に損傷を負っている可能性も決して小さくはない。
そうであったとしても、立ち上がらなければならない。少女は自分に立ち向かうことを課さずにはいられない。
息を吐くだけで辛い。肋骨が数本いっている。また崩れ落ちたところで、なんの不思議もない。
そのさまを蟹はただ見つめている。
深鳥は走り出す、最前の威勢はすでに失われている。方々から血を噴き出させながら、進む。
蟹の間合いに入った。容赦なく鋏が振り下ろされる。
少女はまた側方へと歩調を刻んだ。大仰な攻撃からは避けることができたものの、上体は大きくよろめく。
前へ、一歩でも前へ、たとえこの魔窟に倒れ伏すのだとしても。意志が、そのか細い足を動かす。
巨躯の懐に、少女はもぐりこんだ。
されど、無情。
たどりつけない。
か弱き傷だらけの体は宙に掲げられた。
甲殻の側面から生える複数の足、そのうち四本が作動する。
爪が少女の肉体に刺さる。その拘束から逃れるすべはなかった。
「かまわない……」
ぼろぎれのように吊り下げられながら、少女はそう言った。
「じきに終わる……私かお前、どちらかの滅びによって」
右手を伸ばす、てのひらを広げて、絶対無敵の鋼の絶壁へと。
数度にわたる攻撃は皆、無造作に遮られた。
少女の前に立ち塞がった絶対の不可能。
それに向けて、ありったけの炎を放つ。
愚直に、ただ愚直に。
自らにできることをひたすらにぶつけつづけた。
その頑愚なる一念が、通る。幾重にも塗り固められた真実を、覆す。一本の炎槍は、刺し貫く。
蟹の腹から背へと、真紅の線は突き抜けていた。
少女も、蟹も、動かない。
さっきまでの喧騒が嘘のような、一瞬の静寂。そして、光は爆ぜた。
内部から巨体は内部から崩れる。構成を亡くし、散り散りに砕ける。
肉体維持の限界を越え、塵に還る。
支えていたものが消え、少女は床へと落下する。
実際の存在でない魔の一部は、霊子の凝集によって仮の身体を構築する。臨界を破れば、そこでの現出を終結する。
その存在強度は、個体そのものの性質、それに加えて魔の本拠たる異界とこの世界との結びつきの強さに、依存する。
硬すぎた。同様の個体を深鳥はもっと容易に葬ったことがある。
変異種であったか、もしくは――。
考えるのはやめろ。
少女は壁に寄りかかり、立ち上がる。そのまま半身をコンクリ壁に預けながら、歩き出す。
悪運が強いというのか、致命的な損傷はないようだった。
傷が癒えればまた動くことができるだろう、この街を浄化しつくすために。
一つの機械。禍々しき怪異を討ち払うための。
灯真深鳥は静かに機動する。