討魔物語 術士
作者:清水光
「わたしがただ逃げてただけと思ってた? このルーン女はね、仕事もなくて暇だから、時々深夜にハイカイしてんの、気味悪いでしょ」
ささめはそう言いながら、男装をした麗人のうしろにくるりとまわった。
「失礼な。夜が深まれば深まるほど、世界は人の日常から離れてゆく。術の修練を積むには都合がいいんだ」
「でも、ムショクはムショクでしょ」
「まあ、そうではあるが」
スノリはため息をついてから、再度、喪服の少女に視線を合わせる。
深鳥は、自らの目標と闖入者の動向を、静かにながめていた。一切の感情を浮かべることすらなく、冷静に。
「この雪女は今賠償のためバイト中で、おそらくたぶん、反省していることだろうし、確約はできないけれど、人に迷惑をかけることもない、と思う。退治する必要はない」
「関係ない」
一言で、深鳥はスノリの言説を切り捨てた。そこに妥協の余地はまったくなく、拒絶に満ちあふれる。
拒まれたスノリにも動じた様子はない。ただほんの少しだけ体をずらし、ささめの姿を深鳥から隠した。
相対する二者がささめと深鳥から、スノリと深鳥にすりかわっていた。
「何が、関係ない、と?」
「魔で属するものは何であろうと、無条件に排撃する。例外などない」
「不本意ながら――」
もう一度、スノリはため息をつく。ただし今度はひどくつらそうに。
青い瞳は瞳孔を大きくする。眼差しが直線を描き、深鳥を貫いた。
「――ここでは彼女は私が保護している、みたいなものだ。退治させるわけにはいかない」
深鳥もまた深く息を吐き出す。けれどそれはなんらかの感情を意味したものではない。
少女にとってすべては、怪異を滅ぼす、そのためだけにある。
「魔を庇いだてとするというのなら、あなたも魔。殺します」
攻撃の予備動作。体内の気を吐くとともに、精神を研ぎ澄ます。
言葉でもって意志を宣し、そしてそれを深鳥は実現する。その力がある。
矢を象った灼熱は、深鳥の手から生れ、宙を走った。彼女の前に立つ、スノリ・ヴェランドに向って。
近距離から放たれ、急速に飛来するそれを、回避する術など、現実にはない。
十分な熱量を持った炎の尖刃。貫かれれば、助かる術もまた、ありえない。
だが、スノリはとっさに自らの外套を引き剥がすと、迫る火矢へと振り払った。
不意打ちを狙い、完全には精錬されていないといっても、深鳥の炎は十分な密度を保っている。
大概の物は貫通し、焼失させる威力はある。ましてや薄い皮などなんの防ぎにもならない。
それが、真紅の槍はスノリのもとに届かずして、霧散していた。
ただの外套ではない。なんらかの細工が施してあるのだろう。
異能はまた異能によって対される。雪女を背後に守ろうとする彼女もまた、常から外れた技を持つ。
「正気か」
「こいつに言葉なんて通じない。街ん中で術を使うのに、何のためらいもないんだよ」
深鳥は一歩間合いを詰める。その耳にはすでに言葉など入ってきていない。
再度、赤熱を打ち出す。ほんの少しの揺らぎもなく、狙いはまっすぐ。
ただひたすらそこにいる敵を燃やしつくさんとする。
スノリは言葉をつづける間を与えられず、自らを守るため外套をふるう。
少女は攻撃の手を緩めない。何度防がれようとも、尖る業火を放つことを繰り返す。
それとともに一歩一歩前進し、深鳥はスノリに迫ろうとする。
しかし、スノリもまた自らにふりかかる火の粉を払いながら、徐々に後退していく。
二人の間の距離は縮まらない。
それでもいずれ来る勝敗は明らかだろう、深鳥は目的の達成を確信していた。
火矢を射出しつづける深鳥に対し、スノリは防戦一方だ。
その外套がなんの仕掛けによっているかは知れないが、化けの皮はいずれはがれる。
魔は、一体とて残らず、焼却されなければならない。
先の追跡劇からたてつづけに、今日ははたしてどれだけの炎を編んだのだろう。
深鳥は自身の足元がふらつくのを覚えていた。視界もかすかにぶれている。
疲労はとうに極点に達している。
そうであったとしても、深鳥は前へと踏み込まなくてはならない。
ついに、スノリは外套から手を離していた。
「退く気はまったくないというのか」
「くどい」
深鳥はとどめの一撃を放出すべく、呼吸を整える。
忌むべき魔へと焦点を合わせる。
そのとき気づいた。青色をした瞳に浮かんでいた、今までにない感情の震えに。
「――仕方がない」
そう、スノリ・ヴェランドはつぶやく。
自分は彼女に憐れまれているのだと、深鳥は感じた。
突如、地面が輝きだす。正確には深鳥の足元に、白く光る一本の線がひかれていた。アルファベットのIに似た記号。
深鳥は動けない。説明不能な力が、少女をその地点に束縛していた。
スノリは変わらぬ視線で、深鳥のその様を見つめていた。
「イス、その意味するところは停滞。即席に刻んだから、効果は十全ではないが」
「そこにさらにわたしが力を加えると――」
ささめは深鳥から離れたまま、しゃがみこむ。道路に手を触れると、冷気を伝えていく。
凍結は深鳥の両足にまで及ぶ。呪縛はより強固なものとなる。
まるで、足指の先すら動かせない。ちょっとやそっとの衝撃では、氷の縛りを破壊することはかなうまい。
スノリとささめは、深鳥に対しすでに距離を開いていた。
「お前はいったい何を望む。なぜ――」
見るな。そんな眼で私を見るな。
死ね。滅びろ。くたばれ。
魔は、許さない。すべてだ。すべて、焼きつくす。
「無駄だ。人間の力ではその束縛は外せない」
深鳥は高ぶる感情にまかせ、炎を精製する。
熱は空気の揺らぎなって、深鳥の体からたちのぼった。
「攻撃するにもそこからでは遠すぎる」
「絶対に退くものか。殺す」
烈火は深鳥の傍らに、その形を現した。標的は決まっていた。
「まさか――やめろ」
氷雪は砕け散る、自身に向けて放たれた、猛火の一矢によって。
痛い、痛い、痛いよ。足が、私の足が。
「殺す」
深鳥は一歩前へと出る。
大丈夫だ。私はまだ歩ける。前に進んでいける。
この力、この忌まわしい力によって、魔を滅ぼすことができる。
ほら、すぐそこに。もうすぐ。二体、焼かれて死ぬ。
蒼い光。剥き出しの鋼の剣。あの女がそれを斜めに構えている。
抵抗するだけすればいい。どうせ、お前たちは、等しく炎にまかれ、潰える。
不意に地面が近づいてくる。手をつく暇もなく、正面からぶつかる。冷たい。
地に伏す。深鳥の消耗はとうに臨界を超えていた。
相手の術でも何でもない。ただ自分が倒れたのが、わかった。
見上げれば、最前と同じ眼で、スノリが見下ろしていた。
「ウル」
独り言のように、彼女は囁く。
「勝利への前進か、それとも、破滅への暴走か」
言いながら、スノリは深鳥へとかけより、手を伸ばす。
深鳥のうちで憎悪が一瞬にして沸騰した。激情が漆黒の瞳からこぼれる。
「殺す、殺す、殺す、殺す。何があっても殺す。どうやっても殺す。絶対に完全に、殺す。殺してやる。殺す殺す殺す」
熱に浮かされたうわごとのように、深鳥は繰り返した。
そして、火柱が、上がった。
さしのばした手をスノリはひく。
高く、高く。ほうぼうに火の粉をまき散らして。
逆巻く真紅の円柱は、空へと昇っていく。
誰に、それを眺める以外のことが、できただろう。
一人の少女が、自らの思いのすべてをかけ、天にまで走らせたそれに、誰が触れられようか。
炎がようやく消え去ったとき、勿論そこに灯真深鳥の姿はなかった。
傷だらけの体を引きずり、少女は敗走する。