雨降り 作者:あずさ
ふ、ふ、るふるふ。
るふるふる。
声が聞こえる。
ざあざあと降りしきる雨の音に埋もれそうな、それでいて確かな存在を主張している歌声が聞こえる。
音が、空気を震わせる。
ふ、ふ、るふるふ。
る、る、ふるるふ。
「……何を、しているのですか?」
る、――。
音が途切れた。それは電源を落としたかのような唐突さで、かえって余韻を引き立てる。
テレビの砂嵐が流れる代わりに聞こえるのはひたすら降り注ぐ雨の音。
雨の中、傘も差さずに立ち尽くしていた少女がくるりと浴衣を翻して振り返る。
漆黒の髪は多分な水分を吸い込み重苦しい。眉を覆い隠すほどの前髪が雨の重みで真っ直ぐに下を向いている。ふっくらとした白い頬に、雨に打たれているとは思えないほど赤みのある小さな唇。
青から赤紫へと色が染まった浴衣の裾がひらひらと風に揺れている。
こちらに向けられた瞳は、射抜くほど鋭い黒真珠の色をしていた。
「雨じゃ」
澄んだ声音で紡がれたのは、その幼い外観にはおよそ似つかわしくない言葉。
呆気に取られていると、さもおかしげに少女は口元を大きく緩やかに弛(たゆ)ませる。
ほたり、ほたり。髪を伝い落ちた雫が少女の頬をゆるりと撫ぜていく。
「風邪、ひきますよ」
「構わん」
「ですが……」
瑞原ほのかは困惑していた。
学校の帰り道、いつもの、何でもない時間。
今日は朝から雨が降っていて、外で遊んでいるような生徒は誰もいない。早々と帰ってしまう者がほとんどだ。ほのか自身、掃除当番と日直が重なっていなければ、薄暗くなってしまうこの時間まで学校に残っていようとは思わなかった。
ようやく全ての用事が終わり、足早に帰ろうとしたところに、この目の前の少女。
誰もいない道に一人で立ち尽くし歌っているだけでも奇妙なものだが――この雨の中、傘も差さずにいるというのもまた不可思議なもので。
放っておいた方がいいのかもしれない。
そう思わないでもなかったが、自分と同じくらいの少女がひたすら雨に打たれているのを無視してしまうのは気が引けた。
ほのかと同じ蛙軽井(あかるい)小学校の生徒だろうか。
しかし祭りでも何でもない日に浴衣姿でいる子供など滅多に見ない。
「雨は恵みじゃ」
空を仰ぎ見、少女は気持ち良さそうに雨を浴びる。叩きつけてくるような雨にも関わらず、顔は嬉しそうに綻んでいた。
しかしそれも一瞬。
ふと、少女の瞳に翳りが浮かぶ。
「だが、童には嫌われ者よの」
「……」
ふ、ふ、るふるふ。
るふるふる。
少女が歌う。雨音を旋律に乗せ、囁きを言葉に、リズムを刻む。
ふ、ふ、るふるふ。
る、る、ふるるふ。
――子供が雨を嫌いだというのは、分からなくもなかった。
雨が降れば外で遊べない。自転車に乗れない。せっかく可愛い靴をはいてきても汚れるし、荷物も増える。濡れてしまえば着替えたり乾かしたりと手間も増える。
それに明後日は蛙軽井小学校で遠足がある。雨が降れば中止になってしまうから、晴れを望む生徒はきっと多いだろう。
ほのか自身、雨で遠足が中止になれば残念で仕方ない。
けれど。
「嫌いじゃ、ないですよ」
ふ、――。
また、歌が途切れる。
まるで子守唄のように穏やかなソレが聴けなくなるのは名残惜しかったが、ほのかはそっと笑みを浮かべた。
傘の柄をきゅっと握る。斜めに傾けると、傘の上に溜まっていた水がざらざらと滴り落ちていく。それは少女の歌に送る拍手のようで。
「母が買ってくださった新しい傘が、使えますから。お気に入りなんです」
「……その傘かえ」
「はい」
「ふふ、わしは蛇の目が渋くて好きじゃ。けれど、お主にはそれがよう似合っておる」
「ありがとうございます」
少女が笑う。浴衣の裾で口元を隠しながら、くすくすと目元を和ませて笑みを深める。
「……ふふ、そうか。嫌いじゃないか。それも良い。ふふ」
ふ、ふ、るふるふ。
るふるふる。
少女はひらりと身を翻し、歌をさえずりながら足取り軽く駆けていった。ひらりひらり、鮮やかな浴衣が楽しげに踊る。それを、ほのかはぼんやりと見送った。
少女が去ってから、ほのかはほぅと息を吐いた。結局あの少女は最後まで傘も差さなかったが、帰ったのならそう気にすることもないだろう。あとは風邪をひかないことを祈るばかりだ。
思っていたより時間を食ってしまった。ほのか自身もそろそろ帰らなければ風邪をひいてしまうかもしれない。寒いとまでいかなくとも、暗くなってきた今、気温はだいぶ下がっている。
ほのかはゆっくりと歩き出そうとし――静かに寄せられた車に足を止めた。
「ほのかちゃん」
「お母様?」
運転席にいる人物を見て、わずかに瞠目する。それはまさしくほのかの母親であった。古い年代の小ぶりな車は母が愛用しているものだ。
「遅いから見に来てしまったわ。さ、帰りましょう?」
「はい」
促され、ほのかは素早く助手席に身を滑り込ませる。幸いさほど濡れていなかったので席を汚す心配もなかった。荷物を下ろし、ホッと息をつく。車内はほんのりと暖かい。
シートベルトをきちんと締めたことを確認してから静かに車が走り出す。
窓の外は雨。雨。雨。
「お母様が直々にお迎えなんて……久しぶりですね」
「あら、言われてみれば」
どこかくすぐったさを覚えて呟いたほのかに、母も同じような顔で笑った。
「雨も悪くないものね」
「ええ、本当に」