何もかもを覆い隠す白い霧の中にあり、それは不明瞭な白い影を残す。老人の身長ほどの、霧のせいではっきりとしない姿をして。無理矢理例えるなら「イヒヒヒ」とでもなろう奇妙な笑い声を途絶えさせることなく、ゆらりとそこに在った。
緊張や不安の凝縮された、唾液を嚥下する。
『杉山さん』
それが、この怪異の名。
奴はこの地に昔から、それこそ伝承になるほどの頃から存在していた。
曰くこの市では、人通りのない通路で奇妙な笑い声を聞いたら、立ち止まってはいけない。さもなくば、笑い声の主たる奴が訪れて、立ち止まった人間を消し去る。
仕事内容でも、テリアスの説明でも、この怪異の説明の大筋はこのようなところ。
つまり、待っていれば奴の方からこちらへ動くはず。
よし、来い。
独りで怪異に対峙する緊張を押し殺し、杖代わりに使っていた道具の布を剥ぎ取ろうと手を伸ばし…
その一瞬に、奴は動いた。
「イヒヒヒヒ!」
なっ!?
一般人が走って逃げ切れるというので鈍足との推測は、容易く裏切られた。
想像以上に、いや、想像可能な速さ以上に速い。曖昧にしか見えないとはいえ、これほどの速さで動く生物を、私は他に見たことがない。
奴め、逃げる者は本気で追っていなかったか!
そして響く、鈍い音。
間一髪のところで、布付のままの道具で奴の腕を受け止めていた。
どうやら、老人のよう、という表現は誤りだったようだ。
老人だ。身長は低く、裸足だ。現代の白衣に似たものに身を包んでいる。頭頂部は禿げており、残りは白く乱れていた。そして何より、にやにや笑いを浮かべたその顔、その混沌の腐ったような黒い目には、人間には到底内包できようはずのない底無しの狂気が渦を巻いている。
とても外見が老人とは考えられない怪力に押される私に顔を近づけ、奴は囁いた。
「ヒヒ、ダメじゃなーい。」
何がだ!?
思う間もなく、体は宙を舞っていた。隙を突いて私の服を掴んだ奴に、投げ飛ばされたのだ。酔いの頭痛に意識を掻き乱されながらも、地面に叩きつけられる咄嗟に受身をとり、道具を構える。
強い。まさか、ここまで厄介とは。
「ヒヒヒヒ」
それほど距離が離れたわけでもない。いつ奴が跳んでくるかもわからない。だが、元より逃げるなどという選択肢は、今の私の前にはない。
挑戦の最初で諦めて、次に何ができるというのだ。
道具…いや、武具に巻きつけた『保護』の付与された布を引き裂き剥がした。
姿を見せるのは、刀身に様々な刻印の施された一本の鋼の剣。刀剣の知識のあるものが見れば、柄頭はないものの、インドの剣ファランギーに似ていると言うだろう。
私が刻印に指をなぞらせる度、その刻印が仄かな光を放つ。全ての文字に光を灯した剣は、刀身自体が蒼く光を湛えた。そして同様になぞったイチイ樹の首飾を頭に接触させ、思考を覆う二日酔いを一時的に掻き消す。
ルーン文字…北欧神話において主神オーディンが得た神秘であり、魔術的意味を対象に付加する力を持った文字。自体が通常の文字として使うことが出来るために、世間一般ではそのような効果は眉唾だとされている。
だが、その意味を熟知し、その効果を引き出す者達は、現代にもその血を遺している。
その末裔が、私。
「ヒヒヒ、ダメじゃなーい!」
再び地を蹴り、愚直に間合いを詰める奴。
この速度は捉えられないが、目でなくタイミングでなら。正眼に構え、勘と感覚だけを頼りに振り下ろす。
しかし刃は、コンクリートの地面に当たり音を立てた。
気配は背、一瞬の内に奴は跳んでいた。恐らく、こちらの動きを読んで。想像以上に、戦闘慣れしている。
ッ、危な…!
「ダメダメダメダメダメダメじゃ!」
続くは、衝撃。
一瞬の内に、五回以上蹴られるなど、そうある経験ではない。しかも、人間離れした怪力、なすすべなく宙へ吹き飛ばされる。それでも剣を手放さずに済んだのは、僥倖でしかない。
全身を包む浮遊感は、しかし長く続かない。
重力の腕が私を大地へ引き摺り下ろすより早く、飛ぶ私の襟首を奴の腕が掴んだから。
アメリカの漫画ではあるまいに、如何程非現実的な動きをすれば気が済む!?
「なーい!!」
後頭部から、遠慮ない勢いでコンクリートの上に叩きつけられる。痛み、なんてものではない。体が軋む。口内に広がる、鉄臭い血の味。
鮮明にしたはずの意識が、再び曖昧になっていく。
ダメ…ね…
確かにダメかも知れないな…
やけに引き延ばされた感覚の中、冷え切った頭が呟く。
「ヒヒヒヒ」
どうせお前は一人では何もできてはいないのだ。諦めてしまえ。それがお似合いだ。
「ヒヒヒ」
泥濘のような意識の底に、自分が沈んでいく。
そうだ、何もかも諦めればこのように苦痛に喘ぐこともない。
夢さえも諦めてしまえば…
「ヒヒ」
…なんだと?
自分で思った一言が、暗雲の狭間から照らす陽光の如く、頭を覆う靄を一気に掃討する。
湧き上がるのは、赫怒。
諦めるだと…?
両の眼を見開き、右の手に握る柄を捻じ曲げんばかりに握り締める。
貴様、ふざけるなよっ!!
「ヒッ!?」
我武者羅に振るった剣が、私を押さえる両の手を肘から切断する。血液ではない、赤い光の粒子が切断面から零れ落ちる。地に落ち転がる腕も、赤い粒子となって消えていく。ルーンの力を纏う刃は、怪異に対し強烈な影響力を持つ。
「ヒッ、ヒヒ!」
想定外の傷に飛び退り、警戒する奴。
奴の主な武器は足。腕を断った程度では、弱ったとは言えない。人間ではなく、怪異なのだ。
四肢の状態を確かめながら、奔る痛苦を捻じ伏せて私は立つ。
私は、立つ。
襤褸切れにも等しい惨状を示す上着の残骸を剥ぎ取り、投げ捨てる。体を横にし足を開き、刀身を横に、構える。防御など微塵も考慮に入れない、一撃必殺のための構え。
刹那。奴が、動く。
掻き消えるかの如き、一瞬で間合いを詰める。見えない。眼で追える速度ではない。
だが、前へと足を踏み出し、そして駆ける。
回りこませない。する暇など与えない。
その迅さ、利用させてもらう!
「ダメじゃなーい!」
眼と鼻の先の距離で、奴は何するよりも速く足を撥ね上げる。
狙いは、胸部。奴の怪力を以ってすれば、それなりに鍛えた私に対してであっても、心臓を含む人体の重要な臓器を根こそぎ破壊し尽くせるであろう。
そんな事、構わない。
知ったことか。
何がダメなものか。
諦めなど、するものか。
人々の恐怖を切り断つ、あの日見た、本物のルーン使いになるために。
突く。
蒼く輝く刃を握り、ただ真っ直ぐに。
蹴り上がる足を突き破り、驚愕のみをその顔に浮かべる奴の腹部を、穿つ。
赤い光が迸り、白い濃霧を桃色へと染める。
「だ、ダメ…」
ダメなのは、貴様だ。
剣を振り上げ、胸部、首、頭部までを断ち割り、完全に破壊し尽くす。怪異だったものの残骸は、紅の粒子を撒き散らし、弾け、そして消えてゆく。
結局、奴がなぜあのようなことを繰り返し言っていたのかも、どのような怪異だったのかも、分からないまま。
唯一つ間違いないこと、それは『杉山さん』が還ってくることは二度とないという事実。
ああ、これでやっと、仕事が終わったのか…
安堵を感じると同時に、満身創痍を無視して体を動かした無理が、返ってきた。ついでに、二日酔いの頭痛まで。自分の体が倒れた音が、人事のように聞こえた。
目の前が暗く、意識が遠のく。
…足音が、聞こえた気がした。
「久々に戦闘のにおいがしたから来てみれば…なんだ、昨日一緒に飲んだお隣さんじゃない。奇遇よねぇ。」
よりにもよって、あの酔っ払い女か…
「下弦の月で仕事請け負ってたのは知ってたけど、まさかいきなりドンパチやってるなんて思わなかったわよ。しかもその剣、ルーン術師さん?なつかしーねー、なぜか研究所の倉庫にルーンの呪物が結構あったのよ。」
しかも全部お見通しとはな。色々哀しくなってくる。
「まぁ、ボロボロだし、病院くらいは連れてってあげるわよ。行きつけでね、ちょーっと妙な医者だけどウイッカの薬学の知識もあるし、口は堅いから。」
本当に、この女は何者なんだ。
「だから、安心て休んどきなさい、お嬢さん。」
…
「なぜわかった、って顔してるわね。そりゃ上半身下着姿じゃ、誰だってわかるわよ。まぁ、言いふらしたりはしないから安心しといて。飲み仲間がいなくなると、つまんないから。」
…ふん。つくづく、わからない女だ。
そして。酔っ払い女が幼女の容姿をした妖魔に「運べ」と命令する様を横目にしながら、
私の意識は、闇へと沈んだ。
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