眼が覚めた時、そこは御世辞にも清潔とは言えない小部屋の、やけに清潔な純白のシーツで整えられたベッドの上だった。
清潔ではないとは言っても、汚物に塗れていたり、血塗られていた訳ではない。足の踏み場もないほどに、ベッド以外の空間至る所を占領して大小様々な鉢植えが居座っているのだ。それらはどれも薬草であり、多様な薬剤の元となるものばかり。
そこでやっと、意識を失う前に聞いた酔っ払い女の言葉を思い出す。
ここが、その病院か。
内傷外傷共に不足なく手当されており、白い飾り気のないシャツに服装も換えられている。あれだけ負傷した以上、全身に満遍なく包帯が巻かれているのは当然の結果と言えよう。
しかし…
上半身を起こし、辺りを見回す。無意識に顔を顰めているのが、自分で判った。
植物、それも薬草を不潔とは言うまいが、しかし仮にも怪我人をこのような虫の楽園に放置するのはいかがなものか。まだ晩冬だというのに、芋虫が葉を食んでいるわ、バッタは跳ねているわ。
ベッド沿いの鉢の合間にバックパックと道具を発見し、とりあえずの安堵をしたところで。
やはりうっそうと茂った樹の影に隠された扉から、無精髭がやけに印象的な年若い白衣の男が水差しを携えて入ってきた。外見からして、この男が酔っ払い女が言っていた医者とやらに間違いないだろう。
「おっ、目が覚めたようだね、Fカップ君。」
男の第一声に、硬直する私。
…は?
「三日前にキリコが連れてきた時は、男物の服にサラシまで巻いてあったからあまり期待できる外見ではなかったんだけど…いやいや、案外大きい胸で僕は嬉しいよ。そうそう、自己紹介がまだだったね。僕は倭。キリコとは研修生時代からの友人なんだ。僕は魔女宗の薬学を修めてるんだけど、日本では技術があっても免許が必要だから普通の医師免許も取得したんだよ。」
待て、そのようなことはどうでもいいから、話を聞け!
…さては貴様、寝ている間に勝手に測ったな!?
それで本当に医者か!
「あ、君の自己紹介はいいよ、キリコから聞いてるから。うん、やっぱり起きている時のほうが美しいね。寝ていたんじゃ、どうもこう、ラインにハリがなくていけないよ。まぁそこはやはりEカップ以上のみに適用される限定的なものなんだけど、君はその栄誉に十分恥じない…」
…全く聞いていない。
話は収まる様子を見せない。放っておけば終末の時まで口を動かし続けるのではないだろうか、とまで思わせる。
あまりに延々と破廉恥なことを饒舌に話続けるもので。
気が付けばバックパックから取り出した小型の投擲ナイフを、倭という男の皮一枚を切り裂く程度の軌道で撃ち込んでいた。続く、扉にナイフの突き立つ軽い音。頬にできた水平の傷から流れる血を拭うこともせず、硬直して眼のみでナイフを追う倭。
…よし、これでやっと静かになったな。
「綺麗な薔薇には棘…と言うが、最近の花はナイフまで生やしてるんだね。でも大丈夫、この程度の障害で私の巨乳への愛と情熱は消えはしな…はい、ごめんなさい。黙るから、そんな怖い顔で剣突き出さないで。」
わかれば、よろしい。
剣の光を消し、保護の布に包みなおす。
「まぁ、僕も『下弦の月』とは色々関係する事も多いから。久々の新入りがどんな人でどんな実力か、実際肌で見てみたかったっていうのもあったんだ。あのウルドの弟子ともなればなおのこと、ね。けど、これはやりすぎ…」
五月蝿い。
…待てよ、つまり、先の品のない言動も挑発のためだと…
「いや、これは素だよ。演技でこれほどまでの熱意は不可能さ。」
まさか、二秒足らずで予想を裏切られるとは思いもよらなかった。
「あ、触ったり測ったりはしてないから安心して。僕くらいのレベルになれば、見ただけでサイズがわかるんだ。」
私は、オーディンの左目に賭けて誓う。もう二度と、金輪際こんな医者の世話にはならない。なってたまるか。何をされるかわからん。
などと考えているところに、ベッドの横へ歩み寄ってきた倭が、どこかで見たレリーフの刻印された黒い封筒を私へと手渡す。少し厚みの感じられるその中身は、十枚の紙幣。一万円札。つまりは、十万円。
「仕事の報酬だよ。バーテンの爺さんから渡されたやつ。まさか本当に倒すとは思っていなかったらしいけどね。」
思っていなかった…?
怪訝な表情を隠さずに、退屈なのか鉢植えの位置を変更しだした倭へ尋ねかける。
「うん。あの不思議現象、初仕事にしては厄介すぎると思わなかったかい?そりゃ当然さ、解決させる気がなかったんだから。」
何だとッ!?
遠慮なく、憤りのままに拳を振り下ろす。結構な音が響き、捌け口となったベッドが振るえるが、しかし倭は黙々と作業を続ける。ナイフには慄く割に、この様な行動には耐性があるらしい。
…どういうことだ?
「つまりは、君があまりに頼りなく見えたんだよ。自分に自信も持てない君が、本当に不思議現象を制することができるのか、って思わせる程度には。」
…
ぐうの音も出ないとは、このような状態を言うのだろう。
要するに、必死に隠そうとしていた私の矮小な不安や苦悩、煩悶などは、見るものが見れば丸分かりだったのだ。
「だから、厄介な仕事を与えたんだよ。命懸けってのは文字通りに全力だから、テストにはもってこい。勝てなくとも、ある程度戦えればそれでよし、倒れたところで熟練の者が助けにはいる手筈だったんだ。だけど、それを君は倒してしまった。合格も合格、想像以上だよ。」
…そうか。
意識してはいなかったのだが、気が付けば手元の封筒を、皺になるのも構わずに握り締めていた。
私はそれを喩える言葉を巧く探すことができなかった。
強いて言うならば、師匠の下を離れて以来感じる事のなかったそれは、達成感と呼ぶべきものなのだろうか?
…そういえば。
金と言えば、ここの治療費はどうなっている?
「美乳を拝ませてもらってるんだから、これ以上の報酬は必要ないよ。」
…金は、払う。
恍惚とした表情を顔全体で表現する倭の額へ、封筒の中から取り出した紙幣五枚を叩き付ける。来たばかりなので金銭感覚は未だ判らないが、これだけあれば十分かと思う。
というより、こんな男に貸しを作りたくない。後が恐ろしい。
では、私はこれで行くとする。
「その傷全治三週間…って言って納得するような患者は、そんなこと言い出さないよね。いいよ、止めないから。」
あまり反応がないのも、それはそれで退屈なものだ。
わざわざ反応を求める気はないではあるが。
「で、残りのお金、どうするんだい?また別の場所へ行くための旅費なのかい?」
誰に聞いた、となどは言わない。大体犯人はわかる。全くあの酔っ払い女、色々言いふらしてくれている。医者の口の硬さを心配する前に、その口をどうにかして欲しいものだ。
バックパックから取り出した上着を着込むなり、ベッドのそばの窓を全開にする。唇から漏れるのが、溜息ではなく笑みだと気付き、自分で驚く。
…どうするって?
涼やかな風が、吹き込む。
二階の部屋は、天高くより降り注ぐ陽光を遮る物はない。森が近いのだろう、木の葉のざわめきが車の騒音よりも大きく感じる。
勿論…
呆れ顔の倭を尻目に。
靴を履き、道具を掴み、背嚢を背負い、肺の底まで清冽な空気を吸いこむ。
今目前に広がる視界。その特異な環境によって様々な怪異や現象を内包する、何とも奇妙な霧の街。
その名を、霧生ヶ谷市。
この市にいい住処が見つかるまでの、宿泊費だ。
スノリ・ヴェランドは飛び出した。
清潔ではないとは言っても、汚物に塗れていたり、血塗られていた訳ではない。足の踏み場もないほどに、ベッド以外の空間至る所を占領して大小様々な鉢植えが居座っているのだ。それらはどれも薬草であり、多様な薬剤の元となるものばかり。
そこでやっと、意識を失う前に聞いた酔っ払い女の言葉を思い出す。
ここが、その病院か。
内傷外傷共に不足なく手当されており、白い飾り気のないシャツに服装も換えられている。あれだけ負傷した以上、全身に満遍なく包帯が巻かれているのは当然の結果と言えよう。
しかし…
上半身を起こし、辺りを見回す。無意識に顔を顰めているのが、自分で判った。
植物、それも薬草を不潔とは言うまいが、しかし仮にも怪我人をこのような虫の楽園に放置するのはいかがなものか。まだ晩冬だというのに、芋虫が葉を食んでいるわ、バッタは跳ねているわ。
ベッド沿いの鉢の合間にバックパックと道具を発見し、とりあえずの安堵をしたところで。
やはりうっそうと茂った樹の影に隠された扉から、無精髭がやけに印象的な年若い白衣の男が水差しを携えて入ってきた。外見からして、この男が酔っ払い女が言っていた医者とやらに間違いないだろう。
「おっ、目が覚めたようだね、Fカップ君。」
男の第一声に、硬直する私。
…は?
「三日前にキリコが連れてきた時は、男物の服にサラシまで巻いてあったからあまり期待できる外見ではなかったんだけど…いやいや、案外大きい胸で僕は嬉しいよ。そうそう、自己紹介がまだだったね。僕は倭。キリコとは研修生時代からの友人なんだ。僕は魔女宗の薬学を修めてるんだけど、日本では技術があっても免許が必要だから普通の医師免許も取得したんだよ。」
待て、そのようなことはどうでもいいから、話を聞け!
…さては貴様、寝ている間に勝手に測ったな!?
それで本当に医者か!
「あ、君の自己紹介はいいよ、キリコから聞いてるから。うん、やっぱり起きている時のほうが美しいね。寝ていたんじゃ、どうもこう、ラインにハリがなくていけないよ。まぁそこはやはりEカップ以上のみに適用される限定的なものなんだけど、君はその栄誉に十分恥じない…」
…全く聞いていない。
話は収まる様子を見せない。放っておけば終末の時まで口を動かし続けるのではないだろうか、とまで思わせる。
あまりに延々と破廉恥なことを饒舌に話続けるもので。
気が付けばバックパックから取り出した小型の投擲ナイフを、倭という男の皮一枚を切り裂く程度の軌道で撃ち込んでいた。続く、扉にナイフの突き立つ軽い音。頬にできた水平の傷から流れる血を拭うこともせず、硬直して眼のみでナイフを追う倭。
…よし、これでやっと静かになったな。
「綺麗な薔薇には棘…と言うが、最近の花はナイフまで生やしてるんだね。でも大丈夫、この程度の障害で私の巨乳への愛と情熱は消えはしな…はい、ごめんなさい。黙るから、そんな怖い顔で剣突き出さないで。」
わかれば、よろしい。
剣の光を消し、保護の布に包みなおす。
「まぁ、僕も『下弦の月』とは色々関係する事も多いから。久々の新入りがどんな人でどんな実力か、実際肌で見てみたかったっていうのもあったんだ。あのウルドの弟子ともなればなおのこと、ね。けど、これはやりすぎ…」
五月蝿い。
…待てよ、つまり、先の品のない言動も挑発のためだと…
「いや、これは素だよ。演技でこれほどまでの熱意は不可能さ。」
まさか、二秒足らずで予想を裏切られるとは思いもよらなかった。
「あ、触ったり測ったりはしてないから安心して。僕くらいのレベルになれば、見ただけでサイズがわかるんだ。」
私は、オーディンの左目に賭けて誓う。もう二度と、金輪際こんな医者の世話にはならない。なってたまるか。何をされるかわからん。
などと考えているところに、ベッドの横へ歩み寄ってきた倭が、どこかで見たレリーフの刻印された黒い封筒を私へと手渡す。少し厚みの感じられるその中身は、十枚の紙幣。一万円札。つまりは、十万円。
「仕事の報酬だよ。バーテンの爺さんから渡されたやつ。まさか本当に倒すとは思っていなかったらしいけどね。」
思っていなかった…?
怪訝な表情を隠さずに、退屈なのか鉢植えの位置を変更しだした倭へ尋ねかける。
「うん。あの不思議現象、初仕事にしては厄介すぎると思わなかったかい?そりゃ当然さ、解決させる気がなかったんだから。」
何だとッ!?
遠慮なく、憤りのままに拳を振り下ろす。結構な音が響き、捌け口となったベッドが振るえるが、しかし倭は黙々と作業を続ける。ナイフには慄く割に、この様な行動には耐性があるらしい。
…どういうことだ?
「つまりは、君があまりに頼りなく見えたんだよ。自分に自信も持てない君が、本当に不思議現象を制することができるのか、って思わせる程度には。」
…
ぐうの音も出ないとは、このような状態を言うのだろう。
要するに、必死に隠そうとしていた私の矮小な不安や苦悩、煩悶などは、見るものが見れば丸分かりだったのだ。
「だから、厄介な仕事を与えたんだよ。命懸けってのは文字通りに全力だから、テストにはもってこい。勝てなくとも、ある程度戦えればそれでよし、倒れたところで熟練の者が助けにはいる手筈だったんだ。だけど、それを君は倒してしまった。合格も合格、想像以上だよ。」
…そうか。
意識してはいなかったのだが、気が付けば手元の封筒を、皺になるのも構わずに握り締めていた。
私はそれを喩える言葉を巧く探すことができなかった。
強いて言うならば、師匠の下を離れて以来感じる事のなかったそれは、達成感と呼ぶべきものなのだろうか?
…そういえば。
金と言えば、ここの治療費はどうなっている?
「美乳を拝ませてもらってるんだから、これ以上の報酬は必要ないよ。」
…金は、払う。
恍惚とした表情を顔全体で表現する倭の額へ、封筒の中から取り出した紙幣五枚を叩き付ける。来たばかりなので金銭感覚は未だ判らないが、これだけあれば十分かと思う。
というより、こんな男に貸しを作りたくない。後が恐ろしい。
では、私はこれで行くとする。
「その傷全治三週間…って言って納得するような患者は、そんなこと言い出さないよね。いいよ、止めないから。」
あまり反応がないのも、それはそれで退屈なものだ。
わざわざ反応を求める気はないではあるが。
「で、残りのお金、どうするんだい?また別の場所へ行くための旅費なのかい?」
誰に聞いた、となどは言わない。大体犯人はわかる。全くあの酔っ払い女、色々言いふらしてくれている。医者の口の硬さを心配する前に、その口をどうにかして欲しいものだ。
バックパックから取り出した上着を着込むなり、ベッドのそばの窓を全開にする。唇から漏れるのが、溜息ではなく笑みだと気付き、自分で驚く。
…どうするって?
涼やかな風が、吹き込む。
二階の部屋は、天高くより降り注ぐ陽光を遮る物はない。森が近いのだろう、木の葉のざわめきが車の騒音よりも大きく感じる。
勿論…
呆れ顔の倭を尻目に。
靴を履き、道具を掴み、背嚢を背負い、肺の底まで清冽な空気を吸いこむ。
今目前に広がる視界。その特異な環境によって様々な怪異や現象を内包する、何とも奇妙な霧の街。
その名を、霧生ヶ谷市。
この市にいい住処が見つかるまでの、宿泊費だ。
スノリ・ヴェランドは飛び出した。