シェアワールド@霧生ヶ谷市企画部考案課

夢魔の食卓1

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kiryugaya

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夢魔の食卓

「あれがまた現れたようです」
 静謐そのものの空間に黒瀬礼一のため息のような一声が発せられた。
高級ホテルの最上階、気品という言葉を部屋で現したらこうなる、というような場所である。そこに二人の男がいる。車椅子に座っている黒瀬と、それに向かい合って立つ小島勝一の二人である。
「だろうな。手前から呼び出すって時は厄介事ができたって事だろうからな」
 黒瀬は藍色のスーツを着た、若社長然とした優男で、膝から下が両足とも義足だ。対する小島はソフト帽によれたレインコートという典型的なハードボイルドスタイルである。悪党の密会、そんな言葉がよく似合う光景だろう。
「ええ、まさしくやっかいなのですよ。この気配は彼女ですな。彼女の性格を考慮すると場所は霧生ヶ谷市でしょうね」
 彼らは一種の密偵だ。それも「人智を超えた力を悪用するテロリスト」を狩り出す猟犬、そんな冗談のような職業が小島の生業だ。彼に対する依頼があるということは、テロリストがいるという事に他ならない。
「一番ホットな場所に行くってか。あのくそあまらしいな」
 小島は忌々しさを隠しもしない。彼女という代名詞だけでわかる積年の仇敵だ。その悪運と生き意地の汚さに何度も煮え湯を飲まされている相手だった。小島はクリスタルガラスの灰皿に灰を落す。
「それで、あなたは行かれるのでしょうね」
 霧生ヶ谷市は業界で有名な、一種の霊場だ。スィーブンキングの描くのデリーのような、サイレントヒルのような、ホーンテッドマンションならぬホーンテッドタウン。何かに取り憑かれた街だ。敵の罠の存在は容易に察せられる。
「ああ、行かないと思うか?俺にゃそれしかないからな」
 小島の言葉は自虐的な響きがあった。病んだ病巣のような夕日がこの部屋の照明だった。煙草の匂いが物憂さを助長する。
「そうですか、ではお気をつけて。本来は私が行かねばならないのですがね」
 黒瀬は己の足を見てそう言った。皮肉とも冗談ともつかない投げやりな口調だ。
「俺は好きで行くんだ。手前が気にする事ぁねえ。金の方はしっかりたのむぜ」
 小島が踵を返し、幽鬼のように歩き出す。小島の背中に黒瀬が思い出したように言葉を投げかけた。
「ところで、どれほど思い出されましたか?」
 小島の歩みが止まり、ゆっくりと振り返る。彼が探偵をする理由、記憶の空白だ。
「さっぱりだな。今回は手ごたえがありそうだがな」
黒瀬はやはり哀れむような目で小島をしばらく見据える。小島はそれに微笑で答え、再び歩き出す。
「小島さん」
「なんだ?」
「気をつけてください。くれぐれも気をつけてください」
 それは、何気なく振舞っていても心底怯えている者の声であった。
 にかかった鼠のような絶望に包まれた声だった。
 それに返す言葉を小島は持っていなかった。ただ、これからの仕事を考える事にした。


 午後の牛丼屋に一人の女が座っている。
 濡れ羽色の長髪に白いコート。そのまなざしは母性的だ。
 店長は辛気臭い顔で皿を磨いていた。
「このお店、閑古鳥が鳴いてるわね。ねえ、金木さん」
 店長はこの不躾な言葉に対し、聞こえない振りをした。
本店から来た営業員か。嫌味をまたさんざん言って帰るのだろう。
「大変よねぇ。この町の抹茶屋チェーンでここだけ成績が悪いんだから。でも、立地上ここはどうしたってそうなるような場所なのよね」
「あなたも営業の人なんですか。そうじゃないなら放っておいてください」
 女は粘着質で嗜虐的に言葉を続ける。
「毎月会議で苛められてるんでしょう?あなたが悪いわけでもないのに。私、ちょっとお金を持ってるのよ。これを使えば売り上げの成績をごまかせるかもしれないわね」
 甘い話には裏がある。その言葉で何度騙されたか。
 それにそれは犯罪行為そのものだ。
「ご冗談を」
 すると女はバッグから札束を積み上げ、契約書を差し出した。
「いいえ、本気よ。あなたはこれを返す必要は無いの。ただ一つ条件を飲んでくれればね」
 現生の3000万円。その魔力は彼を魅了するに十分だった。
「何でしょう」
「私、今売り出している香辛料があるんだけど、それを使ってくれないかしら。いいものなんだけど買い手がいなくて困ってるのよ。宣伝を兼ねてしばらく置いてくれない?それと、親戚でいい子がいるんだけど、社会経験としてアルバイトとして雇ってくれないかしら」
そう言って履歴書を差し出す。所詮建前の書類なのでどこまで本当かわからないが、見た目だけならけっこうな美人に入る少女だろう。
 契約書も穴の開くほど読み舐める。おかしな所は何も無い。
「解りました。このことはお互いに内密に…」
 そうして彼はサインした。
「お名前は…何と読むんですか。ぎょうぶ…さん?でしょうかね」
「刑部宝(ぎょうぶ たから)よ。知り合いからはハイヌウェレって呼ばれてるけど」
 それじゃあよろしくね、とハイヌウェレはいくつかの粉末の入った缶を残して去っていった。
 缶にはただGRATONと書いてある。店主はそそくさと現金を掴むと、それをどう使ったものか考え始めた。
 GRATON
 その単語が「大食」を意味するとは知らずに。

 

 それが始まったのは中田登紀子からだった。
「絶対おいしいんだからさ、食べてみようよ!」
 菅原尚美は友人の登紀子から牛丼をプッシュされているのだ。今日だけでも三回は聞いた。
 登紀子は牛丼屋で働き始めてから妙に明るくなった。憎めないというか、何を言ってもこちらが赦してしまうような魅力というか。
「牛丼?嫌よ太るし。あんたみたいに脂肪が胸に行く体質じゃないんだって」
「じゃあ奢るからさ、バイトしてるから多少の無茶は効くのよ。絶対損しないよあの味は!体にいいんだってあれは」
 こう毎日言われてはうるさくて敵わない。なんでも美容にいい牛丼なのだそうだ。そのハマり方はまるで宗教みたいで薄気味が悪い。
 しかし登紀子が綺麗になったのは事実だ。体形はむしろぽっちゃりしてきたのに妙に女っぽいというか、色気づいたというか。
 この街は都市伝説が多い。霧が濃い時にはばけものが現れるとか、いやいやそれは恋愛成就の神様だとか、チョコレートのなる木が生えているとか、チェーンソーに白衣の女がそれを切り倒したとか。
 嘘みたいなのも多いけど、そのうちのいくつかは本当にあると尚美は知っている。
 案外美容にいい牛丼というのは本当なのかもしれない。この街なら何が起こってもおかしくは無い。
 それに、学生の身だとお小遣いも少ない。奢りで昼食というのはおいしい話だ。適当に不味かったとでも言っておけば次からは断れるだろう。
「本当に奢るならいいけど。でも不味かったらもうその話はやめてよね」
「絶対おいしいって言うもんね。びっくりするんだから」
 尚美は生返事で答えながらも頭の中は牛丼屋に対する不気味なイメージが広がっていった。

 牛丼屋「抹茶屋」。随分古いバンドの曲がかかっている。たしか、リッチー・ユリスっていう自殺したミュージシャンのだ。
「店長、いつものお願いっ。あ、今日は二つね」
 登紀子は相変わらずテンションが高い。待ち遠しくてたまらないといった様子である。
「あ、ああ…いつものね」
 店主のおじさんは何か挙動不審だ。登紀子をチラチラ見てる。弱みでも握られてるんだろうか。
「そうなのよ。もう食べる事だけが楽しみになっちゃって。おばさん臭いかな?」
 登紀子は全然気にしていない。昔から図太いとは思ってたけど、最近ますます加速がついたようだ。
 店主のおっさんがそっと丼を差し出してくる。
 尚美には一瞬それがとてつもなくおぞましい何かに見えた。
 でもよく見れば普通の牛丼だ。見た目だけではそれほど美味しいようには見えない。店も君が悪いし、早く食べて二度とここにはこないようにしよう。
 隣を見ると登紀子はかじりつくような勢いで食べ始めていた。店員が目で圧迫してくる。
 尚美は目を瞑って一気に一口目を食べた。
 体中に味覚が広がった。今まで食べた食物とは段違いの喉にくる鮮烈な甘み。気がつけば肩で息をしながら浅ましく残り汁を啜っていた。
 ふっと隣を見ると登紀子も自分と同じように、紅潮した顔で気だるく微笑んでいる。
「おいしかったでしょ?」
 菅原尚美の転落が始まった。

 それからは長い説明を要する事では無かった。
 あの牛丼に比べれば、他の食べ物は食べられない。毎日のように尚美は登紀子の働く抹茶屋へと足を運び、そして彼女の友人たちも同じように牛丼に魅了されていった。
 彼女らは集まっては他愛の無い話をする。

「やっぱり食べると幸せになるよね。もう他の事はどうでもいいって感じ」
「そうそう。衣食住って言うじゃない?人間食べて寝る所さえあればいいのよ」
「それに尚美、なんだか最近胸出てきたんじゃないの?やっぱりあそこの牛丼って体にいいのよ」
「解る?なんかお肌の調子もいいしさ。彼氏できちゃったんだ」
 実際に彼女らは女らしくなっていた。体形はふくよかな曲線を描き、なにより目線が柔らかい、包み込むような母性がにじみ出ているのだ。
だが誰が気づこうか。彼女らのその目、その体形は中田登紀子と同じものだという事に。
「よかったじゃない。やっぱりさ、自分が幸せだと周りの人もこころがほんわかしてくるもの」
 座の中心にいるのは登紀子だ。自身の作った弁当を仲間と分け合っている。
「うんうん。あれ、あんた何食べてるの?お弁当?やめなって。あの店行こうよ」
「うーん、これもおいしいよ?ちょっと食べてみたら?工夫してみたんだ」
 登紀子は尚美にも弁当を渡す。その一口は彼女に食べなれた衝撃を与えた。今や彼女らを纏めている牛丼に勝るとも劣らない理性を蕩かす美味しさ。
「どうやって作ったの登紀子っ?あの牛丼と同じくらい、ううん、あれよりもっとすごい」
 登紀子はやや得意げに、それ以上にほほえましいものを見る眼で告げる。
「あの店の店長さんから味の秘密を教わったのよ。みんなに教えてあげてもいいけど、目立たない場所がいいな」
 子供同士が悪戯を相談するかのような邪気の無い泡のように弾ける笑いが広がった。
「そうだよね。なんたってあんなにすごいんだもん。秘伝って奴なんでしょ?いいの?」
 無邪気に尋ねる尚美に対し、登紀子はあくまで謎のような笑みで答えた。
「だから私の家で教えるから今日来なよ」

 登紀子の家に着くと、彼女の取り巻きのほぼ全員がいた。そろいも揃っててんでバラバラなものを黙々と食べている。静か過ぎて気味が悪い。
「やだ、なんでみんないるの?ひょっとして知らないのあたしだけ?」
「ゴメンね。ちょっとびっくりするような方法だから、一人一人話した方がいいと思ったんだ」
「ふーん。それで、どんなコツなのよ?」
 登紀子が自然な動きで尚美に向かってくる。そうして、いきなり尚美の頭を掴んで自分に引き寄せ唇を重ねた。
 もがこうとするが、後ろにいた少女が尚美の腕を二人がかりで押さえつけてくる。人間とは思えない膂力だった。
 尚美の硬く閉じられた唇を登紀子の舌が割って入る。尚美が薄目を開けると、いつもの登紀子の顔があった。
 穏やかで、あくまで優しい瞳。何もかもを受け入れるかのような慈母のような笑顔が「何も心配することはない」と継げている。
 そして登紀子の息からは食欲を直に刺激されるような匂いが漂う。急激に湧き上がる飢えと渇望。
 またしても尚美は屈した。尚美がおずおずとあけた歯に登紀子の吐瀉物が入ってくる。思わず吐き戻そうという動きはその味覚に侵略された。
 その瞬間、頭を殴られたように味覚が爆発する。美味しい、おいしい。世の中にこれほど美味しいものがあったなんて。
まるで味覚を通じて脳を鷲摑みにされたみたいだ。それは尚美の食べるという事に関する認識を根底から打ち壊した。
今まで自転車に乗っていた人間が突然レーシングカーに乗ったような衝撃だった。
 そして尚美は理解した。食べる事は生きる事なのだと。
 餓死寸前で人肉を食べるものの気持ちを理解した。自らの牙で獲物に食らいつき、相手を生きたまま食べる獣の快楽を理解した。
 生きるために食べ、食べるために生きる。その他の事は全てどうでもいい事のように思えてきた。単純にして強い快楽。それが尚美を支配していた。それはある種性的ですらあった。
 尚美の自我が、体が、今まで築き上げた全てが破壊され、新たに構築されていくのが解る。
 ゆっくりと登紀子の唇が糸を引いて離され、尚美は声にならない声を上げてへたりこみ崩れ落ちる。
 背後で尚美を押さえていた二人は腕を放し、尚美の体を抱き起こす。
 体は未だに快楽に包まれている。熾火のように体の中で穏やかに燃え続ける幸福感。だが何かが足りない。丁度喫煙者が手持ち無沙汰になった時のように落ち着かない。
「ごめんねいきなりで。でも言葉じゃ説明できなかったから。お腹減ってるでしょ?これあげる」
 登紀子が菓子パンを目の前にそっと差し出す。あくまでもさりげなく。尚美はパンを攫み取り、貪婪に食らう。
そのパンが、食べることが自分の求めていたものだと解った。そうして、そのどこにでもある市販の菓子パンから、今まで体験した事の無い味覚を感じた。
 丁度昆虫の目が赤外線を捕らえ、蝙蝠の耳が超音波を聞く様に、人には知覚できない味を尚美は知覚していた。今や彼女には全ての食物が自分にとって牛丼と同じ至高の味覚になった事を悟り、食べる事そのものも同じ快楽になったと知った。
「今までの、全部あんたが作ってたの?あの…私が飲んだ奴で、あの店の牛丼も?これからはあたし何を食べてもおいしくなるの?」
 登紀子は幼子に諭すように優しく語り掛ける。
「そうよ。あたしたちはもうなんでも食べられるの。これからはずっと幸せでいられるの。食べる幸せがずっと続くのよ」
 登紀子が冷蔵庫をおもむろに開ける。冷蔵庫には手足を切り取られた全裸の男が入れられていた。
 登紀子の彼氏だ。尚美も知っているクラスメートの一人である。
 彼は胸の肉を生きたまま齧り取られ、摂氏5度の冷蔵庫に長期間入れられていた。それでも男は生きていた。恐怖と絶望で歪み切った顔をして。
「私はね、食べられるならなんでも食べていいと思うの。これはうん、そう。ちょっとした失敗なのよ。秘密、知られちゃったからさあ。食べれば大丈夫かなって。それに結構おいしいし。効率いいでしょ?」
 登紀子は今日は何を着ていこうかとでもいうようなごく自然な調子で言う。
 自らのボーイフレンドに注がれる目線はもはやただの食物に向けられるものとなんら変わりない。
 だが尚美にはそれが異常と感じられなかった。すでに登紀子と同じ感性になっていたのだ。食べる事に以外にはなんら頓着しない感性に。尚美にはそれ以上に目の前の人間を食べてみたらどんな味がするのだろうという事しか考えていない。
 仲間たちも目の前の生きのいい肉の匂いによってきている。手にはフォークやナイフ、包丁や醤油を手に持って。
 それを見た瞬間、尚美は男に食らいついていた。新鮮な肉は獣臭く、酷く美味しかった。

 彼女らが失踪したのはその数日後だった。

 

「よう、暗い顔だな坊主」
 深夜の公園に二人の男がいる。一人は青年で、一人は中年に差し掛かるくらいだ。
 霧の、それも春の夜は半端に蒸し暑く不快感をかきたたせる。
 青年は公園のベンチに座り、食いかけの弁当を足で踏みにじっていた。
「放っておいてくれないすか、これ片付けますから。ちょっと今しんどい事があって、一人にして欲しいんすよ」
 青年は高校生で、十年分の悩みが一気にきたような顔をしていた。
 普段は年相応に明るく、多くの友人と遊んでいるであろう青春の残り香がやつれきった顔の下に伺える。
「手伝うさ。何もお前を責めてちゃいねえよ。喧嘩を売ってるわけでもねえ。補導をしに来たんじゃねえのは見りゃわかるだろ?」
 青年に話しかけた男は30代後半で、薄汚れたレインコートに同じような色の鍔広の帽子を被っている。野暮ったい、ハードボイルドを気取ろうとして失敗したような姿だ。明らかに警官ではない。
「はあ、まあ」
 男は青年と共に弁当の残骸を片付けながら独り言のように言葉を投げてくる。
「俺はまあ、お前さんと同じようなもんさ。ちょいと夜風に当たりたくてな。眠れない夜ってな、人恋しくなるものさ。何かに悩んでるってんなら聞かせちゃくれねえか。なんでもいいから人と話したくてな」
 二人は弁当を片付け終わるとどちらともなくベンチに腰掛ける。
「なんつうか、女の事なんすよ。どうしたらいいかわからなくなっちまって」
 男は青年の話を邪魔しないように曖昧に相槌を打つ。
「俺、つきあってる彼女がいて、尚美っていうんですけど。尚美は最近急に綺麗になって。それはいいんすけど、なんか変だったんです」
 男の顔にさっと影が差す。何かに思い当たったというように。
「妙に明るかったり、落ち着いた感じがするとかか?そういう時ってな何か一つくらい秘密があったりするもんさ」
「そうなんすよ。なんか、すげえ落ち着いてて。何があっても大丈夫っていうか。向こう見ずっていうんすか?なんか見てて怖いんすよ。彼女なのに全然知らない女みたいになっちゃって。きっと無理してたと思うんすよ。何かよくわからないトラブルみたいな…俺、何もできねえで。知ってます?女子高生集団失踪事件。あの時尚美もいなくなっちまった」
「ああ知ってるさ。新聞にも載ったな。それを気にしてるんだろ?」
 男は婉曲的な表現を使ったが、失踪した女子高生のうち半分近くが妊娠していたと書面には書いてあったのだ。
 青年は身を切られるような苦悶の顔で頷く。
「ええ、ええ…ひょっとしたら尚美も妊娠…してたんじゃないかって。最近すげえよく食べてたし。えっとその、あれっす。胸もでかくなって。あれひょっとしてって思って。俺もうどうしたらいいかわかんなくなって。それでここに来たんですよ」
「料理も上手くなってたんだろ」
 男がぼそりとつぶやく。その声にはわずかな憤りが含まれていた。
「なんで知ってるんだ?あんたはっ」
 ここでようやく青年は状況の異常さに気づいた。なぜ男はいちいちこちらの言う事を先読みしてきたのか、そもそもよくよく考えればなぜ深夜で弁当を踏みにじっているような高校生に声をかけてきたのか?
 男は手札を鮮やかに現した。
「すまねえな、騙したみたいでよ。名乗るのが遅れたな。俺は小島勝一って探偵でな、その事件について探っているのさ。他の奴らからもいろいろ聞いてたのさ、当て推量だったが当たったみてえだな」
 青年は立ち上がって叫んだ。
「俺を疑ってるんですかっ」
 それに対し男はあくまで落ち着いた、カウンセラーに似た口調で滔滔と手札の開示を続ける。
「いいや。お前さんの所には確認に来たって訳さ進藤達哉。妙に明るい、よく食うってのは失踪した奴らの家族も口をそろえて言ってたからな。ついでに言ってやろうか。お前さんが弁当を踏んでたのは手前の彼女の作る料理を食っちまってから何食っても食った気がしねえからだ」
 達哉の顔には驚愕があった。小島の言葉を達哉は身をもって証明していた。
「何か解ってるんですかっ言ってくださいっ俺は全部話したっそうだよ、あれを食っちまってから俺も何か変なんだよ。なあ、教えてくれよ探偵さん。尚美は、一体どうなっちまったんだ?俺のせいなのか?」
 小島は長い話になるぞ、と一言おいてゆっくりと煙草をつけた。

 ある所に科学者がいた。とびっきり天才で、とびっきり頭のおかしい奴だ。
 そいつはこんな事を考えてた。人間ってな弱ええ。肉体がじゃなくて精神がだ。何かあると悩んだり、正しい事がわかっていても実行できなかったりな。そいつはそれを変えたいと思った。たとえば…「動物のように食べて寝てやることだけしか考えなれば誰もが皆幸福になる」とかな
 この街ってなぁ、不思議な所だ。どんな奇跡が起こってもおかしくねえ。そいつはここに興味を持った。20年前にこの街に来て、数年後またどこぞに消えた。何をしたかはわからねえ。だが、ろくでもねえこったろうよ。そいつは今また来た。収穫の時ってわけだ。いろいろ仕込んだんだろうよ。20年前にな。
 俺はその尻拭いに来たのさ。

 男は話は終わったと言わんばかりに煙草をもみ消した。
「それで?尚美はどうなっちまったんだよっ」
 その態度を見て、小島は自らの失敗を悟った。話しすぎたのだ。達哉は事件に首を突っ込むかもしれない。
 巻き込んだのは自分だ。止めれば諦めるだろうか。
「キツい話だ。まあ、薬でも盛られたんだろうさ。俺はこれからいなくなった奴らを探しに行く。仕事だからな、なんとかするさ。手前は帰りを待ってやるこった。結果がどうあれ、カタがついたら俺はお前にそれを言わなきゃならねえからな」
 これで帰ってくれるならそれで良し。無理ならば手荒な手を使ってでも阻止せねばならない。
「俺も…俺もやりますよっ自分の彼女も守れなかった。これで行かなきゃ男じゃねえっ」
 小島は心底自分の言わなければならない事を厭う顔で冷たく告げる。
「相手は何をしてくるかわからねえ。殺し合いになるかもしれねえ。手前が戦えるのか?そうは見えねえな」
 達哉はしばらく迷ったようだが、立ち上がり小島に向かい合う。
「だとしても俺は行くっ今度こそ尚美を助けるっ」
 尚美救出にこだわったのは達哉自身が罪の意識から逃げるがためだったかもしれない。
 それとも一種の独占欲なのか。
 小島は達哉に対し、ただ哀しそうな目をして、思い切り彼の腹を殴った。
「すまねえな巻き込んじまった。弱え俺でもこの通りだ。悪い事はいわねえ。手前ができる一番のこたあ、彼女が帰ってきた時に今度こそ落ち着いて迎えてやる事さ」
 小島は立ち上がり、彼を抱き起こしてベンチに座らせた。
 まだ呻いている達哉を一瞥し、なあに大丈夫さ任せておきな、と継げて夜霧に消えていった。
「畜生、畜生っ」
 後には地面を叩き、嘆きの涙を落す達哉だけが残された。

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