シェアワールド@霧生ヶ谷市企画部考案課

社訓 一、可愛い客は煙に巻け

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社訓 一、可愛い客は煙に巻け 作者:ちねさん



 其の肌 幽玄にして 霧に遊ぶ蓮華の如し
 当てたる刃 斬れざるを断ちたり
 斬らるるを結びたり



「おんばざら あらたんのう……」
「はい?」
 と聞き返して、花蓮(かれん)は膝上の地図から運転席へ向き直った。
 便利屋が長い前髪のあいだから覗かせる双眸は、青葉が抱く朝露のようにたっぷりと悪戯っ気を含んでいる。男がこんな視線を投げて寄越す後には必ず感心できぬ言動が待ち構えているのが常だと、二十歳に満たない娘でも知っていた。
「……おんたらく そわか」
 青年は彼女の性急な説明要請とも取れる問い返し、軽微な警戒を悠然と受け流して唱え終えた。まるでそれが稀有な香で、肌に染み渡るのを待つかのように一呼吸置く。花蓮には半分以上が彼自身の香気であるように感じられて、それに中てられぬよう僅かに身を引いた。
 翠煙(すいえん)というのがこの若き便利屋の店名なのか本名なのか、本名としても姓なのか名なのか両方なのか、花蓮は知らない。ご依頼どーも、翠煙ですと名乗られればそう呼ぶしかない。
 日雇いの勢いで拾った仕事を力任せにやっつけるだけの便利屋ではなさそうなのは察していた。焼けていない肌に荒れのない指、常駐する微笑の曖昧さは知的犯罪者を思わせる曲者材料だ。
「左手に蓮華、右手に剣を持す菩薩がいらっしゃる。似てると思わない?」
「誰に、でしょう」
「やだなー分かってるくせに。蓮華の名を持つ、剣が生業のお嬢さんにだよ。まあ生業と言っても正確には砥師八分の一人前未満だそうだけど、ミス・ワトスンは」
「以下です、未満じゃなくて以下。それに渡洲(わたす)です」
 火急の用件、小娘には精一杯の謝礼で受けてくれた便利屋は彼しかいなかった。だがこんなことならタクシーを使って一人で来れば良かった、と後悔する依頼人は額を押さえる。
「華であり剣である君とお近付きになれたのが、虚空蔵菩薩の功徳かもしれないね」
 芝居がかった合掌をしてみせる翠煙。花蓮は口達者な青年が口説き文句らしきものを繰り出すのをどうにか流し、手にした地図をひときわバサバサと音たてながら広げた。
「いいからハンドル握って運転に集中してくださいってば。あーあ、せめて霧が晴れるといいのに」
「無理じゃん? 俺のはらわたの灰色の脳細胞が鋭利な鈍器で刺されたようにくすぐったいんだ。間違いなし、雨。俺は俺の唇を賭けるから、君は君の唇を賭けようじゃないか」
「……勝敗にかかわらずわたしの唇が奪われる算段になってます」
「で、何回分賭けてくれちゃうの?」



 フロントガラスで玉砕する雨粒は躍起になったらしくて、人海戦術で二人の行く手を阻む作戦に打って出たようだった。
「洗車代、浮いちゃった」
 とご機嫌なドライバーは妨害をものともせず、垂直方向のノイズで消されかけた山道を快調に飛ばす。一方の助手席では花蓮が背をシートに張り付けて、ジェットコースター気分を味わわされていた。
「あれ、怖い? くふ。この式王子ヶ谷山地は海からの湿った風がぶつかるから霧や雨ばっかりでね。地元民はこれしきの雨でびびったりしないの。あーでもタイヤ磨り減ってるから取っ替えなきゃって思ったの、だいぶ前だったなあ……」
 タクシーへの乗り換えを検討する切迫した必要性を感じた花蓮の携帯は、無情にも圏外を告げていた。
「式王子ヶ谷の霧って帯電粒子が半端じゃないらしいよ。ノイズ、ノイズで携帯も無線も役立たず。有効な通信手段は音だね、霧笛とか。鬼百舌の名の由来は通信用の鳥獣の擬声に長けてたからとも、殺めた敵を見せしめに早贄風に展示しちゃったからとも……知らないの? 霧生忍法帖。うー、ローカルにしとくには惜しい番組なんだよなあホント」
 霧生忍群と霧賀忍群の死闘だの禁断の恋だのと熱い語りを花蓮が可能な限り右から左へ流しているうちに、車は鉱山道坑道口前の切り開かれた駐車場へ乗り入れた。
 元のボディが何色か不明なほど跳ね上げた泥にまみれたバンの数々は、鉱山で働く労働者たちのものだろう。積載を待つトラックが暇そうに雨に打たれている。
 エンジンが切られてみると車を打つ雨滴の激しさは鼓膜に痛いほどで、花蓮に豪雨の山道の恐怖を思い起こさせた。それまで忘れさせていたのは霧生忍法帖の大絶賛と気付き、花蓮はため息をついて、いずれにしろ役立たずな携帯をバッグの奥底へ突っ込んだ。



『お父さん、内曇砥を――』
『仕事場では師匠と呼びなさい』
『師匠、また仕事受けちゃったんですか? 内曇砥を新調する余裕はないって言ってるのにー。師匠のこだわる砥石ときたら高級車だって買える値段なんだから、後先を考えてもらわないと白米が買えませんっ。こうなったら師匠が仏壇に隠してる秘蔵の砥石、開封するしか』
『ならん。それだけは勘弁して。やめてよして触らないであの石だけは! 手をつけるな、そうだ祟りだ、あれで研ぐと祟りがあるのだー』
 そうして借金までして砥石を買い入れたところで、仕事を選ぶくせに報酬に無頓着な父は首が回らなくなった。失意は病を呼び寄せる。入院費のために娘は秘蔵砥石の売却を迫るが、父は決して許可を与えようとしない。天秤の片側に載るのは己の命だというのに。
 困り果てた娘が秘密裏に売却を企て持ち込んだ砥石に、砥師仲間たちは度肝を抜かれる。超のつく最高級天然砥石だが産地が全く判らない、一介の砥師がおいそれと刃を当ててよい品ではないと尻込みする。
『かつて将軍の御刀に砥石を当てた本阿弥家には、こんな口承が残っている……』
 人間国宝、重要無形文化財保持者の砥師がぽつりと呟いた。
『霧中に遊ぶ蓮華と謳われた稀石――“霧蓮宝燈”を当てた刀は人ならぬものさえ斬る、と』
 砥石表面の梨地に浮く茶色の斑は蓮華と呼ばれ、砥石の上質さの目安とされる。父の愛蔵品はその梨地が霞のように繊細で、光の加減によってはまるで霧が移ろうように色相が様々に変化した。
『父君のこれはまさしく霧蓮宝燈であろう』
 もしこの石の知られざる産地を見つけ出せれば、と娘は思った。父が命よりも大切にする宝を手放さずに入院費を工面できるかもしれない。
 そして全国の地層を洗い上げた結果、花蓮はこの地――霧生ヶ谷へ乗り込んだのだった。



「目当ては鉱物じゃなくて石なの? えっ、山歩き? うそーん。肉体労働は室内で、ってのが俺のポリシーなのにな」
 嘆きつつも便利屋は、トランクのがらくた詰め合わせの中から二着のレインコートを引っ張り出した。ぞんざいな扱いに耐えているらしいレインコートに汗や黴の臭いを覚悟した花蓮だったが、ふわんと昇ったのは瑞々しくも嗅ごうとすれば逃げていく捕らえ処のないフレグランス。
 輪郭を掴もうと追わずにいられない香りにうごめく花蓮の鼻先へ、青年はビシリと人差し指を立ててみせた。
「俺の移り香、ミスティミスト。霧生ヶ谷限定発売、お求めは便利屋翠煙まで」
 便利屋が売る香水なんて果てしなく怪しげ。遠慮しよ――花蓮の顔に如実に浮き出た拒否を読み取ったらしく、翠煙は反論に腕を広げて畳み掛ける。
「いい匂いなだけじゃないよ、効果はこの俺が鋭意実証中。秘伝の香気が霊子を寄せて不思議現象頻発、鮮やかに解決する青年が市長の目に留まりアウトローライセンス発行! ……も、近い。銘酒霧の竜殺し配合でお肌もつるつる! ……かもしんない」
 右から左、と呟きながら細い山道を登り始めた花蓮の後を、翠煙は長い脚を生かしてゆっくりと追ってくる。
「たっぷり纏って霊子が濃くなれば、恋愛成就の神様にだって会える! ……といいね」
 ここは伝説の砥石、霧蓮宝燈の産地なのか。霧の間から現れる岩肌を槌で確かめ、当たらずとも遠からずな煮え切らない結果に花蓮の苛立たしさが募る頃、雷鳴が轟き始めた。ぬかるむ足元、利かぬ視界に疲労を溜めていた娘は、休憩しようという提案に素直に頷いた。
 雨風をしのぐ岩陰で翠煙は、すらりとしていても女性よりは幅のある体躯で花蓮の盾になる。花蓮はその紳士的行為が予想外で、彼の肩越しにもぞもぞと礼を述べた。
「この気候は地形だけじゃなくて石の仕業かもしれないね、ほら」
 偏屈ながらも名砥師と謳われた父の命運を握る探索は思うように進まない。緊張と不甲斐なさで唇を噛んでいた花蓮の前へ、不意に大きな掌が差し伸べられた。中央の窪みに収まっているのは、真珠の光沢を放つ白のような銀のような色の結晶。
「きれい」
「雲母。中国あたりじゃ、この石の精気が立ち昇って雲になるって言われてんの。だから雨が降るのも当然というわけ。それにここの鉱山じゃ水晶も掘ってるっていうからね、どっちも帯電する石でしょ。式王子ヶ谷の霧が電波を乱すのも、霧生ヶ谷市で山が光ってるなんて報告が絶えないのも、こいつらの仕業かもしれないな」
 霧生忍法帖を語った時以上に輝く瞳はすでに花蓮を通過している。楽しげな世界を見晴らしているらしい瞳に何が映っているのか、花蓮は覗いてみたくなった。
「もしかすると霧生ヶ谷の霊子と因果関係があったりして。あるいは相乗効果。立証すればアウトローライセンス……どうだろ?」
 唐突に式王子ヶ谷を稲妻が走り抜けた。



 落雷が生木を裂く、めりめりと耳障りな音。痛ましいその音に混じって、獣の咆哮が雨空を衝く。瞬時に翠煙が岩陰から飛び出し、薄霧の中で耳をそばだてている。有効な通信手段が音だと聞かされていた花蓮は、不気味な唸り声の正体を詰問したい衝動を必死で抑えた。
「あっちにいる」
「え、行くの? え、客を置き去り?」
 背中と湿った足音が霧に消えて行く心細さは得体の知れない野生動物と遭遇する恐怖に勝り、花蓮も慌てて音源へと向かった。
 林間を抜けて尾根に出る。尾根伝いに丘へ上がると、咆哮の主は途切れた林の突端にいた。
 体長は猫ほどか。漆黒の毛は触れば火花が散りそうに波打っている。吊上がった碧の瞳、犬をも一噛みで喰い破りそうな虎牙。豊かな尾は幾つかに裂けていたが、霧のせいか幾つなのか定かでない。四肢を掻いて、獣は雷雲を目指そうとしている。
「なにあれ、宙に浮いてる! 猫……猫又?」
 花蓮は武器代わりに足元の石を手に取った。が、翠煙の左手が動き一つでその投擲を制止する。
「猫又と思う?」
 心臓を打ち鳴らし緊張を漲らせていた花蓮だが、問う顔に全くの殺気がないのに気付いた。身を守る術を探す気配すらない。出鼻を挫かれた格好の花蓮は、狼狽を胸底に押し込めながら獣へと目を向けた。
 黒地に輝く碧玉の目は一心に空を見上げていた。見物者の存在を意にも介していないようだ。
 鋭い爪が宙を、弾みで木の幹を掻く。その激しさに反して獣の体は一向に浮上せず、ばりばりと木肌が剥がれ、枝は打ち落とされていく。徒労に終わるばかりの所作を、獣は水に溺れる者のごとく必死に繰り返していた。
「猫又っぽいけど行灯の油を舐めたり、襖を自分で閉めるような小賢しさのなさげな子じゃない?」
「試そうにも今時、行灯なんて……あ、懐中電灯でいいですか」
「応用力はあってもベクトルはズレてる、と」
 空を飛ぶ得体の知れない未確認動物を、子と愛しげに呼ぶ翠煙。彼の不思議世界を覗くのはやはりやめようと、花蓮は獣からも翠煙からも一歩距離を取り直した。
 しかし翠煙の指摘通りだった。人語を話し人に化け、好んで人を喰ったり殺したりもする、そう伝えられる猫又の狡猾さは目の前の、空へと駆け登ろうと懸命な獣には見当たらなかった。花蓮の中の恐怖心が萎えていく。未確認飛行動物とはいえ、ただ一刻も早く空に帰りたくて足掻いているらしい獣を手に掛けるのは、無駄な殺生というものだ。
「絶滅したことになってる木貂が妖怪に転じたとも考えられるな。黒褐色で胸腹は黄色、脚長く五指あり、爪長くして曲り、口尖る……でもきっと」
 翠煙は悠然と微笑した。
「あれは雷獣だ」



 雷獣。雷と共に天から落ちてきて、木の幹などに鋭い爪跡を残すという。
 新潟の西生寺には雷獣のミイラがある。実見したところ猫のようだったが顎や牙が明らかに猫とは異なっていて、木貂と呼ばれた動物に近い。
 木貂が雷に驚いて巣やうろから飛び出し木の幹に爪跡を残すのを、雷獣が爪跡をつけたとされるのかもしれない。西生寺のミイラが木貂であるか雷獣であるかは定かでないものの、雷獣が猫に近い姿だというのは各地で語り伝えられている。
 翠煙が上機嫌にしゃべるそうした薀蓄を、花蓮は右から左へと水洗した。
「この山の名前を知ってる? ミス・ワトスン」
 機械的水洗に意識を飛ばしていた花蓮は、その問いかけで現実に引き戻される。脈絡のない質問に戸惑いつつも地図を広げ、虚空蔵山だと答えた。
「じゃあ、虚空蔵菩薩の伝承を知ってる? 虚空蔵菩薩ってのは十三仏の三十三回忌導師でね、智慧と福徳の仏様。君も記憶に長けたかったら、虚空蔵菩薩に詣でるといいよ。モシモシなんでそんな遠い目すんの? あ、それでね」
 雷獣と噂されている獣は雨の中、霧に遮られて見えぬ空への階段を掴もうと相変わらず全身の力を振り絞っている。それを横目に呑気に伝承を語り出す翠煙の場慣れっぷりに花蓮は呆れたため息をつく。
「その虚空蔵菩薩さまがある日、落雷と一緒に山に落ちてきた雷獣を捕らえて、こう叱った。村人は雷のたびに遊び散らすおまえにほとほと困っている。だからまたこの地に落ちたら、もう空には返さない。それからというもの雷獣が落ちなくなって村人は喜び、そこを虚空蔵菩薩にあやかり虚空蔵山と名付けたとさ。They lived happily ever after.」
 つまりここが正にその虚空蔵山であれば、そして梢で慌てているのが雷獣であるとすれば、この雷獣は虚空蔵菩薩の力によって二度と空には帰れない運命にあるのだという。
「そんなの……ただの神話っていうか」
 花蓮が呟いたその時、帰還を試みていた雷獣がとうとう無駄を悟ったのか。力尽きた様子で、どさりとぬかるみに落下してきた。しおれるように泥の中に横たわった獣は、哀しそうに空を見上げてみあうと鳴いた。



「お持ち帰りしちゃお、雷獣一名さまごあんなーい。……そんなにぽかんとすると、顎外れるよ」
「だって! だって未確認生物」
「生きてる。怪我してる。手当て要る。確認しました隊長」
「よろしい。ううん、そういうことじゃなくって!」
 騒ぐ花蓮だったが、タオル、と無造作に手を出されて条件反射で渡してしまう。翠煙の慎重な指が濡れそぼった雷獣の泥と雨を拭う。続いてまきあげられた花蓮のハンカチは止血帯に使われた。雷獣は絶望しているのか疲労の極致なのか、警戒も反抗も見せずに翠煙に身を任せている。
「体が弱れば心も弱る。誰かがそばにいてあげなくちゃ、治るものも治んないよ」
 大人しく人に抱かれていれば裂尾も虎牙も鳴りを潜め、雷獣はただの黒猫にしか見えなかった。体の不具合に寡黙に耐える横顔が父と重なり、花蓮は思わず立ち上がる。
「わたし、……帰んなきゃ」
「石はー?」
「もういい。何とかします。何とか」
「……悲愴感漂ってんなー」
 帰途を急ぐ二人と一匹を霧は邪魔せず、緩やかに道を譲って麓へと導いた。坑道口へ戻る頃には往きの濃霧が嘘のように晴れ渡っていた。
 雨滴を防いだレインコートは今やほてりを閉じ込めて不快極まりない。翠煙の車に帰り着き、サウナスーツと化したそれを脱ごうとした矢先、白い車が鉱山道を駆け上ってきた。量産型の白いワゴンの横腹には霧生ヶ谷市民局とペイントされている。
 降りてきた青年は山中でのマナーと思ったのか性質が礼儀正しいのか、軽い会釈をした。そして坑道へと向かいかけたがハタと立ち止まると、翠煙の抱きかかえた獣を二度見した。
「あの、失礼ですがそれは」
 つかつかと厳しい顔で歩み寄る市民局所属青年に花蓮の目は、野生動植物の捕獲及び採取厳禁を通告する看板上を放浪する。
「これは……」
「それはオオボロネコですね?」



 三人の間に流れる濃厚な沈黙の下、雷獣がかふっと欠伸をかます。
「……オボボロ……?」
「オオボロ」
「オオロボ……ボボ……」
「尾朧。霧生ヶ谷市の稀少な固有種です。詳しい生態調査のために個体サンプル収集の課長命令が下っているんですが、なかなか人見知りが激」
 恐る恐る伸ばされた市民局員の指先に、ぶっつりと虎牙が突き刺さった。
「いいんだ。かまへん俺にはゴッフが」
 言い聞かせるように癒しを求めるように傷ついた市民局員はワゴンへ戻る。助手席の窓ガラスには梅の花が咲いていた。開放要求する猫の肉球だ。黒猫はドアが開くと赤い球体の浮いた指先を擦り抜け、雷獣までの一直線を軽やかに駆けた。翠煙の腕から飛び降りて迎えた雷獣と尻の匂いを嗅ぎ合い、くるくる回る小さな猫の輪を作っている。
 親密そうな様子に花蓮は目を丸くした。
「猫っぽい動物同士、通じてるのかな」
「ってか、似てない? 知り合いか血縁? ねえそこで意気消沈してるお役人さん、この子もオロロボネコ?」
「ちゃいます。彼女は寮周辺を縄張りにしてる……そうなのかゴッフ、おまえはオンボロネコだったんか?」
 シャーッと気迫の息と共に教育的指導という名の猫拳が空を切る。
 指に穴が開き頬に梅の花が咲いた市民局員は憂いを漂わせながら説明を始めた。寮に立ち寄ったところ黒猫ゴッフが車に乗り込んできて、北を目指せという強い熱意を見せたのだという。
「尾朧猫を助けに呼ばせた雷獣か。ホケカンのあの人には黙っておこう。ええと、とにかく怪我が良くなったら採血程度の簡単なデータ収集だけでも……ゴッフが懐いてる。なぜだ。獲物を見せてくれるようになるまで猫缶を何個貢いだか」
 僅かな間に耐性が生まれたのか、淡々と嘆く市民局員の視線の先には花蓮の腕の中で喉を鳴らす黒猫の姿があった。黒猫ゴッフは花蓮のレインコートの胸元に熱心に首を突っ込んでは陶然とした目をする。初対面にしては大胆な甘え方は確かに過多で、考えるうち花蓮はふと原因に思い当たった。
「あ。分かったー、便利屋さんの怪しい香水」
「人聞き悪いなあ、ミスティミストだってば」
「レインコートに付いてる怪しいミスティミストの匂いが、オオトロネコにはマタタビ的効果があるのかも」
「『怪しい』から離れてよ」
 花蓮が試しに脱いだレインコートに、二匹の黒猫様生物はどこまでも釣られていった。その様子を見ていた便利屋がウィンクを飛ばす。
「尾朧猫のご機嫌伺いにミスティミストを是非。霧生ヶ谷限定発売、お求めは便利屋翠煙まで」
「経費で落ちるかなあ」
 帯電粒子を多く含む霧が晴れ、携帯には電波状態を示す棒が辛うじて点いていた。市民局員は電話交渉に入る。
「課長? 課長……経費の話を切り出した途端、露骨に電波が悪くなって切れました」
「分割払いでdone。こらこらミス・ワトスン、猫とじゃれてないで証人としてちゃんと売買契約を聞いててくれないと」
「渡洲です。渡洲」
 花蓮が訂正すると途端に市民局員は同情の籠もった強い握手を振り回し、不審を買った。



 霧生ヶ谷線の駅前乗降場に停めた車内、花蓮の差し出す封筒を一瞥しただけで、翠煙はチュッパチャップス型キャンディの包装を解き始めた。
「まだ君の依頼、終わってないじゃん」
「いいんです。帰って父のそばにいる、って決めたから」
「俺はおさまんない」
 それまで糖分百パーセントだった微笑の端が少し歪んだ。
「石を探すの手伝って欲しい、って依頼は達成されてないよ。気持ち悪いんだよね。しかも式王子ヶ谷山地、虚空蔵山近辺にはUMAが降るうえに、病身だか手負いだかの父親のために娘が血眼になって探す価値のある石が埋まってるらしい。そんなん知っちゃった俺を欲求不満で悶死させる気なの」
 翠煙の口内で転がるキャンディが歯に当たる、かろんと響きのいい音がした。
「こうしよ。謝礼は石が見つかったら受け取るってことで、容態が安定してる時にでも電話して。便利屋翠煙は少々の無理難題も捻じ伏せて、あなたのお役に立ちますよ。Okey-dokey?」
「……ありがと。絶対また電話する。虚空蔵菩薩に詣でて、翠煙さんのこと覚えとく」
「菩薩の力を借りないと覚えらんないくらい影薄いの? 俺……」
「あはは、そういうわけじゃないけど」
 謝礼の封筒が撤収されるのを見届けた翠煙は、運転席のシートに背を預け直して笑顔で頷いた。
「やっとこっちも晴れた。一度も笑ってなかったでしょ、君。ご褒美に、はい。便利屋翠煙特製、アンチ霊子キャンディ。カロリーが気になるお嬢さんにも安心のシュガーフリー……のつもり。今日は霊子の渦みたいなトコに踏み込んだからね、リセットしなきゃ」
 花蓮には何にアンチで何が渦巻いていたのか見当もつかないものの、特製フレグランスでUMAを手懐けた便利屋の言うことだと素直に口に含んだ。
「むう……日本酒の味がするような」
「あの尾朧猫が惹かれたの……ミスティミストの香気じゃなくて、ちびっと配合した銘酒霧の竜殺しだったのかなあ」
「……はい?」
「恐るべし九十九蔵。そう思わない? ミス共犯者」
 ばこん、と鈍器が活躍する騒がしい音に、後部座席の黒猫様生物が最後の傷を閉じ終えた舌を花弁のように伸ばして大欠伸をした。
 雷斧(らいふ)と名付けられたその獣は時折、霧生ヶ谷市公舎の十六夜寮中庭でゴッフと並んで昼寝しているとかいないとか。

― 終 ― 

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