魔術の秘鑰 作者:フィアシャーンさん
アレクセイと私は米国のサリー州で行われたヴォイニッチ手稿の定例研究会に出席したのち、飛行機で成田空港まで飛ぶと新幹線と鈍行列車を乗り継ぎ、霧生ヶ谷市にやってきた。
「なぜ、わざわざここに来たんですか? ここまでかなりの強行軍でしたよ」
私は長時間の移動にいささか疲れを感じて、アレクセイにそう文句を言った。
「うん。ある魔術師が死んだという情報が入ってね。彼に関して、ちょっと調べてみたいことがあるんだ」
「調べてみたいこと? もう死んでいる人間に対して? なのになぜ急がなくてはならないんですか」
彼はその問いに肩をすくめた。「もちろん、人より先んじないといけないからね」
五月の風がさわやかに吹きぬけ、陽の光が水路の揺れる水面に当たっては千々に砕けて輝いていた。家々の塀の上では猫が戯れ、それらすべてがつかの間の平和を形づくっていた。私はこれらのものを愛するが、それは多分に、それらが脆くささいなものであるからだろう。
「魔術師の名前はアルフレッド・フィッシャー。魔術名は他にあるんだが、君に話すのはこの名前だ。
彼は米国人で、本国の魔術結社では若くして達人の位に登ったが、その偏屈な性格のために数年前友人と仲違いをしたあげくに日本にやってきたのだ。だがしかし、日本の同輩たち、特に穏健な<紫の結社>には歓迎されたものの人付き合いのよくない彼は孤立し、さびしい晩年を送っていたといわれている。そしてその挙句に黒魔術に手を染めていたとも」
「へえ」
「魔術師たちは彼が世界にひとつしかないと言われる<思惟の書>の原本を持っていたと噂しているんだ。今日はそれを確かめに行こうと思ってね」
「ちょっと待ってくださいよ」
私は、なんだか釈然としない思いで口を挟んだ。
「もしかして、それを持ち逃げしようとか思っていませんか。それって立派な犯罪行為だと思うんですけど」
「いや、まあ私も現物を見てみないとどうするかはわからないな。まあ警察にも結社にもばれるようにはしないよ」
「そういう問題じゃないですって」
アレクセイはかまわずマンションのエントランスに入り、上階へのボタンを押すとエレベータを待った。すると、私たちの背後に黒い革の外套を着込んだ一人の銀髪の女性がやってきた。いや、女性かどうかは実はよくわからなかったが、どことなく男性にしては少々線が細いヨーロッパ系の顔立ちだったのでそう形容した。
私たちがエレベータに乗り込むと、その人も一緒に乗ってきた。アレクセイが五階のボタンを押すと、その人は何も押さなかったので、私は彼も同じ階に行くのだな、と思った。そして、何の会話もなくエレベータは五階まで上がっていった。
その人を先にエレベータから降ろすと、私とアレクセイは魔術師の部屋に向かった。先ほどの革の外套に包まれた背中は、偶然にも私たちと目と鼻の先を歩いていた。まあそういうこともあるか、と思って歩いていたが、どこまで行ってもその人の後を追っているかたちであったので、私はもしかしたら、と思った。
外套の人はあるドアの前で立ち止まった。それは見ると、私たちの目指している魔術師の部屋のドアだった。
「すみません。あなたもやはり、フィッシャーさんに用のある方なのですか」
アレクセイが声をかけると、その人は低いがまぎれもない女の声で驚いたように答えた。
「フィッシャー? 彼は死んだぞ。いや、私は死んだ彼の部屋で異変があると聞いて、様子を調べに来ただけだが」
「ふーむ、それは残念ですね。して、異変とはどのようなものでしょうか」
アレクセイはしれっとした表情でそうたずねた。
「うむ。といっても実害はなく、ただ時折誰もいないのに物音が響いたり、夜に微かな光がちらちらしているのを目撃されたくらいなのだが。お前は彼の知人かなにかかね?」
「ええ。そのことでしたら、私はなにかお役に立てるかもしれません。一緒に入ってもよろしいでしょうか」
「……というと、お前も魔術師かね。私はスノリ・ヴェランド、ルーン術師だ。お前の名は?」
「アレクセイです。こちらはヨハネス。ルーン術師とは珍しい。私はあなたのお仲間とルドルフ二世の宮廷で一度会ったきりですよ」
「妙なことを言う奴だな。ルドルフ二世は十七世紀の人間だぞ」
自己紹介のようなものが終わると、スノリさんは鍵でドアを開けて中に入っていった。アレクセイと私もその後に続いた(そういえば、アレクセイはどうやって鍵のかかった部屋に入ろうとしたのだろう? そう思ったが、何とでもなりそうなので訊くのはやめておいた)。
いくつかの小さな小部屋に仕切られた部屋は、一言で言えば書物の洪水だった。本棚となく机の上となく床となく本が積み上がっていたが、ただ寝室のみはベッドと箪笥のほか何もない殺風景な感じだった。そしてそれ以外の生活の痕跡はほとんどなかった。
「これといって特別なものはありませんねえ」
乱雑に積みあがった本を逐一調べていたアレクセイがそう結論付けた。いや、そうは言っても中世や近世の写本といったかなり貴重な書物がいろいろあるのだが。
「お前はそう言うが、怪異はまぎれもなく起こっているんだぞ。フィッシャーはどんな魔術師だったんだ?」
「一言で申しますと、人間にしては強力な魔術師といったところでしょうか。性格的にはなかなか大変だったようですが」
「まるで、お前自身は人間ではないみたいな言い草だな。それになんとなくお前のオーラは……変だ。答えろ。お前は何者だ?」スノリさんは声を荒げてアレクセイに鋭い視線を向けた。
「私はアレクセイです。ただの魔術師ですよ」
アレクセイはきわめて愛想のいい猫なで声でそう言った。まったくとんでもない奴である。
「ふん、まあいいだろう」
しばらく経ってから、スノリさんはそう言ってあからさまな警戒を解き、部屋の調査に戻った。
私は何気なく部屋の中央の本棚の、一冊の薄い本を手にとった。するとその棚がばね仕掛けのように勢いよく左右に割れ、その奥に一冊の大判の本が納められている棚が現れた。と同時に、なにやら黒いものが勢いよくどこかから一斉に沸いて出てきて、鋭い爪で私に襲い掛かった。
「危ない!」
スノリさんはそう叫ぶと、腰に下げていた剣を抜いてすばやく刀身を指でなぞり、黒い生物に対して青く光る鋼を一閃した。その背後をもう一体の生物が襲うが、彼女は返す刀で袈裟懸けに切り倒した。
黒い生物は、床に落ちるとその毛むくじゃらの身体を痙攣させながらゆっくり宙に溶けていった。
「これが怪異の正体だったのか……」
スノリさんはほっとため息をついて、手にしていた剣で消えかかったものをつついた。
「いやあ素晴らしい。お手並み拝見いたしました」
ふと私たちの背後からアレクセイがスノリさんを手ばなしで褒めた。
「……ふん。皮肉かなにかかね」
スノリさんはアレクセイの周囲におびただしく広がる黒いものを剣で指し示して、剣呑な調子でそう言った。
「これは私の仕事だ。勝手に介入されては困る」
「とんでもない。私は怪異などどうでもよかったのです。あなたの仕事を横取りする気はありませんよ」
「ではお前の目的は?」
「先ほどの使い魔が守っていたもの、つまりあの本ですよ。アルフレッド・フィッシャーは世界に一つしかない<光輝の書>の原本を持っていると噂に聞いたもので」
「盗むというのか。ならば私の仕事を横取りするより悪いではないか」
「いえ、盗むつもりは毛頭ございません。ただ拝見させていただきたかっただけで」
「お前の言うことは信じられんな。だがまあいいだろう。見るだけなら、許す。それ以上のことをしようとしたら容赦はせん。それで、あいつらはフィッシャーの使い魔だったのか?」
「ええ。主を失った使い魔はときおり暴走するものです。あれらはまだ忠実なほうでしたが。フィッシャーの魔術が優れていたからでしょう」
アレクセイはそう言うと、本棚に近寄って隠されていた本を手にとった。大判の、どうやら羊皮紙の本をぱらぱらと捲っていたが、終わり近くのページで止まるとじっくりと読みはじめた。
最初はまじめな顔で読んでいたアレクセイの顔が、微かな笑いの発作をしはじめるのを私は目を丸くして見守っていた。
そして最後には馬鹿笑いになり、勢いよく本を閉じた。
「ハハハハハ……これは面白い。こんなに笑ったのは久しぶりだな。大したジョークじゃないか」
「何がそんなに面白いんです?」
私はなんだか不安になりながらアレクセイにそう訊いた。そうすると、アレクセイは私に本を開いて見せた。本はどうやら訛りの強いラテン語で、インクの状態からするとごく最近書かれたものらしい。
「次の頁に、私は最悪の悪魔、地獄の公爵コロンゾンの主、卑俗の極みの存在、純粋な闇よりやってきたもの、クレタ島の迷宮の中心に潜むミノタウロスの姿を現す。
汝らは神の栄光をまとい、心してその恐怖と誘惑から身を遠ざけよ。
なんとなれば、彼こそわれわれを卑しい世界に縛り付け、神を冒涜する醜悪極まりなきものであるからである。
身を守るために魔術の短剣を掲げよ。防御の魔法円を忘れるな。そして何よりも平静心を保て。
準備の整わぬもの、勇気を持たぬものは決して頁を捲るべからず」
アレクセイはページを捲った。私とスノリさんが本を覗き込むと、空白のページの隣に銀色に光る鏡が埋められたページが続いていた。その鏡は正面にある、にやにやしているアレクセイの顔を映していた。
「この本自体がアルフレッド・フィッシャーの悪ふざけなんだよ」
アレクセイは本を閉じて私たちにそう言った。
「読者を難解な記述で煙に巻いてから、最後に鏡を見せて最悪の悪魔はおまえ自身だと言うんだ。たしかに古典的なジョークだが、魔術書でこれをやった人間ははじめて見た。アルフレッド・フィッシャーは<光輝の書>など持ってはいなかったんだ。これはただそれに名を借りた、偏屈な死せる魔術師の意趣返しさ」
しかしそうだったのだろうか。こんなに力のある魔術師ならば、アレクセイがこの部屋に訪れることをあらかじめ知っておいて、それでこんなことをしたのではなかろうか。つまり、魔術師はアレクセイをして悪魔といったのではないか。鏡に顔を映したのはアレクセイただ一人なのだから。
「じゃあお前の行動はまったくの無駄骨だったんだな」
スノリさんが多少はいい気味だ、と思っているような口調でそう言った。
「いや、私はもともとこの魔術師が<光輝の書>を持っていないと知っていた。ただそう噂される真実がなにかを知りたかったんだよ。噂にだって一片の真実が隠れているからね」
「なぜ、そう知っていたんだ?」
「なぜなら、<思惟の書>の世界唯一の所有者は私だからさ。ずいぶん昔に手に入れたんだ……」
「お前のくだらない遊びに付き合って、こっちは迷惑千万だな」
スノリさんは呆れたようにそう言うと、くるりとわれわれに背を向けて魔術師の部屋から出ようとした。アレクセイがそれを呼び止めると、こう言った。
「ああ、私がこの一件に介入したことは、<下弦の月>の皆さんには内緒にしておいてくださいね」
スノリさんは知ったことではない、といったように肩をすくめるとドアから出て行ってしまった。
「さあ、<紫の結社>の面々がこれに気づかないうちに元に戻して、この部屋に侵入した形跡が物理的にも霊的にも残らないようにしなくては。ヨハネス、手はじめに君の持っている本を棚に戻したまえ」
スノリさんの出て行くのを見送ったアレクセイが私にそう言い、私ははじめてそのときずっと本棚の秘密の鍵だった薄い本を握りしめていたことに気がついた。