祝命 作者：しょう
昔話をしようか。
六十年前、世界を巻き込んだ大きな戦争が終わりを告げてまだほんの僅かな時間しか過ぎていない頃の話だ。ここいらも一面焼け野原だったよ。今のこの景色からは、想像も出来ないかもしれないがね。
何もかもが焼けてなくなってしまい、復興には程遠く、希望など何処にも見えなかった。生き残った人々は皆俯き、前を見ることも忘れてしまっていたよ。
だけどそんな時あいつが現れたんだ。皆が忘れてしまったことを思い出せと言うように、俯く必要など何処にもないんだというように。
あいつは復員兵だったんだろう。いつもカーキ色の軍服に身を包んでいた。と言っても大分薄汚れていたし、色々と後からくっつけていたからぱっと見て軍服だなんて分からなかっただろう。そう、あいつはいつも賑やかな音と共に現れた。
手にしているのは、ボロボロのギター。向こうで知り合いになったアメリカ人に貰ったんだと言っていた。命の次に大事な友情の証だと笑っていた。そいつを右手で掻き鳴らす。
体には幾つも空き缶をぶら下げて、その空き缶には紐で括った小石が付けられていた。あいつが体を動かす度に、小石が空き缶に当たって五月雨のように音を立てていた。
不思議と耳障りでなく、何故かしら心ざわめく、旋律のようだった。
あいつの第一声は忘れられない。忘れられるはずがない。あれほど、あの時の私たちに相応しく、そして場違いな言葉もなかっただろうから。
「笑え、笑え、笑えっ」
高らかに響き渡った。焼け野原を、燃え残った木材を組んだだけの掘っ立て小屋の間を、この街にある無数の水路の流れに乗って広がっていった声は、どれだけ私たちの感情を掻き乱したか。
親しいものを、大切なものを理不尽に失ったというのに、一体何を笑えと言うのか。
誰もがそう思い、憤り、非難の声をあいつに浴びせた。かく言う私もその一人だった。
だというのに、あいつは続ける。
「悲しみなんか忘れてしまえ。今この時を祝おうじゃないか」
邪気のない笑みを浮かべた。
弦が鳴る。一瞬、場が静まり返った。
伸びやかに響く歌声があいつの口から紡がれた。
祝い歌だった。
子供が生まれた時、婚礼の宴の時、何より、気心知れた仲間が集まり杯を交わした時に歌う明るく軽妙な曲だ。それを、本当に楽しそうにあいつは歌った。その場にいた者達が自然頬を緩めてしまうくらいに、心底楽しんで。手拍子のように鳴る空き缶の音が何時しか本当の手拍子に変わっていたのは、その所為だったのか。それとも、あいつの言った言葉をどこかで認めていたからだったのか。
ほんの少し悲しみを忘れた群衆の中心で、あいつはゆっくりとお辞儀をした。
皆があいつを受け入れた瞬間だった。
以来、奇跡的に爆撃を免れた四本桜の中心で、九頭身川を跨ぐ橋の上で、サラサラと音を立てる水路の縁で、あいつはいつも歌っていた。
『悲しみなんか忘れてしまえ』と前口上のように必ず叫び、祝い唄を、祭り歌を奏でていた。手製の弦楽器を幾つも抱えて来たこともあった。そして、誰彼構わずそれを渡し、踊りの輪に引きずり込んでいった。
何故そこまでするのか、誰にも分からなかったけれど。
『失ったものは、死んでしまった者は戻っては来ない。起きてしまった不幸を嘆くよりも、今生きている幸せを喜ぶべきだ』
いつだったか、あいつがふと漏らした言葉は、独善で、だけど優しかった。
たぶん、きっと。
それが理由だ。
あいつの唄は、悲しみを忘れさせ、俯く必要などないのだと主張し、前を向くことを思い出させた。
知っているかい？ 夏の終わりに行われる祭りは、元々あいつが始めたようなものだって事を。知っているかい？ 月に一度開かれる大市も、あいつの歌を聴きに来た人達相手に始まったんだという事を。
そんな風にして、あいつのいる所に人が集まり、市が立ち、街は徐々に復興していったんだ。
俯く事をやめて、希望を取り戻して……。
だからあいつはいなくなったんだと、言う奴がいた。涙を忘れさせる為にあいつは来たのだから、皆が笑顔を取り戻したらいる理由なんかないさ、と。
私が最後にあいつを見たのは、街の復興を祝って行われた花火大会の時だった。人ごみでごった返す灯橋の袂で花火が上がるのを今か今かと待ち構える人々を前にいつもの口上を述べる。違ったのは、そこからだ。
『ひとつ 人魂ふらふら悪酔い
ふたつ 双子が増えたり減ったり
みっつ 幹の根・何眠る
よっつ 夜泣きの山烏
いつつ いつか世界が交わり 』
祭り歌でもない、祝い唄でもないただの数え歌。ちょっと不安な時に口ずさみ安心を得るそんな唄。らしくない様子に皆が不思議そうに首を傾げ。それでもあいつは歌い続けた。
『むっつ むくむく霧の中
ななつ 名無しの水源通り
やっつ やっぱり戻っておいで
ここのつ ここの子・家はここ
とお で遠くにさようなら』
歌い終わるその瞬間、どぉん、と花火が上がった。
視線が花火に集中する。私もつられるように夜空に咲いた華を目で追った。ただ、少し遅れたからそれを目にしたんだ。深く深く頭を下げているあいつの姿を。まるで私達にお礼を言っているようなあいつの姿を。
気がつけばあいつは何処にもいなかった。それっきり姿を見た奴もいない。時が流れて、段々あいつがいたことも忘れられていって、あいつを覚えている者も少なくなってしまった。
けれど、今でも私は覚えている。そして、耳を澄ませばよく通る声が聞こえる気がする。
『悲しみなんか忘れてしまえ、今この時を騒ごうじゃないか』と、笑うあいつの声が……。
