シェアワールド@霧生ヶ谷市企画部考案課

何か文句でも?後編

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kiryugaya

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 何か文句でも? 後編 作者:せる


「……ぅ、さむ」
 酷い寒気に襲われて目が覚めた。
 周囲を見渡す。居間のリビング、どうやらわたしはソファーの上で眠りこけていたらしい。
 不意にカレンダーが目についた。暦の上ではもうすぐ夏だ。梅雨を目前に控えた時期だというのに、何故これほどまでに寒いのか。
「あ、あれ……なんか、忘れてるような」
 身体を触ると、酷い汗の量だった。殆ど乾ききっているとはいえ、その感覚の気持ち悪さに背筋が震える。
 それで納得した、何をしたか知らないが、この汗の量なら身体が冷えるのは道理だ。
 寝る前の行動を思い出す。けれど、どうしてもこの状況に結びつく映像が見つからない。なにゆえソファーなどで寝ていたのか、そもそもどうして汗などかいていたのか。そういえば、そもそもわたしはどうやってあの状況から帰ってき――
「あ」
 力が抜けた。手をつきそこねてソファーから転げ落ちる。
 痛みはなく、ただ虚脱感が全身を支配した。仰向けになって天井を見上げながら、わたしはその光景を思い出す。
 色は真紅。感覚は辛苦。世に数多の地獄はあれど、アレは人が味わうべきものではない。
(や、やめよ……思い出しても百害あって一利なしだわ)
 未だに感覚のない舌を出来るだけ意識しないよう、わたしは思考を切り替えた。
「む……カラカラ」
 そうだ、とりあえずのどが渇いている。まるで炎天下の中、長距離走を終えた後のようだ。否、もはやこの渇きは砂漠帰りの旅人のそれか。
 隣のキッチンへ這って向かった。立ち上がる気力さえない。今のわたしは、地を這いずり回る昆虫と同格だろう。断じて他人に見せられる姿ではないが、プライドよりも今は虚脱が勝っている。さながら匍匐前進の有様で、ゆっくりと水道を目指した。貞子も真っ青の不気味具合でしょうね。
「つ、ついたぁ」
 キッチンの台が絶壁を連想させた。なんとか手を引っ掛けてよじ登る。立ち上がればそれで済むのに、この足は労働を頑なに拒否していた。
 洗ったまま篭の中で放置されたコップに水を入れる。いつもならだらしないと怒りながら棚に戻すのに、今はその横着がありがたかった。手の届くところにコップがなければ、蛇口にそのまま口をつけていたの違いない。
「はぐ……う、ぐ……はふ――うん、なんとか」
 それで、何とか気力が戻った。舌が回る事を確認して、蛇口を戻す。
 水道水をそのまま飲むなんて、わたしにあるまじき暴挙だ。誰も見ていなくて本当に良かったと安堵する。
(あれ?)
 その安堵で記憶が繋がった。そう、何故わたしがこんな死にそうな目に遭っているのか。乙女の尊厳を擲つに至った元凶の顔を思い出す。
「――柚木一葉、赦すまじ」
 それはもう、地獄の水先案内人と同義の名だ。次に会った時、一体どうしてくれようか。棚のガラスを見ると、自分でもヤバイと思える表情の女が立っていた。
「まてまて……怒りは使わずにとっておく方がいいわ。そう、常時発散させておくより、時が来るまで凝縮させておくべきよ」
 それは言わば、普通の鍋と圧力鍋の違いである。雁字搦めに抑え付けたほうが、モノの力は高まるのだ。そう、この怒りはそのままあの地獄の辛さの転身である。己が平然と人に与えた物が、どれほどの罪か思い知らせてやればいい。
「ふ、ふふ……覚えているといいのよ。今は笑顔で、そう。わたしは可愛いんだから、罰するときも笑顔よ、笑顔」
 言いながら、言葉通り笑ってみる。怖かったので視線を逸らした。
(ま、良いわ。とりあえずお風呂いこ)
 肌にまとわりついた塩分が気に入らない。匂いなんて以っての他だ。わたしは花の乙女なのだから、例えどんな時だろうと優雅でなければならぬ。
 自信過剰でも自意識過剰でも良い。怠惰を己に許してはならない。それが、わたしが常日頃心がけているただ一つのルールなのだから。
 念のためにもう一度水分を補給する。今度は水道水なんかじゃなくて、冷蔵庫に入っている麦茶だ。
「ああ、美味しい。この世の物とは思えないわね」
 呟きに、最近独り言が多いなと思った。おばさんに近付いているのだろうか、と一瞬嫌な想像。頭を振って、お風呂場に行こうとキッチンを出る。

 居間を出たところで妙なものを見た。
 信也の部屋の入り口が開いていて、何故か掛け布団が落ちている。
(もう起きたのかな……なにやってるのかしら)
 布団を拾い上げながら中を覗いた。信也は朝のまま眠っていて、起きた様子などない。病人とは思えないほど静かな寝顔のままだ。
 信也が眠ったままなら、こんなところで布団を投げ出す輩は一人しかない。大方、わたしに掛ける布団を探しに信也の部屋へ入ったのだろう。
 人の家で勝手なことをと思ったが、一瞬後に疑問が過ぎった。何故、あの女はわざわざ取りに来た布団をこんなところで放置したのか。
 わたしのことなどどうでもいいと思っているヤツだ。別にその行動自体はおかしくもない。けれど、それならばわたしをソファーに転がした時点でさっさと帰っていればいい。それに、一葉は例え虫けらだと思っている相手にだって、常識的の世話はするタイプだ。一度思い立ったなら、どうやってもここに布団を投げ出して帰る選択肢はない。
 何かがおかしかった。あの女の行動もそうだが、この程度のことで考え込むわたしも変だ。いつもなら絶対に素通りするような些事だと断言できる。できるのに、何故わたしは悩んでいる?
(そう、何か。普段と違うことがここにあるから――)

 視線が、ベットで眠る信也に止まった。

 飽くまで外見に変化はない。ただし、目には見えないものが変化していた。信也本人ではなく、その周囲。よくよく見れば色濃く漂うマイナスの残滓。
 それは十分見飽きたものだ。柚木一葉が身に纏う陰子の残り香。あの女が通ったところは陽子が消えて、その代わりに陰子が残る。
 だからそう、その残滓自体はどうでもいい。けれど、とわたしは時計を見た。アレから既に四時間が経過している。
 いくら一葉が周囲に陰子を撒き散らす存在だとしても、本人がいなければそれ以上増えることはない。信也がここにいるなら、時間経過と共に彼から発生する陽子が場のバランスを保つはずだ。この世界はバランスを常に測っているのだから、あのアンテナの供給がなくとも生物が自然と調和をとる。
 だというのに、この場にはまだ微かに陰子が残っていた。あと一時間もせずに、周囲からの供給で元に戻りはするだろう。
 問題はそう、何故信也がいるのに整合が保たれていなかったのか、ということ。
(――理由は一つ。だから、一葉はここに布団を放り出したまま出て行った)
 意識して見れば良くわかる。今の信也には陽子が非常に少なかった。

 陽子とは陰子の逆。端的に言えば、陰子が強い負の感情や死そのもの、または超常現象を司るのに対し、常識的なエネルギー活動に付随するのが陽子だ。それが普段に比べてかなり少ない。
 元々この街の人間は陽子も陰子も多いから、存在のバランスが変わるほどではない。けれど、少ないということは失ったという事実でもある。それは、外的要因以外では起きるはずのない現象だ。
 わたしはその現象を知っていた。柚木一葉はわたしほどこの粒子を見る能力を持っていないから、たぶん気付いた要因は他にあるのだろうけど。
(そう、例えば自分が襲った人間と、信也の状態が非常に良く似ていた、とか)
 今まで気付かなかった自分に、激しい怒りが湧いた。何故朝見た時気付かなかったのか。ふらふらと帰ってきた信也に、何故疑問を持たなかったのか。
 理由なら明白だ。柚木一葉が美樹本信也を襲う訳がない。ある意味兄はこの街の中で一番安全な人間だ。だから、彼本人を注視しなかったという、それだけのこと。
「言い訳はもう十分ね」
 身体の状態を確認する。うどんによって受けたダメージは、睡眠と水分補給によって回復していた。代謝のせいか、汗の気持ち悪さを無視すれば絶好調といえるかもしれない。
 構わない、今都合が良い条件なら受け入れろ。二度と味わいたくないとはいえ、アレはただの地獄の具現じゃなかっただけの話だ。
 洗面台に向かって顔を洗った。風呂になど入っている時間はない。タオルを持って自分の部屋に戻る。
 気持ち程度に身体を拭って着替えた。もう深夜だ。制服では目立つし、動き難いのは不利になる。
 目的を考えるなら機動力が最優先。幸いもうそれほど寒い時期ではない。ジーンズとシャツの軽装がベターだろう。
(けれど、これでハッキリしたわ)
 信也が襲われたというのなら、犯人は一葉以外の吸血鬼で決まりだ。証拠など必要はないだろう、あの女の大切なものなど一つしかない。
 一葉がこの家を出てから、短く見積もっても三時間。もう見つけている可能性も在り得る。あの女が誰かに負けることなど想像も出来ないが、家族を傷つけられた代償は、わたし自身で払わせなければ。
 わたしは、念の為に果物ナイフをポケットに忍ばせて、夜の街に飛び出した。



 私は時間の浪費を重ねながら、南区の繁華街を彷徨っていた。
 美樹本家を後にして四時間。その程度の時間では、この広い霧生ヶ谷市からたった一人を見つけることなど不可能に近い。
 けれど、確実に成果は現れている。私は今ほど自分が冴えていると思ったことはなかった。
「これで三人目」
 足元には薄汚れた地面に転がった人間は一人。私が襲った訳ではなく、見つけた時には既に倒れていた。
 首本には吸血痕。といっても、私が襲った人間の傷はすぐに塞がる。肉体ではなく魂を重点に傷つけるからだ。
 一時的に、こちらよりに変調するゆえの現象と考えれば良いだろう。
 その男の首にも、既に傷など存在しない。だから吸血痕とは傷ではなく、魂を搾取する際につく残り香のことである。
「間違いありません。十二年目にして、やっと同類さんが現れたようです」
 十二年とは物心ついた頃から数えた年月だ。私の記憶がある人生の全て、その中でこのようなことは一度もなかった。
 私は目前で倒れている人間を表通りの近くまで引きずって、踵を返す。年の頃は私と同じ程度。こんな時間に遊び歩いている人間などろくなものではないのだから、時間を掛けて介抱してやる理由はない。
 それでもさっき見つけた二人の男子同様、多少人目のつくかもしれない場所に放置したのは、私の推測を裏付けてくれたことに少しだけ感謝があったからだ。
(思えば、春奈さんの話が既におかしかったのです)
 学校で、彼女は被害者に会ったと言った。何かあった、くらいは被害者も覚えていることもあるから、それは不思議なことではない。現に、毎回キチンと記憶を奪っていた私でさえ、一時期通り魔として噂になっていた。
 問題はそんなことではなく、その被害者の数。
 春奈は三人に話を聞いたと言っていた。その時は吸血鬼だなんて信じていなかったから深く考えなかったけれど、今考え直せばそれはおかしい。
「数が多過ぎますね。生徒を選んでいるとしか思えない」
 私の同類というのなら、吸血すると同時に記憶を奪うはずだ。ある程度コントールできるとはいえ、新しい記憶は高い割合で消える。それでも覚えている人間が三人。ならば、自覚のない人間はさらに多数と読んで間違いがない。
 信也を入れて、南高の人間が最低四人襲われているというのなら、狙っている可能性が高い。だから生徒たちが夜に遊ぶ南区の繁華街に訪れた。
(結果はビンゴ。見つけた被害者は新たに三人、全員南高の生徒です)
 これで最低七人。ここが狩場なのは既に確定している。実数を想像すれば、この吸血鬼は間違いなく暴食。まだ狩り終わっていないだろう。
 霧生ヶ谷市全域ならともかく、一つ区、それも夜遊びをする男子生徒の活動区域だというのなら、探し出すことも不可能ではない。
(それに、容姿にも検討はついています) 
 被害者は全員男だった。女が女を襲うのはともかく、男が同性ばかり狙うというのは少々おかしい。噂でも女だと聞いたし、容姿も恐らく噂通りの可能性が高い。性格は、狩りを楽しむ狂人だろう。
「ショートカットで背の高い、軽装の女。狩りならば当然一人、或いは獲物と二人きり。周囲は人目のない空間で、なおかつ人通りからそれほど離れていないエアポケット」
 条件を確認した。それが正しいことは、食事後とはいえ実際の現場を見つけたことが立証している。あとは虱潰しだ。これほど明確なら、十分に芽はある。
 次はどの辺りをいこうかと歩きながら思案していると、不意に音が響いた。前方の陰り、裏路地からこちらに向かって足音が一つ。僅かに警戒したが、一瞬後には霧散した。
「あれ、その制服うちの子だよね。キミこんなところでなにしてんの? 寂しいなら、俺と楽しく遊ばない?」
 にやついた顔。アルコール混じりの軽薄な声。視線は粘着質で、どう見ても吸血鬼には見えない。口調からして南高の生徒らしいから、獲物の条件を満たしている。一瞬ついていって網を張るという選択肢を思いついたが、面倒なことになるので却下した。
「遠慮しておきます。私には用事があるので」
「おっと、まあま、そう言うなよ。キミみたいな可愛い子が、一人でぶらついてたら危ないぜ。名前なんて言うの? その用事俺が手伝ってあげるからさ」
 先を行こうとした私の手を、その男子生徒は強引に掴んだ。アルコールのせいで加減がないのか、少し痛い。そんな私に構わず、彼は軽薄な言葉をべらべらと並べ立てた。
「女性を一人見ませんでしたか? ショートカットの背が高い女性です」
「ああ、その子なら知り合いだ。今なら店にいると思うから、連れて行ってやるよ」
 そういって、私の手を掴んだまま歩き出した。ここから表通りにたどり着くのに一分ほど。人の目を避けるなら三十秒ほどだろうか。
 けれど思案は一秒で足りた。口調からして間違いなく虚偽。仮に本当にそういう知り合いがいたとしても、店にいる時点で吸血鬼ではない。
 そんなことは考えるまでもないことだ。私が思案したのは、この男をどうするかどうか。
(どうあってもついていく選択肢はありません。嘘を吐いて私をどうするつもりか知りませんが、どうやら遠慮はいらないようです)
「ねえ、もう一つだけ訊きたいんですけど」
 あえて声音を親しげに変えた。それを受け入れの合図ととったのか、男は素直に足を止める。
「ああ、なに? お話ならゆっくりベッドの中で――」
 最後まで聞く気はなかった。丁度、対決前に補給できないかと思っていたのだ。
「吸血鬼って、知っていますか?」
 人目がないうちに、さっさとご飯をいただきましょう。



 やはり一度お風呂に入るべきだったかと、電車の中で後悔した。
 わたしが乗っているのは終電。帰りはタクシーだろうが、最悪始発まで家に帰れない。
 それまでこの気持ち悪さと付き合わなくてはいけないと思うと、目的意識とは別のところで気が萎えた。
(って、はじめる前から何考えてるのよ)
 乗っているのは一番線。わたしは南区へ向かっていた。何故かといえば、そちらに一葉の気配がするからだ。あの女と契約をかわしているわたしは、一葉の居場所が何となく分かる。
(逆はないようだけどね)
 陰陽の粒子を感じる力と同じだ。どうやら一葉の普通でない部分が、わたしに流れているらしい。 
 肝心の契約に至った事柄をわたしは覚えていないのだが、一度死に掛けたらしいことと関係があるのだろう。
 実のところ、そもそもの下手人があの女なのかも、とさえわたしは考えていた。立場上反逆できないとはいえ、いずれ決着をつける必要がある。
(けど、アイツが考えていることは何となく分かるわ)
 今のところわたしが知っている被害者は四人。全て霧生ヶ谷市立南高校の男子生徒。霧生ヶ谷市にはいくつか繁華街があって、その一つが南区にある。
 それほど大きなものではないけれど、不良学生が遊ぶにはもってこいの場所だ。
 現状被害者の共通点は南高生徒というのなら、そこを探ってみる価値はあるかもしれない。
「ま、気付かなかったんだけどね、わたしは」
 その推測は、残念ながら独力で得たものではない。一葉の気配が南から感じて、そこから推測を広げたものだ。
 あの女は頭脳明晰で論理にも強い。だから切欠があれば思考を読むことも可能という、それだけのことだった。
 けれど、そんなことはどうでも良かった。その推測の妥当性はわたしにも理解できる。幸い一葉の気配はまだふらふらと安定していないし、手遅れではないはずだ。吸血鬼を探しながら、合流するなり出し抜くなりすればいい。
(辛亭の仕返しも、今は忘れておいてあげる)
 電車がホームについた。早足に外へ向かう。
 今はただ、もう一人の吸血鬼を狩りましょう。



「さて、どうしますか」
 足元で倒れている男を見つめながら、私は静かに呟いた。
 その男は襲われて間もない。首筋の吸血痕が、まだ肉体にも残っている。当たり前だろう、つい三秒前についた傷だ。さすがの不思議ルールも、そう簡単には発動しない。
 何を隠そう男を襲ったのは私だ。いや、襲われそうになったので自衛するのは当然か。その方法が食事であっても、別に罪には問われまい。
 全く探し人とは関係のない人物といえる。そんなただの食べ残しを前にして、何故逃げも隠れもせずに独り言を呟いているのか。

 端的に告げよう。網に掛かった。

 周囲に人影はない。繁華街の喧騒も遠い。駅の近くではあるが、立地からして部外者の介入は外して良いだろう。もし仮に誰かに見られたとしても、ただの喧嘩だと思われるに違いない。
 いくつかの条件を振り返って、私は頷いた。ベストではないが、十分にベターだ。
「そろそろ顔を見せてはいただけませんか。わざわざ移動する必要もないと思いますが」
「――綺麗な顔して度胸あるんだね。君みたいな子は、できれば違う場所で知り合いたいんだけど」
 透き通った声。振り返れば、最初からそこにいましたと言わんばかりに堂々と、一人の女が立っている。
 いや、これは。
「……読みが外れましたね。まさか男性だとは思いませんでした」
 呟く声に苦味が混ざっているのを自覚した。
 その人物は確かにショートカットで背が高く、しなやかな体つきだった。声は涼やか、顔そのものも綺麗だろう。夜に出没するということを考えれば、女性と間違われても不思議ではない。
「獲物が男子学生ばかりですから、てっきり女性だと思ったのですが。私の考察力もまだまだということですね」
「何の話かな、ってとぼけても無駄だろうね。同類を誤魔化せるとは思っていないよ。ま、君が考えた筋道はだいたい分かる」
 どういう意味ですか、と私は喋りながら慎重に距離を定めた。私の身体能力で先制できる距離は五メートル。常人より上とはいえ、伝承のように戦闘的な特性を私はもたない。それでも安易に探せていたのは、相手も私と同じ特性で、同じように女性だと当たりをつけていたからだ。
 同類というのなら、男女差がそのまま実力の差になりかねない。現状が不利ならば、軽々しく戦うべきではない。
「そうだね、君は僕をシリアルキラー的な快楽主義者だと思っていた。この犯人は狩りを楽しんでいる、ゆえに同性を狙うのは嫌がるだろうと判断した。そういう思考の流れだと思ったのさ」
 鼓動が一瞬速くなるのを知覚した。全くその通りだ。腕力が上で、頭も切れる。騙まし討ちは望めそうもない。
 ならば、後は流れに沿って機を窺うだけだ。ゆえに私は会話の続行を選択する。
「解せませんね。何故私が貴方を快楽主義者だと決め付けるのでしょう。ただ単に、目撃証言を信じただけだとは思いませんか」
 この会話は一種の物差しでもある。質問と応答、それで互いを測るのだ。
 その意味で言えば、彼の返答は私には残念な結果と言えた。
「その発想がなければ、君が相手を女性と決め付ける結果には辿り着かない。根拠ではなく証明の過程でそういう結果に至っただけ。ま、それ以外で言うなら、君には僕を快楽主義者と思いたい敵意があったのかもしれない」
 余す事無く正解だ。信也を襲った敵に好意的な解釈をできる訳がない。下らない、自分の好みで獲物を選ぶ性悪女だと決め付けていた。無意識のうちに相手を軽んじた結果、判断を誤るなんて、これでは三流以下の探偵だろう。
「参りましたね。確かに貴方の言う通りです。けれど仕方ないでしょう、男性のくせに同性ばかり狙う、そういう嗜好は少々縁遠いもので」
 方針を変更。危険かもしれないが、冷静さを失わせなければ勝機がない。
(もし負けて襲われたら――生きていれば、信也に慰めてもらいましょうか)
「まてまて、それは心外。むしろ逆だ。僕はまじめに生きてる人間を襲いたくないし、女の子を悲しませたくもない。君みたいな子なら尚更だね」
 男はさも傷ついたと言わんばかりの表情で言う。話せば話すほど真っ当な人格に思えた。
 彼はつまり、できるだけ良心が痛まないような人間を選んでいるといいたいらしい。あえて嫌いな人間を選ぶから、必然男の、それもふらふら遊び歩いている学生ということになる。ここが拠点なのは、そういう人間が集まっているから。
(なるほど、人格を読み違えたとはいえ、推測はほぼ正答でしたか。――けれど)
 一つだけ、そして絶対に忘れてはならないことがある。
「ええ、貴方の言い分は分かりました。その価値観を偽善だと責めることもしません。元より私に、その権利はありませんから」
「うん、そう言ってくれると思っていた。……けど、許してはくれないようだね」
 涼しい顔でそう言う吸血鬼に、私は当然です、と返答。
「何故か訊いてもいいかな。そこで転がってる彼を襲った君にだけは、責められたくないんだけど」
 吸血鬼が他人の食事を弾劾することなど間違っている。元より承知だし、実際彼が何人意識不明にしようが知ったことではない。
 そう、それが無関係な人間ならば。

「簡単なことです。貴方は信也を傷つけた」
 言うが最後、理性が焼き切れた。ヒステリーでもなく、思考は十分な冷たさを保っている。切れたのは別の部分。
 結局のところ、大切なものを傷つけた相手に対して様子見など私らしくないのだ。

 踏み込みは一瞬。普段は人間に合わせてはいるが、私たちという種族の限界はそれらより高く設定されている。達人やオリンピック選手ならば話は別だろうが、一般人なら反応出来ない程度には速い。そして、それは目の前の男とて同じだ。
 そも戦闘という事象と私たちは関連がない。通常より速く強いというだけで、別に毎日殺し合いをしている訳ではないのだ。ゆえに、攻撃において人間を圧倒しようと、防御においては人並みである。いくら反応速度が速かろうと、それを予期していなければ使えない。
(そう、読み間違ったのは貴方も同じ。私を理で説ける同胞だと思ったその失点、ここで支払っていただきます)
 最初からトップスピード。沈み込むように彼の側面へ移動し、さらに地と壁を蹴る。ここが通路であることが幸いした。
 側面へのステップまでは見えていたらしいが、そこから空に舞い上がった私に彼は反応できていない。
 空中で体勢を制御など出来ない。けれどここはビル同士に挟まれた裏路地、真上への空間はあっても、そこで蹴る壁には困らない。
 自分の身体能力で可能なことは把握していた。人間がやるのではないのだ。よほど無理な挙動でなければ、冷静に行動するだけで実現する。
 ビルから出っ張った換気ダストを蹴って真下の彼へ急降下。勢いを回転に換えて、前転の要領で肩口に踵を叩き込んだ。
(――っ、浅い)
 会心の一撃だと思ったのに、これでは脱臼がいいところだ。私は次に備えて体制を整えようと、
「はっ、元気だね君は!」
 それで終わりだった。着地と同時に衝撃。痛みが走ったのは彼と同じように肩だった。尤も、打撃ではない。強引に掴まれ、そのまま壁に押し付けられただけ。そして、それで既にチェックメイト。
(訂正、狭い場所なのは不幸だったようです)
 やはりというか、力勝負では望むべくもない。右肩を片手で抑え付けられているだけだと言うのに、まるで身動きがとれなかった。
 せめてとばかりに男を睨みつける。その視線に、彼は困ったように眉尻を下げた。
「君みたいな子を敵に回したくないな。会話できるのに交渉はできない。その切れる頭を最初から倒すことに使っている。おまけに美人だっていうんだから、ちょっと反則だと思うんだけどね。――で、君が交渉できない理由は?」
 その言葉を聞いて、私は彼の言葉が全て本心であると判断した。ことここに来て、まだ話を続けようとするからには、本当に戦う意思などないのだろう。
 正直好ましい人格と言える。けれど、仕方ない。既に敵になってしまったのだから。
「簡単な話です。信也はふらふらと遊び歩いている彼らとは違う。別に彼らを悪く言うつもりはありませんが、信也は貴方の基準からすれば襲うべき人間ではない。だというのに、貴方は彼を傷つけた。交渉の余地などあるはずがないでしょう」
 そう、例え何かの間違いや不幸な事故だとしても、彼が信也を襲った以上どうにもならない。もはや感情ではなくルールの問題なのだ、これは。
「なるほど……。君の顔、思い出した。その信也くんが、いつ襲った誰なのかも見当がつく。けれどアレは仕方なかったんだ。目撃された以上、最低限の記憶は奪わないといけない。同じ吸血鬼なら分かるだろう――って、言っても無駄らしいね」
 当然ですと頷いた。少なくとも、今ここで私から折れるという選択肢は存在しない。最終的に己の身がどうなろうと、知ったことではなかった。
「参ったな。実は、僕も謝るつもりはない。吸血鬼として、僕は何一つ間違ってはいないからね。どちらも退かないとなると、どちらかがどうにかなるしかない。これは好意から言うよ。君に退かせる為に、僕は手段を選ばない」
 最後通牒。意味は当然理解できるが、
「世間一般ではこういう時――クソクラエというらしいですよ?」
「唾を吐き掛けないだけ君は上品だ。仕方がない、痛くなければいいね」
 暴力を好かないらしい性格なのは既に分かっている。ここで私を屈服させようとするなら、後は一つくらいしかないだろう。
(正直泣かない自信はないですね。――まあ、仕方ありませんか)
 さて、これは無理やりに入るのか否か、なんて他人事のような思考が脳裏を過ぎり、

「……んの、バカァッ―――!!!」

 すさまじい衝撃波にいつも通り吹き飛ばされた。



 南区の繁華街。数分毎にナンパ野郎どもに足を阻まれていたわたしは、うんざりしながら一葉を探す方針に切り替えた。
 一人で歩いていると、とにかくうざい。ひっきりなしの表通りにうんざりして裏道を使うと、遭遇率が減る代わりに性質の悪い連中が沸きだした。
「ちょっと待てよ。俺に逆らうとどうなるかわかって」
「うっさいわね」
 あまりに邪魔で、しかも実力行使に出ようとする輩も多数。腕力じゃ敵う訳もないから、必然指を弾くことになる。
「どけっつってんのよ!」
「グハッ」
 一人二人吹き飛ばせば、例え群れていようが向かってはこない。けれど顔を覚えられては面倒だし、そもそも一般市民相手に軽々しく使って良いものじゃない。それでも使わざるを得ないというのなら、記憶を消せる一葉を探すのが第一だった。
 急ぎ足で一葉の気配を辿る。それほど遠くないし、何故か動きが止まっていた。休憩中なのか食事中なのか、とりあえず今のうちに捕まえるべきだろう。
「ったく、何でこのわたしがアイツを頼んなきゃいけないわけ」
 普段なら承服できないことだが、この際仕方がない。仕方がないから、やはり辛亭の礼を出会い頭に見舞ってやろうと思った。
 いくつかの路地を曲がる。気配はもうすぐそこだ、わりとすぐ近くに表通りがあるから場所以外はよくわからない。
(まあ裏路地なら大丈夫でしょ)
 そして、そこにいるであろう仇敵に特大の一撃をプレゼントしようと角を曲がって、
 見ず知らずの男に抑え付けられて、今にも口づけされそうになっている柚木一葉を発見した。
(な、)
 一瞬見てはいけない、なんて場違いなことを考えた。けれど、身体は全く逆の行動をとっていて。

「こんの、バカァ―――!!!」
 何故だかは分からない。先ほど思っていた通りに仕返しをしたわけでもない。
 ただ、柚木一葉が美樹本信也以外とキスするなんて、認められないことだっただけだろう。
 気がついたらわたしは、叫びながら思いっきり指を弾いていた。

 一葉と、アイツを抑え付けていた男が吹き飛ぶ。たぶんソレを得てから初めての、手加減なしの一撃だった。
 ただ周囲にある陰と陽の粒子をありったけぶつけただけ。弾いた指以外に音なんてしないし、爆発も閃光もないけれど。
 そう、たぶん、周囲のぼろっちぃ壁がひび割れるくらいの威力はあったのだろう。
「って、一葉!」
 見知らぬ男は吹き飛んだ勢いのまま、地面を蹴って着地した。人間業じゃないし、焦りもないその顔を見て、そいつが下手人だと判断する。
 けれどそんなやつは後回しだ。邪魔するようなら指を弾けば良い。とりあえず今は一葉を――。
「――美樹本家の春奈さんは、どうやら私を殺したいようですね。まあ、今回だけは礼を言いましょうか。義理で」
「ハ、今更言うことじゃないわよ、それ。けど、今だけは聞き流してあげる。義理で」
 即座に一葉の元へと駆ける。直撃を受けた訳ではなかったのか、彼女はすぐさま立ち上がった。その表情はいつも通り余裕綽々。
 けれど、わたしは知っている。アイツが下らないことをベラベラ喋るときは、それだけ焦っているという証拠なのだ。本人が気付いているかは定かではないが、言葉の内容も定められないくらい、全開で考えを回していることの表れ。
(まさに間一髪ってとこか……貸し一つなんだからね)
「やれやれ、まさかお仲間がいるとはね……その顔、信也くんの妹さんか。異能持ちは流石に予想していなかったけど、さて、助かった気がするのはなんでだろうね」
「ペラペラうっさいわね。話が長い男は嫌われるわよ」
 全くだ、と肩を竦める優男。けれど、人間じゃない一葉を片手で封じるくらいだ。油断なんてできない。
「で、君はどうするつもりかな。そこの彼女を引き取りに来ただけなら、僕は喜んで見送るけど」
「それは無理ですね。私はまだ帰るつもりはありませんので」
 即座に言葉を返す一葉。こうなったコイツを動かせるのは信也くらいだ。不可能に挑戦する意味はない。
「ブチ切れモードの猛獣を持って帰るのは面倒よ。とりあえずアンタに八つ当たりさせるのがベターでしょ、吸血鬼さん」
「……とんでもない爆弾のスイッチを押したようだ。もう一度信也くんとやらに会いたくなったよ」
 ふざけた物言いに、わたしのスイッチも入った。たかが吸血鬼如きが、馴れ馴れしく人の家族の名を呼ぶんじゃない。
「――冗談。とりあえずその浮ついたイケメン、叩き潰してあげるっていうの!」
 言い終えると同時に、わたしは人生二度目の本気を込めて、指を弾いた。



 春奈は、何故だか素敵に虐殺モードに入っていた。
 あの衝撃波は純粋な物質には殆ど効果がないはずなのに、周囲の壁は彼女が指を弾くたびにひび割れる。
(けれどそれに救われました。どうやらまだ純潔を保っていられるようです。……けれど)
 下らない言葉を浮かべながら、私は必死で思考した。そう、確かに彼女には助けられた。けれど、状況はどう見ても悪化の一途である。
 何故なら、単純に守る物が増えただけだからだ。
 狭い通路で、春奈の異能は確かに強い。けれど、春奈は勘違いしていた。アレは本来、私以外に大した効果を発揮しはしないのだ。
 そう、それは契約の対価。私から流れた力ゆえに、私に向けると矛盾を起こす。その矛盾が衝撃波となって私を揺さぶる。彼女は私以外にアレを使おうとしなかったから、それを知らないだけ。それは本来良いことのはずなのに、この場合に限って最悪のミスリードになっている。
 案の定、見る見るうちに彼は平静を取り戻している。避けるたびに余裕が増す。回避の動きは無駄がなく、それもさらに小さくなっていく。
(さて、どうするべきでしょうか。さすがお仲間と称えて差し上げたいところですが……これは、ちょっと)
「こんの、ちょこまかと……。男ならどーんと受け止めろっていうのよ!」
 苛立ちに一際強く春奈が指を弾こうとした瞬間、ついに彼は動きを止めた。
「分かった、そうしよう」
 音が響く。これまでで最大の衝撃音。……けれど、彼は腕で顔を守るだけで悠々と耐え切った。
「確かに物理的な影響力もあるらしいね。式も何もない単純な霊子干渉で、それだけの現象を起こせる君は天才だ。それに、半分人間じゃない僕たちには、ある意味有効な手段でもある。――だから、君は気付けなかったんだ。ソレはそこの彼女にしか通用しないもので、僕には多少痛い程度しか効力がないってことにね」
 それは、慰めるように優しい声だった。思考が焦りで塗り潰される。拙い拙い拙い。やはり同胞、カラクリを既に見抜かれている。これで春奈は、攻撃ユニットから敗北条件へと成り下がった。
 彼が力を込めるのが分かる。春奈は知らない。彼や私が本気を出せば、どれほど速く動けるか。達人でもオリンピック選手でも人外でもない彼女には反応できない。彼が動けばそれで終わるというのに、ただ焦るまま言葉を返す。
「なにをごちゃごちゃ、ようするにもっと強く撃てばいいんでしょう!」
「ごめん、先に謝っておく」
 それで、視界から消えた。否、消えたのは春奈の視界からだけ。私には反応できている。けれど、好き放題春奈が暴れた余波で、私の身体が応答しない。そう、彼の言う通りアレは私にだけ威力を発揮する特殊能力。彼女が私を攻撃する、という事実自体が私を打ちのめすだけのシングルアクション。
 彼が見える。あと三歩。時間にして秒を十等分してなお余る速さで辿り着く。けれど今なら間に合う、動け動け動け――!
「そう来ると思っていた」
 耳元で囁かれる声。防御する訳でもなくただ割って入った私を、彼は空中で前転することでひらりと避けた。私は壁を蹴るしかなかったというのに、彼はその体技のみで離れ業を再現する。訂正、読み違えていたのはやはり私だった。この動き、どう考えても戦いの素人などでは在り得ない――。
 空中で腕を取られる。姿勢の制御も満足に出来ない今の私では、抵抗など不可能だ。折られなかったことに感謝するべきか、なんて通路を吹き飛びながら考える。
(ゴメンナサイ信也。貴方の妹を守れない)
 壁にぶつかって止まった。嫌な感触、内臓と肋骨が拙いことになった。破裂も骨折も免れたけど、ソレに近い裂傷。人間なら既に瀕死だろう。身体の造りが同じな私も、すぐに動くことなんてできない。
 視界の先で、反応できていない春奈が私と同じように投げられた。感謝しましょう。同じ場所に叩きつけられようとしていた彼女を、私はギリギリで受け止めた。そうさせる為に投げ飛ばしたのだとしても、愛しい人の妹を守れたことに安堵する。
 春奈は気絶していた。それでいい、抵抗しないなら追撃なんてしないだろう。私がどうなろうと、目覚めない限り彼女の安全は保証される。
「もう良いと思うよ。僕は君に敵意なんてないし、手を上げたことをすまないとも思っている。けれど向かってくる以上は止められない。――そら、そろそろ頃合だろう。これは十分に痛み分けのはずだ」
 目前、五メートルの距離を保って彼は言う。間違った方の意味なら、徹底したフェミニストだ。けれどそう、何度言われても、ルールに触れた彼には返す言葉なんて一つしかない。結果がどうなろうと無関係、私の返事はただ一つ。
「殺されたって頷けませんね。私たち、そういう生き物でしょう?」
「……一つだけ言っておくと、君のソレは異常だ。僕たちはあくまで人間の成れの果て。その感情は、決して吸血鬼特有のものじゃないよ。僕が君の立場なら、とっくに一言謝って帰っているだろうね」
「そうですか。じゃあ、私は私のルールを守るだけです」
 ため息が聞こえた。こちらに歩き出す気配。私は春奈を地面に下ろす。巻き添えになんてできない、私の行動の果てに信也が泣く姿などあってはならない。
 その時、カランと小さな音が響いた。どうやら春奈のポケットから落ちたらしい。意味も無く拾い上げると、それはちゃちな果物ナイフだった。
「―――」
 息を呑んで止まった私に、彼も止まった。何度目かもわからない要請がきこえる。
「諦める気になってくれた?」
「ふふ、まさか。ただ一つ、お願いを思いついたもので」
「……聞こうか」
 笑いながら拒否する私に、頭を振りながら彼は答えた。全く、人の良い吸血鬼もいたものだ、なんて下らないことを考える。
 正直やりたくない。けれど、私はそれをやるべきだ。だから、あえて壊れた自分を肯定することにした。
 その前に、とりあえずこれだけは言っておかないと。
「これから何があっても、絶対に春奈は助けてください。彼女が抵抗しようと、何を言おうと助けてください。私は決して降伏しませんが、それを守っていただけるなら決して貴方を恨みません。仮に彼女に何かあったら、私は死ぬまで貴方を追い詰めます」
 立場を弁えない言葉かもしれない。けれど真実だ。実際彼は真顔で、
「ぞっとしない言葉だ。君にその台詞を言わせたのは、世界で僕が初めてだろうね。これでも身の程を弁えている。そこの彼女は帰り道まで保証するよ」
 ありがとうございます、と敵に向かって答えて、春奈の首筋に唇を当てる。私が何をするかは分かっているだろうに、彼は動く気配もない。
 甘い香りが口腔に広がった。目当てのモノを見つけるたびに、二度三度と嚥下する。
 やがて私はそれを探り当てた。正直その感覚はもう理解出来ないが、彼はきっと違うだろう。
「ふう、これで何とか」
 私は笑みを浮かべ、彼は疲れた表情。立場が全く逆だった。ソレが正しい順序でもある。
 ゆっくり立ち上がると、私は春奈が落とした果物ナイフを握った。カバーを引き抜いて眼前に掲げてみせる。
「それで抵抗しようって? ……君の素手より弱い武器で」
 呆れを越えて、怒りが混ざった声だった。ふふ、と笑って首を振る。そんなこと考える訳がない。
 そして無造作に歩を進めた。余裕の表れか、一メートルを切っても動かない。好都合だった。私たちの距離は五十センチ程度。ナイフを振るう隙間もない。
 そこで、答えた。
「いいえ、滅相もありません。――これは、こうするんですよ?」

  首筋に刃を当てる。躊躇う事無く引き裂いた。

「な、」
 驚く声が聴こえる。流石に当然か、吸血鬼とはいえ頚動脈を切り裂いては余裕ではいられない。簡単に死ぬとは思えないが、もしわたし達が死ぬなら失血死だからだ。目の前で掻っ切られた彼が驚かないはずがない。
 そう、驚いてもらわないと困る。無論、ソレを目くらましに攻撃しようなんて考えていない。そこまで油断してはくれないだろうし、こうなったら私には身動きさえとれないわけだし。
 だからこそ彼は、半ば殺し合っていた私の肩を掴んでただ叫んだ。ソレが私の望みだと気付かないまま。
「馬鹿か君はっ。そんな事をして一体何に――」
 声も遠くなった。けれど浮かぶのは笑み。目前で、名前も知らない吸血鬼が、血塗れになりながら慌てふためいている。だから、浮かぶのは笑みだ。
(あはは、おかしい。笑うしかありません)
 だって、これで。

「私の勝ちですから」

「え、なにを――……ぐ、あ」
 胸を抑え付けて、彼は蹲る。その顔は焦燥と辛苦に染まっている。
 そう、その感覚は辛苦であり、その色は真紅だ。さらに、三桁を優に越えるヒトビトの阿鼻叫喚が後に続く。
「こ、れは、まさか……馬鹿、な」
「そう、そのまさか。本当に馬鹿なことです」
 ナイフで裂いた傷などすぐに癒える。けれど、飛び散った血は別だ。一度体外流れたものは、傷が治ろうと戻らない。私の大切な血は、今も彼の姿を冗談のように染めている。
 そう、文字通りの辛苦に塗れた目で、彼は私を見た。
「君は……本当の馬鹿、だ。こんなものを、馬鹿正直に取り込むなん、て。この恐怖は僕のものでも、君のものでも、ない。これは」
 その通り、本当に全くその通りだ。元々私に戦闘的な能力なんてない。私はただ血を奪うだけの生き物。私はただ知を奪うだけの化け物。だから当然、ソレも一緒に流れてくる。私は獲物を前にわざわざ会話までするタイプだから、彼らのソレは殊更強い。そう、私はただ奪うだけ。奪ったものは、当然私の中に蓄積される。
「イエスです。ソレは彼らの恐怖。私のものでも貴方のものでもありません。私が何人何十人何百人という人から集めた恐怖です。一番新しいのは、そこで寝てる春奈のものですけどね。ほら、とっても辛いでしょう? 辛亭の隠しメニューなんです。もう壊れて何も感じない私でも、それはちょっと辛い気がするくらいですから。相手を眠らせてから奪う貴方では、ちょっとしんどいでしょうね」
 食事であると同時に、吸血は私にとって求道でもある。奪ったものに恐怖が混ざってしまうとしても、気絶させてしまっては答えが得られない。私にとって人生とはその答えを探す為のものだ。だから、感覚が壊れようと選り好みすることはない。
 けれど、そんなことするのは私だけだろう。もし仮に、普通の人が日々の食物全てからその恐怖を受け取ったら、きっとマトモな神経ではいられない。それを十二年分。もはや私自身ソレが何なのか分からなくなるほど、コトコトと煮立てた恐怖のエキス。
「君の壊れ具合に、納得がいった。少なくとも僕では耐えられない、こんなもの」
 真っ青な顔で、それでも彼は立ち上がった。けれどそれで精一杯、吸血鬼の私が感覚を犠牲して溜め込むほどの恐怖だ。そうなるまいと避けてきた彼に、抵抗することは不可能。だからこれで私の勝ち。私はしばらく動けないけれど、彼は私に対する恐怖で崩れる一歩手前である。
「さて、勝負はこれからです。貴方には、罰を受けてもらわないと。ああ、私に勝てば、この身体は貴方に差し上げますよ」
 いっぱいいっぱいなのはどちらも同じだ。これでやっと対等。私は飛びそうになる意識で笑ってみせた。
 そこで、はじめて彼はその表情を浮かべる。言葉にするなら、それは諦めということになるだろう。
「――ギブアップだ。……正直、君と言葉を交わすだけで意識が消えそうになる。謝れというなら謝ろう。だから、もう許してくれ」
 その懇願は真実。謝る気がないという宣言は撤回された。その事実に、どうしようかと思案一つ。
「はあ……そう、ですね」
(これで良いでしょうか、信也)
 彼なら、ここまでやった私を逆に本気で叱るだろう。解っていてもそんな言葉が浮かぶのを止められない。
 少し冷静になって、状況を振り返る。春奈は失神、私は満身創痍、元凶の彼は精神死一歩手前。これ以上求めるなら、もはや誰かが死ななければならない。
「正直、まだ足りないという気はするのですが」
 一つため息。必要最低限の結果は得られただろう。
「仕方ありません。これで分けとしましょうか」
 今回ばかりは、もう身体が動かない。
 そう告げた瞬間、闇の淵に滑り落ちるように意識が途絶えた。



 それから数日後のある日。



「ねえねえハルちゃん、きいてきいて」
「はいはい美沙ちゃん、どうしたのよ」
 教室に入ると、また美沙が騒いでいた。
 デジャヴ、というかついこの間と同じ状況だなと思い返す。
「噂よ、噂。また出たらしいの」
 同じどころか完全な焼きまわしだ。いっそ笑いたい気分だが、そういうわけにもいくまい。
「また不思議? 吸血鬼くらいじゃ驚かないわよ」
「やだなー、吸血鬼なんているはずないじゃない。不思議っていうのは、もっとありそうなこと言うんだよ?」
 眩暈のタイミングまで同じである。
 もうこの街の人間がどうとかなんて、思い返すまでもない。そうですかいと話を促した。正直言えばどうでもいい。
「……ふーん、今度は何があったわけ?」
「驚かないでね。……辛亭、らしいの」
「―――」
 世界で一番キケンな場所を想像した。
(アンタ、わたしに何か恨みでもあんの)
 一瞬目前の笑顔に殺意を覚えた。
「で、あの辛亭がどうしたわけ?」
「あれ、ハルちゃん辛亭いったことあるの?」
(――言うな)
「いいから。もう焼きまわしはいいから。辛亭がどうしたのよ」
 投げやりな口調で言う。正直あの店のことなど金輪際考えたくないのだ。
 そんな事を考えていたから、彼女の話を聞いたときは死にたくなってしまった。
(これは、ちょっと作戦会議が必要だわ)




「ということ、らしいわ。正直そろそろあの店をこの街からデリートしたいんだけど」
「三日間気絶して、その後二十人ばかし襲う破目になった私にどうしろと……?」
 あと百人襲ってでも実行して欲しいのが本音ではあった。流石に言わないけどね。
 そんな下らない事を話しながら、わたしたちはそこへ向かった。
 正直行きたくない。正直じゃなくても行きたくない。それは忌まわしき地獄の釜。舌と魂を焼き尽くす真紅の辛苦。
「辛亭につきました。――が、わざわざ貴女まで入ることはないのでは?」
 あの柚木一葉がわたしに気を使っている。それほどまでに情けない表情をしていたのか。
 その事実が、逆に私を奮い立たせた。いついかなる時も私は優雅でなければならないのだから。
「ええい、うどん如きにこの美樹本春奈が道を譲る訳がないでしょう。行くったら行くのよ!」
 叫ぶままに突進した。そうでもしないと、この世と地獄の境をくぐれる気がしなかったんだから仕方ないだろう。
「う」
 踏み入った瞬間眩暈がした。モノのわりに、店の匂い自体はそれほど酷くはない。口にするまではあくまでただのうどん屋なはずだ。
 だというのに、何故わたしは震えているのだろう?
「ま、入ったからには諦めましょう」
「そうそう、怖いなら甘口でも頼んでおけば良いよ」
 一葉の言葉を引き継ぐように、別の声がそう言った。
 それに、一閃の眩暈。美沙の噂話に、どうやら偽物はないらしい。
 視線を向ける。そこには、もし暗がりなら女と見間違えそうなショートカット。背が高く、しなやかなモデル体型の美青年。
 数日前に一戦交えた吸血鬼が、世にもおぞましいうどんをすすっていた。



「呆れましたね。貴方がそれに耐えられるとは思えないのですが、どういうつもりですか?」
 本当に呆れた気分で、私は目前の男に話しかけた。あれ以来気配どころか吸血行為さえ確認できなかったのに、一体こんなところで何をやっているのだろう。
 いや、何をやっているのかは見れば分かる。彼がすすっているのは味覚破壊の権化、極真激辛霧生ヶ谷うどん、通称極辛である。
 私以外には本当に極少数しか出されないはずの、とういうより下手に食べると死にかねない刺激物質の混沌を、何故に彼が味わっているのか。
「どういうつもりかと問われれば、君のせいだとしか言い様がないんだけどね。というか、勝手に気絶した君ら二人を家まで送った僕に、一つでもお礼を言う殊勝さはないのかな」
 そこで彼は台詞を切った。ずずず、と地獄の沼を涼しい顔で口にしている。隣で春奈が目を逸らすのが分かった。
「それに君は勘違いしているみたいだけど、そもそもあんな恐怖の塊を受けて元に戻れるほど、僕らは頑丈じゃない。身体はともかく、君のライフスタイルは吸血鬼という点を差し引いても異常だ。そんな中身をぶちまけられた僕は、当たり前のように感覚がぶち壊れたというわけ。どうしてくれるか問い詰めたいところだ」
 それはどう解釈しても恨み言以外の何物でもないが、言っている本人は涼しげだ。また麺をずるずるとすする。何が気に入らないのか、台においてあるキムチを乗せ始めた。
「うわ……」
 押し殺した悲鳴を春奈はあげる。彼女の手元には杏仁豆腐。杏仁キムチではないのに、左手はしっかりと水を固定して離す様子がない。
 その様を横目で観察しながら、私は彼との話を続行する。
「それならば、尚更ソレは止めた方がいいのでは。今ならまだ引き返せるかもしれませんよ?」
「ソレが無理なことくらい、君が一番良く知っているくせに」
 水を一口。それで彼はまだ私ほど感覚が壊れていないのが分かった。
「うん、感覚が壊れる、というのがミソなわけだ。甘さも苦さも旨さも、実のところ辛さもきっちりと理解できる。ただ限度が壊れるんだよね。どこまで辛くても、耐えられないということがなくなる。するとどうだろう、この辛さを乗り越えると、この極辛はとんでもなく美味しい」
 彼の言葉に、春奈はあからさまに嫌な顔をした。私は彼の言葉を十分に理解できるが、彼女にはまだ辛いかもしれない。
 殺し合いを演じた相手と和気藹々と話すのがそもそも無理だった様子で、彼女はドンと空になったコップを置いた。
「はいはい、所詮わたしは人間ですわよ。アンタたちの次元違いな感覚が理解できるかっていうの」
 トイレいってくる、なんて拗ねた声音で、そのまま席を立った。テーブルに、私と彼だけが残される。
(というか)
「いい加減、貴方を“彼”と表記するのに疲れてきました。……名前、なんていうんですか?」
「君の望む名は答えられそうにないけど、今はサトルと名乗っている」
「はあ、貴方も似たようなものですか」
「まあね」
 その会話の意味を、私たち以外に理解できるものはいないだろう。正直のところ、私も十全に把握できているとは言い難い。
 まあ、分けと言ったからには遺恨がないのは確かだ。彼もソレは同様な様子で、いっそ清々しいほど馴れ馴れしい態度。同じ釜の飯でも食べている気分なのだろう。
「ところで、君とあの子ってどういう関係?」
 何がところでなのか知らないが、サトルは唐突にそう切り出した。
 というより、彼にしてみれはそれが本題なのかもしれない。何事もスマートな印象を受けたのに、少々粗が目立つ。
 こういう時の理由は大体相場が決まっているので、私はあえて素直に答えた。
「そうですね。主従関係というか、凧と糸というか」
「……やっぱりそういうことか。で、春奈ちゃんはそのこと気付いてる?」
 今の例えで良く分かったものだ。元から推測を立てていたに違いない。
 一瞬教えるか迷ったが、話してあげることにした。別にそれほど深刻なことでもないのだし。
「気付いてはいないでしょう。ま、別に問題ありません。彼女一人程度の死なら、百年程度は楽勝ですから」
 軽く言って、私はおかわりを注文した。極辛と同じ隠しメニュー、杏仁キムチである。
 それに、目敏く反応する吸血鬼が約一名。私の返答に納得すると、彼は狼のような笑顔を浮かべた。
「ん、それはまだ食べてないな。一口くれない?」
「訂正しましょう、やはり貴方はただの優男です」
 何を訂正するのか自分でも分からなかったが、とりあえず告げる言葉は決まっている。

「貴方に分けるものなどありません。――何か文句でも?」

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