シェアワールド@霧生ヶ谷市企画部考案課

影と仮面と小説家モドキの日常

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影と仮面と小説家モドキの日常 作者:せる


 どうやらわたしの夫はおかしいらしいと結論したのは、目覚めてから二ヶ月目の或る日のことだった。
 わたしの友人を名乗るN子は、顔に仮面などつけていたことはない。目覚めて最初に見た医者も、傍にいた看護婦も、どうやら仮面をつけてはいないようだった。己の知識と照らし合わせても、恐らくソレは真実だろう。
 視線を前に向ける。テーブルの向こう側で食器を洗っている男が、わたしの夫らしいというのは二ヶ月前に聞いた。記憶喪失、と医者は言い、それは失われていなかったわたしの知識と合致した。状況を分析する限り、全生活史健忘であるらしい。何故そのような小難しいことを知っていたのか、以前の己が何者であったかをわたしは覚えていなかった。
 わたしは誰? と酷く平静に言ったことは覚えている。思い返せば、そのときのわたしは正気ではなかった。けれどそれは当たり前だろう。赤ん坊ではあるまいに、常識も知識もあるのに自分の名が解らないなんて状態は、不安定にも程がある。
 だから、真におかしいのは彼だった。わたしの問いに、彼は酷く冷静に僕の妻だと答えた。
 見知らぬ人間が夫だという現状は、正直に言えば違和感を拭えない。
 そう、その相手が、真っ白い仮面をつけていれば尚更である。
「はい、可能なら飲まないように」
 洗い物を終えて、彼はこちらに戻ってきた。目の前に差し出されたのは一粒の白い錠剤。それは睡眠薬だ。どれだけ長い間眠っていたのか知らないが、わたしは一生分の睡眠を使い切っていたらしい。薬の力に頼らなければ、中々寝付くことができなかったのだ。
「ありがとう」
 受け取った錠剤をポケットに入れた。一応、自力で眠る努力は必要だろう。飲むなと言っている相手の前ですぐさま口に運ぶのもどうか、という判断が働いた。
 その様を見て、隣の椅子に座った彼はクスリと笑った。顔の上半分を隠す仮面だけが無表情で、茶を啜る様子はその白を除けば常識の範疇に納まるだろう。
 アンバランスだと感じ、わたしは自分が座っている椅子に意識を向けた。四つの足は安定して床に接している。揺れているのはわたしであり、その原因は彼だ。
 目覚めての二ヶ月間で新たに学んだ事。それは、この頭蓋に納まっている常識というモノがわたしにとって非常に厄介な存在だという事実だった。
 何せ名前がない。自分が誰だか解らないどころが、自分が本当に人間なのかさえ確信を持てない。話しかけてくる人間は全て人違いにしか思えず、穴が開くほど見詰めようと完全にシラナイヒトだ。だというのに、目前にあるのは水の入ったコップであり、わたしが口にするのは日本語であると解る。
 わたしからすれば、解るからどうした、という感じだ。わたしが何なのかも解らないのに、果たしてその理解が世界の常識と一致するのか。怪しいにも程があり、それ以上にわたしにとっては出所の知れない知識で、常識などでは在り得ない。誰が保証してくれようと、そもそも本当に言葉が通じているのかどうか、まずそれを疑わなければならない。
 最初の一ヶ月を、その常識を受け入れる努力に費やした。事有る毎に周囲の反応と己の知識を照らし合わせた。己の中の常識が"正しい"ことを確信するのに一ヶ月。それから初めて、自分の隣にいる人間の怪しさを分析するに至った。
 通常の人間なら、一目見てソレを異常と断じるのだろう。わたしだって、そう判断した。その判断を、そろそろ断定に変えようと思ったのである。
「何故貴方は仮面を着けているのですか?」
 その質問は二度目だ。初めて言葉を交わした時に一度、あの時は心を隠す為だと彼は言った。おかしい答えだと思ったが、その時は己の判断を正しいと思えなかったので、それで納得した。
「以前に答えたはずだけど?」
 白い肌が動く。整った唇が音を成した。
「あの答えでは、納得出来ないと判断しました」
「今更だね」
 全くだと頷く。しかし仕方のないことだ。
「顔を隠す為だよ」
 なるほど、それならば道理だ。仮面は顔を隠す物なので、わたしの常識はその答えは理に適っていると告げている。なので、それで納得することにした。
 しかし彼は、わたしの頷きに小さく笑った。その笑い方は、苦笑というモノだったはず。何故素直に笑わないのか、問う前に唇を塞がれる。その行為は夫婦である以上当たり前のことだ。常識に沿ってるので、わたしはそのまま流れに身を任せた。

 ***

「ふーん、仮面ねぇ……。ま、服装の自由は法律が保証してくれるでしょうし、良いんじゃない?」
 なにやらペンを走らせながら、N子は投げやりな口調で言う。いつも白い服を着ている彼女は、わたしや他の人に比べて酷く忙しそうだ。清潔感と疲れを混在させた表情を、時折口に運ぶ紅茶が緩ませている。
 ここの紅茶がお気に入りらしかった。確かに美味しいと思うが、そのわりにいつも客の姿はわたしたちしかいない。きっと、清潔すぎる白さが不評なのだろう。
「今は何を書いているのですか?」
「あー、うん、新作よ。今回はちょっと上手くいきそう」
 それはよかった、とわたしは答える。N子は作家志望で、何度か出版社に持ち込みしているのだそうだ。
「霧生ヶ谷出版でしたか。知識にもないあたり、わたしは文学と遠い人間だったようですが」
「いやいや、あそこ凄いマイナーだから。調べないと見つからないくらいだし、気にすることじゃないわよ」
 早口に言って、彼女はまたさらさらとペンを走らせる。角度的に一目では何を書いているのか判らない。覗き込もうとすると怒るので、彼女が書いている小説の内容をわたしは知らなかった。
「で、そのお兄さんは元気なわけ? 外に出ない仕事じゃ、色々心も翳るでしょ」
 何でもないような口調。どうやら大丈夫なようです、とわたしは返す。けれど、その単語の違和感に気付いた。
「しかし、夫の間違いでは? わたしの前には、今だ兄を名乗る人物は現れていませんが」
 言った瞬間、N子は表情を変えた。一瞬、しまったという風に視線を逸らす。その先には、執筆中の原稿があった。
「あ、そっか、ゴメンゴメン。小説の内容と間違えちゃったわ。今あんたと一緒にいるのは旦那さんよね。まずいなー、疲れてるのかしらん?」
 その口調は既に平静へと戻っていた。彼女が焦ったように見えたのは勘違いらしい。もしかしたら自分も疲れているのかもしれないと思い、わたしは部屋に戻ることにした。
「そっか、了解了解。じゃ、また明日ね」
 僅かに残った紅茶をそのままに、N子は立ち上がった。白く長い裾を翻して、ビュッフェの出入り口へ向かう。わたしはその後姿に、一つ疑問を思い出して問いかけた。
「そういえば、今書いている作品はなんというのですか?」
 立ち止まったN子。振り返りわたしを見るその目は、作家ではなく研究者のソレを思わせた。
「そうね。……影になった少女、よ」

 ***

 部屋に戻る途中に、数人の住人を見かけた。
 老夫婦と若い男女の双子。四人は庭にあるテーブルに集まって談笑している。わたしと夫を除く、住人全てだった。もう一人いたらしいが、わたしが目覚める直前に死んでしまったらしい。
 彼らの元にいこうかとも思ったが、何となく面倒になった。N子やわたしに比べると彼らはとても人間的で、それがわたしには少し眩しい。
 いや、N子はいつも疲れているだけで、わたしと一緒にするのは失礼な話だろうか。結局、わたしが日の光に出るのが苦手なだけだと判断した。
 こちらに気付いた老紳士が微笑みかけてきたのに、軽く手を振ってわたしは部屋の扉を開く。
 中には既に夫がいた。皆が集まっているのに、そこに向かわずに部屋にいるのは予想外だった。彼は仮面などつけているわりに、社交的な性格をしているらしいからだ。
「珍しいですね。貴方が部屋に閉じこもっているなんて」
「守る相手が変わったからね。今は君といるのが僕の仕事だ」
 可笑しそうに彼は笑う。何となく、その守る相手というのはいなくなった住人のことなんだろうと当たりをつけた。
「妻を差し置いて守る人ですか。存外、貴方は酷い人ですね」
 特に深い意味はない冗談だった。ソレは彼も察していて、その通りだと笑った。
 不意に楽しくなったわたしは、洗い物を始めた彼の背後に忍び寄る。そういえば、彼はいつも洗い物ばかりしている、と意味もなく笑った。
 忍び足のわたしに、彼は気付く気配がない。それが可笑しく、だから歯止めがきかなかった。ゆっくり、背中に触れてしまうほどで立ち止まる。
 気付かない貴方が悪いのだと思った。後ろから、彼の仮面へ手を伸ばす。触った瞬間、勢いよく取り去る。
「妻なら夫の顔を知らなければなりません」
 とってつけたように言って、仮面を後ろに隠す。自分の行動がおかしかった。
「それは無理だね」
 おどけるような言葉。
 振り返った彼には、知っている通り顔が無かった。

 ***

 研究室に戻った直子は、頭痛を感じてため息を吐いた。
 原因は、さっきやってしまった酷いミスだ。当たり前のことなのだが、"彼女"たちは非常に内面が似通っていて、機嫌によってどちらがどちらか判断し辛いことがある。
「今日はメインだったか……。てっきり妹の方かと思ったんだけど」
 早速メモに筆を加える。それは小説などではなかった。わたしは作家志望ではないし、霧生ヶ谷出版などという出版社は存在しない。この紙切れはレポートの材料だ。観察日記と言い換えてもいい。
 アニマの文字を消し、シャドウと記す。内容自体は事実を連ねているだけなので修正の必要は無い。彼女が私のミスから現実に回帰できるとは思えないし、それならそれで状況が進展するだけだと言い聞かせる。
 先ほど話したのは、二ヶ月ほど前に昏睡状態から目覚めたとある患者だった。本人は記憶喪失と思っているいようだが、本当は違う。そんなありふれたモノじゃない。
 彼女の話から推察するに、どうやら彼女はこの病院を寮か何かだと捉えているらしい。わたしは外から来る友達であり、寮には数名の住人と夫が住んでいるという。
 けれど、彼女はこうも言う。寮にいるのは老夫婦と若い夫婦。そして自分と兄だ、と。
 共通することは、視点はどうあれ登場人物が同じだということ。己が記憶喪失であり、目覚める前にどうやら一人の住人が死んだらしい、ということだ。わたしは、今日の彼女をシャドウ、その夫をペルソナ、老夫婦を賢者と大母、兄妹をアニムスとアニマだと定義している。死んだというのは、恐らくセルフだろう。トリックスターは、何故だか知らないが私らしいが。
「主人格が壊れて、パーツが独立した多重人格かぁ……。アレで世界が破綻しないっていうんだから、珍しいわよねぇ」
 正確には、ユング式の元型を人格に見立てた分裂症だ。そういう知識が豊富だったからこうなったのだろうが、無意識なのか演技なのかは判断がつかない。もし演技なら、彼女こそ小説家の資質があると思うのだが。
 夫が仮面を着けている、というのは初耳だった。役割的にその夫がペルソナなのは承知していたが、シャドウは現在のメインであるくせに言うことが支離滅裂だ。元来抑圧を担う領域なだけに、相当壊れている。それが、夫が仮面を着けているのが不思議だ、と常識的なことを言い出すのだから正直なはなし驚いた。元々彼らは彼女の精神にのみ存在するのだから、常識など関係ないはずなのに。
「とはいえ、主人格となって既に二ヶ月。現実に適応しだしたってことかしら」
 メモを元に報告書を作る。いつも通りの仕事だ。仮面が不思議だというのなら、近いうちにそれを取ろうとするだろう。恐らくその下には何もない。常識が通用しない彼女の世界においても、ソレを行ってしまえば夫は存在できなくなる。となれば元の精神性の一つに戻る、つまり分裂した精神が再び統合されつつあるということだ。
「患者が快復することを喜ぶべきなんだか、珍しい症例がきえることを悲しむべきなんだか」
 言って、そういえば独り言が多いな、と気付いた。首を振って作業に戻る。彼女の話は現実と内面世界が入り混じっていて、会話の内容を毎回分類しないと手痛い失敗をすることになる。あまり不用意に現実よりの発言をすると、バランスが壊れかねない。
 そう思って、最後のアレは余計だったなと気付いた。
「影になった少女、か。我ながら上手いこと言ったもんだわ。アレがキーにならなければ」
 いいけど、という呟きをけたたましいコールが遮った。やっちまった、と後悔。下手すりゃクビだなと乾いた笑みを浮かべて、恐らくは患者の急変を知らせる報告を耳に当てた。

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