シェアワールド@霧生ヶ谷市企画部考案課

F.O.A.F

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kiryugaya

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だれでも歓迎! 編集

F.O.A.F 作者:甲斐ミサキ

 ねえ知ってる? 友達の友達から聞いた話なんだけどね……。
 
 
 都市伝説ってのは霧生ヶ谷に限らず、どんな街にでもなにかしらあるものだ。都会に限らず、小さな集落、小学校、そういった閉鎖的コミュニティほど内容が濃かったりする。 例えば、戦時中。
 物資不足だから貴重品のチリ紙は各自持参だった。で、「赤い紙、白い紙」といった怪談が存在する。デマゴーグとは二名以上がいて、伝播することで話がどんどん膨らんでいく。そんな対人関係が成立しないと成り立たない社会現象なのである。
 霧生ヶ谷市を東西に貫く市道二号線。中央区を縦に貫く一号線と交わるあたり、いわゆる市の中心部の水路沿いでずぶ濡れの女を拾った。もう夜中の十時過ぎだと云うのに、オフィス街とはいえ、人気の絶えた、寂しげで陰鬱な場所でゴム長靴でずぶ濡れの女を拾うというのは控えめに例えても、気色の良いものでは決してない。が、職務上、そうもいくまい。後部座席を空け、客を迎える。
 私の名前は神輿入道。四十七歳。既婚者。そして夜専門のタクシードライバー。
 女はどっかりと座席に埋もれると、行き先だけ告げ、今時の女性らしく携帯電話を取り出しすぐに話しはじめた。
「明日は勤務日だからアンタを連れてきたいのよねー。お気に入りのストラップなわけだしさ」
(なにも我輩だけがすとらぷぅではあるまい)
「それはそうなんだけど、やっぱしっくりくるっていうか、そういうのあるじゃない?」(莫迦め、人間の考えていることなど知ったことではないわ)
「なによう、なにか用事でもあるわけ?」
(我輩、……金さんを観たいのだ)
「ああ、えっとたしか明日は「サイクラノーシュの悪代官」だっけ。コズミックワイドよねぇ。『拙者が裁いて拙者が切り裂く。この瞳と次元刀が曇らぬうちはー!』」
(うむっ!!)
「しっかし爺むさいわよね。佃煮をつまみに時代劇だなんて。利益背反かぁ。そんじゃ『考え物』でもしようか」
(考え物)
「そー、謎々みたいなもんよ、問題出し合って答えに先に窮した方が負け。私が勝ったらアンタを連れてく。でも私が負けたらどうぞご自由に」
(りもこんは点けてくれるのか?)
「あたりき」
(承知した)
 
 後部座席で雑談が続いている。フロントミラーにちらりと視線を遣る。なんと、携帯電話に話しているのではない。あろうことか奇妙な石とも金属ともつかぬ醜悪なストラップに向けて話しかけているのだ。
 尋常ではない。でも彼女はそもそも尋常ではない。行き先から推測出来るし、彼女の噂を知らないものなど霧生ヶ谷にいるわけがない。
 真霧間キリコ。名高い『マッドサイエンティスト』。真霧間源鎧科学研究所の主にして、様々な怪事件の裏には必ずといっても絡んでいる。そんな要注意人物……。
 
「じゃ、私から。いる時にいらなくて、いらないときにはいるものなーんだ」
(ふむ、それは金銭の類だろう。いる時にいって、いらない時にはいらぬ)
「バカチン。いる時にはいらないっていってるでしょ、風呂のふたよ」
「私の勝ちだよね。わはは」
(不合理ではあるまいか、我輩は問題を出しておらん)
「あ、そー。ふーむ、じゃ聞くわ」
(うむ。まず尻尾がある。何本かは不明だが。で黒い。そしてなぉんと鳴いてアラト殿に懐いて居る)
「尾朧猫のゴッフよ」
(……なぜ、分かったのだ)
「アラト君が執心してるなぉんと言えばゴッフしかいないじゃない。ゴッフでなくても尾朧猫で正解。鳴声なんて言っちゃ駄目よ」
(うぬぬぬ)
「これで二勝零敗。連勝してリビングでくつろぐかここで負けを認めるか」
(うぬぬぬぬ、もう一問……出すがいい)
「ふーん、頑張るわね。いいわ。まず細長い。目も鼻も口もない。で、緑だか黒だか灰色だか赤だか分からない色彩で触るとずるずるずるずるするものは何?」
(ぬう……キリコ、もう一度お願いする……)
「何度でも言うわよ。まず細長い。目も鼻も口もない。で、緑だか黒だか灰色だか赤だか分からない色彩で触るとずるずるずるずるするものは何?」
(うぬぬぬぬぬぅん……こ、答えはなんなのだっ!)
「キュウリの腐ったの。今朝冷蔵庫でみっけた奴」
(ぬぬぬぬ。、そういうのもありなのか?)
「知恵勝負だからね、無論」
(厚かましいお願いだが、これをキリコが解くことができたら帯同しよう)
「三勝零敗をチャラにしようって問題だからよほどの自信があるのね。どうぞ」
(まず、目や鼻や口はあるかもしれない。なにしろ可変であるからして。何でも食べるし何でも作る何にでも適応する。そしてそれは近々、満月の頃にでも霧生ヶ谷を襲うだろう、これは何?)
「む。鳴声は?」
「キリコが言うなと言ったではないか」
「ちぇ、余計なこと言うんじゃなかった」
「化け物、の一言で済めば良いんだろうけど、具体名を望んでいるよね?」
「無論」
「答えは?」
「ショゴスだ」
「うはぁー! そんなのアリー? ショゴス。テケ・リリのショゴス」
「キュウリの腐ったのがありならありではないのか」
「オーライ。私の負け。キムチ大王のストラップで我慢するわよ」

 お客さん、着きましたよ。私は指しでがまずに口を挟まずに職務に忠実たれと思っている。この職に就いたのも、私自身の特性から来るものだ。まずは表面から隠し通さねばならない。勿論、最高の笑顔で客を送り出す。真霧間源鎧科学研究所。運転席からその要塞めいた姿を一瞥するとタクシーを反した。
 
 同刻。研究所内リビング。
「キリコ、普段は我輩に喋らせぬくせに、あれで良かったのか?」
「上出来上出来。白々しいくらいに落語の『小倉船』に似てたけど、それに気付く余裕はなかったでしょうね」
「ふむー、後学のために、なぜあんなことをしたのだ」
「あー、問答ね。『ミスト・ウォッチャー』の一人なのよ、彼。ハンドルネームはビッグフット。霧生ヶ谷で起こる現象の何もかもが日本政府の陰謀だって信じていて、ご丁寧に『霧の監視者』って雑誌まで出してる」
「それで?」
「彼の本職はタクシードライバー。様々な客を乗せる。そんな時、客との話し好きなドライバーがいて、彼もそんな一人。勿論、私のことを承知だから声かけなかったんでしょうけど、さっきの一件、明日には霧生ヶ谷全域で言いふらされることになる」
「うむ?」
「その化学反応が知りたいのよねー」
「噂話が広がるのを面白がっておるのか?」
「ま、ね。デマゴーグは二名以上の人間が共有してこそデマゴーグになる。そしてそれが膨らめばいつしか都市伝説になる」

 午後十一時。
 真霧間源鎧科学研究所を後にしてすぐ、瑠璃家町で高校生のカップルらしきを拾い、南区の平松町まで送り届けた。
 道行きのついでです。話の種に一つ。お客さんたち。知ってます?
 近々の満月にとんでもない怪物が霧生ヶ谷を襲うらしいんですよ。何でも食べる何にでも変身するそんなのが。
 いえ、別に私は信じてるって訳じゃないんですが、あながち情報元がまんざらでもなくってね。どんな姿なのか興味あるじゃないですか。例えば……そこの彼女。彼女が君の首筋に齧りつくなんてことがあったら。いや、冗談ですよ、冗談。
 かっちん……!?
 トシ君、なによその目ー。いい? 化けモンが来る前に齧りついてやるわよ!!     
 明けて午前零時。
 平松町から六道区へ流し、バー『下弦の月』前で一人の女性を乗せた。
 六道区や霧谷区には外国人が比較的多く、そんなに珍しい存在ではない。銀髪に青い瞳をし、革の外套を着込み、いささか場違いにハードボイルドな空気を出そうとしても、どんなに隠しても男装しているつもりでも華やいだ年頃の溌剌さが沸いている。一仕事終えた充足感というのか、満ち足りた表情で乗り込んできた彼女を西区の『菜に花荘』まで送り届ける。そして先ほどとおんなじ話を繰り返す。霧生ヶ谷の真相を暴露するのが私の役目なのだと、心底そう思うからこその行為。
 それから、『菜に花荘』から猛烈な勢いで飛び出してきたやたらと馴れ馴れしい女性をついでに乗せる。深夜も営業して旦那様奥様お嬢様をお迎えするという姿勢の『冥土喫茶狂気山脈』で夜食を食べるのだと、こちらから聞きもしないうちにまくし立ててくる相手に、多少たじろぎながらも、こっちも負けじと多少脚色して先ほどの話を繰り返す。
 相手はフリーランスのライターらしく、猛然と喰らいついてきた。詳しく話せと言われても実際のところ、化け物が出るらしいと、くだんのマッドサイエンティストから盗み聞いた程度であるからでっち上げるしかない。でっち上げるとなれば、こちらも逆に開き直りがきき、俄然調子が出てくる。モロモロとキムチ大王とを足した、名状しがたい色彩の、翼が生えての触腕が生えての眼球が無数にあるだの。テケ・リリと鳴くだの……。
 ふう。暴風圏に飛び込んだような気はしたが、冥土喫茶で客を降ろすと霧谷区の愛すべき我が家に帰りつき、妻が用意してくれた晩ご飯を摂り、今晩あった出来事をインターネットの大型掲示板[無名都市]に書き込む。専用ブラウザの「ムメイナビ」の履歴に常駐させてあるネットゲームサロン板の「クトゥルフオンライン」にビッグフットのハンドルネームで書き込んでいく。都市伝説にショゴスだなんて、まさにうってつけ。
 キター、だの、神降臨だの、ドドドドドドだの、深夜の常連たちが思い通りの反応を返してくる。それに適当に付き合いながら、「ビッグフットのUMA日記」というブログを更新する。アクセス解析を見るまでもなくカウンターがぐるぐる回っていく。午前二時過ぎまでサイトを巡回しながらカウンターの回転を見たり、ムメイナビの自動更新で発言が膨らんでいくのを面白く眺める。一日で一番安らぐひとときだ。
 カーテンをわずかに開け空を見上げる。そういえば新聞の月齢では明日が満月ではなかっただろうか。満月の夜に何かが降臨したりするのだろうか。
 馬鹿馬鹿しい。私は思考の螺旋を切った。
 空想と現実は違うのだ。幾ら霧生ヶ谷には都市伝説が多いと言ってもたかがルーマーに過ぎないし、くだんの真霧間キリコだって、胡散臭いただのヤマ師に過ぎない。チョコレートの木だの、ノッカーガイストだの、ほんどいつだの、カッパの昆布巻きだの、伝説のアレだの、そんなもの何かしら科学的合理性で説明が付く物なのだから。
 布団に潜り込む前にもう一度月を見上げた。
 夜霧に霞む豊満な金貨。明日は満月に違いない……。そして私は夢の深淵へ。
 
 宙を飛びかうモロモロの大群に、漬物のくせしてアレが黒毛の馬に騎乗して、紡錘陣形を指揮し、中央突破を図ろうとしている。辺りには打落とされたモロモロの姿に、血臭の代わりに、気持ちが悪くなるほどの唐辛子やニンニク、韮などの漬物臭。そして、テケ・リリ、テケ・リリという夜鷹にも似た鳴き声……。
 
 目覚めると午前十一時。夢か。妙にリアルな、特に匂いが……。
 「クトゥルフオンライン」板と「ビッグフットのUMA日記」の反応を見てみる。都市伝説は定期的に新しいのが生まれたり、既存のものが、時代の雰囲気に合わせてリニューアルし、脈々と息づいている。皆の反応は良好だ。思った以上に反応が多い。今朝の話題には事欠かないんじゃないだろうか。妻が用意してくれたいささか遅い朝食の付け合わせがキムチだった。夢の名残じゃなくってこれは現実。
 昨晩はどうだったかって? そうだなぁ。昨夜のお客でさ、悪名高いあれ、真霧間のお嬢さん乗せてな。やっぱり噂どおりの変人だったよ。うん? どうせあなたの事だからなにか聞いてたんでしょって?
 そうだなぁ。知ってるかい。満月の晩にさ、ここ霧生ヶ谷を……。
 
 午前十二時半 蛙軽井小
 ねねねねねねね、ほのかちゃん、聞いた聞いた聞いたー?!
 はい今聞いてますから。
 友達の友達から聞いたんだけど、今夜って満月でしょ!
 出るんだって! 十二枚の羽生やした天使が降臨するんだって! ルシファーみたいよねぇ。ほふぅぅ。ハンサムなのかなぁ。
 ルシファーならわたくし、金星だと思うので、月とは関係ないと思うのですが。
 そんなの! 関係ない!
 こんな時は絶対、愛しのキリコさまが出てくると思うわけ。これを逃す手はない!
 シャッターチャンスよ! デジカメ貸して!
 この直径五メートルの輪に入ることが出来ず悶々としていた少年はさておき、
 
 午後一時 霧生ヶ谷のどこか
 ヨハネスは知っているか?
 なんです、また変な商売思いついちゃったんですか?
 馬鹿な、商売人が商売を忘れてどうするんだい。違うさ。
 これは友人の友人から伝え聞いた話、もっとも、情報収集には夜鬼でも使えばなんと言うこともないのだが。
 どうも、ここに眷属が来るらしい。星の巡りを見れば星辰は揃っていない。恐らく、下等な部類の連中だろうが、冷やかしに観に行ってはみないか、今夜。
 どこへです? あてはあるんですか?
 あて? 侮っちゃいけないよ、私をなんだと思ってるんだい。
 闇鍋のアレクセイですよ……。
 
 午後二時 ゲコカッパ専門店
 ジジ! 聞いたか?
 なんじゃい、カヌス。朝っぱらから。
 もう昼だ! 
 霊子反応がびりびり伝わってきてる。しかも陰の方。裏鬼門がどうも臭い。
 朝はキムチで茶漬け食ったからその所為じゃないかのう、臭いの。
 違うって!
 カーラやカシスにも連絡しといた方がいいか? あとカリンにもさ!
 まぁ、分からんでもないが、わしらがドンパチせんでも幾らでも血の気の多い連中はおるだろうて。傍観することじゃのう。
 ちょ、客の来ない店番に飽きたんだってば! 外の空気吸ったっていいだろ?
 そこまで言うなら拝んでくると良い。でも無駄足じゃぞい。
 
 午後三時 ランディ・シンプソン事務所
 カエルバーガーを放り込むひとときだけが楽しみなのに、そんな時に限ってホットラインがなりやがる。
 こちらエスアール。ラングレーどうぞ。
 ランド、良い知らせだ。いや、悪い知らせなのだが、君のフラストレーション解消にはいいと思ってな。
 俺にとって一番良い知らせってのはな、マクレーンの空気吸わせることなんだよ、このマザーファッキンスパイダーめ!
 ハハハ、相変わらずだな。笑えないジョーク。君らしい。今回、クーガーの使用を許可する。大いにやりたまえ。標的はMOROMOROとKIMUTHIの混合物らしいが、出来れば肉片でも採取出来れば尚良しだ。
 
 午後四時 霧生ヶ谷市観光部観光企画課
 茂さん!
 ……本田。絶対零度の視線で貫かれたいのか?
 もとい、課長。お噂は耳にされましたか!
 なんの噂だ? ふん、本田、どうせお前のことだ。話半分に割り聞いても足らんくらいだが、一応話してみろ。
 なにやら今夜、霧生ヶ谷に出るらしいんです。……なんというかUMAが。
 UMA?
 最近はヒドゥンアニマルとも言いますが、いわゆる未確認動物のことです。
 出るからなんだ?
 捕獲できないかと思いまして。観光資源になるんじゃないかと。ワシントン条約に関して調べましたが、UMAの保護義務までは載っていないようでしたから。
 ……一つ聞くが、それはどういった代物かね。
 モロモロとキムチ大王に羽がやたらと生えて蝕腕がやたらと生えて鱗がやたらと生えて、目玉が無数についてテケ・リリと鳴く、ゴジラ並みの大きさで名状しがたい色彩の巨大生物だそうです。
 ……絶対零度の沈黙。
 お前なぁ……お前の世界は尊重するよ?
 でもな、もしそんなものがいたとして、どこにそんなものを飼っておける施設がある、それにどうやって捕獲する気だ! 自衛隊でも呼ぶつもりか!? 霧生ヶ谷祭りの資料打ち込みに戻れ! 以上、以上だ!
 
 友達の友達から聞いたんだけどさ、今夜満月でしょ?
 出るんだって。キムチ大王が。
 えー、そうなの? あたしはゴジラって聞いたよ。特撮番組が撮影に来るんだとか。
 うっそー、宙飛ぶモロモロだって聞いたー。アレ、唐揚げにすると美味しいんだよね。捕獲できないかなぁ。
 
 友達の友達から聞いた話なんだけど知ってる?
 友達の友達から聞いた話なんだけどさ……。
 友達の友達から聞いた……。
 友達の友達から……。
 
 午後八時 市道二号線と中央区を貫く一号線が交わる水路沿い。
 私こと、神輿入道、もといビッグフットは現場に戻ってきていた。何故かしら彼女がまたいる気がしたからだ。前回乗せた水路の傍から離れたところにタクシーを止め、ライトを消す。
 まもなくして、官公庁の黒いセダンが二号線を東から入ってきた。

「アラト君、こんな実験知ってるかな?
 軍と警視庁がデマの送達速度とプロセスを研究するための実験として行われた興味深いデータが残ってるのよ。
 敗戦間近の昭和十八年。
 札幌駅の待合室で「怪人赤マントの噂」が語られていた。汽車の乗客にあえて噂を聞かせることで、噂の進行速度を計ろうとしたの。
 その時話された内容そっくりのデマが東京で確認されたのは二十四時間後。
 東京・札幌間の距離は千二十四.三キロ。時速四十三キロで噂は運ばれたことになる。
 霧生ヶ谷市の総面積は四百九十四平方キロ、霧生ヶ谷市全域に噂が広まるのはおよそ十二時間後。
 私は一つの噂を意図的に流した。その伝播速度を計るためと、噂がどういった形で顕現するかを知りたかったから。他の街ならいざ知らず、この街で都市伝説は都市伝説だけでは終わらない。私の霊子計がそれを示している」
 キリコの手に持った風水盤にも似た霊子計に表示された赤い陰霊子の魚影らしきが、霧生ヶ谷の東西南北から座標軸、まさにアラトとキリコのいる地点を目指して集束してきている。宙には赤々とした満月。
 
 あそこにいるのはくだんの真霧間キリコと、隠匿されているが実在が噂されている「霧生ヶ谷市生活安全課不思議現象対処係」所属の係員だ! 私は暗視鏡ゴーグルの倍率を上げ目視する。
 犯人は犯行現場に戻る、というが、まさにこれがそうなのかもしれない。何を意図するものかは分からないが、私も一枚噛まされたらしい。さすがは、というところか。
 霧生ヶ谷特有の霧が晴れ、くっきりと隕石の衝突痕をさらけ出したあばた顔の月が豊満な真円で天頂で輝いている。それが逆に私の中の不安感を煽り立てる。
 ここは危険だ。ここは危険だ!
 真霧間キリコが白衣をなびかせ、髪を風になぶらせながら、何かを待っている。腕組みしながら不敵な笑みを浮かべて。その横で名取新人といったか、が所在なさげに事の顛末、あるいはこれから起こり得ることが冗談であることを自分に言い聞かせようとするかの如くに、グルグルと回っている。
 
 友達の友達から聞いた話なんだけど……あのね。
 フレンド・フォー・ア・フレンド。
 友達の友達。
 根拠のない噂話、だが根拠が全くないわけでもないもっともらしい台詞。
 
「アラト君、おいでなすった!」
 キリコがひゃっほうと嬉々として快哉を叫ぶ。
 午後十時ちょうど。  
 それはあまりにも急激でとんでもない顕現だった。
(キリコ、お主は知らんだろうが、様々な恨みつらみを込めた模倣子をいんたぁねっととやらにばら撒いてやったのだ。力なきものは近づくなかれ。そして力在りしものは根絶せよと)
 キリコのストラップがゲラゲラと蟇蛙を押し潰したかの醜悪な哂い声をあげる。
「あら、知ってるわよ? 削除しちゃったけど」
(……へ……?)
「知 っ て い る の」
(……またしても、またしてもまたしても!)
「ちょ、キリコさん、アクマロさん、それどころじゃない、この匂いにあの影!」
 名取新人が指差す。
 身長およそ百メートル、総質量四万トンのなにものかが灯りの落ちた官庁街の水路脇に出没しようとしている。あるいは急速に組み上げられようとしている。
 周囲は悪臭に満ち溢れ、具体的に言えば韮や大蒜、唐辛子の匂いだ。それに生臭い魚介類の匂い。形状はキリコの持つ「キムチ大王」のストラップにモログルミを着せたような悪趣味なデザインで、蝙蝠めいた十二枚の皮膜を生やし、無数の触腕が蠢き、また数えても数え切れないほどの眼球が、鱗という鱗の一枚一枚で見開きしている。闇夜にまぎれて分かりにくいが明滅した名状しがたい色彩で、周囲の空気がどんどん腐食されていく。 「テケリ・リ! テケリ・リ! テケリ・リリリ!」
 実体化はほぼ完了している。すうと空気に馴染み、触腕の一本が電信柱を薙ぐ。


「キリコさん!」
(ふははははは、もう王手なのだ。我輩の勝ちだ、キリコ)
 キリコが耳も貸さずに満足げに、そのデカブツを眺めている。
「ここが限界、かな?」
(負けを認めるのか、ふははははは)
「霧生ヶ谷が破壊されるとして、もしくは日本どころか世界が破滅したとして。
 アクマロ、
 そうしたら『遠野山の金さん』観られなくなっちゃうけど、考慮した?」
(……え? そ、そうなのか?」
「『アナタノシラナイセカイ』も『暴れっぱなし将軍』も『滅殺仕置き人!』もみーんな終わっちゃうわけ」
「ぐぐぐぐぐ」
「でも、あなたなら何とかできる」
(当たり前だ。ショゴスの寄せ集めなど、我輩のお八つであるからな)
「破滅を勝ち獲るか、これからもテレビを観られる方が大事か、好きなの選びなさい」
(我輩は生はちょっとなぁ)
「早く決めなさい、さもなくば……」
 
 真霧間キリコのストラップが地面に置かれたと同じくして、涙滴状に伸び、あるいは「ビッグマウス」と表現でもするべき形状に変化し、それが砲台の如く怪物に向き、
 そして、一息に吸引した。僅かな匂いも痕跡すらも残さず、初めからそんな怪物などこの世に存在しなかったかのように消滅した。
 ただあるのは折れた電信柱一本のみ。私は目を疑ったが、確かに何かがいたのは事実で、しかし、この光景を明日の朝、誰かが見ても何かがあったとは思わないだろう。すでに名取新人がどこかに電話を入れている。電信柱の処分についてだろう。まさか『ミスト・ウォッチャー』が利用されようとは! 偶然に決まっているが偶然も甚だしい!
 憤慨しつつ、私はタクシーを反した。
 
(キリコ、お主と契約を結んだ。すなわち、どちらにせよ、我輩は勝ったのだ。魂をかっ喰らい、このごろついた石の身体から解放されてパズス様の許へ帰ることが出来る)
「いいえ、あなたは私のストラップ。何も変わらない。選びなさいと言ったのは私で、選んだのはあなた
 それに四万トンの陽霊子に抑え込まれ、ショゴスは地下壕で封じられてる。あなたのお腹にあるわけじゃない
 それに言ったじゃない『生はちょっとなぁ』ってさ。
 今頃、アラト君が奔走してるわよ。
 良かったじゃない。今夜の『遠野山の金さん』録画してあるからみましょ
 ほら言うでしょ? 『前向きに!』フィッシュ哲学」
 
 数日後。
 私こと、神輿入道は真霧間源鎧科学研究所の前を通ることがあった。あれから人脈を総動員して、物流の流れを追った。酒造会社『次元錦』へ正気の沙汰とも思えない、醤油『霧生紫』が領収書名「霧生ヶ谷市生活安全課」宛てに発行されている。また、市外から、これもまた正気の沙汰と思えない量の黒砂糖が同じ領収書名で発行され、品物自体は真霧間源鎧科学研究所に搬入されている。
 そして今。
 目の前に燦然とそびえ立つステンレスの百メートルを優に越える大鍋の建設を眺め、これがどういう意味かを考えようとして、結局諦めた。どう見てもカレーや煮込みうどんや佃煮を作る鍋にしか見えないし、あれをUFOの発着基地だと主張したらさすがに常識を疑われるだろう。かのFBI、フォックス・モルダー捜査官でさえ、不可思議な事件とまともな事件の区別はついたのだ。スプーキーと呼ばれるのは彼だけで結構!
 次こそ。私はエンジンキーを回し、その場から走り去った。

 

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