この町はその名のとおり、季節に関係なくふと霧が出ることがある。
自分の足も見えない濃霧のこともあるが、大抵はうっすらとかかる程度。
霧生ヶ谷の夜は更けて。
人気のない夜の通りは街頭の光が霧でやんわりと拡散し、昔見たロンドンの旧市街を思わせる雰囲気を漂わせる。
シュネーケネギンの店内、大きな窓のそばに置かれた席に座り、私はぼんやりとそれを眺めている。
店内に他に客がおらず、霧の降る音すら聞こえそうな静寂とキッチンから聞こえる調理器具や食器の音が、呆けた頭に沁みていった。
通り過ぎる車に驚いた犬が、なさけない声を上げて逃げていく。
一瞬靄の中に、いつか見たような白衣の影が見えた気がしたが。
…恐らく、気のせいだろう。
「ヴェランドさん、紅茶が入りました」
店のキッチンから現れた、ティーポットとカップを乗せた盆を抱えた白瀬。
ああ、ありがとう。
カップを私の前とその反対側の席に置き、香り高い湯気の立つ紅茶を注ぐ。
いい香りだ、セイロンか?
「ええ、ウバのもので、うちのチョコレートによく合うんです」
盆を近くの机に置いた置いた彼女は、白いパティシエの衣装のまま私の前の席に腰掛けた。
引かれた椅子の足がきれいに掃除された石畳に擦れ、音を立てる。
「ケーキは、彼女がすぐに持ってきますよ」
…大丈夫なのか?
「ええ、運ぶだけですし。それに魔術士のヴェランドさんには隠すまでもないと思いますが、キッチンで手伝ってくれているあの子も彼女を気に入ってるみたいですので」
それはいいことだが、そういう問題ではなくてだな…
「おまたせしましたー」
話を区切って、きゃぴきゃぴとした声が響く。
手に持つ盆には、待望のチョコレートケーキ。
秋も暮れだというのに肌寒いでだろう、ひらひらしたスカートにエプロン。真っ白な長髪にはカチューシャが、クリームもかくやという白のうなじには鎖の短い銀のネックレスがかかる。
もっとも、彼女が元々寒いと感じるなどあり得ないだろうが。暖房が利いているため寒くはないだろうが、いやそういうことではなく。
そのウェイトレス。
「似合う?」
…さぁな。
胸元の名札には『アルバイト・研修中 深雪 ささめ』
…
見ての通り、彼女はここのアルバイトとして働くことになった。
あの後。主に多少苛立った私による、そう、必要な、最低限の折檻の後に、話はさかのぼる。
でいだらぼっちを含む私たちに謝罪したささめだったが、肝心の盗んだ栗はすでに手元になかった。
曰く、盗んだ栗はすでに全て売って金に変え、その金で温泉巡りを楽しんできたため弁償はできないとのこと。
予想以上に俗物な怪異だった。
どんな勢いで浪費したのかと諌める前に、雪女が温泉に入って大丈夫なのかと問い詰めたい。
でいだらぼっちは被害者代表なので謝罪だけでもまだいいが、犠牲になった山の怪異たちの懐を考えると良くない気もするがそれはさておき、経済的に少なくない被害を受けているFにはちゃんと弁償する必要がある。
もちろん、手元に金がなくとも。
という理由で、現状へ至る。
被害分の金を返済するまで、ここでの儲けは生活費を除いてFの口座に入れる取り決めになっている。
「ぶー、あんたのせいでわざわざ私バイトしてんのにー!」
…満遍なくお前のせいだ。
「ちゃんと相手してくれないと、私ぐれちゃうー!」
これ以上社会の不適合者になる気か。
この調子でアルバイトが勤まるのだろうか。
提案しておいて何だが、不安にもなろうというものだ。
「大丈夫ですよ」
考えを察したのか、精一杯の苦い顔を向ける私に白瀬は軽く微笑んで見せた。
「じゃあ、ちょっとだけ味見ー」
律儀に宣言して、さっそくつまみ食いしようと手を伸ばす
やはりというか、顔を背けた途端これだ。
ちょっとま…
「わざわざスノリさんが、あのネックレスを用意してくれたわけですし」
ささめの首にかかっているネックレス。
魔術的な特性を持たせた銀の板に、ルーン術士である私がルーンをとある規則性を持たせて刻みこんだものである。
「あっ、ちょっと、やっ! くっ、くすぐったーい!」
…そうだったな。
トレイだけはちゃんと横の机に置いて、いきなり笑い悶えてごろごろ転がりぴょんぴょん跳ねだすささめ。
効果のほどは、見ての通り。
魔除けに近いタイプの恒常的で自動的な魔術であり、『定められたことに背くとペナルティを与える』というもの。この今回、定められたことを『借金返済の約束及びそのための労働についての基本事項』、ペナルティを『改心するまで痒くなる』とした。あと、勝手に外せないようにもなっている。
中国の西遊記にある、孫悟空の金剛圏と同じようなものだ。女性の頭に輪をつけるわけにはいかず、首なので絞まるようにもできなかったので、このような形になったが。
ルーンは道具に護符として刻まれ一般に使用された。斬り合うよりも、本来このような道具を作る方が得意でなのある。
ともかく。
だいぶ収まってきたらしいがしかし未だ悶えるささめを放置して、白瀬によって銀の盆から、一枚の皿が私の前に置かれる。
ビロードのようにきめ細かな黒のチョコレートが円柱型の土台を余すことなく包み込み、その上に置かれたごく薄いチョコレートを重ね合わせて造形された小さなバラの花が慎ましやかに彩る。湯気立つ紅茶に濃厚なカカオの香りが混じり、まろやかに鼻腔をくすぐる。最も洗練された貴婦人に喩えるべきであろうその珠玉の上品さは、味に加え目で楽しむケーキというジャンルにおいて、極致と言ってなんら差し支えないであろう。
「おまたせしました。秋の特製ケーキです」
まさに天才、白瀬雪乃の技。
何はともあれ。
いただくとしよう。
フォークを当てると、作りたてのバターのように柔らかく、滑らかに切れる。
その一切れを口に入れた。
とろけるようになめらかな舌触りを楽しみつつ、ゆっくりと口内で転がすように味わう。
…酷く、もどかしい気分だ。
文才のなさ、弁舌の悪さが悔やまれる。
私の知るどれほどの言葉を尽くしたところで、この味を表現するに足るだろうか。
積層構造をとったスポンジに挟まれたクリームは裏漉しした栗がベースになっているのだろう。まさに旬、円やかと表現すべき柔らかさと力強さを持つ。もちろんスポンジも、栗の持ち味を殺さず、かと言って単なる付け添えではない、お互いを引き立てる最高の相方としてどっしりと存在している。そして言うまでもく、何一つ非の打ち所の無いチョコレート。
素晴らしい二重奏は、この重厚にして鮮やかなバスを得て至高の三重奏へと昇華された。
これほどの感動を前に、しかし私が口に出せた言葉は、たった一言しかないのだから。
…うまい。
私の心からの感嘆に、白瀬の顔が綻ぶ。
こんなに美味いケーキだ。
色々と騒がしい一日だったが、これなら、今日一日のご褒美として文句はない。
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