「な、な、んなああ!? 何だよこれ!? 何!?」
“落ち着け”
「そんな無茶な!」
小刻みに、しかし激しく音を立てて震え始めた物たちに大樹はパニックに陥った。
駄目なのだ。ただの「不思議」はいいが、ホラーになってしまうと駄目なのだ!
大樹の足元ではクロも毛を逆立たせて警戒している。落ち着いているのはシロだけだ。
“昔から悪戯好きな奴らがいたのだ。くだらない悪さをすることが度々あった。だが………………ふぅ、む。やや、霊子のバランスが崩れているな”
「ど、どーゆうことだ?」
“何があったかは知らぬ。考えうるのは暮香という女性がドアノブを無理に捻ったとき、弾みで何かおかしなことになったんだろう”
“だから、”
クロが苛立たしげに鳴いた。
“結局どういうことなんだ?”
“結果、あちらもやや興奮している”
「ひぃ!? 駄目! 興奮! 絶対!」
何のキャッチコピーかもわからない。
がたがたがたがたがたがた音は鳴り続ける。古さもあってか部屋全体が振動しているようだ。足元がおぼつかない。
“とりあえず埒が明かない。出直そうぜ”
“それがいい”
猫二匹が結論付ける。大樹も必死にその提案にうなずいた。自分の意思でうなずいているのか、揺れに任せて首が動いているのか曖昧なほど大樹自身はパニック状態だ。
クロが歩き始める――が、一段と大きく近くのタンスが揺れた。
「クロっ!!」
咄嗟だった。
クロを乱暴につかみ抱き寄せる。だが動く時間はない。タンスが倒れてくる!
* * *
倒れるタンス。庇われる身。
(ああ)
思い出す。
(そうか)
温もり。笑顔。
それはもう。
(だからわたしは)
――影が記憶と重なった。
* * *
「……っ! ……、……――……あ、れ?」
身体を硬直させていた大樹は、想像していたような痛みも重みもないことに気づいた。恐る恐る目を開け、――そのまま大きく目を見開く。
「シロ?」
「大丈夫か」
淡々と尋ねてきたシロは大型犬、いやそれ以上のサイズになり、その身でタンスを支えていた。直立したときには大樹より大きいかもしれない。元のときと同様スルリとした体型ではあるが、それは全体として見たからであって、胴だけで見れば大樹が腕を精一杯回しても届くかどうか。
助かったのだと、シロが助けてくれたのだと、いくら鈍い大樹でも気づく。
「大丈夫かと問うている」
あくまでも淡々としているシロに、大樹は大きくうなずく。恐怖が嘘のように抜け落ち、笑顔を浮かべることすら出来た。
「おう、シロのおかげでダイジョーブ!」
「そうか」
「でもシロ、その大きさ……」
「わたしは猫又だ」
二本の尾を揺らめかせ、低く唸る。大樹は曖昧にその言葉を理解した。猫又だから大きくなれるのだ。きっとそういうことなのだ。それでいい。
シロは身体を押してタンスを戻そうとし、しかし上手くバランスを取れないようで顔をしかめる。大樹は手伝おうかと身じろいだ。だがそれも杞憂に終わる。
刹那、シロは人の形へ姿を変えていた。
“な!?”
「すっげぇ!」
その姿は大人の女性を模していた。背は百六十後半か。すらりとした身、凛とした瞳の輝きは今までと変わらない。ただし腰までの流れるような髪は、猫のときの純白なものとは少々異なり、白銀といった方が近い。どちらにせよ綺麗だなと、大樹は場違いな感想を抱いた。ついでに、どちらにせよシロっぽいなとも思う。
人の形をしたシロは、その細身からは信じられないほどいとも容易くタンスを元の位置に戻した。暮香といい、どうも女性の力は想像以上にすごいのではないかとクロと大樹は疑ってしまう。女性といってもシロは人間でないが。
「おまえたち」
表情を険しくしたシロは背筋を伸ばし、何も見えない空間に向かって声を放った。
凛。空気が緊張を帯びる。
「退け」
ガタリ、と横のダンボール箱が揺れた。
「霊子が乱れ、落ち着かないのはわかる。だがそれも直だ。悪いことは言わない、それまで退け」
カタリ
「案ずるな。わたしたちも去る。おまえたちをどうこうするつもりも、謂れも無い」
「ちょ、シロ。去るって何で!? だってここはシロの……!」
慌てて割って入る。だが、こちらを見たシロは目を細めただけだった。その瞳は思いがけず優しげで、大樹は何も言えなくなる。
カタ、カタタタ
「おまえらもそう悪いモノではなかろう。だが、万一気が触れてわたしたちに手を出すというのなら」
短く激しい音。同時にシロの周りに数多の火の玉が生じた。それは徐々に熱さを伴い質量を増していく。白銀の髪が鮮やかに映える。
シロは口だけで、三日月状に笑んだ。
「容赦は、せぬぞ」
――……。
もう、物音はしない。
-*-*-*-
“つまりもう、あの老夫婦はいないというわけだ”
「いないって……」
もう日は落ちかけていた。それでもすぐに帰る気にはなれなくて、菜に花荘を後にした大樹たちは近くの公園に行き、そこのベンチで休憩を入れることにした。砂場とブランコが申し訳程度に置かれている小さなところだ。時間のせいか、それともあまり遊ぶものがないためか人の姿はない。シロはいつの間にか元の猫の姿に戻っていた。ベンチに腰を下ろした大樹の横で、クロは寝そべり、シロは相変わらず背筋を伸ばしている。
“一度地震があってな。一人、わたしを庇ったがゆえにタンスの下敷きになった。……それで亡くなったわけではないんだが、何せ身体の弱い老人であった。入院し、もう一人はそれに付き添い……わたしの世話にまで手が回らなくなった。わたしは勝手に餌を食べることが出来たし問題はなかったのだが”
“てことは、疎遠になっている内にあっちが死んじゃったのか?”
“恐らく老衰だろうとは思うが、言ってしまえばそういうことだ”
うなずいたシロが目を細める。キュッと、今までと変わらない様子で。
“わたし自身言ったが、猫又とは歳を経て変化したもの。思えば、わたしが猫又である時点であの老夫婦が生きている可能性は低かったわけだ”
シロの言葉は淡々としていた。風がそよぎ、自慢のヒゲを揺らしていく。シロはその風を気持ち良さそうに受けていた。夕焼けに照らされたシロの毛は淡くオレンジ色に染まっている。その様子を見た大樹は無意識に口を開いていた。
「何でそんな……」
“大樹?”
「飼い主が死んじゃったことを忘れてたのは、嫌だったからだろ? 認めたくなかったからだろ? それでフラフラさ迷って、……だけど本当に忘れてみたら、やっぱり戻ってきたくなっちゃって! それってやっぱり好きだったからだろ!?」
呟きのはずが、いつの間にか感情を抑えきれずに声を荒げてしまっていた。そんな大樹をクロは黙って見やり、シロは不思議そうに見上げてくる。
“……大樹、なぜおまえが泣く”
「泣いてないっ!」
“だが”
「さっき転んで! 何かトゲが目に入っただけだし!」
“失明するぞ”
「うっ……さ、さっきコショウがぶわっていっぱい舞ってて、だからそれでっ」
“クシャミは出ないのか”
「あううう」
大樹よりもよほど猫たちの方が常識に優れている。
地団駄を踏み、大樹は目眩がするほど思い切り首を振った。まるで子どもの癇癪。
「だってシロが! シロがヘーゼンとした感じで言うから! ここに来る前の昔話のときだってすっげー嬉しそうに話しててっ、だから本当に好きなんだなって! だから悲しくないはずないのに、でもシロはヘーキそうでっ……何か無茶してんじゃないかって、だってオレとクロはシロに助けてもらったわけで、そんなシロが無理してんのは嫌でだってでもだからバカぁああうううう」
“……不可解な言葉は多いが、概ね理解した”
聞き覚えのある台詞を吐き、シロは笑った。
“別れがあるのは当然だ”
「でもっ」
“確かにわたしが彼らの死を忘れていたのは、少なからずショックだったからかもしれん。だがな、戻ってきたのは恐らく未練のためではない”
「へっ……?」
“受け入れることが出来るようになったからだと、わたしは思いたい”
その言葉に揺らぎはなく、無理も強がりもない。
大樹は一泊置いてうなずいた。シロの変わらない涼やかな声音に気分が落ち着いてくる。本当にシロが納得したなら、それでいい。素直にそう思うことが出来た。
“ああ、それと”
「うん?」
“助けてもらったと言っていたが、礼を言うのはわたしの方だ。思い出すことが出来て助かった、感謝している”
大樹、そしてクロは瞬いた。徐々に言葉が頭に染み込んでくる。――たまらない。
「シロー!」
“む?”
何だこの可愛い生き物はちくしょう可愛い可愛いああもう大好きだバカバカ愛してる!
――そんなよくわからない言葉をマシンガンのように並べ、大樹はぎゅうぎゅうとシロを抱きしめた。苦しいのかもしれないが、それでもシロは文句を言わずに喉を鳴らす。寝そべったままだったクロが苦笑した。
“ゴッフといいあんたといい、女ってのはたくましいな”
「あ……そういやシロって女だったんだな。ほら、変身したときも女の人だったし」
“なんだ、雄だと思っていたのか”
「んー、正直考えてなかったんだけどさ」
大樹にとって、雄か雌かというより、とりあえず「猫」だったのだ。あまり深く考えてはいなかった。しかし改めて思い返してみれば、何とも判断のしにくい喋り方だったように思える。だが、どちらであろうとシロはシロだ。
“実際わたしは雌だが。老若男女に化けることは出来る。その中でも化けて楽なのはあの姿だ”
「へえ~。あれ、でも服は?」
あえて言及していなかったが、女性になったときのシロの服装は暮香という女性のものと酷似していた。ラフなTシャツにジーパン。シロの女性姿に似合っていなかったとは言わないが、あの場ではやや不釣合いな格好だったとも言える。
シロは興味がない様子で軽く耳を動かした。
“現代の格好をよく知らないから模させてもらったまで。わたしは一糸纏わずでも構わないが、一応大樹もクロも雄だ。気遣うのが礼儀であろう”
“ぶっ”
「ふぅん?」
クロはむせ、大樹はきょとんとした面持ちでうなずいた。恐らく「一糸纏わず」の意味がわかっていない。
「シロが色々出来るのはわかったけど……でもさ、結局どーすんだ? 住むとこは?」
抱きしめていた腕を緩めて顔を覗き込むと、シロはくぁ、と欠伸をした。
“あのアパートにいる必要はなくなった。今まで通り放浪でもしながら暮らすのも良かろう”
その言葉に大樹は表情を曇らせた。シロならそれでも生きていくことは出来るのだろう。だが、どうしてもすんなり納得出来るものではない。
「一人は嫌だぜ?」
“わたしは猫だ”
「うーっ」
ああ言えばこう言う。
「じゃあ一匹! な、クロ。一匹は嫌だよな!」
“あ? ああ、まあ……”
クロ自身この土地には流れてきたので何とも言えないのだが、大樹の迫力に飲まれた。素直にうなずいておく。それからのそりと起き上がった。くぁあ、とシロよりも大きな欠伸。
“だが……”
“それなら俺様の店に来たらどうだ?”
クロの提案に、一人と一匹は思い切り目を丸くした。クロはわずかに胸を張る。
“寝床までは用意出来ないかもしれないけどな。俺と一緒に客を集めてやろうじゃないか。そうすりゃ何かと便利だと思うぞ。色々と交流が持てるし、飯はきっと用意してもらえる。ただブラブラするよりはいいんじゃないか? それに、大樹も会いに来やすいだろ”
「……! クロぉおマジで天才ー!」
“ぎゃああ!? だから全力はやめろってぇえ!?”
抱きしめた大樹の腕から悲鳴が上がる。見ていたシロは小さく笑った。子ども相手になら、クロも出し抜いて逃げることは出来るだろうに、あえて付き合ってやっているのだとわかったからだ。クロも何だかんだいって人情――猫情か?――に厚いようだ。
“せっかくだ。好意に甘えてみるのも一興だろう”
「すっげぇ、ネコが二匹も出迎えてくれるソバ屋なんてマジすげぇ! 絶対行く!」
“ちゃんと金は持ってこいよ。……さて、帰るとするか”
「おう♪」
話がまとまってホッとする。大樹はウキウキとした気持ちで立ち上がった。
だが、
「――あ?」
ふと、意識が揺らいだ。
“大樹!?”
* * *
ポーンと高い音がし、日向春樹は顔を上げた。
「杏里ちゃん」
「うぅ~ん」
「……人、来たよ?」
「うぅ~ん」
「…………」
メモと地図を交互に睨めっこしている一ノ瀬杏里に声は届いていない。必死に不思議情報をまとめている。
現在、家主である杏里の両親は「春樹くんがいるから大丈夫ね」と言って出掛けているところであった。そのため杏里しかこの家の者はいないのだが――この様子では仕方ない。春樹はため息をついて腰を上げた。居留守を使うわけにもいかないだろう。留守番を預かっているわけだし、ある程度の役目は果たさないと。
そんなわけで春樹は代理として玄関へ向かったのだが、
「はい、――え?」
眼前に立つ白銀の髪の女性に目を丸くした。これほど目立つ髪の女性を春樹は知らない。外人というにもどこか相応しくない顔立ちで、ますます不審さが際立つ。
しかし訝しがる春樹の様子を気にした素振りも見せず、女性はぐるりと家の中を見渡した。それから春樹に視線を落とす。
「ここがアンリという者の家か」
「あ、はい。杏里ちゃんに用事ですか?」
「いや」
これを、と女性が身体を動かすと、背負われている弟の姿が見えた。春樹はますます目を丸くする。
「大樹!?」
「途中で倒れてしまったのだ」
「え……」
混乱する春樹の足元で、なぁおと声がする。下を見ると一匹の黒猫がいた。春樹は瞬く。
(……なるほど)
納得。それと同時に苦笑が込み上げる。
「あの……わかりました、すいません。連れてきてくださってありがとうございます」
「何があったか、聞かないのか」
「詳しくは知りませんけど、原因はわかりましたから」
女性は怪訝そうな表情をしているが、春樹も何と説明すれば良いかわからない。この女性の本来の姿が猫であることを知らないのでますます口に出せないでいた。
というのも、大樹が倒れたのは「力の使いすぎ」が原因である。動物と話すことの出来る彼だが、その力は無限でない。あまりにも話しすぎると体力が尽きて眠り込んでしまうのだ。起きる頃には回復するので問題はないが、その分楽観視しすぎる大樹は度々限度を間違える。恐らく今回、大樹はそこにいる黒猫と調子に乗って話しすぎたのだろう。――春樹はそう、事実からも遠くない見当をつけた。
女性から大樹を受け取る。やはり倒れて意識がないというより、単に寝ている。ヤレヤレ、だ。
「ご迷惑をおかけしてしまったようで……すいません。本当にありがとうございました」
「ああ、いや」
女性が首を振ると、黒猫がまた鳴いた。女性の眉間にわずかにシワが寄る。
「む? 何だ、宣伝とはもう修行の始まりか。……ちゃっかりしてるな」
「は?」
「こちらの話だ。……少年よ」
「何でしょう?」
「礼はいい。ただ、時間のあるときにでも霧生ヶ谷蕎麦・水路に来てくれると嬉しい」
「は? はあ……」
「待っていると、大樹にも伝えてくれ」
なぁお、と黒猫が満足げに鳴いた。それを聞いた女性も「ふむ」とどこか誇らしげに呟く。何なのだろう。春樹の中で疑問が急速に膨らんできた。大樹を連れてきてくれたのだし悪い人ではないと思うのだが。
ともかく、春樹は曖昧にうなずいた。なぜ蕎麦屋が出てくるのかよくわからないが、言伝を断る理由もない。
「それではな」
淡々と呟いた女性が背を向ける。黒猫もその後に続いた。春樹は慌ててその背中に声を投げる。
「あの、お名前を伺ってもいいですか?」
くるりと優雅に振り向いた女性は一瞬の間を置き、微笑んだ。
「シロと呼ばれている」
(白井さんとか白石さんとかなのかなぁ)
女性と黒猫が去っていった後、春樹はぼんやり考えを巡らせた。大樹は相手の名前を勝手に縮めたりあだ名をつけたりすることがあるので、特に不思議でもない。
大樹を抱え直し、ため息。
「平和な奴」
気持ち良さそうに寝息を立てている弟を一瞥し、とりあえず杏里の部屋に連れて行くことにした。
起きた大樹が「今から水路に行くー!」と無茶なことを言い出すのは、数時間後の真夜中のお話。
謎の火球が霧生ヶ谷蕎麦・水路で暴れていたモロウィンを追い掛け回したというのは、もっと別のお話。