南京大虐殺

南京大虐殺(なんきんだいぎゃくさつ)とは、日中全面戦争?初期の1937年12月、日本軍が、中華民国?の首都であった南京市を攻略する過程において行われた暴虐事件。多数の市民・兵士が暴行・殺害された他、強姦・略奪・放火などが大規模に行われたという。


南京攻略戦

▼上海戦
1937年7月7日の盧溝橋事件?に続き、8月9日には第二次上海事変?により上海戦が始まった。
中国にとって上海は首都南京の窓口にあたる位置にあり、上海の陥落は首都の危機と直結していた為、その防衛には力を入れていた。そのため、日中関係が悪化する以前から、部隊を増員し、防衛施設の拡充を図るなどの準備に余念がなかった。上海戦に投入された中国軍は70余個師に達した。
一方、日本軍は、戦闘が始まった当初、海軍陸戦隊約5000名の兵力しかなかった。その後、数度にわたり兵力を投入し続けた結果、6個師団を投入することになった。
当初、兵員数が圧倒的に多かった中国軍は、兵員の戦意の高さもあいまって日本軍と互角に戦うことが出来た。日本軍は、兵員の数的な不利、戦術の基本に反する戦力の逐次投入、白兵戦を重視する伝統的戦法を優先するなどの原因により、苦戦を強いられた。しかし、日本軍の数度にわたる兵力の投入により、戦況は中国軍の不利に移行していった。
その結果、11月8日までの約3ヶ月間で、日本軍は4万人を越える死傷者を出すことになったが、一方で、中国軍は戦死者25万とも言われる大きな損害を出すことになる。

▼杭州湾・白茆口の上陸による中国軍の撤退
参謀本部?は、膠着した戦況を打開するために、柳川平助?大将を司令官とする第10軍?(約3個師団半)を編成し、上海南方の杭州湾金山衛に上陸させる決定、11月8日、第10軍は金山衛に上陸した。また、華北で行動していた第16師団?藤重支隊?上海派遣軍?に編入させ、11月13日に、上海北方の白茆口に上陸させた。これらの作戦行動に伴い、11月7日には上海派遣軍と第10軍を統一指揮する上級司令部として、中支那方面軍?の編合が発令された。
11月8日に上海南方の杭州湾金山衛に上陸した第10軍により、背後を脅かされることとなった中国軍は、11月9日に撤退を開始した。11月13日に上海北方の白茆口に上陸した第16師団と藤重支隊により、さらに退路を断たれる危険性が生じた中国軍は、総崩れの状況で敗走することになった。

▼制令線
中支那方面軍の任務は上海付近の敵の掃滅に限定されていた為、作戦地域は「蘇州、嘉興ヲ連ヌル線以東トス」として制令線が定められていた。しかし、上海派遣軍と第10軍は、ともにこの制令線を無視して敗走する中国軍の追撃を開始した。
大本営?は11月24日に蘇州・嘉興以東とする制令線を撤廃し、11月25日、中支那方面軍は無錫・湖州を連ねる線をもって制令線を定めた。しかし、この制令線もまた、第一線部隊の前進を制するものとはならなかった。

▼日本軍の追撃戦
▼各軍の行動
▼南京攻略命令
▼南京防衛線
▼城壁の戦い
▼陥落

事件の概要

市民殺害


兵士殺害


強かん


略奪・放火



事件の原因




関連項目



関連リンク

※WIKIPEDIA「南京大虐殺

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最終更新:2007年06月13日 02:25