シェアワールド@霧生ヶ谷市企画部考案課

矜持の残滓

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『矜持の残滓』       作者:香月

 

 

 ちょっとだけメッセージを。長いので、時間がある時にどうぞ。1本として作ったので、連載することも躊躇ったのです。

 

 

 

 

 
1/ 短命二郎或いは、入雲竜
 榎坂病院。懐かしい場所だ、と涼成は思った。
「リーゼントのほうが良かったんじゃないか」
「ほんと……お前はいい度胸してる」
 安陪方輔のことは知っていた。親しいというわけではないが、それほど険悪な間柄でもない。ただ、あまり群れようとしない涼成を「一匹狼気取り」と嘲っていたことがある。しかし涼成は、悪口を気にする性格ではなかった。第一、人に何か言われることを恐れていては不良学生などやっていられない。摩擦というのは、必ず生じるのだ。気にしても仕方がない。現役引退の身ではあったが、それは忘れていない。
「それで、帰っていいのか」
「まだ何も話してねぇだろ」
 方輔の話を聞くのは面倒だった。涼成自身、既に足を洗ったつもりでいる。今更、何を言われても関係のない話なのだ。
 道端で1対1で会えば古い知り合いであっても、こういう形を整えた状態で会えば敵になる。涼成と方輔の関係は、危ういものだった。前に北高で会った時は、敵ではなかったというだけの話なのだ。
 方輔の口調も態度も、敵に対する時のものになっている。
「煙草もやめたって?」
「どうだろう」
「吸えよ」
 方輔が箱を放る。
「仕方ないな」
 長らく触れていなかった。一番の理由は、身体に悪いからである。外側がただでさえ悪いというのに、内側まで傷つけたくはなかった。
「久しぶりだな、これ。まあ、少しくらいなら大丈夫だろう」
 後から渡されたライターで、火を点けた。そして、近くの椅子に腰掛ける。
「金なら、板倉陽一あたりから取っておけばいいだろう。俺は持ってない」
「お前、なんで知ってんだよ」
 板倉陽一のことも、少しだけ知っていた。無論、陽一は涼成のことを知らない。いかにも恐喝の真似事にあいそうな男だった。
「こんなこと、しないほうがいいと思うけどな。祥子に殺されたいのなら別だが。あんたの総長に」
「枯れ切った人間が、偉そうなこと言うじゃねぇか」
「枯れていても、お前を道連れにすることくらいできるさ」
「総長に、つけられた傷を忘れたのか? 髪で隠してるようだが、俺は知ってるぜ」
「あいつとは会いたくないな」
 右眼の下から、もみ上げにかけての傷。今も忘れてはいなかった。女だとは思えない橘祥子の気魄もまた、忘れていない。
 女だと侮った結果が、この消えることのない傷なのだ。隠しているのは、やはりどこかで恥ずかしいと思っているからだろう。しかし、橘祥子のことを涼成は認めていた。祥子もまた、あの騒動の後から涼成への態度が少し変化している。といっても、中学の頃の話だった。もう長い間会っていない。
「お前を呼んだこと自体に、大した意味はねぇ」
「じゃあ、帰る」
「待てよ。上木涼成といえば、相当な暴れ者だったろ。不良じゃなく、暴れ者。こんなふうに呼ばれる奴はなかなかいねぇ」
 立ち上がろうとしたが、それを阻止される形だった。
「はっきりと言ってくれ」
 方輔は悪辣な男だが、涼成には共感できるところがあった。むしろ、こういうのが不良学生として正しい姿である。祥子のあれは、本末転倒なのだ。好き勝手に生きて落ちぶれたのに、そこで大義を掲げる。それにどれほどの意味があるのか。他人の邪魔をして、社会に迷惑をかけて、時折、警官あたりに突っ掛かる。それが、本来の不良なのだ。橘祥子は、人間として上木涼成や安陪方輔よりは遥かに上回っている。しかし、不良として贋者だった。無論、涼成がそう思っているだけである。社会的な評価では、橘祥子もまた不良なのだ。
「枯れたとはいえ、お前にはまだ影響力がある」
「俺はそれほど強くなかった。古いものが美化されてるだけだろう」
「強くない? 馬鹿を言うんじゃねぇよ」
「本当だ。俺は、正面からの殴り合いだけならそれほど強くはないよ」
 かといって凶器を持てば強いというわけでもない。
 素人同士の立合において、技術よりも要求されるもの。それは意志に他ならない。絶対に退かない強い意志。技術よりも情念で勝るべきである。恐怖を殺し、どこまで前に出ることができるか。拳が潰れるまで、相手を叩きのめす覚悟はあるか。それによって、勝敗は大きく左右される。
「はったりだ、はったり。強気でいること。真理的な優位に立つことが、人よりもうまかった。何より、自殺ダイブの前評判があったしな。それで勝った喧嘩なんて、片手で数えられる程度なんだが」
「他にもあったぞ。いくら殴っても倒れねぇってな。これも、お前の言う意志ってやつか」
「俺の持論だが、人間の体は耐えようと思えば死ぬまで痛みには耐えられる」
「色々と飛んでたらしいからなぁ。痛ぇのは慣れてるって?」
「さてな。お前、身体に異常をきたした瞬間を、知っているか。身体の中から崩れていくような感覚なんだ」
「へぇ」
「それに、自分がいくら耐えても身体が動かない時がある。強烈な目眩、音が遠くなり、立っていられない。そして顔が真っ青になる」
 2本目の煙草に火をつけた。かつて涼成が吸っていた銘柄ではないが、何もせずに方輔とただ喋っているということは、できそうにない。
「感覚的なものだが。医学を学んだ奴に話せば、すぐに否定されるかもしれない。だが、たしかにそういう感じがするんだよな」
「経験者は違うねぇ。今、ここで俺達とやったらどうなるか」
 やるといえばやる。方輔はそういうところがあったが、今は冗談の響きがあった。涼成も、曖昧に頷いておく。
「ああ、そうだそうだ。俺は方輔の在り方を否定しないが、あまりあくどいことをやると禍根が残る。それには注意すること」
「どういう意味だよ?」
「金が欲しいのはわかる。だが、後輩に原付を売りつけて、それをその日のうちにパクってくるのはどうかと思う」
 方輔の表情が変わった。暗くてわかりづらいが、色も赤くなっている。
「怒るな。誰にも言うつもりはない。総長にも」
 総長を強調して言う。更に方輔の表情が険しくなった。眉を全て落としている容貌は、その厳つさを助長している。
「俺を怒らせたいのか。今の俺は、お前なんかよりずっと力があるんだぜ」
「やめておけ、と忠告しただけだろう」
「もういい。帰れ。今のは見逃してやる」
 涼成は腰を上げた。渡された煙草とライターをポケットに仕舞いこむ。方輔についている男が睨んでいたが、それに取り合わずに病院を出た。
 もう日は沈んでいる。
「大丈夫だったんですか」
 真壁が病院を出た瞬間、駆け寄ってくる。
「なにもないよ。小夜は?」
「ああ、小夜さんなら――」
 病院の窓から、影が飛び出す。地に降り立ち、軽い足取りで向かって来た。身のこなしは、実に良い。小夜を見るたびに、涼成はそう思う。
「スズちゃんは、あんな声出せるんだな。どっちが本物でしょう」
 相手によって、意識的に変えることがいくつかあった。その一つが、声である。これもまた、心理的に優位を得るための涼成なりの工夫だった。いや、工夫というより半ば癖となっている。
「どっちも本物だ」
「今は穏なんだな」
 小次郎の面々である。バイト帰りに真壁と小夜(散歩と言ってついてきた)と歩いているところを、呼び出されたのだ。帰っておけとは言ったが、どうやら待っていたらしい。真壁は心配していたようだが、小夜は楽しんでいる様子だった。
「じゃ、あたしは帰る。涼成、あんま無茶すんなよ」
 結局、何のためについてきたのかよくわからない奴だった。スズちゃんと呼んだり涼成と呼んだり、そのあたりも適当である。
「上木さんが抜けると、バイトがしんどいんですよ」
「そういう心配か」
 こっちはこっちで、腑に落ちない男だった。

 北高の近くには、近寄りたくなかった。数日前、方輔との一件があったばかりである。鉢合わせた時のことを考えると、穏やかではない。
 北高自体は涼成が通っている松風と違い普通の学校だが、どこの学校にもアウトローは存在する。ましてや、今は松風の制服だった。上下黒のスーツに、赤いネクタイ。それほど奇抜なデザインというわけではないが、目立つ色合いであることは確かなのだ。
 北高生が涼成の目の前を通り過ぎていく。明らかに奇異の視線を向けていた。
「何もしないから……」
 通り過ぎる生徒達に聞こえないよう呟く。そうでもしないとやってられなかった。
 北高の校門でつっ立っているのは、爽香から短いメールが入っていたからだった。
『校門で待ってなさい』
 なんと簡潔なメールだろう。いや、簡潔というより、説明が不十分である。用件すら、ほとんど述べられていない。
 例え恋人であっても、校門までわざわざ迎えに行くようなことを、涼成はしない。過去にしたこともない。
 彼女というものができてもあまり長続きしなかった。毎日毎日、どうして連絡を取らなくてはならないのか、と思ってしまうのだ。そうしてメールや電話を無視したりしていると、そのうち別れを告げられる。3回ともそうだった。相手が何を望んでいるのかはわかっているのだが、それに応じるのが途中で面倒くさくなる。
 下校する生徒の中に、見知った影を二つ見つけた。柳川爽香と、鶴ヶ丘ひかりである。
 鶴ヶ丘が、爽香に何か言われている。最初は反抗したが、言われているうちに不服そうに爽香から鶴ヶ丘が距離を取った。
「あんた、こんなとこにいてどうなっても知らないわよ」
「呼んでおいてお前は」
 爽香は、人目を気にする人間ではなかった。いつもと変わらず、違う学校の制服を着ている涼成と並んで歩き始める。
「知ってるか。上木涼成は、巻き込まれ型の馬鹿なんだってこと」
「もちろん」
「見た目より小心者だってことは」
「それはあんたの思い込み」
 振り返る。鶴ヶ丘が手を振っていた。涼成は控えめに手を上げて、『どうも』と身振りで伝えてみた。すると、鶴ヶ丘が身振りで『頑張れ』と言う。
『そういうつもりは、今のところないんですよ』
  と、送ってみた。
『今のところ? じゃあ、これから先はあるかもしれないんだ』
  そう言っている気がする。
『いやいやそういうことじゃなくて。俺はこの人が苦手なんですよ』
『そんなの関係ないですよ。男ならがつんといきましょうよ』
 敬語、だと思われる。なぜわかるのかは、わからない。こちらの敬語も伝わっているのだろうか。
『その時がくればいいですね』
『来ますよ。君は、爽香の周りでは珍しいタイプだから』
『一応、聞き入れておきます』
 鶴ヶ丘が最初と同じように手を振った。どうやら、終わりということらしい。謎のジェスチャーを、涼成は知らぬ間に体得していた。
「それ、ちゃんとわかってやってる?」
「ある程度は伝わってる、のだと思う」
「ひかりはなんて?」
「俺は鶴ヶ丘さんじゃないから、よくわからない」
「それ、伝わってないのよ」
 言うつもりはなかった。というより、言うべきではない。意思疎通ができていたのかも、はっきりしていないが。八割が、涼成の脳内補完である。
「そんなことより、本題を」
「そうね。率直に聞くけど、あんたまた何かやらかしてない?」
 何か。引退した身とはいえ、やっていないと言えば嘘になる部分がある。松風にいるかぎり、完全に縁を切れることはない。しかし、松風は六道区の学校であることを考えると、爽香の耳に入るとすれば北区でのことだろう。するとやはり、方輔あたりの話だろうか。
「一年以上聞かなかった上木っていう名を、今になって耳にしたのよ。こないだあんたが北高に来てたのとは別件で。何、戻る気?」
「身に覚えがないというわけではないが、俺は何もやってないよ」
「そう。最近どうも穏やかじゃない雰囲気を感じるし、それにあんたの名前が出てたから、また何かしたのかと思って」
 爽香からこんなことを言われると、 本当に自分が何かしてしまったのではないか、と心配になってくる。
「何か……やったか? 北区では何もしてないと思うんだが」
「六道区ではしてるのね」
「まあ、少しは」
 卒業すれば霧生ヶ谷を出たいとは思っているが、大学には行きたかった。涼成なりに、控えているつもりなのだ。
 背中に気配を感じた。振り返ってみると、鶴ヶ丘がまた手を振っている。何かを伝えたいらしい。
『心配してるのか? と言ってみて』
『そんなこと言えるわけないでしょう。というか、会話が聞こえてるんですが』
『ツンデレかもしんない。ツンデレかもしんない』
 二回言っていた。聞こえているかはスルーのようだ。
『爽香に限って、それはないです』
『そういう人のほうが、ありえる!』
 今度は涼成の方から手を振った。電話を切るようなものである。これで会話は終わりだった。
「心配してるのか?」
 結局言っていた。
「そこそこにね」
 ツンデレでもなければ、馬鹿にされるわけでもなかった。急いで振り返る。鶴ヶ丘が、合図を抜きに何かを送ってきていた。
『涼成君は、案外ノリの人だったんだぁ』
『ボケは人並みにこなしますよ。というか、予想外の答にどうしたらいいのかわからないんですが』
『そうだなぁ。そうだ、あれだ! 俺、帰ったら結婚するんだ。とか言って……』
『死亡フラグ立ててどうするんですか』
 鶴ヶ丘とは、案外うまくやっていけるかもしれない。そんな些細なことに気が付いた涼成だった。
「ああ、そうだ。あんた、身体は大丈夫なの?」
「どこにも異常はないが」
 気付くと、二歩、退いていた。
 慣れていない人間ならば、何が起こったのかわからないだろう。しかし、涼成には覚えのある感覚だった。懐かしいとさえ感じる。殴られたのだ。背筋に痛みが奔る。
「私に殴られたくらいで、そんなでしょ。大丈夫じゃないわね」
 爽香が前髪を掴む。眼の下の傷が風に晒されていた。
「あんな高さから墜ちて、人間の身体が無事なはずないじゃない。あんたは、退いたんじゃなくて退かざる得なかったんでしょ」
 鶴ヶ丘が駆け寄ってくる。その顔に、先までの表情はなかった。

 痛みは一瞬のものだった。すぐに歩けるようにもなっている。
 涼成の『飛ぶ』という癖は、爽香と出会う前からのものだった。幼少の頃から続いている。
 その関係か、膝は中学でバスケットを始める前から悪く、何かで苦しくなると左手が震えた。膝は、中学三年生の時点で、ほぼ全損している。ゴール下での激しいぶつかり合い、そして進行形だった癖。治るはずがない。
 それによって、涼成はあまり走ることができない。全力なら、五十メートルすらもたない。自転車に乗るのも、辛いものがある。歩くとしても、あまり長い距離だと痛み出す。
「あれは、あいつなりの気遣いなんですよ、多分」
「荒っぽすぎるけど」
「手を差し伸べて、大丈夫? なんて言う人ではないでしょう」
「涼成君に対しては、とくに手加減がない気がするな」
「必要ないと思ってるじゃないですか。この通り、丈夫ですし」
「爽香にちょっと殴られただけで膝をついた人が、丈夫?」
「昔はもう少し丈夫だったんですよ」
 鶴ヶ丘の家は、涼成の目的地と方向が同じだった。爽香は、殴るだけ殴ってさっさと帰っている。
 背筋に奔った痛み。心当たりはいくつかあった。あんな高さ、と爽香は言ったが、彼女自身がいつのことを言っているのかは明瞭ではない。 
 爽香の言う通りだった。涼成が引退した最大の理由は、損傷によるものなのだ。それを語った相手は都築薫のみであったが、どこかから情報が漏れているのかもしれない。たとえ漏れていなかったとしても、当時の涼成を見ていれば、それほど難しい想像ではなかった。
 事実、高校に入学してからもしばらくは病院通いだった。今も通わなければならない身だったが、面倒になって行っていない。医師は色々と言うが、結局は完治しないということなのだ。ある程度は回復するが、それ以上にはならない。両膝、左腕、背中がとくに重度で、その次にくるのが首だった。他は上げればきりが無い。
「けど、なんで涼成君の名前が出てくるんだろ。もしかして、ほんとになんかやっちゃったの?」
「してないですよ。……まあ、俺の名を出すこと自体は簡単なんです。『今回は上木が出張ってるらしい』って誰かが触れ回れば、それは瞬く間に馬鹿共の間を巡る。けど、それは俺がそ知らぬふりをしていればやがて治まるんです。ましてや、爽香みたいな人が聞くこともない。今回は、俺の知らないところで、いつの間にか大事になっているのかもしれませんね。だとすれば、俺も出て行かざる得なくなるかもしれません」
 さらりと流すように言ったが、迷惑極まりない話だった。ましてや北区での出来事である。元々根を張っていただけに、名前も顔も六道区に比べると遥かに知られている。
 時間を掛けて、少しずつ北区から六道区に居場所を移そうとしていた。これは誰にも語らず、一人で決めて実行していたことだ。それは現に成功していて、長い間トラブルらしいトラブルに巻き込まれていない。もう自分のことを皆忘れたかもしれない、と思っている矢先でこれだ。
「出て行くことになったら、どうする?」
「何とか騒動の中から出ます。もしくは、最後だと腹を括る」
「後者は、考えたくないねー」
「当たり前です。それに、出張っていくことになったとしても、身体がどこまで動いてくれるかわかりません」
 まったく動かないわけではない。薫と水路を這い回ることくらいはできるし、『小次郎』で庭の剪定を手伝ったりもした。相手が自分よりずっと小さかったとはいえ、小夜と軽くバスケットをすることもできる。
「予想以上に回復していないことは確かです。最後の墜落が、相当効いたんでしょうね」
「最後?」
「普通に生きていれば、まず墜ちることのない高さですよ」
 鶴ヶ丘が、はっきり言え、という顔をしたがその気にはなれなかった。
「ここです。それじゃあ、また」
「じゃあねー」
 鶴ヶ丘はそのまま進むのかと思うと、一度振り返り『ほどほどに』ということを身振りで伝えてきた。
『気をつけます』
 おそらく、会話は成立している。

 疑念が形を持ち始めた。安陪方輔と会った数日後に、柳川爽香から忠告を受けた。それが気になり、かつての友人を伝って情報を集めたのだ。薫には、また別で事態の把握に努めてもらっている。
「身体は動くの?」
「どうだろうな」
 不良学生の中で、橘祥子は極めて異色な存在だった。北高を掌握したと言っても、その在り方に対して反発する者は多い。内側にも、いくつか爆弾を抱えている。今は橘祥子の決定的な失態もないため、安陪方輔を筆頭とする爆弾も思うように動きを取ることができていないだけのことだった。
 橘祥子の傘下に阿部方輔がいる、という形はもはや表面上だけのものとなっている。二人の対立は、決定的だった。数ではまだ祥子が勝っているが、それは増えることがない。方輔は、伸びる余地がある。
「だが、俺は少なからずこの抗争での役割を担ってしまっているというわけか」
 橘祥子と河内鷹弥の対立。発端はそれなのだろう。
「そうみたいだね。安陪方輔は、愚かなだけのヒールじゃない」
 少しずつ、少しずつ。河内鷹弥と橘祥子という構図が出来上がるよりずっと前から、安陪方輔側の人間だと、上木涼成の名を浸透させる。そして抗争が表面化してきた時、方輔自らが涼成と会う。話の内容は何でも構わない。そんなことは、どうにでも改竄できる。会ったという事実を作るのだ。直接のぶつかり合いがそう遠くないという時期を選ぶことにより、上木涼成というイレギュラーの存在がより鮮明に現れる。
「つまり俺は、知らぬうちに方輔側の人間に」
「今はまだ違うんだよ。皆の間でも、はっきりしてない。ただ、涼成が方輔側だと橘祥子が認知してしまえば、彼女は今すぐにでも涼成を潰しにかかるかもしれない。完全にそちら側に立つ前にね。そのくらい、涼成はイレギュラーとして知られている。それに橘祥子とは一度いざこざが起きてるし」
「祥子に全力で潰しにかかられると、俺は逃げるしかなくなる。そして逃げる先は……面倒だ」
「そう。涼成は六道区で勢力というものを持ってないし加わってもいない。だから、そっちに逃げる場所はない。残るは北区だけど、こっちも今はイレギュラーなだけで勢力らしい勢力はない。決起という方法も考えられないことはないけど、どれほど従うかわからないよ。それに、決起してしまえば抗争への関与はもう避けられない」
 自分のことを「巻き込まれ型の馬鹿」と言ったことを、後悔していた。本当にその通りである。
「橘祥子に攻められた時点で、方輔が言い続けていたことが信憑性を増す。そのせいで、方輔以外のものまでが涼成を方輔側へと追いやる。最悪、逃げなくてもいつの間にかそこに立っているということになりかねない」
「お前の賢い頭で、わかりやすく一言で述べると?」
「巻き込まれることはほぼ確定。収束するまでひたすら身を隠すという手もあるけど」
 身を隠すべきなのだろう。しかし、それをすれば上木涼成の名声は地に落ちる。
「完全に北区での訣別を計る、良い機会とも言えるよ。方法が涼成向きではないけど。人間としての尊厳も、一部では保てないから」
「過去に固執するべきではないんだが……」
「どういう形であれ、輝かしい経歴であることは確かだよ。それを手放すのは、惜しい。そういう人間と繋がっているという事実は、この先いくらでも役に立つこともあるだろうし」
 傷つくのが怖いわけではない。傷なら、嫌というほど負ってきた。怖いのは、自分がまた戻ってしまうのではないか、ということだった。
 中学の時は自棄になって、進学する気すらなかったのだ。それを何とか止めたのは、両親や教師、そして一部の友人である。それには感謝していた。先に進んでから過去の自分を見てみると、人生を棒に振る直前だったということがよくわかる。
 良い会社に就職する、ということではない。好きに生きたいが故に反発し、それが結果的に自分の首を絞める。そういう状態を脱することができた。それだけである。しかし、それは涼成の人生に多くの選択肢を与え、視野を広げている。先というものを、少しでも考えることができる。それがどれだけ恵まれたことであるか、涼成はしっかりと認識していた。しかし戻ってしまえば、それもなくなってしまうかもしれない。
「橘祥子にただ潰されるだけなら、涼成は安陪方輔側の人間になってしまう。けど、そうならない方法がないわけじゃない」
 いつもの笑みを浮かべながら、薫が言った。中学の頃は、薫と呼んでいたのだ。それを変えたことに、意味があるのかないのかはわからない。
「涼成の存在は、橘祥子の眼を眩ませる。彼女なら、涼成の決起まで考えるだろうし。すると、橘祥子は、安陪方輔、河内鷹弥、というただでさえ厄介な二面作戦から、上木涼成にまで備えなければならない、三面作戦を強いられることになる。涼成の影響力が未知数なだけに、それは複雑さを増す」
「方輔は、そこまで考えて俺を引っ張り出そうとしてるのか」
「それはわからない。けど、結果的にそうなってはいるね」
 六道区へ完全に移るまで、北区での警戒を怠るべきではなかった。これは、涼成自身の失態である。
「けど、安陪方輔の考えが完璧だというわけではないね。それは、橘祥子と上木涼成は、対立していると思い込んでいること」
 続きを言わせるため、黙って頷いた。
「まだ想定できることはいくつかあるけど、彼の中で絶対なのは上木涼成が橘祥子と対立するということなんだよ」
「ああ」
「だから、それを覆す。やられる前に、こっちからやる。僕の言ってること、わかるかな?」
 考えを巡らせる。勉強には使えない頭であったが、こういうことではよく回った。やはり、生きてきた世界でのことなのだ。慣れている。
 橘祥子と河内鷹弥の抗争。それを使って祥子の失脚を狙っている安陪方輔。単純な構図では、こうなる。しかし、そこに何かと未知数な上木涼成が絡む。
「そういえば、方輔は俺の影響力の話をしていた」
「うん。安陪方輔は橘祥子の失脚を最も大きな目標に据えているけど、同時に上木涼成の没落も狙っていると思う。涼成も、鬱陶しい存在に変わりはないんだよ。本人にその気がなくとも、この近辺ではね」
「俺が、仕方なしにとはいえ安陪方輔側につけば戦力になる。その前に橘祥子に潰されれば、それはそれでいい。一人で決起したとしても、前から方輔側だと言われていた俺は、橘祥子から敵として認知される可能性が高い」
「涼成の兵隊となる可能性を秘めている人間は、少なからず橘祥子の下にもいる。その点でも、敵だね。引き抜いてるから」
 この状況で、と薫が続ける。
「安陪方輔が想定していないのは、上木涼成が橘祥子と手を組む、ということだよ」
 今まで薫が言っていた全てのことは、橘祥子と上木涼成が敵対するという構図に基づいてのものだった。事実、上木涼成がいるとざわついていた人間も、ほとんどがそう考えていただろう。しかし、薫は違うことを考えていた。普段はただのバカだとしか言いようのない男だが、鋭いものを持っている。
「涼成が一人で決起するには、時間がなさすぎる。組織として組み上がる前に、潰れる。けど、橘祥子という隠れ蓑を得れば、涼成は得意の単独行動ができるんだよ。たぶん、抗争の開始と共に、安陪方輔は橘祥子の傘下を抜けて、河内鷹弥のほうへと走る。そうしたほうが、兵隊が減って効果的だからね。だから、涼成がつく頃にはもう橘祥子の下に安陪方輔の姿はない。涼成を確認することもできない」
「だが、それにも問題はある」
 涼成が最も恐れていることだった。
「保身に走るには、遅すぎるよ。巻き込まれるのは、ほぼ確定だから。その辺りはもう、諦めるしかないよ」
 そう。涼成自身の失態が、今回の事態を招いたところもあるのだ。そういう風に生きてきた、上木涼成以外に責任は問えない。
 それとは別に、もう一つ懸念があった。洋子が涼成を受け入れるのか、はっきりしないのだ。
「確かに、守らなければならない矜持はある。けど、負ければそれも瓦解するだけなんだよ。方輔の離脱によって絶対数で劣ることになる橘祥子にとって、確実な力を発揮できる人間。それは、涼成しかない。数の問題じゃないよ。質だね」
「守るべき矜持、か」
「その通り。上木涼成は、自分が逃げることを容認できない。矜持というより、つまらない意地だね」
 つまらない意地を通してきた人生でもあった。引退したとしても、それは形を変えて在り続ける。
「ところで、河内鷹弥は知ってるのかな?」
 薫が言いながら自分の湯呑みに茶を注ぐ。涼成はまだ飲んでいなかった。
「大体は。族だと聞いてる。どれほどの力を擁しているのかは、わからない」
 中学と高校は、同じように続いているようで、途切れている部分があった。中学時代の勢力を把握していても、高校になるとわからないこともある。
「大きいよ。霧生ヶ谷でも、有数。安陪方輔とどういう関係なのかはわからなかったけど」
 河内鷹弥について、涼成はあまり気にしていない。まだ、表舞台に立ったわけではないのだ。今はまだ、敵ではない。
 それより気になるのは、薫がどこからこれらの情報を集めてきたのかだった。中学の時から色々と助けられてはいる。情報戦において、薫に勝るものを涼成は知らなかった。しかし、その根源は見えてこない。
「僕の網がまだ働くとは思ってなかったよ。けど、そう長くないんじゃないかな。世代が代わり始めてるからね。今回きりのものでしょ」
 自分がその網の一端を担っていることさえわかっていない者が何人もいる。現役だった頃に聞かされたのはそれだけだった。
「僕は玉麒麟みたいなものだよ。全てを知っているのは、僕だけ」
 玉麒麟が何を示しているのか、涼成にはわからない。
「俺は行くよ」
「うん。僕はいつも、ここにいる」
 立ち上がる。一瞬、膝に痛みが奔った。
「他にも――」
 薫が何か呟く。涼成の耳には届かなかった。
 

1/ 九紋竜、或いは豹子頭
 橘祥子にとって、上木涼成の動きは重要な要素の一つだった。最悪の敵を迎える破目になってもおかしくない。そういう状況だったのだ。
 しかし、祥子の予想とは別な方向に事態は動き始めていた。上木涼成が、味方になると言い出したのだ。これは、既に離脱している方輔も考えていなかっただろう。河内鷹弥もまた同様である。
 涼成とは因縁が少なからずあったが、今は受け入れるしかない。少なくとも、嘘を吐く男ではないのだ。
 それと同じくらい、気になることがもう一つ祥子にはある。涼成がこちらに加わる少し前、大きく人が動いた気配がある。それは現在収束しているが、どうも不穏だった。何をするわけでもなく、動いただけなのだ。
「味方なんだ。言え」
 霧生ヶ谷の北区。うどんロードとも呼ばれる通りにある店だった。適当に選んだせいで、店の名前はわからない。
「敵を欺くには、まず味方から。という言葉を聞いたことはないか」
「偉そうなこと言うんじゃねぇよ」
 相変わらず、気に食わない男だった。
「ならはっきり言おう。俺がやろうとしていることは、お前好みじゃないんだ、祥子」
「慣れ慣れしく呼ぶな」
 涼成が何かを食う様子はなかった。ぼうっと外を見ながら話している。ただ居座るだけではあれなので、祥子は仕方なしにうどんを注文している。このあたりも、自分が後手に回っているようで気に食わない。
「今回の抗争だが、真っ向からやって勝てるとは思えない。数が劣りすぎている。お前への反発は、予想以上に強かったらしいな。麾下が減ってないだけでも幸運だろう。まあ、あれは祥子に心酔している節があるが」
「はっきり言え」
 涼成が窓の外から初めてこちらに眼を向ける。その眼に、かつての光はなかった。
「俺の、奇襲に次ぐ奇襲。お前は、正対していればいい」
「それは許さねぇ」
「何も寝込みを襲おうって腹じゃない。だが、奇襲は有効だ。情報戦では、こちらが勝っている。そして、相手に自分を掴ませないことは俺の得意分野だ」
 情報がどこから入ってくるのか。それがわからない。相手側に誰かを潜り込ませているのだろうか。だとすれば、かなり河内鷹弥に近しい人物だということになる。しかし、そんなことが可能なのか。
「じゃあ、俺が加わったところで方針は変えないのか」
「当たり前だろ。それをやるつもりなら、今度はテメェの眼を抉り出してやる」
 仕方ない、といった感じで涼成が溜息をつく。何を考えているのかわからないところは相変わらずだが、いくらか荒んだように思えた。
 引退してから、無理をしてきたのかもしれない。こちらで生きてきた人間が、今更正常な世界へと戻る。どれだけ根を張っていたかにもよるが、容易いことではない。ましてや、涼成は根っからの暴れ者である。
 引退の理由は、専ら負傷によるものだとされていた。それも強ち間違いではないのかもしれない。細かい仕草を見ていると、何処と無くぎこちないことがある。それは本当に微々たるものだが、祥子には見て取れた。喧嘩などで負傷した人間を多く見てきたのだ。眼が利く。
 しかし、涼成にはその〝ぎこちない〟動作を見せる箇所がかなり多かった。これほどの人間は、祥子も見た事がない。
「その他大勢から見れば、橘祥子による先制攻撃としか映らない」
「他人なんて関係ねぇよ。自分の納得。重要なのはそれだろ」
 また溜息をつく。首がぎこちない動きを見せた。どれほどの人間がこれに気付けるのか、祥子は束の考えた。
「三回。三回だけだ。祥子の舞台を整える。正々堂々、河内鷹弥と橘祥子が戦える場所を。引っ張りだすのは、半ば恫喝になるかもしれないが」
 三。河内鷹弥の下にいる、主立った者の数と一致していた。
「幹部連中をやるつもりか」
「長期戦での消耗は、こちらを疲弊させる一方だ。その前に、主立った連中を叩き、お前が頭同士で決着をつける」
「無理に決まってんだろ。一度目はうまくいくかもしれねぇけどよ、二回目からは警戒も厳しくなるに決まってる」
 河内鷹弥率いる没遮欄は、そこまで愚かではない。何代にも受け継がれ、霧生ヶ谷に現存している暴走族の中でも有数の規模を誇っている。
 没遮欄の名の通り、連中を遮るものはないのだ。
「たしかに、三度の奇襲は極めて難しい。というか祥子、俺の案を認めるのか」
「……話だけは聞いてやるよ」
 涼成に反発はしたが、祥子自身は勝機というものを掴めないでいた。無論、それを他人に見せたことはない。涼成も気付いていないだろう。
「一度目は、必ず成功させる。二度目は、運の要素が絡んでくるな。三度目は、祈るしかない」
「そんな――」
 そんな無茶苦茶な。そう言いかけてやめた。上木涼成という男は、元から無茶苦茶なのだ。
 中学の頃、喧嘩の後に少しだけ話をした。飛ぶという自傷行為とも言えるものは、幼少の頃から続いているらしい。その高さは歳を重ねるごとに増し、最後は校舎の三階だったと聞いている。木の上に落ちて、そこから絡まって地に落ちたという話だった。だから死にはしていない。
「記録更新は勘弁したい。そのあたり、祥子が祈ってくれ」
 うどんが届く。箸を手に取った。
「他を当たれ。お前を心配する奴だって、いないわけじゃねぇだろ」
 自嘲的な笑みを浮かべ、涼成は窓の外に視線を戻した。
「だが、テメェの案は認めてやる」
「なら、動こう。三度の奇襲も、なるべく早く済ませるべきだ」
 警戒が厳しくなる前に、ということだろう。涼成のそれは、不良学生の喧嘩ではない。作戦。祥子にはそう思えた。
「涼成、どういう生き方してきたんだよ」
「特に何も。普通の家庭に生まれて、少々やんちゃに生きてきた。入雲竜のように、親を食って生き延びたなんて過去はない」
 涼成が何かに気付いた顔をする。「そうか。そういう意味だったのか」と呟いた。とくに興味も湧かない。
「お前こそ、女総長なんて珍しい」
「テメェには関係ねぇ」
 涼成がまた店内に眼を戻した。胸ポケットに手を伸ばそうとして、やめている。『禁煙』の文字が見えたらしい。
「荻成っていう、従兄がいた。紛れもない厄種だ」
 厄種。祥子は、思わず箸を止めた。まさか、そんな奴が実在するのか。そう言いたかったが、口にできる雰囲気ではない。
「発見に始まり、機動、攻撃、防御、追撃、後退行動。戦闘というものは、そういう流れで展開すると俺に教えてくれた。俺はそれをなるだけ忘れないようにしているだけ。実践するのではなく、忘れない」
「なるほど、厄種か。イレギュラーでさえ、可愛らしく見える」
 厄種。あまり言及するものではない。

***

 安陪方輔は橘祥子から離脱したが、何人かを残してきた。情報を得るためである。しかし、それは尽く失敗していた。
 残してきた者が、全て弾き出されたのだ。いや、それどころではない。完全に叩きのめされていた。しばらくの間、再帰は不可能という状態である。それも僅かな間にだった。結局わかったことは、上木涼成が橘祥子についたということのみだ。
「どうなってんだよ」
「騒いでも仕方ない。黙って座ってろ」
 河内鷹弥は動じる様子もなかった。そんなことをせずとも、数で押しつぶせると思っているのだろう。そういうわけにはいかない、と方輔は何度も言った。しかし、鷹弥や、その下にいる倉光、龍円もそれに応じようとはしない。残りの一人である朽木は、北区で既に動いていた。
 没遮欄は、北区に深入りしていない。橘祥子の力を知らないのは無理もなかった。安部方輔とその他大多数による離脱。それで勝利を確信している。
 没遮欄は、橘祥子の怖さを知らないのだ。過激で峻烈なあの女を。
「お前は用心深すぎるんだ」
「そんなことねぇ。あんたらは上木と橘を知らないから言えるんだ。上木は引退していたからよくわからない面もあるが、橘祥子は間違いなく危険なんだよ」
「上木を引っ張りだしたのはお前だろ。お前の失敗だ、方輔。橘祥子に関しては、数で押す」
 上木涼成のことを持ち出されると、方輔はどうしても口ごもってしまう。相手に戦力を与えることになってしまったのだ。数ヶ月かけて練ってきた作戦を、見事に覆された。誰の発案かはわからないが、そいつと合間見えることがあれば失態の責任を償わせるつもりでいる。
「俺が残してきた連中を締め出しているのは、間違いなく上木だ」
「なんでわかる」
 先から、喋っているのは方輔と鷹弥のみだった。
「あいつのところに集まる情報量は、普通じゃない。北区中に網を張り巡らしているとしか思えねぇんだよ。昔から」
「そんなことができるはずがない」
「それじゃあ、上木関連の誰かと言い換えてもいい。とにかく侮るな。個人での力に関して、上木と並び立てる奴はいない」
 無論、個人の力に限界はある。没遮欄のような大規模な族にどこまで通用するのかはわからない。しかし、用心するべきだと方輔は思っていた。
「上木を引き込めなかったことが相当堪えてるな。俺が詰問したりすると思うか」
「そういう、わけじゃない」
 上木涼成は、どう動くか読めない。無茶苦茶なのだ。それでいて、涼成本人がどれだけの傷を負っても、必ず最後には勝利している。北区では、最も異端視されていた。
「奇襲に尽きる。それさえ防ぐことができれば、橘祥子を押しつぶすのは難しくない」
 いきなり、何かが鳴った。鷹弥の携帯電話のようだ。飾り気のない、初期設定の着信音だった。
「知らない番号だな」
 鷹弥が電話に出る。どうやら、朽木の下にいる者からだったようだ。没遮欄ほどの大きな族では、鷹弥がそれらの番号を知らないのも仕方がないことだ。
「わかった。よく伝えてくれた」
 いつも通りの、抑揚のない声。内容はいまいち推測できない。
「朽木がやられたな。先に言った通りの奇襲。ゲリラのようなものか」
 涼成。一瞬、顔が過った。倉光と龍円が色めき立ち、鷹弥に詰め寄る。
 だから、馬鹿にしてはいけなかったのだ。北区では実力者と言われていたが、涼成自身が猛者というわけではない。狡猾なのだ。そして、それを決して見せようとしない。派手な容姿と前評判。それによって、自分を隠している。
「上木涼成の加勢は、弥縫にしか成り得ないと思っていた。どうやら、そういうわけではないらしい」
「だから言っただろ」
「お前が偉そうに言うことじゃないぞ、方輔。こいつを敵に回したのはお前だ。だが、味方につけようとした気持ちもわからんわけじゃない」
 倉光と龍円が、走り去る。鷹弥が何か指示を出したようだ。
「一対一での喧嘩で最後は勝っている経歴。こいつは、そこまで持ち込むのに手間をかけるタイプか」
「あんたよりは詳しい。けど、そこからはよくわからないことも多い」
「これから判明することもあるだろ。それにしても、橘と上木の組み合わせは厄介だ。正規と非正規が、うまく揃っている」
 どちらか片方ならば勝てる。鷹弥が言っているのは、つまりそういうことだろう。しかし、離反させることができるのか。
「面白いな、上木と橘は」
 言葉とは裏腹に、鷹弥の顔は赤く染まっていた。
 朽木の他、どれだけの戦力を削られたのかは、まだわからない。しかし、上木涼成という男をしっかりと認識させるという役割を朽木は果たしていた。決して、意味のない負けではない。方輔は、そう自分に言い聞かせた。

***

 北区に入ってきていた朽木を、涼成が完膚なきまでに叩いた。方法は、ただの抗争とは言い難いものである。
 没遮欄の朽木がいる地域の中学生を使ったのだ。
 といっても、直接中学生をぶつけたわけではない。近辺の中学生に、小規模な喧嘩の真似事を、各所で行わせた。それは、かなりの数にのぼった。祥子自身も、どれだけの数が動いたのか、はっきりと把握できていない。
 方々での喧嘩。それが何を意味するのか。朽木は調べようとした。
 広く、点々と起こっている喧嘩の様子を観察するために、下の者を分散させ、朽木自身も動いた。
 その間、涼成は中学生の争闘に紛れて待機。そして、朽木が少数で現れたところを、中学生達が退くという形に見せて駆け抜けさせた。そのどさくさで、涼成は朽木を潰している。
 ここまでやるとは、誰もも考えていなかったのだろう。というより、これは喧嘩ではない。
 涼成がなぜ中学生を動かすことができるのかが、わからない。涼成にはわからないことも多いが、こればかりは帰ってきたら絶対に聞くつもりだった。
 先に朽木を潰したという連絡が入ったのは、涼成から電話での連絡があったからだった。
 祥子の周りには、麾下もいない。頭を失った没遮欄の掃討に出ているのだ。
「祥子、没遮欄は、予想以上に精強だ。凱旋と洒落込むこともできない。ふざけてる」
 涼成が足を引き摺りながらいきなり現れる。
「やられたのか」
「この足は元々だ。無理をして走ると、こうなる」
 崩れ落ちるように、涼成は座り込む。汗の量も異常だった。
 痛み。そうとしか考えられない。やはり、涼成の引退は負傷によるものなのだろう。
「服を、脱がせてくれ。腕があれでな」
 言われた通り、涼成から服を引っぺがす。
「痣? 何されたんだよ」
 左胸から腹にかけて、まっすぐ線がいっていた。これは、拳でつけられる傷ではない。
「特殊警棒。朽木の奴、馳せ合う寸前に、俺の存在に気付いたようだ」
「それで、お前は殴られたのか」
「避けている時間はなかった。だから、腕が伸び切って本気で殴打される前に、ぶつかった」
 肉を切らせて骨を断つ。涼成が言っているのはそういうことだった。躊躇せずに、振り翳される特殊警棒に突っ込んでいける。これは、経験としか言いようがない。考えてできることではなかった。
「そんなんで、続けられんのかよ」
「自分の心配をするんだ。朽木は潰したが、まだ鷹弥と部下である二人、方輔もいる。一度は、我慢比べが必要になる」
 抗争を開始してたった数日のうちに、幹部の一人を潰した。顔に泥を塗られることを嫌う人種が集まっているこの世界では、まさに大打撃だ。
 相手が報復に出ることは、容易に想像できる。総攻撃となれば、涼成一人でどうにかできるはずもない。
「間違いなく来る」
「言われなくともわかってる。それで、涼成自身はどうする。影に身を潜めて、相手が退くのを待つか。こいつは笑えるな」
「俺はどうにでもなる。それよりも、次のことを考えよう」
 流れる汗。痛みは引いていないのだろう。だというのに、平時と変わらない顔をしている涼成が、些か気味悪く感じた。
「次の攻勢を乗り切れば、相手は動きを止めざる得ねぇ。三倍以上の数で攻めてんだからな。方法を考えることになる」
「どうやって守る。没遮欄は、お前の言う通り三倍以上だ。そんな相手を、どうやれば崩せる」
「散らばらせて、個々に戦うしかねぇだろ」
「相手は、散ろうとしないだろう。俺が、散ったところを潰してるんだ」
 ならどうすればいいのか。戦力分散は、基本中の基本。相手を集めて叩くことなど、素手でできることではない。
「テメェ、それがわかってて相手を散らせて潰したのか。なら、どうする。決死で突っ込むか。死ねよ」
「それなんだ。没遮欄は、分散したところをやられた。だから絶対に散ろうとしない。そして、幹部を潰されて頭に血が昇っている。付け入るとしたらそこだ」
 そんなことはわかってる。どう付け入るのかが、問題なのだ。
「一つだけ方法がある。勿論、正面からぶつかって潰すにこしたことはないんだが。それは無理だろう、祥子。正直に言え」
「そんなことを言わせるな。意地がある」
「意地か。まあ、悪いものじゃない」
 褒められている気はしなかった。涼成は、方輔と基本は同じなのだ。今回の手口を見ても思った。狡猾である。ただ、他人に読ませない術を心得ている。それで、今までそういう評価は下されていなかったのだろう。
「それで、次はどうするってんだ」
「俺達の敵が、勝手に動いてくれる」
「没遮欄が?」
「違う。没遮欄にとっても敵だ。敵の敵は味方、というわけにはいかないが」
 一瞬、中学生が浮かんだが、すぐにかき消した。あれは敵ではない。それに、涼成が同じことを二度するとも思えない。
「まあ、種明かしは後でいい。テメェに聞きたいことがある」
「なんだ。怪我の具合なら、気にしないでくれ。あ、もう服は返してくれいい」
 服を投げつけてやる。馬鹿にしたような口調が、気に入らなかった。腕は動くようになったらしく、さっさと服を着込んでいる。
「どうやって中学生を動かした。そんなこと、易々とはできねぇぞ」
「それか。簡単な話だ。俺には玉麒麟がいる」
 昨日も、入雲竜がなんだと言っていた。なにか重要なことなのだろうか。
「だが、玉麒麟も今回限りだと言っていた。世代が変わっているそうだ。無理をしていることは確からしい」
「どういう意味だよ」
「言うつもりはない。こればかりは、お前でも明かせない」
 お前でもとは言っているが、誰にも明かすことはないのだろう。しかし、祥子なりに見当はつけていた。涼成がこちらに加わる少し前の、大きな人の動きである。涼成の下に集まる異常な情報量も、これが関係あるに違いない。
「それで、テメェは入雲竜か」
「違う。俺は――そうだな。石将軍、神行太保? いや、短命二郎か」
「前の二つはいまひとつわからねぇが、短命二郎ってのは似合ってるかもな」
 涼成が胸ポケットから煙草を取り出す。方輔が吸っているものと、同じ銘柄だった。
「お前は、豹子頭か九紋竜だと思う、祥子」
「九紋竜」
「そちらの方が好みか。じゃあ、お前は九紋竜だ」
 火をつけようとして、ライターを落としていた。やはり腕は痛むらしい。三度目で、ようやく火を点けている。
「テメェは、短命二郎でいいのか」
「俺は長男だが。いや、荻成がいたな。ああ、俺は短命二郎だろう」
 荻成が立地太歳……何て似合わない。そう呟いて、涼成のくぐもった笑いが聞こえてきた。
 よくわからない。しかし、九紋竜というネーミングは悪くないと思えた。
「それにしても、見たか祥子。三度目で火が点いた。これは、良い予兆だろう。三度目の奇襲は、成功するかもしれない」
 一度目と二度目が失敗している。涼成のくぐもった笑い声を聞いているうちに、それを言う気もなくなった。

***

 全てを北区に集結させた。朽木がやられたのだ。抗争が始まって、まだ3日しか経っていない。
 血が逆流したような感覚に、鷹弥は襲われた。コケにされたのだ。それを良しとするのは、没遮欄の存在を否定するのと同議である。
 河内鷹弥は、没遮欄の十八代目の総長だった。自分の代で、潰すわけにはいかない。それでは面子が立たない。
 最も厄介なのは、松風の連中だと思っていた。とにかく手に負えない馬鹿が揃っている。加えて、そういう人間の横の繋がりはほぼ無限と言えた。下手に手を出せば、思わぬ地雷を踏みかねない。
「いや、もう踏んだか」
 橘祥子など、北区の一勢力に過ぎない。名前は知っていたが、拠点が北高である。数には限りがあった。簡単に潰せる、はずだった。
 この抗争の発端は、方輔の離反にある。龍円の知り合いだったのだ。受け入れれば、大幅に勢力を伸ばすことができる。北区を席巻することも夢ではなかった。それが、この様である。朽木という頭の一つを叩き潰された。緒戦は、橘祥子の勝利で終わっている。
「没遮欄ってのは、でかいな」
「当たり前だ。没遮欄単独で、六道区の連中と事を構えることだって不可能ではないんだぞ、方輔」
 今回の抗争で、横から出てくる他の勢力がない。それは没遮欄の強大さを表していた。手を出せば、ただではすまない。皆がそう思っているのだ。しかし橘祥子は平然と向かってくる。三分の一以下の数で、正面からぶつかってこようとしている。
 鷹弥は、嬉しくもあった。没遮欄の頭になってからというものの、自ら動いたことがほとんどなかったのだ。まず、相手があまりいなかった。他の大勢力とぶつかれば、それこそ死人が出かねない。この矛盾。相手を求めながら、互角に戦える相手は避けなければならない。それに倦んでいたのだ。
「保身に走って、何が不良だ。生きたいように生きてここまで来たというのに、到達してしまえば好きに生きられない」
「俺は、そういうものだと思うぜ」
「黙れ。守るべきものは、もっと他にある」
「あんたも、橘祥子と似たようなことを言うんだな」
 生きたいように生きて、落ちぶれて、そこで大義を掲げるな。方輔はそう言っているのだ。それも間違っていない。しかし、アウトローにはアウトローの意地がある。それを守り通さなければ、ただの屑だ。そうなることを、鷹弥は容認できない。
 良い学校に進んで、良い会社に就職して、一生を安泰に終える。
 それが正しい生き方なのか。教員は鷹弥の考えることを「幻想」だと言うが、教員の言うことが本当に「現実」なのか。
 違う。定かではない先ばかり考えている連中の方が「幻想」を見ている。今を生きている自分達は「現実」を見ているのだ。
 人生を俯瞰しようとしている人間とは、絶対に分かり合えない思想だった。
「俺達は、落ちぶれているのか」
「間違いなく、落ちぶれてるだろ」
「落ちぶれるとは何なんだ。大人の言う通りに生きられないことが、落ちぶれるということなのか」
 違う。心の中で、何度も繰り返した。
 正しい人生とは何だ。正しい生き方とは何だ。正しい人間とは、誰のことだ。
「俺は、自分が地を這っているとは思わない。公務員になるのが、空を飛ぶことだとは思わない」
「俺だってそうは思ってねぇさ」
 若気の至り。そんな言葉で片付けるな。歳の功。そんなもの信用できるはずがない。いくら歳を取ろうが、腐っている人間は腐っている。それは、マイノリティやマジョリティなど関係ない。どこにでも点在しているのだ。
「俺らは、我慢ができねぇんだよ。だからこんなことをしてる」
「我慢、我慢だと。我慢強く生きれば、崇高な人生を送れるのか。我慢して勉強すれば、崇高な人間になれるのか」
「あんた、そうしていつも自問してるのか」
「気に入らない。当然のような顔をして人生を説く連中が」
 方輔が、溜息をついて去っていく。やってられない、という表情だった。
 入れ替わりに、倉光が入ってくる。
「全てが集まった。今度はこちらの番だぜ、鷹弥」
「ああ。コケにされて、黙っているわけにはいかない。橘と上木は必ず潰す」
 雑念を払った。迷いは捨てなければならない。今は、自分の遣り方を通すべきだ。
「夜を待って、九竜身川の近辺に移動するぞ。橘祥子は出てくる」
 前回は、分散したところを突かれた。しかし、こちらが動かなければ、相手はどうしようもない。数で押し、橘祥子を上木涼成をと捕捉する。

***

 九竜身川の近くに、没遮欄が集まっていた。ぱっと見ただけでは、数を計ることもできない。
「玉麒麟の役目は、もう少し先かなぁ」
 日は暮れている。都築薫は、携帯電話を片手に、バイクのライトに照らされないよう身を伏せながら移動していた。一人である。
 乾坤一擲。そう言っていもいい。もしうまくいかなければ、北高の面々は数に押しつぶされるしかなくなる。
 タイミングが重要だった。早過ぎては、逃げる時間を与える。遅すぎては、北高が倒れる。
「うまくまければいいけどなぁ」
 影に腰を落とし、薫はあくびをした。

***

 対峙していた。数が違いすぎる。朽木とその下を潰したことにより多少は減っているが、それでも三倍はいる。
 涼成は、落ち着いた様子で祥子の隣に立っていた。一日経って、膝も回復したようである。先も普通に歩いていた。汗も流れていない。
 罵声が飛び交っている。それは、川の流れる音に消される様子もない。
 涼成が言い出した作戦は、「なるほど」と思わせるものがあった。北高の我慢が必要、と言っていた意味も祥子が考えていたものとは違う。
 相手を追い返すための我慢であることには違いないが、その過程が違ってくる。ある程度、殴られなければならないのだ。その状態で、決して潰走しないようにする。
「今は、こいつのことを信用しろよ! 失敗すれば、半殺しにしてやればいい!」
「物騒なことを言わないでくれるか」
 こうは言っているが、慌てた様子はない。それが、祥子の気を逆撫でした。
 絶対にうまく運べるとわかっているような、すました顔。そういう顔を作っているのか、本当に成功すると確信しているのか。それも分からない。
「玉麒麟次第だな」
 玉麒麟が、タイミングを計っているらしい。辺りを見回しても、それらしい人影はどこにも見当たらない。
 罵声が、一段と大きくなる。少しずつ、没遮欄が動き出した。それに合わせて、こちらも前に出る。
 それは段々と早くなり、最後には完全に走っていた。
「北高がどれほどか。見せ場だな、九紋竜。それじゃあ俺は、離れる」
「テメェこそ、本格的に動く前に倒れるなよ、短命二郎」
 祥子は疾駆していた。涼成から離れ、ずっと前へ出る。ちょうど最前線へと出た時、没遮欄とぶつかっていた。
 大きな獣の身体へと食い込んでいく。没遮欄がすぐに囲もうと動く。それも意に介さず、前へと進む。
 どこまでも敵だった。鷹弥。見えた。倉光、龍円、方輔の姿はない。
 鷹弥へと、槍のように突き進む。このまま、首を討つことができれば、この抗争には決着がつく。
 涼成の案は、それができなかった時になって発動するものだ。
 止まった。岩にぶつかったような感覚だった。
 精鋭は、鷹弥の近くに集めていたのだろう。一直線に突破され、鷹弥をやられることを、最も警戒していたのだろう。これは、祥子と涼成の間でも、一致していた考えだった。
 突き破ることができない。遮二無二に進もうとしても、岩は少しずつ剥がれていくだけで砕くことができない。
 拳が痛んだ。掻き分けるように進んだが、前線にいる者は何人か殴り倒している。痛みが伝わってきたということは、自分が冷静になっているということだ。これ以上、進むことはできない。
 北高が、数で押され始める。囲まれ、小さい円のようになっていく。涼成がどこにいるのかは、もうわからない。
 殴られた。そいつを殴り返す。乱戦にはならないよう指示してあった。決して、北高の面々は散ろうとしない。前の者がやられれば、後ろにいる者が出る。そういう形を取って、どうにか包囲に耐えていた。
 といっても、敵も密集しすぎてうまく身動きが取れていない。被害らしい被害が出ているのは、祥子がいる没遮欄の精鋭とぶつかっている部分だけだった。他は押されているように見せるよう言い聞かせてある。
 ふと、聞き覚えのある音が聞こえた。
「悪くねぇ」
 河内鷹弥、橘祥子の共通の敵となりえる存在は、警察をおいて他にない。
 サイレンの音に混じって、地鳴りのような音も近づいてくる。それらが没遮欄を分断し、北高勢の中へと駆け込んでくる。予め用意しておいた、撤収用のバイクである。全員が分乗できるよう、数はちゃんと揃えてある。
 祥子の近くにも、何台か止まった。
「祥子」
 涼成。飛び乗った。後ろに倒れそうになったところを、涼成に特攻服の袖を掴まれる。
 バイクを生身で止められるはずもない。人垣をあっという間に抜けて、河原の砂利から舗装路へと出る。
「運転変われ」
 前後を乗り換え、パトカーの間をすり抜けながら戦場となっていた河原を周回する。
 数が多すぎた没遮欄は逃げ遅れた者が多い。次々と警察官に押さえられていく。警察の数も、相当多かった。
 一つ、影が飛び出した。
「鷹弥、ではないな。あれは倉光か」
「鷹弥をやれるとは思ってなかったんだろ!」
 飛び出した倉光に向かって、バイクを走らせる。倉光も何とかアシを確保し、走り出した。
 逃がさない。人、バイク、車の間を縫って、倉光を追う。
「ほんとにやるのかよ! 死ぬぞ、バカ!」
「下敷きになるのは倉光だ」
 テールランプが近づいてくる。祥子は更に速度を上げた。
 倉光の横を通り過ぎる。瞬間、背後に人の気配がなくなった。倉光のバイクも、遥か後方。倒れている。
 涼成が、バイクから飛び出したのだ。倉光に絡みつき、地に落ちている。あの速度で、生きているのか。
 急いで反転する。それと同時に、人が立ち上がった。ライトで照らす。涼成。
「掴まれよ!」
 速度を落とさず、右手を出す。涼成はそれをうまく掴み、バイクに飛び乗った。握った手が、濡れている。
「怪我したのか!」
「擦ったみたいだ」
 どこが、と聞く余裕はなかった。とりあえず、喧騒の及ばない場所まで行かなければならない。

 多すぎるが故に、撤収にも手間取る。決して分散しまいという思いと、幹部をやられたという怒りが、判断を鈍らせる。押しているという錯覚が、引き際を見誤らせる。
 涼成の言う玉麒麟がタイミングを見計らって通報し、自ら手を下さずに相手の数を減らすという策だった。
 玉麒麟の存在は祥子と涼成しか知らず、他の者は皆、警察の介入により仕方なく争闘を中断したと思っていた。つまり、世間体は守られている。
 涼成が最初に言った通り、好きな遣り方ではなかった。しかし、祥子がいくら考えても、警察を利用するということは思いつかない。他に勝てる方法があったとも思えない。そして何より、涼成の怪我。こいつはこいつなりに、本気でやっているということが伝わってきた。だから、責める気も起きない。
「どうなったんだよ」
「挟まれた。倉光の頭と、アスファルト」
 市販の消毒液をかけて、ガーゼと包帯で傷を覆っていた。病院に行くのは最後の最後だ、と涼成が言い張って聞かなかったのだ。その最後が何を意味するのか、祥子は考えないようにしていた。
「残るは龍円。俺の仕事は、それで終わる」
「鷹弥を引っ張り出せるか」
「出てくる。主立った連中が全てやられ、総攻撃でも崩せなかった。そうなれば、鷹弥の面子は立たなくなる」
 それに、祥子が倒れればこの抗争は集結するのだ。ずっと押されている鷹弥にとって、それは最後の方法だろう。
 とにかく展開の早い抗争だった。このまま進めば、一週間と経たないうちに集結させることができる。
 涼成と、誰だかわからない玉麒麟の存在が大きい。しかし、全てがうまくいっているわけではない。没遮欄の精鋭とぶつかった部分の被害は、想像以上のものだった。涼成よりも酷い怪我を負っていたものでさえいる。いくら削っても、核たるあの部分がある限り、北高に勝利はないのではないかと思えた。
 しかし、考えてみるとそういうわけでもない。その核と戦わなくていいように、涼成は事を運ぼうとしている節がある。
 最初の、中学生を利用した奇襲から、全てが繋がっている。自らの軌跡をよく計算して、これからの動きを決めている。
「しばらく、北区には警官が増える」
「それは避けられねぇだろ。それだけのことをやった」
「長引いたとしても、警官から受ける害は、没遮欄のほうが多い。俺達には地の利がある」
 北区に住んでいる者ばかりだ。最悪、家に入ってしまえばいい。
「それでも、没遮欄の鷹弥は意地のせいで退くことを許されない。こういうところで、意地や矜持が自分の邪魔をする」
「邪魔じゃねぇ」
「お前は硬派すぎる」
 バカにしたような笑いと共に、涼成が吐き出した。反論はない。硬派なのはわかっているのだ。
「巻き込まれた形ではあるが、既に俺も主役級だな」
 今度は自嘲的に笑う。少し前、うどん屋で見せたのと同じ笑いだった。
「涼成は、引退したいんだろ。今更なんで出てきたんだよ」
「お前の意地や矜持を否定はするが、自分のそれは別なんだ。ずっと、暴れ者だった。その俺が逃げられるはずもない」
「テメェの意地も、大して変わらねぇよ」
「違う。俺は頭にはなれない。立っている位置によって、同じ意地でも違うものになりえる」
 何が違うのかわからない。わからないように言ったのだろう。
「一つだけ」
「あ?」
「俺は大多数の中から飛び出した、一。お前は最初から自分で立っている、一。同じ一でも、まるで違う」
 どういう意味なのか。考えていると、涼成の携帯電話が鳴った。今は、それが不吉なものに思えた。
 涼成が電話に出る。涼成は何も言わず、ただ黙って頷いていた。
「助かった。これで、俺の役目は終わる」
 電話を切って、涼成が祥子を見る。
「龍円の居場所がわかった。今から行ってくる」
「お前、ほんとに死ぬぞ。そんな状態で龍円に勝てると思ってんのか」
「祥子、忘れてるだろう。俺は奇襲だと言った」
 涼成が立ち上がる。負傷した腕をぐるりと回して、動くかどうか確認していた。
「警官が多いから、俺一人の方が動きやすい。待ってろ。お前は、鷹弥と立ち合う」
 涼成の眼に、既に光はない。消えてしまったものを取り戻そうとしているのではなく、訣別しようとしている。祥子にはそう思えた。
 黙って見送ることしかできない。涼成は、自分のために動いている。
 信じて待つしかないのだ。
 
 
2/ 短命二郎、或いは入雲竜
 一時的に警察から身を隠すために龍円が選んだ場所。北区の北端にある、半分山に食い込んだ廃屋だった。
 北区から出るな、という命令がから出ているのだろう。意地なのだ。明日、または総勢で争闘を仕掛ける気でいるのだろう。
 涼成は、薄く笑っていた。
 自分に少しずつ折り合いをつけながら1年間歩いた。それでも、やはり根底では変わっていない。うどん屋で話している時、僅かに感じた祥子からの同情を思い出す。
 薫の顔が浮かんだ。
 今はツキと呼んでいるが、昔は薫と名前で呼んでいた。理由は、思い出せない。
 名にも色々ある。涼成。涼やかに成す。両親はそういう意味でつけた名だと言っていた。
 今の自分に、涼しげなものなど微塵もない。いや、そんなものは元からないのだ。
 ただ、皆にそれを知られないことはできた。謀ることは得意だった。
 さっきの警察を利用した策が乾坤一擲ならば、今自分がやろうとしていることは果たして何なのか。少しだけ考えてやめた。
 これからどうなるのかも、考えない。先を見ていては喧嘩などできないのだ。
 お前を心配する奴だって、いないわけじゃねぇだろ。
 祥子の言葉が頭を過る。
「あー……」
 声を出して、思考を中断した。祥子の前では平静を装っていたが、朽木とぶつかった時から、何か変だ。
 霞んでしまった高揚感。もっと、昔は高ぶっていた。それがまるでない。もう、楽しくないのだ。
 楽しそうに笑って見せることはできる。だが、喧嘩など痛いだけのものに涼成の中ではなってしまっていた。
 本格的なバスケットは、もうできない。喧嘩は、楽しいものではなくなった。
 他にも色々とやることがあるのはわかっている。
 学校では、多くの友人と過ごす。
 バイトでは、小夜や真壁、店長と共に働く。
 休日は、石動や上月と遊んでみたり、薫からの誘いを断りきれずにどこかへ出たり。
 時折会う、爽香や鶴ヶ丘と無駄に駄弁る時間が何より心地良いことも。
 全て頭では理解しているのだ。二つ失ってもまだ、大切なものは多く残っている。
 不意に、恐怖を感じた。しかし、廃屋が視界に入ったせいでそれは消え去る。
 屋根は高い。表にバイクが数台停まっているところを見るに、誰かがいることは間違いない。
 一台に二人乗っていると考えれば、中にいる人数は十人を超えた。負傷していなくとも、勝てたものではない。
 やるしかない。これで終わりにしてしまえば、後は祥子次第だ。
 闇に潜み、廃屋を窺う。見張りがいた。だが、山に食い込んでいる廃屋だ。木々に身を隠せば、廃屋の外周を回ることはできる。
「上木」
 背後。焦ることはなかった。見つかったのならば、もうやるしかないのだ。足掻いたところでどうにもならない。
「龍円」
「お前、その腕でどうするつもりだよ。俺を潰すってか? 無理だよ、帰った方がいい」
「そうはいかない。3人を潰すのが、俺の役目だ。そう言って、祥子を納得させた」
「下手すりゃ死ぬぞ。それでもいいのか」
「良くはない。だが、悪いとも思わない」
 龍円の鋭い眼が、涼成を射抜いた。
 無言で、龍円が携帯電話を取り出す。「よう、鷹弥」と言った。
「あんたの、やりたいようにやれよ、。俺も好きにする」
 龍円が、携帯電話を草むらに投げ捨てる。それが、合図だった。
 
 
2/ 九紋竜、或いは豹子頭

 素直に驚いた。一週間と経たずに、この抗争を最終局面へと導いたのだ。
 狂犬の牙は、抜かれていない。味方となったのは初めてだったが、頼れる男ではあった。
 だが、好きにはなれない。やり方が、どうしても気に入らないのだ。
 確かに、三倍以上ある組織を相手に正攻法で立ち向かえるとは思えない。しかし、それでも容認できない。
 自分は器が小さいのかもしれない。祥子は、ふとそう思った。
「上木涼成にもお前にも、感嘆しかない」
 鷹弥が、ぽつりと呟いた。立会人として、涼成の友人である都築薫という男がいるだけで、辺りは静かだった。
「卑怯なことを、したかもしれない」
「卑怯? お前達は、この上ない良い組み合わせだろ。だが、お互いに嫌ってもいる。もう、協働するということもないんだろうな」
「そうだな、それだけは確かだ。それに、これが最後、という覚悟で涼成は出てきているだろうよ」
「だから、あそこまで思い切ることができたか。普通じゃない」
 祥子は、沸きあがってくる何かを抑えることができなかった。なぜか、笑みが浮かぶ。
「あいつは、あれで普通なんだよ」
「そうか。そういう奴もいるんだな」
 鷹弥に、特に驚いた様子はない。ある程度は、予想していた答なのかもしれない。
「上木は、もう舞台から消えたいんだろ。それなら、簡単な方法が一つある」
「そんなことは、わかってる。けど、自分で気付くしかねぇ」
「それもそうか。だが、このままいけば上木は結局消えられない」
 もういい。涼成は、涼成で決着をつける。

 
 
3/ 短命二郎、或いは入雲竜
 経験に経験を積んで、己の身体に最も適した動きを脳に刻む。
 対峙していた。構えらしい構えはない。そんなものは必要ないのだ。攻めることに重点を置いた二人にとって、防御は無粋である。
 人間離れした要素など存在しない。涼成という枠の中で、あるいは龍円という器の中で、最も効率的な動きを選択する。
 龍円。いきなり、涼成は間合いを詰められていた。引くことに意識を集中した、牽制的な突き。
 避ける必要はない。本能的にわかっている。力を上回る力でねじ伏せてしまえばいい。
 回し蹴り。軸足となる右脚から踏み出すのではなく、蹴り出す左脚、つまり後方に位置している脚で地を蹴った。
 勢いを殺さぬように右脚を軸として地に根を張り、上体を逸らし、腕を振って脚を振り上げる。
 涼成の左脚が、龍円の脇腹を抉り込んだ。しかし、龍円の眼は涼成しか見ていない。自分の体に食い込んだ脚など眼中にはない。
 涼成は胸倉を掴まれていた。引き寄せられる。左拳がやけによく見える。次の瞬間、涼成は後方に跳ね飛ばされていた。龍円もその場に蹲っている。
 これ以上ないほど、涼成の蹴りは橘に勢い良くぶつかった。だが、お互いに防御を捨てたスタイルである。顎を打たれた涼成の視界は霞んでいた。脳に少なからず衝撃が及んでいるのだ。ボクシングなどで顎を打つのは、ダイレクトに脳を揺らすことができるからだ。
 涼成は霞む視界を気にせず、龍円に向かう。龍円もまた、何もなかったように涼成と再び対峙した。
 身体は、柔らかく保つ。しかし、脚は地にしっかりと着く。
 回転。それを意識するようにしていた。腕だけで突くのではなく、脚だけで蹴るのではないのだ。
 全身を連動させ、一瞬で、最高の威力を以て対象を粉砕する。それが最良にして最速だと、涼成は認識している。
 霧生ヶ谷は、冬だった。冷風が容赦なく身体を打ち付ける。だというのに、涼成と龍円は汗に濡れていた。
 静止していた。動けば隙が出る。つまり、動かなければ隙は出ないのだ。こうなってしまうと、しかし、両者の消耗は急速である。極度の緊張状態を維持し続ける必要があるからだ。
 手早く終わらせたい。涼成は、そう思った。
「龍円、時間はない」
 撃鉄が落ちた。
 龍円が疾駆する。わざと、場を動かした。動くことがわかっていれば、自分に隙ができることがわかっていれば、それは隙ではなく罠とすることができる。
 空けるは胴。狙うは首。肉を切られても、骨を断つことができればいい。
 龍円が左腕を突き出す。距離を測ることが目的だろう。適当に合わせて、流した。
 本命の右腕。涼成は一歩踏み出した。腕が伸びきる前に受けて、威力を半減させる。
 腹に響く衝撃は無視した。首。すぐ前にある。
 龍円の首に、涼成の指が食い込む。龍円が苦しそうに息を吐き、涼成の腕を掴んで抵抗していた。
 空いている腕で、龍円の顔を打った。首を掴んだ手の力を緩めることはしない。下手をすれば、このまま死ぬ。
 龍円の爪が、腕に食い込んでくる。何かおかしい。そう思った瞬間、腕から血が吹きだしていた。咄嗟に龍円から距離を取る。
 爪で、皮膚を裂かれたのか。それも深い。血は止まりそうもない。焦る必要はないが、動きに支障が出るかもしれない。
 両腕を、潰されたことになるのだ。
 龍円の攻勢。気付いたら、退いていた。背中、後頭部に衝撃が突き抜けていく。全身に痛みが奔る。
 眼の霞が更に酷くなってくる。それでも涼成は、冷静に龍円を見た。拳。躱し、突き出された腕を肘で打ち上げ、打ち落とし、龍円の顔面に突き立てる。
 龍円の顔の皮膚が裂け、血が吹き出す。
 二歩のみの助走で、涼成は跳躍する。たった二歩で、上木涼成という身体の最高速を弾き出す。
 頭部に狙いを定めた、飛蹴。龍円はそれを地を転がって躱した。転がっている間も、涼成を視界から外すことはしない。
 一発が大きければ、その後の隙も大きくなる。それは、涼成もわかっていた。
 隙。龍円も、そう読んでいる。
 わかっていれば、対処はできる。避けることは叶わないが、どこで受けるかを選ぶ余裕はあった。
 顔で、受けた。涼成は、上半身を大きく逸らす。その状態で、顎を蹴り上げた。
 最も反撃し易い場所で、受ける。いつもの涼成のやり方だった。
 龍円が、初めて呻き声を漏らす。
 焦るな。自身に言い聞かせた。
 確かに時間はない。だが、焦ればそれで終わる。勝てるものも、勝てなくなる。
 待つところは、待つ。それで、結果的に短い時間で済むのだ。無理に押し込もうとして、こちらが倒れれば意味がない。
 流れを止めるべきところ。それに従うかどうかは、勘だ。
 龍円が、何か言おうとしてやめた。
 お互いに、言葉は不要だ。どちらが勝つか。大切なのは、それだけだ。
 いや、それ以上に、涼成には龍円が言わんとしたことがわかっていた。
 龍円からの連絡で、は今頃祥子と立ち合っている。だから、この立合は本来必要のないものだ。頭領同士の決着を待てばいい。
 それでも、続ける意味はあるのか。龍円は、そう言いたかったのだろう。
 必要かどうかなど、どうでもいい。
 理論を超えて、やるべきことがある。不必要であっても、傷ついても、つけなければならない決着がある。
 龍円が、息を吐いた。隙。瞬間、涼成は跳躍していた。
 殺せる。僅かな空隙。しかし、それを突くことができれば命さえ断てる。
 
 
3/ 九紋竜、或いは豹子頭
 前髪に、鷹弥の拳が触れた。
 祥子は、冷静だった。こんなことは、今までに何度も経験してきている。
 左脚を軸に、身体を回転させる。鷹弥の拳と祥子の身体が交差した。
 肘。祥子の身体が、咄嗟に動いていた。
 突き出され、伸びきった腕。両腕を、それに絡めた。極めると折るは同議である。
 捉えた。刹那、背が痛んだ。祥子の身体が浮き上がる。
 思わず、腕を放す。
 地を転がり、立ち上がった。すぐにの懐へと潜り込む。
 受けた衝撃など、顧みたところでどうにもならない。痛むのならば、それを計算に入れて闘うだけだ。
 鷹弥は、祥子よりも遥かに身体が大きかった。間合いで、どうしても不利が生じる。
 ならば、打たせないことだ。これは、立合での常識である。
 先の先。祥子の攻め方は、そういうものだった。
 打たれる前に打って、相手には打たせない。男よりはどうしても小柄な自分を、どう生かすか。そう考えて導き出された答えは、速さだ。
 本能的に、わかっている。自分の拳が、脚が、相手を最も効果的に抉り込む距離を。身体に、何かが奔るのだ。
 ここ。そう思ったら、躊躇わない。今まで、そうして勝ってきた。
 鷹弥が、腕を打ち下ろす。この男は、力技が多かった。
 膝を蹴り、腹を打った。それで、一度距離を離す。
 来る。思った瞬間、祥子は倒れるように横に飛んだ。同時に、脚をかける。
 よろけた鷹弥を、押しまくった。殴って、殴って、殴る。結局、勝つにはそれしかないのだ。
 鷹弥の背が、壁にぶつかる。顔を肘で打った。鷹弥の頭が背後の壁にぶつかり、返ってくる。
 腹を、また打ち上げた。だが、祥子の身体が浮いている。
 気付いたら、祥子が壁側にいた。
 拳。受けるしかない。
 頭が、吹き飛んだ気がした。
 自分は、何をやっているのだ。祥子は時折そう思う。
 こんなことをやっていて、何か意味があるのか。
 所詮、社会に馴染んでいないアウトローだ。大義を掲げて、夜回りの真似事などをしてみて、それでどうなるのか。
 社会からの認識は変わらない。祥子、涼成、方輔、倉光、龍円、朽木、。どれも同じなのだ。
 大義を掲げたところで、わかってくれるのは結局同じ人種のみ。いや、それどころか、同じ人種の大半にさえ煙たがられる。
 また、頭が吹き飛んだ。何だ、二度も同じような衝撃が来るとは。ちゃんと、頭はついているじゃないか。
 肉を削るような拳だった。だが、祥子は意識を保っている。それどころか、鷹弥の動きが妙に遅く感じた。
 三発目。それでもまた、祥子の膝は折れない。
 一瞬、涼成の顔が浮かんだ。そういえば、あいつはまだ帰ってきていない。
 負けたのだろうか。それとも、勝ったのか。
 どちらにしろ、あの男は目的を果たした。自分の言ったことを、成し遂げた。
 何かが、奔った。
 祥子は、それに遵って、ただ拳を突き出した。
 さっき極めた、肘。そこを突いている。鷹弥の拳の軌道が、僅かに逸れた。
 躱せる。
 耳を掠めて、の拳が壁を打った。
 知っている。よく知っている、高いようで鈍い、独特の音がした。
 いける。腹を膝で突き上げ、祥子は壁沿いに飛び退いた。視界が霞んでいるが、気にしなかった。
「なんて女だ」
「お前らに、負けるとは思わねぇ」
 血が、巡り出した。
 答えなど、必要ない。いつから掲げた理想であったかなど、知ったことではない。
 自分が、そう思った。だから、それを貫き通す。
 今まで、そうして生きてきたのだ。
「ここから先は、命を賭けることになる」
「だからなんだ」
 先は、捨てた。
 この抗争を終えた後のことを考えなかったわけではない。しかし、そんな甘い考えで勝てる相手ではないのだ。
 
 
 
4/ 短命二郎、或いは入雲竜
 空中での、動作だった。涼成は咄嗟に振り抜くはずだった脚を止め、地面に身体を打ち付ける。
 影が、飛び込んできたのだ。龍円の驚いた顔は視認した。龍円にも、予想外の出来事だったのだろう。だから、脚を止めた。
「俺が、俺が悪かったよ、涼成! だから、もうやめよう!」
 龍円を庇うようにして、男が立っている。安部方輔だった。
「方輔――」
「こんなこと言える立場じゃないことはわかってる。わかってるけどよ、死ぬ思いまでして喧嘩することねぇだろ!?」
「殺されたいか、安陪方輔」
 友人として、方輔は涼成の前に立っていない。邪魔をするなら、殺すしかない。
 龍円は黙っていた。さっきから、涼成の顔をずっと見ている。
「知ってるぞ。お前は今まで、負けたことねぇだろ!? だから、負けた者の気持ちなんてわからねぇんだよっ!」
「それ以上喋れば、殺す」
「ああ、お前なら本当に殺しちまうだろうよ。それでも俺は言うぞ。負けた者はな、それでも進まなきゃいけねぇんだよ! 負けを抱えて、それでもどこかで自分を肯定して、前に進まなきゃならねぇんだ! それまで奪うような勝ち方をしてもいいのかよ!」
 龍円の、隙だった。完璧に、それを突いた。
「俺にはわかる。お前の蹴りは、完全に殺す気だった。昔から、そうだ。お前は、歯止めが効かないところがある。本当に殺しちまうところだったんだぞ!」
「お互い、合意の上だろう、龍円」
 龍円が無言で頷く。
「龍円、お前を頼って逃げようとした俺が悪かったよっ。だからもう、やめてくれ。これ以上、友達が傷つくところなんて見たくねぇんだよっ」
 方輔は、必死だった。だが、知ったことではない。
 涼成は、ただ先の立合のことを考えた。
「川沿いで、乱闘になったろ!? あれで、どれだけの人間が怪我をしたっ。病院送りになった奴が、何人いたっ」
「合意の上、だ。方輔、邪魔をするな」
 龍円が、初めて言葉を発した。感情らしい感情は、篭っていない。
「俺が、俺一人が腹を切れば、それでいいだろ!? もう、見てらんねぇんだよ! お前らが、ここまでやる連中だとは思ってなかった。軽い気持ちで、強くなりたいと思って、龍円を頼った。俺の弱さが原因で、こうなっちまったんだろうが!」
 方輔。邪魔だった。
 近くにあった棒を、涼成は手に取り、そのまま振りぬいた。
「これで、いいだろう、龍円」
「ああ」
 お互いに、やはり構えはない。
「いや……」
 祥子のことを、思い出した。あっちはどうなっているだろう。
 祥子には、立場がある。築いてきた信頼がある。これに負ければ、全てそれを失う。
 そんなことで、いいのか。彼女は、一時的とはいえ自分の頭領である。
 自分がいる以上、負けることは許さない。昔から、そうやってきたはずだ。現に、負けた経験はなかった。
 敗れざること。
 唯一の、涼成にとっての誇りではなかったのか。
「このバカに、言っておくことがある」
 涼成は、方輔の腹を蹴り上げた。それで、方輔が苦しそうな声を上げて、意識を取り戻す。
「俺は祥子の、龍円は鷹弥の、部下だ」
 方輔が不思議そうな顔をした。それでも、涼成は構わず喋り続けた。
「いいか、部下は頭よりも早く死ぬものだ。お前が守るべきは、俺でも、龍円でもない。お前が、仮にでも頭だと仰いだのは、誰だ、方輔」
「橘祥子」
「そうだ。お前が守らなければならないのは、あいつだ」
 柄にもないことを言っている。だが、興を削がれた。それなら、方輔の望むようにさせた方がいいかもしれない。
「都築の屋敷だ。知ってるだろう? あそこなら、誰にも邪魔されない」
 方輔が駆け去る。都築の屋敷も、北区にあった。駆けに駆ければ、決着がつく前に辿り着くかもしれない。
 最後の最後は、運、或いは巡り合わせだった。
 涼成の心変わりも、祥子に、方輔に、或いは鷹弥や龍円にとっても、宿運なのかもしれない。
 だが、龍円との決着だけは、つけておかなければならない。
 方輔は、自分が原因だと言った。それも間違ってはいないが、正規の抗争に不正規を持ち込んだ者は、舞台の上にもう一人いる。
「龍円」
 棒を、投げ渡した。
 始末は、自分がつける。方輔はそう言った。
 そんな必要はない。丸く収まる方法が、もう一つだけあるのだ。
 そして、その男はこの舞台の上から永遠に姿を消すことができる。この抗争の決着をつけることを前提で動いていたが、その後のことはあまり考えていなかった。矜持を保ったまま、生き残る道を模索していただけなのだ。
 今、咄嗟に思いついた方法である。しかし、有効であることは必定だろう。
 考えることは、苦手ではない。
「やれ。手は、抜くな」
「上木」
「気にすることはない。俺は、この舞台から消えたい。鷹弥と祥子は、組織を保ちたい。そして、汚れ役は副官の務めだ、龍円」
「お前は……負けないことを誇りとしているような気がする」
「一時的とはいえ、俺は祥子の補佐だ。祥子の勝利は、俺の勝利。祥子の敗北が、俺の敗北だ」
「鷹弥は、俺が止める、か」
「ああ。それで、治まる。全てが、終わる。なんで、最初からこれを思いつかなかったんだろうな」
「何でそこまでする」
「何を言ってる。俺は、俺のためにこれをやる。言っただろ、祥子が勝てば、それは俺の勝ちでもある」
「最後だ。本当のことを、言え」
 腕が痛んだ。背筋には、刃が突き立っているような鋭い痛みが走り続けている。
「方輔がうまくやれば、最も傷の少ない形でこの抗争を終わらせられるかもしれない。負けずにな。結局は、謀だ」
 龍円が、棒を振り上げた。眼は、本気だった。
 それでいい。
 最後の最後は、必ず立っている。涼成は、いつもそうだった。
 それも、今で終わる。退けられたことがあっても、お互いに手を打っただけのことだった。だが、今回はそうではない。
 敗北。それを、心に刻み付ける。龍円に、俺の勝ちだ、と言った。だがこれは、精一杯やった、というのと同議だ。
 ちっぽけな強がりだった。
 簡単な事だったのだ。負けを知る。ただ、それだけでよかった。
 方輔、どうしようもない奴だが、役に立つこともあるなぁ。いない相手に語りかけた。
 身体を、何かが支えてくれた。そう思ったが、倒れれているのだ、とすぐに気付いた。
 
 
1/ 短命二郎と九紋竜
 霧生ヶ谷でも、最大規模の抗争だった。
 橘祥子の手勢は、決して多くはない。それでも、最大規模、と称された。
 ニュースなどでも取り上げられ、霧生ヶ谷全土にこの抗争は知れ渡っただろう。
 もしかすると、他県にも伝わっているかもしれない。
 しかし、世間にとっては所詮、不良同士の喧嘩だった。そこにあった思いなど、誰も知ろうとしない。
 涼成は、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
 白い部屋。涼成にとっては、見慣れた光景である。北区の、病院だった。自分が生まれた病院でもある。
 抗争終結後の処理が、どうなったのか、涼成は知らなかった。見舞いに訪れた薫も、あえて語ろうとはしなかった。
 当然である。涼成は、訣別したのだ。かつて生きた舞台から、姿を消した。今更、知りたいとも思わない。
 傷は、やはり龍円にやられた最後の一打が大きかった。しばらく、身動きをとることさえ禁じられていたのだ。
 今でも、あまり動き回ることは許されていない。学校も、休学中である。
「ねえ、涼成。これからは、どうする?」
 薫がいつもと変わらぬ、茫洋としているようで、薄く笑みを浮かべた表情で言う。
「さあ。先のことなんて、わからない」
「それはそうだね。けど、今まで通りに生きることはできないよ?」
「それを望んだのは、俺自身だ」
 薫が、にこりと笑って部屋を出て行く。何も言わずにどこかへ消えるのは、いつものことだった。
 もう、思い返すことはしない。そう決めた。
 三角巾で吊られた腕が、少し疼いた。をバイクから叩き落した時に出来た傷である。
 異変に気付き、扉の方へと眼をやる。
 どたどたどた。何やら、騒がしい。それを宥めるような声も一緒に聞えてくる。
 部屋に、小さいものが飛び込んでくる。近くにあった花瓶を、投げつけてやる。飛び込んできたものは、それをしっかりと受け止めた。
「やあ、スズちゃん」
「お見舞いです」
 小夜と真壁だった。バイトで一緒に働いている面々である。
「これ、親父からの差し入れ。食べていいのか、こんなん」
 小夜が、包みを取り出す。どうせ、お好み焼か、焼き物だろう。食べていいのかも、病院に持ち込んでいいのかも、涼成にはわらない。
 だが、店長なりの気遣いだ。ありがたく受け取った。
「店長は、店を離れるわけにはいきませんから、代理で僕が」
「真壁。俺がいない間、頑張ってくれ」
「任せてください、先輩」
 真壁とは同年だった。バイトの先輩、という意味だろう。
「そんなことよりっ。涼成、元気?」
 小夜の顔が、珍しく真剣だった。
 いつも、楽しそうに笑っているか、とことん拗ねているかのどちらかなのだ。
 呼び方も、いつもと違う。
「ありがとう」
「きっしょ」
 丁寧に返したつもりだったが、やはり小夜は変わらない。だが、腹は立たなかった。
 小夜と真壁は、しばらくして帰っていった。『小次郎』は、今日も営業しているのだ。
 日が傾き始める頃に、また来客があった。さっきと同じで、二人組である。
「派手にやったんだな、上木。おい上月、余計なことするなよ」
「石動さん、上月さん、わざわざすみません」
「気にするな。けど驚いた」
 石動が、いつもの笑みを浮かべる。涼成は、少し穏やかな気持ちになった。
 自分に似ているような似ていないような、年上の友人。それが、石動司だった。
 上月は、薫の進化、或いはジョブチェンジ後である。現に、薫と上月は波長が合うようで、度々二人でいなくなる。
「早く治ってくれよ。ただでさえ手に負えない奴が揃ってるってのに、クッションが減ったら俺はどうなるって話だ」
「苦労をかけます。けど、何だかんだ言って楽しんでるんじゃないですか?」
「さあな。それは俺にもよくわかんねぇよ。今、俺が思ってるのは一つだけさ。その痛々しい包帯を、早く取れるといいな」
 優しい人だった。だからこそ、変人、もとい個性豊かな人達が多いのかもしれない。
 部屋を見渡していた上月の視線が、涼成のところで止まる。
 眼を、じーっと見られていた。涼成も、負けじと見返す。
「うん、変わったね、涼成君」
 それだけ言って、上月は「ばいばい」と手を振って出て行った。
「あいつは……俺も行くよ。それじゃまたな」
 石動も、振り返らずに上月の後を追う。相変わらず、面白いコンビだった。
 一色小夜、真壁順也、石動司、上月修。まともに生きよう、と思い立ってからの友人達だった。
 昔とは、友人と言われて浮かぶ顔ぶれは随分と変わっている。
 日が暮れてから、更に来客があった。もう浮かぶ顔など限られてきていた。少し以外な人物だった。
 鶴ヶ丘ひかりである。
「いやぁ、ニュースで見た時は悲鳴上げたよ」
「すみません」
「いやいや、謝ることもないんだけどさ。けど、あれだけ大々的に取り上げられて、よく何もないね?」
「それは、まあ」
 都築。浮かぶのは、その名前だった。
 真霧間などと並ぶ、霧生ヶ谷の生え抜きの家系である。
「それよりさっ、爽香つれてこようと思ったんだけど、学校帰る時にはもういなかったし、電話しても繋がらないんだ」
「そうですか」
 最後に会ったのは、殴られた時だ。
 制止したのに、こういうことになった。もしかしたら、怒っているのかもしれない。
「ごめんねー、力及ばず」
「そのあたりは、気にしないでください。というか、変な気を遣うのはやめてください」
 ひかりが嬉しそうに笑うのを、涼成は苦笑で受け止めた。
 この人には、爽香とは別の意味で敵わない。そう思っていた。
 なぜそう思ってしまうのか、今までは判然としなかったが、やっとわかった。
 ちゃんと、自分の脚で立って、自分の意思を持って、自分で生きているからだ。こういう高校生の姿が、涼成にとっては眩しかった。
 自分とは違う。一方的な思い込みで無意識に、壁を作っていた。
「一つ、頼みが」
「何でも言ってみなさいな」
「敬語、やめてもいいですか?」
 ひかりが一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに笑顔に戻った。
 了承。涼成はそう受け取った。
 もう、壁を作る必要もないのだ。負い目を感じるものは、何もない。
「じゃ、帰るとしますか」
「また」
「うん、またー」
 元気な人だった。一緒にいて、楽しくなる。それは、才能なのだ。
 夜が更けていく。
 涼成は、闇を見つめ続けた。
 
 
 
 
 
2/ 短命二郎と九紋竜

 気配を感じたのは、病院がほぼ静まった頃だった。
 知っている、気配だった。
「爽香」
 扉の向こうに立つ影に飛びかけた。同時に扉が開かれる。
 爽香が、何も言わずに部屋に入ってくる。
 闇で、表情はよく見えない。部屋の電気は、消しているのだ。
 涼成は、何を言えばいいのかわからなかった。今までの来客ではすらすらと言葉が出てきたというのに。
 いや、それほど語ることもないのかもしれない。昔から、そうだった。
 一緒にいても、それほど多く語ることはない。黙ってぼんやりとしていることで、どこか心が洗われる気がしていた。
 爽香が、椅子に腰掛ける。そして、涼成がさっきまでしていたように、窓の外に眼を向けた。
 涼成も、それに倣った。室内が暗い分、外の明かりが際立っている。
 星が、綺麗だった。冬の空は、遠くて澄んでいるように思える。
 静かだった。傍から見れば、何をしに来たのかわからない光景に違いない。
 遠くから、地鳴りのような音が聞えてくる。
 数が多い。これだけの音の波は、涼成も聞いたことがなかった。バイクの音である。
 徐々に、音が近づいてきた。
 部屋から見えている九竜身川沿いの道を、様々な色の光が流れる。遠くから見ている涼成には、それが光の川のように思えた。
 水の川の横を、光の川が流れている。どこか、幻想的だった。爽香も、黙ってそれを見ている。
 音は、凄まじいものだった。だが、病院の近くで、それが全て消える。
 ぞろぞろと、人並みが迫ってきた。病院の門前に、それらが並び立つ。
 数が多い。あれは、祥子の下に集まっている人間だけではない。没遮欄の連中も、一緒のようだった。
 人並みの中から、影が四つ出てくる。
 最も小柄なのが、祥子だろう。その横にいるのが、方輔。大柄なのが鷹弥で、ついているのが龍円だ。
 四人が、黙って頭を下げた。
 祥子らしい、演出だ。涼成は、ただそう思った。
 祥子の特攻服が風に翻る。九匹の紅い竜が、生き物のように躍っていた。
 龍円が、病院の中に入ってくる。しばらく待っていると、躊躇いなく病室の扉が開かれた。
「次に会う時は、敵でも味方でもない」
「わかった」
 龍円は、それだけ言って姿を消した。
 人並みが去っていく。来た時と同じように、光の川と水の川が並走していた。
「ねぇ」
 爽香が、呟くように言う。
「終わったのね」
 爽香は、こちらを見ようとしない。相変わらず、外を見ていた。
 涼成も、覚束ない足取りで立ち上がって、爽香の横に立った。
「終わったな。全部、終わった」
 何かが、込み上げてくる。涼成は、それを堪えた。
 全て終わったのだ。今更、思い残すことなどないはずだ。
「今ぐらい、許されるわよ。ずっと生きてきた世界と、訣別したんだから」
 息を止めた。それで、いくらか楽になる。
「自分を偽らない。それが、あんたにとっての訣別じゃないの?」
 その通りだった。
 自分を隠して、隠して、隠し通すことで、涼成はあの世界でやってきた。
 舞台から消えるということは、自分を偽らなくなる、ということと同じなのだ。
「爽香とは、どこかで意地を張り合う仲だと思ってる」
「最初で最後よ。明日からは、あんたは元通り。いつもの食えないバカに戻ってる。それでいいじゃない」
 更に、遠くを見ようとした。見えないからこそ、見ようとした。
「おつかれさま」
 傷に、温かい何かが触れた。

 

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