「ふぅ…ま、待たせすぎちゃったかな?」

 軽く息をついてから、優希は立ち止まる。立ち止まったのはマンション――それも入り口で暗証番号を入れなくてはならないタイプのマンションだ。

「あ、汗臭く…ないよね?」

 マンションの入り口で、優希が自分の身なりを確認していた。
 ジーパンにトレーナー。足元はスニーカー。手に提げたバックの意匠は少々女の子っぽいかもしれないが、それを抜きにしてみると、どこからどう見ても…。

「…女の子っぽくないなぁ…」

 ガラスに映る自分の要望に、優希はため息をつく。


 屋上では殴り倒してしまったものの、やはりあの薫にだけ任せては何をするかわからない。結局優希は薫を手伝う事にして――その段になってはっとした。
 そういえば、薫の家に行くのは小学校以来だ、と。
 そう。内容はどうあれ薫の、好きな異性の家に招かれたのだ。
 こうしてはいられない!
 優希は授業終了とともに教室を飛び出し――

「東三条さん!今日は試合よ!」

 しかし校門の所で苗字を呼ばれて捕まった。
 立ち止まって背後を見てみれば、そこにいたのは柔道部部長。さらにその背後には空手、剣道、長刀など、格闘技系の部活の部長が勢ぞろい。
 その面子を見て、優希は思い出す。

「あ、そういえば今日は…」
「ええ。西高との交流試合よ」

 言われて、優希は頭を抱えた。


 雰囲気で理解できるとは思うが、西高は優希が通う高校のライバル校。そして優希は毎月の対抗試合に助っ人として借り出される。
 優希の家は武家の末裔であり、優希も幼い頃から武芸百般を仕込まれている。
 その事について、優希は自分を不幸だとは思わなかった。今日、この瞬間までは。
 一刻でも早く家に帰り、おめかしの一つでもしたいところだ。しかし約束を破ることも出来ない。
 結局校門で右往左往しているところにやって来た薫に

「約束を破るのは男らしくないぞ?
 私の方は終わってからでいいので、その破壊的なパワーで全てを雄雄しく薙ぎ払ってきたまえ」

 と言われ、とりあえず「男らしくってなんだよ!」と薫をなぎ払ってから、試合に臨んだ。
 柔道では全てを一本勝ちで沈め、空手では30秒で三本先取し、弓道では的の中心に数ミリ誤差で矢をぶち込んで―――


「私は、あそこまで燃えていた東三条を見たことがない。
 あの気迫―――関羽呂布も避けて通るだろう」


 試合に立ち会ったとある生徒が、その時の優希のことを後述したとかしないとか。
 ともかく、乙女の純情が伝説の武将を上回ることを証明した優希は、交流試合最高の結果を記念した打ち上げを辞して、ダッシュで帰宅。
 これ以上待たせる訳にはいけないと、箸って帰ってシャワーを浴びて、適当に目に付いた服を着て薫の家に走ったのだった。


「うううっ…。やっぱりちゃんとおしゃれしてきたほうが良かったかな…」

 後悔先に立たず。優希はガラスに映る自分の姿にため息をつく。
 スカートや化粧、とは言わない。せめて上をトレーナーじゃなくてブラウスにして来た方が…。
 いや、しかし家が近いとは言え、今から帰って着替えると言うのも…

「…って、何を考えてるんだよ、僕は!今日は学園祭の企画書手伝いに来ただけじゃないか!
 それに、霞さんだっているだろうし」

 薫は一人暮らしではない。大学生の姉である霞と二人暮らしだ。ちなみに両親は外国の大学で、よく解らない研究をしているらしい。

「……何を変な風に意識してるんだろ?」

 状況を少し冷静に鑑みれば、気持ちは急激に冷めていく。
 別に、薫は自分を女の子として家に招くつもりはない。あくまで企画書を作る手伝いとして呼んだだけだ。
 彼が自分をあっさりと呼べたのは、そもそも薫が自分のことを異性と認識していないからだ。
 お洒落をしたところで「罰ゲームかね?」と言われて終わりだろう。

「……なんか本当に言いそうだなぁ…」

 自分の想像に凹みながら、優希は呼び出しのボタンを押したのだった。




「遠慮なく入りたまえ」
「う、うん」

 やや緊張した面持ちで部屋に入った優希は、その部屋の様子を見て緊張を解く。

「意外と…普通だね」
「何を期待していたのかね?」

 不思議そうに言う薫の部屋は、想像に反して普通だった。
 窓際にベッドと勉強机。本棚が一つ。唯一個性的と言えるものは勉強机以外にもう一つテーブルがあり、そこには妙にサイズの大きなコンピューターと、それに接続された何かのグラフを表示している複数の画面。
 ボタンが三つ以上ある機械(携帯電話含む)が苦手な優希は、首をかしげてたずねる。

「これって…なに?」
「ああ。最新モデルの漬物石だ。今は沢庵を漬けていごぅっ!?」
「いくら機械音痴の僕だってコレがコンピューターだってことぐらい解るよ!
 これで何をしてるのかって質問してるんだよ。
 最近話題になってる「おんらいん・げーむ」っていうやつ?」 
「オンラインゲームは既に最近話題の物ではないが…まあ、ゲームと言えばゲームだね。
 マネーゲームと言ってね。ニューヨーク、東京、ロンドンを舞台に、現実的には鼻をかむ以上の利用価値のない紙切れを、あたかも金銀財宝のように価値があるものとして扱って、安く仕入れたそれを法外な値段で売りさばき、暴利をむさぼると言う趣旨のゲームだよ」
「よくわかんないけど…あんまりそういうの、はまっちゃ駄目だよ?
 薫は何かに嵌ると周りが見えなくなるタイプなんだからね。
 引き篭もりにならないか心配だよ……って何だよ、その微妙な視線は?」
「いや、君はもう少し新聞を読んだりニュースを見たりするべきだなと思ってね」
「なっ、ど、どういう意味だよ!」
「そのままの意味だ。……では、少し出かけてくる」
「え?」
「食料の備蓄がなくてね。6時から近所のスーパーがタイムセールに入るので、私と姉の分の食料をそこで調達せねばならない。
 ついでに君に出すジュースとお菓子でも買ってくる。リクエストはあるかね?」
「あ、別にいいよそんな気にしなくても…」

 と、優希が言い終わるより早く、彼女の消化器官は主人の意思に反した声を上げた。
 即ち

 ぐ~~~~

「……ぁぅっ」
「……ふむ。ハングリー精神旺盛「聞くなぁっ!」こぉっ!?」

 恥じらい真っ赤になった優希は、恥じらいとは程遠いハイキックを薫の即頭部に叩き込む。
 理不尽と言えばあまりに理不尽な攻撃だったが、そこは流石に慣れたもの。薫は軽く頭を振ってから、壁のハンガーにかけていた上着を手に取る。

「――ううむ。少し世界が揺れるね。
 兎に角。何か腹に貯まる物でも買ってくるよ。君も試合でカロリーを消費しただろうからね」
「そ、そうだよ!僕のお腹が鳴ったのは今日は沢山動いたからで、いつもはこんなんなじゃいんだからね!?」
「了解した。それはそうと、机の上にとりあえず書いてみた企画書がある。完璧は期してはいるが、私が帰ってくるまでに問題点をチェックしておいてくれ」
「OK」

 腹の虫の泣き声を聞かれた事の恥ずかしさが抜け切れない優希は、まだ赤さの残る顔のままか薫の勉強机に向かう。
 薫は彼女が企画書を手に取るのを確認してから歩みだし、

「あ、そうだ。ユーキ」

 彼が部屋から出る直前、薫は何かを思い出したかのように立ち止まる。

「言っておく事があった」
「何?」

 背もたれのスプリングを軋ませながら、薫の方をみずに返事を返す優希。
 薫はそれに気を悪くしたような様子もなく続けた。

「部屋は自由に使ってもらってかまわないが、ベッドの下だけは覗かないで欲しい」
「別に覗くつもりはないけど、何で?」
「エロ本がある」

 がたーん

 優希が椅子ごとひっくり返った音だ。
 受身も取れずにフローリングに叩きつけられた優希だが、その物理的衝撃よりも精神的衝撃の方が大きかった。
 一瞬呆然としたまま、天地真逆な薫を眺めた後、勢いつけて(その上ベッドの下が目に入らないように)立ち上がり、烈火のごとく食って掛かる。

「な、ななななな、何!?どうして!?」
「質問の意図が不明だ、ユーキ。それと、痛くはなかったかね?」
「痛くないよ!それよりなんでそんなもん持ってんだよ!」
「なぜと言われても、私は健全な思春期の男子だ。当然性に関する興味もあり、また欲求も貯まっている。その興味と欲求を満たすために、しかるべき文献、資料を持っているのは普通の事だろう?」
「そ、それはそうかもしれないけど……ど、どうして僕に言うんだ!?」
「もちろんみられると恥ずかしいからだ」
「じゃあそもそもそんな物がどこにあるかなんて言うなぁっ!」
「仕方あるまい。女性とは男の部屋に入ったらエロ本を探し、確実に見つける生き物なのだろ?」
「どこでそんな歪んだ知識を…」
「霞が言っていたし、実行していた。実に羞恥プレーだった」
「あ・の・ひ・と・かぁぁぁぁっ…」

 目の前の変人に輪をかけて掴みどころのない女性の笑顔を思い浮かべながら、優希はやり場のない怒りに脱力する。


 床にへたり込む優希を尻目に、薫は言うべきことは全て言ったというふうに、きびすを返した。

「では、出かけてくる。
 くれぐれもベッドの下は覗かないでくれたまえ?私にも人並みの羞恥心というものがあるのだからね」
「覗かないよ!」

 追い出すように優希は叫び、そして薫は出ていた。
 扉を閉めて、次いで玄関が開け閉めされる音がする。

「全く、あの変態は…」

 赤さが引かなくなった顔で、優希は一人で呟く。
 その呟きに、返答はもちろんない。
 部屋に満ちる沈黙。時々、起動させっぱなしのPCから、カリカリという音がするだけ。

「き、企画書!そうだよ、企画書を検査しないと!」

 突然優希は大声で叫ぶと立ち上がり、なぜか天井を見ながら机に歩み寄る。

「そうだ!まずは椅子を立てないと」

 またもや大声の独り言を口にしてから、しゃがんで倒れた椅子に手をやる。
 その時、偶然ベッドが目に入った。厳密にはベッドの下の空間が。

「―!?僕はき、気になんてならないぞ!ならいったらならないんだから!」

 誰にともなく言って、椅子を立ち上げ座る。

「さぁて!企画書にはどんな事が書かれてるかなぁっ!」

 明るい口調を心がけつつ、企画書を手に取る優希。だが…

「ふんふん、ヤッパリ壁は新聞紙が素材かぁ…」

 だが、その意識は――

「一定間隔ごとにダンボールで三角形の柱を作ってビニール紐で…」

 ――手に取った紙切れなんかより――

「あっ、なんだよこの赤外線センサーって!」

 ――ベッドの下の暗闇に――

「電撃って死人が出るよ!っていうか、心臓が弱い方はご遠慮って言われても…」

 ――正確にはその暗闇の中にあると言われたものに――

「全く何を考えて…」

 ――興味が―――

「何…を…」

 ――興味が惹かれるのだ。


 鳴らした喉の音が、物凄く大きく聞こえた。
 目は既に、ベッドの下に釘付けになっている。
 興味があった。それはもう物凄く、だ。
 それは単純な性的な興味だ。次の誕生日で十六になる少女にとってみて、そういう方面への興味は無尽蔵といっても過言ではない。
 まして彼女の家はそういうのには厳しく、優希はその方面の知識を得る機会がない。故に、その反作用的に、まるで不足した栄養を求めるかのように、精神がその知識を求める。
 だがそれ以上に、優希は気になることがあった。

(どんな…女の人だろう?)

 本に描かれている女性はどんな感じだろう?
 スレンダーか、豊満か?
 背は高いか低いか?
 胸は?腰つきは?肌の色は?
 それは―――自分と比べてどうなのか?

「どう…なのかな?」

 不安と、期待と、そして嫉妬。
 自分の想い人が獣欲を叩きつける対象に対する興味とそれ以外の様々な感情。


 気づいた時には、優希はベッドの前にしゃがんでいた。


        *

 
 優希は知らなかった。彼女に向けられた視線のあることを。




「本っっっ当に、どういう神経してんだろ?」

 優希は正座してため息を付く。
 彼女の目の前に置かれているのは桐の箱。
 そのフタには、草書体で一筆したためられていた。

『ゑろ本』

「しかも妙に達筆だし…」

 優希が見つめる箱は、ベッドの下から取り出したものだ。
 その蓋に書いている文字と、薫の言葉からして、この箱の中身は間違いなく

「薫の……おっ、おかず、って奴なんだよ…ね?」

 改めて、緊張に背筋を伸ばす優希。戸惑いはあるが、しかし躊躇いはなかった。

(だって…チャンスじゃないか)

 兵法に曰く、敵を知り己を知らば百戦危うからず。
 そういう意味では、これは薫の嗜好を知るまたとない機会だ。
 自分もそれに合わせていけば、ぐっと戦いは楽になる。
 まあ、薫の趣味がボン?キュッ♪パーン☆の金髪美人とかだとしたら優希には成すすべもないのだが…。

「(ごくっ)」

 生唾を飲んで、小さく深呼吸。

「いきます」

 そうしてから、まるで遺跡から出土した副葬品の入った箱でも開くような気分で、その箱の蓋を取り…



 電子音が、鳴り響いた。


「ひっ!?な、何!?」

 耳を劈くようなピピピピという電子音。それは目覚ましと言うより防犯ブザーの音。
 箱の中から聞こえるその音は、隣のお宅にまで届きそうだ。

「と、止ま!止まぁぁぁっ!」

 混乱した優希は蓋を閉めるが、電子音は健在なまま、高級木材越しに鳴り響く。
 その駆り立てるような電子音に優希の混乱は増す。
 音がする!警報だ!お巡りさんだ!逮捕だ!裁判だ!どうしようどうしようどうしよう!?
 支離滅裂な思考のまま、とりあえず音を抑えなくてはと、優希は反射的に目に付いたものを手に取る。
 それはベッドの上の掛け布団。優希は手に取るとそれを箱の上から被せ、さらに上から覆いかぶさる。
 布団の中の羽毛は音を吸収し、音をずいぶんと小さくする。
 だが、それは小さくなっただけで厳然として部屋中に響いている。

「と、止まれ!お願い、止まってぇぇぇぇっ!」
「スイッチを切れば止まるのではないかね?」
「はっ、そうか!」

 背後から差し出された助言に従い、優希は起き上がると毛布を取り払う。
 再び大きくなった電子音にひるまずに、蓋を開ける。その中にはなにやら小さなプラスチックの箱。
 箱には発光ダイオードとスイッチが付いている。

「コレだ!」

 優希はその小さなスイッチに手を伸ばす。
 かち、という音がすると、警報は止まった。
 打って変わって部屋に満ちるのは、耳が痛くなるような沈黙。

「はぁ…た、助かったぁ…」

 尻餅をついてその場にへたりこむ優希。

「大丈夫かね?」
「う、うん。ありがと。スイッチの事、教えてくれて」

 薫のいつも通りの落ち付き払った声に、優希は驚愕に乱れた呼吸を整えながら返事をした。
 そこで優希は気が付いた。

「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ!?」
「声にならない悲鳴と言う奴だぼひゃっ!」
「なななんあ何でこんな所にいるんだよ!?」
「…、き、君はここが私の部屋である事を忘れていないかね?」

 軽く頭を振ってから、部屋の持ち主である薫は頭を振る。

「出かけたんじゃなかったの!?」
「ああ、出かけたとも。ただ、財布を忘れたのを口実に戻ってきたのだよ。
 そうしたら偶然にも君がエロ本を見ようとしていた、と言うわけだ」
「…っ、そ、れは…」

 優希は思わず視線をそらす。その視線は偶然優希があけた箱の中に入った。
 中身は…

「……デカメロン?」

「うむ。西洋文学史上最初の官能小説といわれる作品だよ?」

 騙された。
 デカメロンなる作品がどんなものかは知らないが、その文庫本の装丁からみて、年頃の青少年がハァハァするようなものではないだろう。
 騙された。見事に騙されたのだ。
 巧みな発言に踊らされ、誘導され、そして…

「しかし、よもやこれほどあっさり引っかかってくれるとは思わなかったよ、ユーキ」

 …エッチな本を見ようとするところを…

「ああ、安心してくれたまえ。別にとやかく言うつもりもはない。私も男だ、君のエロい気持ちはよくわかる」

 …見られた。

「まあ、流石にお宝を本当に披露するのは……ユーキ?」
「えっ?」

 声をかけられて、優希の思考は現実に帰還する。
 不審そうに見つめてくる薫の視線を受けて優希は―――笑ってみせた。

「アハハハッ!確かに思いっきり引っかかっちゃったよ!?」
「――そうだね。見事な引っかかりっぷりだったよ」
「うん!全く人が悪いな、薫は。けど、そうなるとやっぱり本物はどこか別の場所にあるわけだ」
「あ、ああ。もっとも、流石にその場所は教えられないがね」
「ふうん…探しちゃおっかな?僕、結構興味あるし」
「それは勘弁してもらいたいね。もっとも、君に探し出せるような場所には置いていないがね」
「ふうん…そりゃ残念。で、もう買い物は終わったの?」
「いや。玄関を開け閉めした以降は廊下に潜んでいただけだから…」
「じゃあ早くしたほうがいいね!タイムサービス終わっちゃうよ?」
「―そうだね」

 優希はそういうと、薫の背中を押して、まるで追い出すように見送る。
 その態度に、薫は強い違和感を感じたものの、それが何か全くわからず、首をかしげながらも部屋を出る。

「それでは行って来る。ああ、それはそうとエロ本を探すために部屋を散らかすなどと言った事はなしにしてくれよ」
「しないよ!ほら、いったいった!」
「―――うむ、行って来る」

 違和感を拭い去れないまま、薫は玄関へと行き、今度は本当に家を出た。
 扉が閉まる音を聞きながら、薫はとりあえずの結論に達した。
 どうやら自分は、優希の気分を損ねたらしいということだ。理由はわからないが、そういうことなのだろう。

「―――たしか…優希はカリントウが好きだったな」

 ならばジュースより茶の方が良いかと、薫は足早に歩きながら考えた。


 薫が去った後も、優希は笑顔だった。
 ただ笑顔のまま、手を握り締める。
 その時だった、電子音がした。だがそれは先ほどの警報とは違う、一定間隔のリズムのある音だ。

「…携帯?」

 自分のは何の反応も示してこない。
 となると、別の電話だ。優希が部屋を見ますと、机の上の充電器にその音源を見つけた。

「薫…忘れていったのかな?」

 近づいて、出るべきかどうか悩んでいると、折りたたまれた表側の液晶に流れるドット文字に見知った名前が見えた。

 KASUMI

「霞さん?」

 知っている相手なら、出るべきかな?
 優希はそう思って携帯を手に取り通話ボタンを押す。

「もしもし?」
『お、女の子ぉぉぉぉぉぉぉっ!?』

 受話器越しに飛び出てきたのは、驚愕に彩られたハスキーボイスだった。
 薫の声に似ているが、少し音程は高く、感情に彩られている。

『えっ、どうして!?これ、薫ンの番号で…ってことは出ているのは薫ンなんだらしてかおるが女の子に完全変態!?
 …あ、待てよ。そうか!薫ンも男になったんだぁ…』
「えっと…何か勘違いしてると思うよ、霞さん」
『む?勘違い?ってーとまだ薫ンはCherry?ひょっとして、挿入直前に電話かけちゃった?萎えさせちゃった?
 って、おや?この耳に心地よいソプラノボイスは…ひょっとて優希っち?』
「うん。僕だよ」
『おおう!なんと!
 我が親愛なる弟君の童貞貰ってくれるのはやっぱり君だったか優希っち!
 実に本命だ!ディープでインパクトな程に手堅いね!末永く薫ンの馬鹿をよろしく頼むよ?』


 ハイテンションに続く霞の声。その言葉は勘違いに彩られている。
 そう、そんなんじゃない。だって…

「ふふっ。何言ってるんだよ?僕、薫とそんな関係じゃないよ?」
『またまたぁ~。そんな事言っておいて奥さん♪二人とも凄くお似合いじゃないですかぁ?』
「本当にそんなことないよ」

 そう、そんな事はない。ありえるはずない。

「だって…」

 なぜなら…

「僕…薫に…」

 エッチな本を見ようとしているところを見られて―――

「かお…る…に…H、な、奴だって…女の子ってだって…見られ…て、なくて…」

 途切れる声で、言葉をつなぐ優希。
 自分は、女の子だと思われていない。思われていたら、あんな悪戯はされないだろう。
 それにもし、女の子だって思われていたとしても、あんな…エッチな本を見ようとしていた所を見られたら、軽蔑されるに決まってる。
 目頭が熱くなって、涙がこぼれそうになる。
 けれど、それを意地で堪える。
 だって、もし、もしも少しでも許してしまったら、きっともう止まらないから…。
 だが、それほどに必死で我慢しているところに

『……優希ちゃん?』

 携帯越しに、霞の声が届く。
 軽薄さが抜けた、気遣いを含んだ落ち着いた声は、どこか薫の声に似ていて…


 限界だった。


「う…うぁ、ぁ、ああああああああああああああああああああああああっ!」


 ああ、こんなに泣いたの、いつくらいぶりだろう?
 自分の声を聞きながら、優希の心の中のどこかが、冷静に呟いていた。


『落ち着いた?』
「うん…」

 泣いたのは、十分程度で済んだ。
 やはり電話越しであっても、誰かに聞いてもらえたからだろうか。
 少し軽くなった胸で、優希はお礼を言う。

「ありがとう、霞さん。それと…ごめんね」
『いやいや…馬鹿な弟がしでかした事だからね。こっちこそゴメンね、優希っち』
「ううん…僕が悪いんだよ。覗くなって言われてたのを覗いたのは僕なんだから…」

 そう。客観的に見れば、覗くなといわれたのを覗いた自分にこそ非がある。
 それに、薫はその事で、本気でからかってはいないし、軽蔑もしていない。
 覗いたのも自分なら、泣いたのも自分だ。
 自業自得だね。
 優希はそう結論付けるが、しかし電話の向こうの聞き手は、全く同意できないらしかった。
 携帯越しに、身もだえる気配が伝わってくる。

『…ぅああああっ!もう、健気だなぁ、優希っちは!それに引き換えあの玉無し薫ンは…!』
「か、霞さん?」
『にょわぁぁぁっ!もう辛抱たまらん!もう少し薫ンの可愛くも無様な姿を見ていたいと思っていたけど、中止!
 これ以上こんな良い子を辛い目にあわせるわけにはいきません!
 ―――優希っち!』
「は、はい?」

 電話越しにも伝わる気迫に、優希は素直に返事をする。
 霞は少し神妙な口調に戻る。

『こういうのは、第三者の介入で解決するようなもんじゃないとは思うけど…ここは、助けさせてもらうわ。
 …口でどうこう言っても信じてもらえないでしょうから、証拠を見せるわ。
 優希っち、英語とドイツ語の本が詰まってる棚わかる?』
「えっ?――う、うん」

 優希は壁際に立てられた本棚の前に立つ。確かに一列、アルファベットが表題になってる本が詰まっている本棚が合った。

(こんなの読めるのかな?)
『うん!じゃあさ、その中の本を全部引っ張り出して?』
「ぜ、全部?」
『そっ!終わったら上の段の棚を底を下から覗き込んでみ』
「う、うん」

 やっている事の意味が解らぬものの、優希は素直に従ってハードカバーを取り出す。
 それから身をかがめて。開いた隙間から、しゃがみこむようにして、上の棚の底を見上げる。

『PINK天国』『ドピュドピュ倶楽部』『オレンジ写真堂』

「――――!?!?!」
『よっしゃ!ビンゴ!そこだったか!』
「な、なんあなっ!?」
『落ち着きなよ、優希っち。それらこそ、我らが薫ンの夜のお供、E・RO・HO・N様だ!』
「ど、どうしてこんな所にっ!?」

 まるで裏帳簿か何かのような隠し場所に、優希は目を丸くする。


『そりゃま、私が部屋に入るたびに探し当てるからじゃない?
 最近は武士の情けでわざと指摘しないでおいてやってるけどぉ~』
「……僕、薫があんな性格になった理由がわかった気がするよ」
『うっふっふ、照れるなぁ。
 ま、そんな事よりも―――開いてみて?』
「えっ…?」

 霞の指令に、優希は初めて躊躇いを覚えた。
 もし、コレを見てしまったら…本当にHな本を見てしまったら、そして、万一それをかおるに見てしまわれたら、言い訳が出来ない。
 薫を怒らせてしまうかもしれないし、今度こそ本当に、スケベな女だと軽蔑されてしまうかもしれない。

『遠慮しなさんなって。ここまで来ちゃえば毒食わば皿まで。
 それに、万一の時は私に無理やり言うことを聞かされたってことにすれば良いからさ…』
「け、けど…」
『いいから…信じてよ』

 エロ本を読めという命令に対して信じるも何もないとは思ったが、ここまでしてしまえばもはや今さらだ。
 霞の言うとおり、毒食わば皿まで、だ。

「……うん」

 優希は恐る恐る、嵌め込まれた本を取り、開く。

「うわぁ…っ」

 言葉が、出なかった。そこで繰り広げられる痴態は、もはや優希の想像をはるかに超えていた。
 まず、撮影場所が布団やベッドの上でないどころか、お風呂やソファーだったりする。それだけでも想像の埒外だというのに、中には公園で撮影されたものもある。
 やってる事も彼女の常識を突き破っていた。被写体は見せ付けるように(実際見せ付けているのだが)、様々な格好で股を開きながら、秘所を見せ付ける。
 しかも見せ付けるだけに留まらず、あるときは自分で開き、あるときは指やよく解らないおもちゃ、野菜をくわえ込む。男根などむしろ入っているのが当たり前という勢いだ。
 極めつけは、口だ。男も女も、平気で相手の性器に口をつけ、舌を這わせる。
 特に女達は、必ずといって良いほど、白い粘着質の何かを口に含むカットを撮影している。
 精液。
 本能的に、その粘りの正体がわかった。
 そして、それと同時に、本の何ページかが、まるで水を零して乾かしたかのようになっている理由についても心当たってしまった。
 ここに…薫が…アレを吐き出したんだ…。
 そう考えると、まるで、薫の匂いがしてくるようで、優希は酩酊を覚えた。
 衝撃に近い感情を得ながら、もはや内容すら頭に入らず、機械的にページを捲ってゆく優希。
 その途中、一枚の紙切れがページの隙間から舞い落ちた。

「あっ…」

 落ちたのは写真だった。
 表向きに落ちたそれを見て、優希は息が止まるほど驚いた。
 それは、今彼女が手にしている本のどのページを見たときよりも、はるかに大きな衝撃だった。
 一人の、ブレザー姿の少女の写真だった。
 髪は癖っ毛。眉毛は太め。サイズが若干大きすぎるブレザーに袖を通したその姿は―――


「…私?」


 優希が写真の中で、薫の隣に立ちながら笑っていた。


       *


『ふぅん…優希っちって『私』って言ったりするんだぁ~』
「え?今、僕、私って…けど、だって、似合わないし…」
『うっふっふ。そんな事ないわよ。だって…濡れてるでしょ?』
「っ!!」

 言われて優希は初めて自分の股間部分――秘口が湿り気を得ているのに気付いた。
 何で解ったのか?優希ははっとして

「か、隠しカメラはどこ!?」
『あ、やっぱ濡れてた?
 んっふっふ~、お姉ちゃんの勘に間違いはなかったわねぇ。
 っていうか、傍から見ても解るくらい濡れてるなんてぇHっ♪
 のほほほほっ!」
「ぅぅ…」

 妙な笑い声を上げる霞に翻弄される優希。
 通話を切ってやろうかとも思った頃、不意に霞が声のトーンが和らいだ。

『優希ちゃんは女の子よ』
「ぇ…」
『女の子なのよ。それも飛び切りカワイイ、ね。
 具体的にはウチの弟が毎晩ネタにして、一人でハッスルしちゃうくらいに』
「ま、毎晩!?」

 改めて、優希は床に落ちた写真を見る。
 薫が…毎晩僕の事を想像して…一人エッチをしてる…。僕を、私を抱くのを想像してる…。
 想像によって、いよいよ体は熱くなる。
 溶け落ちた欲情は、雫となって花園を濡らす。


 駄目だと、こんな想像しちゃ駄目だと自分に言い聞かせるが、しかし脳内に浮ぶ映像は消えるどころか鮮明になる。
 薫に――好きな男に女として―――雌として滅茶苦茶に犯される自分。
 その想像の中で、しかしその陵辱を、自分は嬉々として受け入れている。
 それは同時に、自分が自らを慰める時にした想像と同じだった。

『私、今晩、教授の実験に付き合って帰れないから』
「ふえ?」
『電話した理由よ。じゃ、薫に伝えといて
 ――自信もって、優希ちゃん』

 霞はそういうと、電話を切った。
 ツーツーという音も、すぐに消える。
 残るのは、戸惑った優希だけ。
 
「……僕、薫は…私を…」

 ぐるぐる、思考が頭の中をめぐる。
 女としての自分。友人としての自分。
 異性としての薫。幼馴染としての薫。
 熱に浮かされたように、思考は空転を続ける。
 今、自分が考えている事が何かすら解らなくて。
 今、自分が感じている感情が何かすら分からなくて。

「これで…薫は…」

 落ちた写真を拾って優希は座る。
 写真の中で笑っている女。自分のはずなのに、しかし優希は暗い感情を覚えた。
 それは嫉妬だった。
 現実にいる自分には、薫は全然そんなそぶりを見せないのに、写真の中の自分は欲望の対象になっている。
 それが、悔しい。

「変だよ……僕、自分に嫉妬してるよぉ…」

 本物の自分はここにいるのに…。本物の自分はすぐ隣にいるのに…。

「薫…見てよぉ…。僕を見てよぉ…僕を…私を見て欲しいよぉ」

 涙声で呟く優希。
 頬から涙が零れて、ジーパンのデニム地に零れる。

「薫ぅ…」
「――――ユー、キ?」

 掠れた声に、優希は顔を上げた。

「…薫」

 顔を上げたそこには、扉を開けたままの体勢で、青ざめた表情の薫がいた。


 薫は視線を優希の泣き顔から、床に置かれた本、そして優希の写真に移し、そして一瞬で赤面した。
 強張った表情で、まるで襲い掛かるように優希に詰め寄り、写真を毟り取るように奪う。

「っ!」

 圧し掛かられるような恐怖を感じ身を竦める優希。だが、薫はそれ以上何もしなかった。
 薫は優希にしたのと同じような、普段からは想像のつかない粗暴な動作で床に散乱した卑猥な本を拾い上げると、机の引き出しに放り込み、力任せに閉める。
 普段から冷静な薫には考えられない、焦り、混乱し、狼狽した動き。
 引き出しは、紙が無理に圧縮されるクシャリと言う音がして、完全には閉まりきらない。
 ページが折れ曲がっているのだ。薫は何度か力任せに閉めようとして、ようやくその事に気づいたのか諦める。
 そうすると、急に部屋から音がなくなった。
 いつの間にか日も傾き、暗くなって来た部屋。
 少し普段よりも荒い二人の吐息だけが、空気を揺らす。

(…怖い)

 優希は思った。怖い、と。
 その沈黙と、物言わぬ薫の背中が、優希にはたまらなく怖い。
 背中からは、感情が読み取れない。
 単に自分のプライベートを覗かれて、羞恥心に震えているのか。
 それとも、怒っているのか?
 ひょっとしたら、自分を軽蔑しているのかもしれない。
 恐怖が想像を呼び、想像が恐怖を深くする。
 舌が、喉が、痺れたように上手く回らない。
 魂を削るような沈黙を、破ったのは薫の方だった。

「―――――――――すまない」

 砂から搾り出したような、掠れた、小さな声は、謝罪だった。
 そして謝罪は、優希が全く想像していなかった言葉だった。
 驚きで真っ白になる優希の耳に、もう一度、薫の声が届く。

「すまない…」

 今度は、はっきりと聞こえた。
 すまない、と。聞こえた。


 薫は続ける。

「すまない…私は…、君を……君の友情を裏切った。…すまない」

 そのフレーズで、優希は薫の言わんとしていることが理解できた。
 薫は、自分を―――友人を性欲の対象にしたことを、謝っている。
 それが理解できたと同時に、優希は薫の声と背中が、酷く震えていることに気付いた。

「赦してくれ等とは、言わない。ただ…すまない。
 ごめん…なさい」

 まるで親に罰を受けるのを待つ子供のように、裁きを待つ咎人のように震える薫。
 普段の、腹立たしいまでのふてぶてしさや、呆れるほどの自信が、欠片も見られない少年の背中。
 気付いた時には、優希は立ち上がり――――薫の背中を抱きしめていた。
 突然のことに、身を硬くする薫。
 背中を抱きしめる優希は、自分でも何をしているのか分からなかった。
 ただ、自然と抱きしめていた。抱きしめたいと思い、抱きしめていた。
 そして、同じように自然と、言葉が口から零れ出た。

「―――嬉しいよ」

 その言葉に、優希はさっきからずっと胸中で氾濫し続けていた感情の方向性を、理解した。
 それは、喜びだった。
 薫が、自分のことを異性としてみてくれていた。想ってくれていた。その事に対する喜び。

(オナニーのオカズにされて喜ぶなんて…僕って変態だなぁ)

 内心は呆れ苦笑するものの、けれども想いと言葉は止まらない。

「謝らなくて良いよ?僕、嬉しいから、謝らないで」
「…ユーキ?どうして…」
「だって僕も…私も、想ってたから。
 薫のこと――好きです」

 数年間、胸につかえてきた想いは、実に簡単に、あっさりと、自然に口から零れた。


 一度出てしまえば、もう簡単だった。

「好きだよ…薫のこと、好きだよ。僕も、何回も薫でしたよ?
 薫を想うと切なくなって、苦しくなって、熱くなって、何度も一人で慰めたよ?
 今も、薫を想うと凄く切ないよ?」
「…ユーキ」

 薫が振り返る。
 体を離して、顔を上げると薫の顔があった。
 驚いたような、嬉しがっているような、信じられないと言うような、複雑な表情。
 薫の体は、もう震えてなかった。
 優希の方と背中に、薫の手が添えられる。
 大好きな大きな手。
 言葉もなく、ごく自然に、優希は少し背伸びをして、薫は身を屈めて、距離はゼロになる。


 唇が、とても柔らかかった。

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最終更新:2007年10月08日 00:11