討魔物語 序章
作者:清水光
闇がうごめいている。
月のない夜。繁華街を外れれば、街灯の一つもない。暗闇にかすかな濃淡の差があるだけ。
ハンハンハハハン。調子っぱずれの歌声がひびいた。頼りない足取りが、水路脇のあぜ道をふらふらと進んでいく。
深夜をすぎて、闇の折り重なる頃。一人で外を出歩くのは、理性をなくしたよっぱらいぐらいだ。時に人間の方が恐怖を忘れかけたとしても、暗きに身を置く者たちは今もそこにいきづいている。
中年男の影が大きく揺れ、倒れた。足もとからなにものかによって引っ張られたかのように。高密度の闇は横たわる体をおおいつくそうとする。
がなり声はとっくにやんで、意味をなさないうめきが夜に吸い込まれる。ずるずると地面の上を、人一人分の質量が動く。濃い闇は水路へと、肉のかたまりを引きずった。
魔は、黒々と暗さをたたえた水面、自らのすみかへと獲物を運びこんだ後、ゆっくりとそれを咀嚼するのだろう。体中の養分を吸い取り、骨までしゃぶりつくす。よっぱらい男の半身は、すでに冷たい水につかっていた。
不意に闇はゆらぐ。和紙を通してのぼんやりとした光が生まれる。いつからいたというのか、提灯を携えた少女が一人、あぜ道には立っていた。
年は十六、七。黒無地に、黒い帯、肩まで伸ばした黒髪に、鋭い視線を放つ底の深い黒瞳。異様。灯がなければいつまでも暗さにまかれていたろう。
のたうちもがく男の体には、びっしりと藻がこびりついていた。ただの藻ではない。全体が一つの意志にしたがい、一個の生物であるかのようにふるまう。
少女はもがく中年男に視線も向けない。なみうちのたうつ藻に一瞥をくれると、ふっと提灯を揺らした。
漏れるはずのない火花が、あたりに散った。火はあまりに小さく、闇に比べればわずかでしかない。けれどそれらは確かに、うごめく闇をとらえていた。
燃え上がる。火の粉はよっぱらい男の体に触れるとともに、明るさをました。表面をおおう藻は焼かれ、力を失う。炎は外側をなめるように広がってから、とうとつにかききえた。
喪装の少女はきびすを返す。あとには気を失ったよっぱらい男が一人残った。息はしている。目覚めたときには何も覚えてはいまい。
『こんな時間に何やってんの、鳥ちゃん?』
赤い明りにてらされて、人影がまた一つ浮かび上がった。よれたスーツに雑に切られた髪。いい加減が集まって、いい加減を形作ったみたいな男。
少女は立ち止まったまま。返事もしない。ただ男を見つめ返す。そんな少女の態度を気にも留めずに、男は手を差し出した。
『こんな時間に女の子一人ってのは色々あぶねーだろ。家まで送ってやんよ』
答えをまたずに手をとると、歩き出す。提灯が後をついてゆく。まっすぐなあぜ道。二人の姿を映すに、一つの灯は頼りない。輪郭だけがゆれている。
しばらく歩けば、年代を感じさせる日本家屋が一軒。古くはあるが堅実なつくりで、しっかりと大きく居をかまえる。灯篭が二つ、屋敷のまわりをてらしだす。
じゃあな、とだけつぶやいて、男は手を離した。少女がまだ動かずにいるうちに、玄関の引き戸は動く。
『おかえりなさい』
出迎える女の姿形はどことなく、少女と似通っている。そして、はじめて少女は、表情を見せた。はっと短く息を吐く。それはまぎれもなく、嘲笑だった。
闇がうめつくしている。
少女は依然として暗闇の中にあった。あぜ道に一人たちつくす。意識をなくしたままのよっぱらいをのぞけば、誰の姿も他にはない。
体には藻が、幾重にもからみつく。身動きできない。提灯は地面に落ちて、弱弱しく光を放っている。
霊子を蓄積し変異した群生藻は、催眠幻覚作用を持つ。獲物に夢を見させ、精神のたががゆるんだところを、つかまえる。きわめて狡猾。少女もまたそこにとらえられた。
けれど、何の感情も少女はその表面にはうかべていなかった。先の笑みすらすでに消えうせていた。
「灯真家第十三代当主、灯真深鳥――」
藻は宙を走り、細い体を縛る。絶対に逃さない。ただひたすら、束縛をつよめんとする。
「この地にとどまるありとあらゆる魔は、一片も残さず――」
その音階だけで人を殺せそうなほど、少女の声は冷たい。一面の闇、夜が震えた。
「焼き尽くす」
瞬間、炎は爆ぜた。音は無い。少女の叫びが余韻をひく。提灯の中の淡い炎は、一息に吹きあがった。業火。闇の中を燃え広がる。真紅が夜を蝕む。盛る炎はすぐに少女の背をこえる。藻は塵となってはがれおちる。灰も残さない。命という命を喰らう。灼熱の原にあって唯一、侵されない闇があった。もっとも深くに潜むもの。魔によって魔を滅ぼす。炎獄のさなかにあってなお、喪服の少女はそこに立っていた。
すべてがまた闇に還る。水路とあぜ道と、ねむりこけるよっぱらいの中年男。少女はいない。あまりにもろい、簡単に暗きにのまれる日常風景。
闇がある。