冬も近いある日の、よく晴れた正午のこと。
書き入れ時ということもあって、多くの客で賑わう店内。
しかし果敢に丼へと向かう客の中に、家族連れはほとんどいない。一人か二人、もしくは学校を抜け出して来た高校生の集団が主な客層である。
それもそのはず、この店は幼児や高齢者、心臓の弱い人間には注文を制限している。
人で埋まるテーブルの間を、どこかの映画のようにローラースケートを履いたウェイトレスが走り回る。わざわざ走り回るのは、ひっきりなしに水やドリンクの追加注文が出るからであるが、それだけ走り回っても一滴も水をこぼさないということは、慣れで片付けるにはレベルの高い話だ。もっとも今は関係ない話であるので、深くは語らないが。
ともかく、そんな店内のカウンター席。
「この店って、何考えてるんだろうな…」
「どうしたの。」
「いや、この辛亭って店だよ。俺辛いもの大好きだけどさ、この激々辛霧生ヶ谷うどんはどうかと思うんだよ。」
「え…どこが?」
「辛さに決まってるだろ。すり身にしたモロモロもふわっととろけるようで美味いし、そこに多様な薬味を入れることで触感と味の両方にアクセントを加えている。麺ももちもち、かつ十分な腰がある。数あるうどんロードのうどん屋の中でも、間違いなく上位に位置する味だよ。」
「それだったらいいじゃん、少しくらい辛くても。辛いのもおいしさの内なんだよ。」
「こんだけ辛いんじゃ台無しだっての。この汁ほとんど真っ赤じゃねぇか。」
「そこがいいんじゃないのさー」
カウンターの奥では、赤いバンダナをした男がうどんの踊る大鍋を前に、黙々と調理に没頭している。
彼らは気付いていなかったが、彼には問答を繰り返す二人の話が耳に入っていた。
顔色一つ変えずに作業を続ける男だったが、その心境はいかなるものか。
カランコロンと、入り口に取り付けられた鈴が鳴った。
「いらっしゃい。」
入り口が逆光になっているため見えにくいが、店内へ歩を進めるにつれはっきりしていくそのシルエットは、非常に小さかった。
いくらなんでも小さすぎる。
それもそのはず。長い髪をポニーテールにまとめたその人影の正体は、なんと小学生くらいの幼い女の子だったのだから。寒さが苦手なのか、もこもこした白の防寒着にくるまってとても愛らしい。
香りだけで猫も逃げだすと言わしめる辛亭で、こんな子供が一人でやってくる異様さに唖然とする青年二人。
ぺたぺたと歩いてきた少女は、迷いなくカウンター席の、その青年たちの隣に座った。
「親父さん、最近景気はどうですかぁ?」
おもむろに口にした言葉は、舌足らずで外見と同じく幼い印象を受ける。
「ん…」
「その無愛想も相変わらずですねぇ。そんなのじゃお客さんに逃げられますよぅ?」
関係者の娘くらいが妥当なところだが、それにしては会話の内容がおかしい。
そのやり取りは、明らかに常連客のもの。
「注文は、いつものか?」
「もちろんですよぅ。」
いつもの。
それは愛着を持って店に通いつめた者のみに許される特権。
この少女は、信じられないことだが、この年齢にして辛亭の常連客であるらしい。
調理に取りかかり背中を向けた店主。
待ちきれないのか、足をぶらぶらさせてまつ少女。
「この子、どこかで見たような…」
「?」
しかし、少女の言ういつものとは何なのか。
これでお子様ランチでも出てくれば一応のオチはつくが、それではわざわざこの店にまでくる理由がない。
「…なぁ。」
「ちょっと待って、今思い出してるから。」
「この店に漂ってる辛い匂いが、かなりキツくなった気がするんだが。」
事実、他の客にも異変に気付き、その原因を探して周囲を見回した。もっとも一部の客は何事もないかのように食事を続けているが、むしろそれが不気味でもある。
ドンと、カウンターの上に無造作に丼が置かれた。
「お待ちどう。」
それが何なのか。
一目見ただけでわかるその答えに、しかし青年の頭はたどり着くことを拒否していた。
「な、なんだこりゃ!」
「これは伝説の、激々々々辛霧生ヶ谷うどん!?」
赤い。
それが最もシンプルな感想だ。
激々辛霧生ヶ谷うどんの赤さなど、これに比べればくすんでしまう。
スープはもちろんのこと、モロモロのすり身から果ては麺に至るまで、全てが鮮やかな赤一色に染め上げられていた。これは唐辛子によるものか、豆板醤などの複合調味料によるものか、はたまた他の何かが使われているのか、それすら全くわからない混然とした色合い。すり身には、食感を失わない程度に叩かれたモロモロキムチが混ぜ合わされている。ネギまで真っ赤なのかと思ったら、それはネギの小口切りではなくハバネロの小口切りという念の入れよう。
何より、その匂いときたら。
先ほどから感じていた匂いの正体は、間違いなくこれだ。
この丼を中心に不可視のフィールドか何かが発生していると言われても、疑いなく信じれるだろう。それほどまで、触れられそうなほどに濃厚で強烈な辛さが漂っている。周囲の客たちが自分のうどんを忘れてこちらに注目しているのは、やはりそのせいだろう。
味など、想像するのも恐ろしい。
「細かく言えば違いますよぅ。あれは賞金付きなので、一度クリアしたら食べれないんです。あ、料金払えば普通に食べれましたっけ。
ともかく冷めないうちに、いただきまぁす。」
しかしそれよりも、丼を前にした少女の発言が恐ろしい。
この劇物指定されかねない物質Xを前に、あまつさえ舌なめずりをして箸を割る。
軽く香りを楽しんだ後、箸で深紅のスープがからんだ深紅のうどんをひとすすり。
普通のうどんとかわらないようにちゅるちゅると口に含んで、もむもむ租借して飲み込み、一息。
「くー、これこれ、やっぱりここの激々々々々辛は辛美味しいですよぅ!」
「激々々々々辛ぁ!!?」
叫ぶ青年を気にもとめず、幸せそのものといった顔で二口目を小さな唇に運ぶ少女。
「最近は激々々々じゃ物足りなくなってきたから、親父さんに無理言って新しいメニューを開発してもらったんですよ。」
むせ返るような熱と香り、その発生源であるスープをこともなげに啜る。
「思い出した…あなたはあの伝説の、紅蓮の幼女!!」
「ふっ、そう呼ばれていたこともありましたねぇ…
でも、私にも日根野谷璃衣子って名前があるので、りーこちゃんって呼んでもらったほうが嬉しいのですよぅ。」
「…おい、なんだそのカッコいいようで実はウケ狙いの二つ名は。」
「辛党の間じゃ、有名な名前だよ。
その姿幼子にして、煉獄の辛さすら楽しめる舌を持つ女。唇が燃え上がるような真紅にして辛苦の料理を、子供らしく口の周りを真っ赤にして食べることが二つ名の由来。
辛亭の本店で挑戦者がいなくなって久しい激々々々辛カレーをゆうゆうと平らげて、こともあろうに激辛杏仁豆腐を追加注文した話は今でも語り草になっているよ。
その実力は極辛至上主義集団「ペッパーホリック」の間でも一目置かれているほどだって聞いたしね。もっとも、辛さの中に美味さを求める彼女は、辛さのみを追求する彼らとは対立的な立場にあるんだけど。」
「…いつからこの世の辛党は、悪の組織みたいなのを形成するようになったんだ?」
「ともかく、彼女は有名な極辛好きなんだ。」
「最初からそうとだけ言ってくれれば、余計な混乱しなくて済んだんだがな。」
なんだかんだと話しているうちに、少女はあっというまにうどんの麺を全て食べ終わり、あまつさえ丼を抱えてスープをぐびぐびと飲んでいる。
二つ名の通りのスープで真っ赤になった顔に、それはもう、これ以上ないと言わんばかりの満足そうな表情を浮かべて。
「…なぁ、あのスープって辛いよな。」
「何言い出すのさ?さっき君が音をあげた激々辛よりずっと辛い伝説の激々々々辛、それよりも更に辛い激々々々々辛だよ?」
「じゃあなんで…あんな辛いだけのものを、こんなに美味そうに食えるんだ?」
「…っ、ぷふぁ!」
「もう半分飲み干したんですか。食べるの早いですね。」
「いやぁ、暮…友達がご飯を横からとってっちゃうので、自然と食べるの速くなっちゃったんですよぅ。…それよりも、そっちの学生さん。」
「あ、俺ですか?」
無造作に、ひと掬いのスープを差し出した。
「一口、このスープ飲んでみませんかぁ?」
「え…?」
飲みさし、ということは置いておいて。
断る。
地面に落としたら爆発しそうな、丼一杯でプールひとつ分の水を真っ赤にできそうな、そんな液体を口に含むなど考えられない。
「いただきます。」
「え!?」
つい先ほどまでこの店の辛さに悪態をついていた青年は、迷うことなく、受け取った器からレンゲで一口分のスープを掬って口元に運び、そしてそれを一気に飲み干した。
友人と周囲の野次馬から、驚嘆の声が漏れる。
変わらないのは、スープを勧めた少女と、黙って皿を洗うバンダナの男のみ。
当の青年は、口にレンゲを突っ込んだ体勢のまま動かない。
沈黙が流れる。
固唾を呑んで見守る中、動いた青年はまず目の前に置かれた氷水のコップを掴み、身構えるより早く飲み干す。
問題はその後。
それを置いた後、こともあろうに脇にどけてあった自分の激々辛霧生ヶ谷うどんに手を伸ばし、こともあろうに直接丼に口をつけて喉が鳴るほどの勢いでそれを食べだしたのだ。
その顔はどれだけ酒を呑んでもこうはならないであろうというほど真っ赤に茹り、暖房が効いているわけでもないにも関わらずとめどなく汗が流れ出る。
異様さに誰もが驚きを隠せない。
青年の顔にあるのは、無心にラーメンを啜るときのような、夢中でカツ丼をかきこむときのような、他のものの見えない熱中のみ。
無我夢中でうどんをかきこむ箸が止まったのは、丼の中身が全て胃の奥へ消えていった頃だった。
「ふっひー。
…ったく、激々々々々辛。なるほど、一般販売は不可能だよな。」
「どういう風の吹き回しだよ、あんなに嫌がってたのにさ。」
「なんでもねぇ、ちょっと気になっただけだよ。」
「何がさ?」
「こんな辛いだけのものに、わざわざ通ってまで食べる価値があるのかって話だよ。」
よどみない手つきで皿を洗う店主の手が、一瞬止まったように見えた。
「それで、味はどうでしたかぁ?」
「最悪ですね。たったレンゲ一杯分を含んだだけで、頭が吹き飛びそうになりましたよ。なんていうんだ、あー、頭ん中が辛いってことだけで埋め尽くされて、ほとんど痛いに近いものでしたね。味なんて感じる余裕ないです。あんまり刺激が強いから、喉が戻そうとするばっかでぜんぜん飲み込めねぇし。」
「じゃあ、激々を飲み干したのは何だったのさ。」
「問題はそれだ。」
指先で空になったコップの縁を弾くと、多少くぐもっているが澄んだ音が鳴る。
「切羽詰ってる状態だったからな、こんなコップの水くらいじゃ全然足りなかったんだよ。
で、一口飲んだら、辛くなかった。」
「辛くなかったって…激々辛だよ?舌がバカになってたってこと?」
「いや、辛くないんじゃないな、辛いことは辛いんだけど、それが苦に感じなくなったって言った方が正確か。辛さに慣れたんだろうな、舌が。
そしたら、それまで辛さの後ろに隠れてたうどんの味がわかってきた。
モロモロのほろほろした舌触りと淡白なうまみ、腰のある麺に絶妙に絡みつくスープ。美味いのはわかってたつもりだったんだけど、違うんだよ。辛さがあって初めて引き立ち、同時に辛さを楽しませる、辛さがあるからこその美味さ。」
「だからそのまま食べ続けてたの?
…意識と関係なく手だけ勝手に動いてたとかじゃなく。」
「お前はここの料理を何だと思ってるんだ。さっきまで弁解してたくせに。」
「いや何となく。そっちこそ、ちょっと前と言ってること変わってるよ。」
「仕方ないだろ、こんな美味いってわかったら前言撤回せざるを得ないっての。」
興奮した様子で友人にまくし立てる青年の姿に、様子を傍観していた客達は、それぞれ自分の目の前にあるうどんへと視線を向けた。
辛亭という店柄、大抵の客はただ強烈に辛いものを食べたいがために来るか、もしくは限度を超えた辛さに挑むという単なる挑戦や自慢が目的であることがほとんど。
しかし、ただ辛いだけでいいなら、家でうどんに好きなだけ香辛料を振り掛ければいい。
とてつもなく辛く、そして同時にとてつもなく美味い料理だからこそ、客はわざわざ食べに来る価値があるのだ。
その言葉を反芻しつつ麺を啜った者達は、一様に目を丸くする。
少し注意すれば誰しも気付いていたはずなのだ。水で口の中を流した後、痺れる辛さと共に残る後味の心地よさに。
この店のうどんが、長くその主張を続けていたことに。
全てを理解している紅蓮の幼女を含む数人の常連とウェイトレスは、知らずのうちに口元を綻ばせていた。
この日この時、
「…すまないな、日根野谷の嬢ちゃん。」
「んっく…ぷふぁあー。どうしたんですかぁ、改まって?私は何もしてませんよぅ。あの学生さんが美味しいって言ったのはひとえに親父さんのうどんの味が良かったからで、私はその味わい方のヒントをちょっとだけ提示してあげただけです。」
チャリンと、小さな手で八百八十円がカウンター席に置かれる。
「それに、この味がわかってもらえないなんて悲しいじゃないですか。」
「…ありがとう。」
「もー、いーって言ってるじゃないですかぁ。じゃあご馳走様でし…」
「璃衣子ちゃん、ちゃんとレジでお金払ってって言ってるじゃない!」
「はぅぅ、ごめんなさい…
うぅ、暮香さんはコレやっても文句言われないのに…」
冬も近いある日の、よく晴れた正午のこと。
その日より辛亭の常連に加わった一人の学生、後に辛党界の救世主と呼ばれる男の誕生の瞬間であったが、それはまた別の話である。